音楽・・・森昌子

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2013/12/10
2013/12/9 妄想、裸にされる森昌子
2013/12/7 海上自衛隊歌姫、三宅由佳莉の”祈り”
2013/12/5 森昌子、テレビで”はぐれ鳥”を聞いて
2013/12/1 私のいる風景
2013/11/24
2013/11/21 森昌子の結論ー声楽を勉強すべきだった
2013/11/21
2013/11/14
2013/11/10 20代、きれいな女になっていく森昌子
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2013/12/10

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今日のNHKの歌番組に、森昌子が出ていたが、その歌った、”越冬つばめ”に何の感動も覚えなかったし、聞いて良かったとも思えなかった。なぜなのだろう。感情移入が出来ていない感じがする。20代に歌った曲を、そのままにして50代の彼女が歌っても、ダメだろう。50代には20代と違った経験が多くあるはずなのに、それを生かして歌っているのだろうか。日頃、歌について考えているのだろうか。与えられて歌を、そのままでうたのではなくて、多分20代はそのようにして歌ったのだろうけど、もう、そのような呪縛から開放されて、自分の好きなように、自分の思いを入れて、歌って欲しい。作詞者、作曲者より自分を全面に出して欲しい。森昌子にはそれだけの表現ができるのだし、ファーンはそれを望んでいると思う。越冬ツバメでも、鬼気迫る歌い方は出来ないのだろうか。そうした、熱情が欲しい。そういう貪欲さが欲しい。

まだ、はぐれ鳥のほうが胸に迫るものがある。

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2013/12/9

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今日は再び、那智勝浦に来ています。車で約4時間、その間、森昌子のシングルコレクションABの後半を聞いていました。船村徹作曲の”寒椿”から、”さようなら”まで。これまで何度も聞いているのに、聞くたびに違う思いが駆け巡る。今日はこういうことが思い巡りました。”徐々に服を剥ぎ取られ、上半身あらわになった森昌子”。車を運転しながら、なんとも卑猥なことを考えるものです。

10代の森昌子から、女になっていく森昌子。引退間際の歌になればなるほど、女として抱いて欲しいとか、赤く熟れているとかそういう歌詞が出てくるたびに、なんだか服を剥ぎ取られ、裸にされていくような、悲しさ辛さが感じられ、一方でそれを快感として受け止める自分を感じる。ああ、引退したいんだな、もうやめたいんだな、自分が裸にされ、自分と違う自分が森昌子として歌っているんだな、と私自身、感じられた。

引退は、森昌子にとって、一番嬉しいことだろう。ABコレクションを聞いていてそう思った。”涙歴”を聞くと、こちらも感情がこみ上げてくる。それがどういう感情かよくわからないが。

森昌子 涙歴 http://youtu.be/lkQa-CJx9eU

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2013/12/7

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NHKのニュースウォッチ9で海上自衛隊のソプラノ歌手、三宅由佳莉(みやけゆかり)さんの特集をしていた。”祈り”と言う歌を東北の被災地で歌うことの葛藤や気持ちなどを語っていた。彼女の表情は明るくてけなげだ。自衛官と言う職業と歌手。音楽大学で声楽を勉強したとのこと。その清らかな歌声は被災地の住民からも受け入れらていることを知り、涙を流して喜んでいた。そのうた声には、森昌子と同様、人をひきつける魅力にみちている感じがする。森昌子も高校卒業後、声楽を勉強していたら、もっと違った歌声が聴けたと思う。三宅由佳莉と森昌子がダブって見える。

youtube 三宅由佳莉 ”祈り” http://youtu.be/1gbuhIaBDhU

      森昌子”この胸の幸せを” http://youtu.be/hWBoGU8u-e4

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2013/12/5

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今日、テレビ番組で初めて森昌子が歌う”はぐれ鳥”を聞いた。なかなかどすの利いた声で、感情をこめて歌っている。森昌子本人も、目のあたりに年を感じさせるが、明るくて可愛い雰囲気があっていい。他の歌手の歌は殆ど聞かないので、歌謡曲全体のなかで、森昌子の歌がどのような位置を占めているのかわからない。でも、全体に新鮮さがたりない感じがする。70年代、80年代の歌謡番組は若い人が中心だった。今の歌謡番組は、単なる昔の演歌の延長で、心をひきつけない。秋元順子のように、インパクトをもってでてきて欲しい。

森昌子もこれからどういう歌を歌うのだろう。アルバムがどうして発売されないのだろう。単発で歌っていても、ヒットしないと思う。いいアルバムを出して人びとをひきつけてこそ、シングルもヒットすると思う。若いときのようなエネルギーがないにしても、今でなければ表現できない歌がたくさんあるはずだ。演歌と言う枠にこだわらず、ロックやポップ、外国の歌、そうした色々な歌や曲を取り入れてこそ、社会の様相を歌の中に表現できるのではないだろうか。作詞家や作曲家も旧態依然なのかもしれない。若い人の感性で、若々しい歌を、森昌子に歌って欲しい。

youtube 森昌子 ”はぐれ鳥” http://youtu.be/cllJyFvw6k4
      森昌子”北風は暖かい”  http://youtu.be/P9sY3u2kyF4 (LPレコードのうたい方はもっときれいですね。ぜんぜん違います。)

LPレコードの”北風は暖かい”(1983,8,24歳)は、森昌子の一つの転換点をなすレコードのように感じる。それは歌い方がとても優しくなっているからだ。表情も優しい。LPレコード”そしてひとり”以降、レコードジャケットと同様、歌全体に沈鬱感が漂っていた感じがしたが、このLPはとても明るくなっている。これは”悲しみ本線日本海”がヒットしたから、自分に自信が出てきたからかもしれない。この当時のシングルは、”ふるさと日和”。田舎の光と空気に触れて、そしてNHKの民謡番組に出演して、いろいろな人と話をして人間的にも成長したのかな。この明るさと優しさは、これ以降も続いているのではないか。だから、このLPレコードは(”ふるさと日和”も含めて)一つの転換点のように思うのだ。髪型も安定してきたのでは?女性らしい優しさと明るさ、色気。一番、いい時期なのかもしれない。

yotube 森昌子 ”ふるさと日和” http://youtu.be/onlESUnDRzc  http://youtu.be/AhssetxBwn8
 

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2013/12/1

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1週間ばかり和歌山県の那智方面へ出張に行き、身体も精神もくたくた。本当なら充実感があってもいいのに、何か虚しさばかりつのる。もっと援助が欲しいのに、何か上っ面な言葉ばかり。心に響かない。あの人はどういう人なのだろう。よくわからない。日曜日はゆっくりしたい。10月は休みが2日だったが、11月は5日休んだ。それでも車に乗ることが多くてとても疲れる。
多分森昌子の歌が無ければ、もっと精神的に追い詰められているだろう。彼女の歌と私の家族。これらが無ければ、毎日はもっと味気ないだろう。いつか再び、おまえと呼べる人と出会えればと願う。

森昌子 ”おまえと呼ばれたい” http://youtu.be/yGEqnTXmMQc
森昌子 ”赤い糸” http://youtu.be/8usc2Ohz3fw

でも、人間て何で生きているのでしょうね。もし生まれ変われるのなら、人間を選ぶでしょうか。すずめやかもめのほうが何も考えなくて、自由に生きていられて気軽な感じがする。多くの人は、次に生まれるのを選べるなら、人間を選ぶでしょうか。蟻とかゴキブリなんかはどうだろう。やはり鳥がいいかな。でも、つらくても悲しくても、人間を選ぶかな。人間を選ぶ理由って何だろう。好き嫌いはどんな生き物にだってある。自覚できる愛情かな。あるいは片思いかな。でも、これらも他の動物は持っている。じゃ人間を選ぶ理由は何だろう。今の私はもう忘れ去ったが、人間になろうとする、あるいは何かになろうとする意思、夢、まだ見ぬものへの憧れ、異性への好奇心、将来への希望、そういうものが、人間を選ぶ理由かもしれない。年をとればとるほど、そういう気持ちから遠ざかる。

森昌子 ”花追いびと” http://youtu.be/Zg4CeGRSfdY

森昌子の歌は、若いときの夢や淡い恋心、大人の愛やエロスを甦えさせる。その声は甘く、心を溶かせる。それはきれいな和泉やせせらぎの様でもあり、人目を避ける木の陰や藪の中でもあり、それでいて暖かなテレビのあるコタツが似合う風景でもある。

私が今いる世界は、仕事場が中心だが、それを離れると、森昌子の歌が半分を占めている。あとの残りは、家族。こういう狭い人間だ。

森昌子 ”北の夏”(17歳の声) http://youtu.be/Yx8zg3Tay94
森昌子 ”砂時計”(16歳の声) http://youtu.be/T_-EEFc0r1E

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2013/11/24

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 森昌子の歌を聴いていると、明らかに19歳を境に歌が違ってくる。それは根本的には声の質であり、それに力強さだ。涙の桟橋、そしてLPレコード”涙の熱唱”までは声も透きとおるような声が出ているし、思いっきり前向きに力強く歌っている。しかし、これ以降、透き通るような声も、力強さも徐々に影を潜める。この力強さがなくなるというのはどういうことなのだろう。なぜ、身体全体を使って歌おうとしないのか。これまでしていたことが、なぜ出来なくなったのか。やはり声が出なくなったのだろうか。のどをいたわった結果、こういう平凡な声になったのだろうか。

石川さゆりの”津軽海峡、冬景色”が19歳のヒットらしい。そうすると、森昌子にとって、19,20歳はとてもつらい時だ。声が出ない。百恵やさゆりがヒットを飛ばす。自分は歌手を続けるかどうか、決心がつかない。迷う。けど、これまでの活動で、人気はある。そういう優柔不断な時期だ。こういう時期にこそ、淡谷のり子の言葉を思い出して、音楽を基本から勉強しなおすチャンスだったのだ。

僕は、”涙の熱唱”を聞くと、この続きを聞きたくなる。だが、この続きはないのだ。7周年記念リサイタルがあるが、もう声や力強さは、”涙の熱唱”に遠く及ばない。ただ、その中の組曲”ほたる子”の歌はきれいで声もいい。こういう声や力強さを期待するのだ。だが、これで、終焉するのだ。僕は昌子ののびやかに歌う、20代の声を聞きたいと思う。10代でこれほどすばらしい声を披露した人だ、20代もこれがさらに開花するものと期待するだろう。だが、どうだろう。それは、10代の延長ででは無くて、全く違った歌い方に変わったのだ。例えば、22歳の過渡期の歌”雨の糸”。ぼそぼそと歌う歌い方。味わいはある。でも、10代とはまるで違う歌い方。
youtube 雨の糸 http://youtu.be/apJ1ZKB5K6g 

20代の歌を聴いて、10代とはまるで違う味わいがあるのがわかった。とても心地よい。それはまさしく森昌子の世界かもしれない。でも、10代の声と力強さ、そして20代のやさしい歌ををつなぐ、もう一つの歌の領域があってよかったと思うし、それがないのが森昌子の歌の損失だと思う。それは彼女の歌の流れとしては、あってしかるべきものだったのだ。だがそれが欠如している。それはなぜなのか。それは、自分の生き方への迷いか、あるいはのどを痛めたからか、あるいは百恵やさゆりへのあせりか、あるいはプロダクションのなせるわざなのか。それらの総合か。

淡谷のり子の声が、重みを持って響いてくる。


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2013/11/21

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森昌子と言う歌手の全体像はどんなだろう。これは人によってかなり幅が広いと思う。演歌歌手と言う人。声がきれいな人。慎ましやかなきれいな女性と言う人。あるいはアイドル。先生を歌う人。たわしのような頭の人。私の場合は、サルのような人と言う印象があった。だけど、これは見た目。本当の森昌子って、どう捉えたらいいのだろう。歌の世界では、”越冬つばめ”でヒットした人、と言うことになるのだろうけど、そんな言葉では言い表せない深さがある。
音楽評論家なら、多分2期に分けるだろう。詳しく見れば、もっと細分されるだろう。でも、残念ながら、僕の見立てではやはり2期だろう。これは一つの大きな断層のように横たわっている。本当なら、もう1期欲しい。淡谷のり子が言った様に、声楽を勉強すべきだったと思う。歌手として、大きな成長を遂げるには、あと一つ皮がむける必要があると思う。今、演歌を中心に聴いている。とてもいい。心をやさしく慰めてくれる。でも、慰めでだけでは飽きてくる。同じやさしさだけではだめだ。怒り、厳しさ、忍耐、知性、ひらめき、尊厳、心のつぶやき、願い、純真な愛、世界には演歌だけでは表現しきれない感情が一杯だ。だから、もう一つ違った怒りや知性、純真な感情を歌って欲しかったなと思う。演歌の場合、歌詞がどうしてもありきたりだ。物事を真正面から捉えず、斜めに構えて見つめている。物事を真正面から見据え、真正面からぶつかって欲しい。それには、声楽を学ぶということは、大きな足がかりななったと思う。2年ほど、歌手を休み、遊学し、声帯をいたわれば、19歳にして声を痛めることも無く、10代のきれいな声を維持できたのだ。そういうことを考えると、大学に行ってほしかったなと思う。1,2期の間に、人生の賛歌、青春の悩み挫折、喜びをもっと昌子らしい素直な気持ちで表現し、歌って欲しかったなと思う。

でも、そうすれば結婚は遅れ、子どもをうみ育てることも出来なかったかもかもしれない。それを思うと、やはり、2期で終わったのも致し方ないのかなとも思う。森昌子のファーンとしては、1期に続く2期が、演歌ではない世界であって欲しかったと思う。

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2013/11/21

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僕は森昌子の演歌を誤解していたようだ。でも、演歌と呼べるのかどうか。他の人の演歌は聞きたくない。森昌子の演歌だけ聴きくことができる。その魅力は何だろう。その清らかな声とは裏腹な、何か燃えるような女の情熱か。香るような女の肌のぬくもりか。”お前とおばれたい”と言う歌詞の中での、熱い吐息か、あるいは寄り添えば触れ合う指と指の微妙な感触か。でも、そういう色艶だけを取り上げたら、他にもいるだろうし、森昌子自身迷惑に思うだろう。その歌い方は、もっと純粋な心に根ざしていると思う。10代の歌が、自分の思いを素直に表現しているのに対し、20代の演歌は、人びとの心を表現しているともいえる。だから、大衆歌謡といえるのだろうが、大衆の代弁者でありながら、昌子の心を通しているから、その猥雑さや卑猥さが人間として純真な気持ちに昇華されているとも言える。だから、演歌でありながら、とてもきれいに、いつまでも心に響くのだ。昌子自身の歌い方も、本当ならもっと違う歌い方が出来たはずだろうが、大衆の心を歌うために、こびたような、やさしい歌い方を恣意的にしているようにも思う。淡谷のり子が言うように、18,19才に声楽を勉強しておけば、芸術性の高い歌を歌うことが出来たはずだ。だがそれを選ばず、大衆的な演歌を選んだ。そして30年後にも鮮やかに人の心を打つ演歌として残っている。これはこれで、すごいことだと思う。一方で、森昌子の芸術性の高い歌も聴きたいが。10代と20代の歌の相違。一貫した清潔さを保ちながら、これだけの落差を表現した人。その魅力を多くの人が知らないのは、残念なことだ。

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2013/11/14

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僕は今、森昌子の演歌にはまっています。演歌といっても、彼女が歌う歌は、そんなにどろどろして無くて、とても優しくて、メロディも軽やかだ。だから、身体も手も指先も自然と動き出す。今の若者が手を上げてこぶしを突き出して、リズムを取っているが、それと同じぐらいののりだし、心も軽い。

でもね、僕が森昌子を初め聞いて感動したのは、のりがいいとか、体が動き出すとか、詩がいいとかではなかった。それは、彼女の歌い方、声の微妙な震えだったのだ。高音部分で、声が移ろうというのか、音程が微妙に上がり下がりするのだ。その微妙な振動に、心が揺さぶられたのだ。

今、演歌を聴いていて、10代の曲が聞きたいとは思わなくなった。でも、あの時の感動を忘れたくない。今、感動しなくなったのは、自分の心に、何がが満足し、何かが不足して、そのときの状態ではなくなったのだろう。今の自分は、悪くはない。だとすると、あの感動した時のほうが、自分の状態は悪かったのかもしれない。つらかった時に、感動した。大きな助けになった。だから、今も、ブログで彼女の歌を書き続けているのだろう。

別れのブルース http://youtu.be/yQeilkN7QmI

淡谷のり子の言う通りだろう。結局、きれいな声の持ち主で終わったのかもしれない。でも、森昌子自身、大歌手になろうとも、すばらしい歌手になろうとも、考えなかったのだろう。とても庶民的で、やさしくて、素敵な女性になろうした。それで、十分でないかと思う。

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2013/11/10

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森昌子の歌を聴いていると、”女”が主題である歌が多いように感じる。あるいは、森昌子自身、女になろうとし続けたようにも感じる。10代の歌は、それほど色気は感じないが、女であることをとても自覚している。そして、女心を理解しようと努めている。

20代になると、理解しようと言うのではなくて、女そのものになろうとしている。そして表情や歌声や動作などがほんと女らしくなっていく。女は自然に女になるのではなくて、自分の意思で女になるのだなと思う。その女の姿は、30年の時が過ぎても、なお光彩を放っていて、私の心をつかむ。10代のたわし頭の娘が大人の女になってゆく。それは時間の経過だけでなく、自分の意思として、歌手として、自覚して、声や表情、動作までも変えていく。その移り行く姿はとても鮮やだ。女になっていく姿はとてもきれいだ。そして彼女が理想に思っているような女性になって引退し、結婚し、子どもを育て上げる。

森昌子の魅力は色々あるのだろうけど、女になろうとする、あるいは女であろうとすることを歌手としてあるいはひとりの女性としてまざまざと見せ付け引退した人ではないのかなとも思う。だから、みなの心に”越冬つばめ”のきれいな声が森昌子の印象として残っているのではないだろうかとも思う(よくわかりませんが)。

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