生と死について
インドで考えた事
インドで生と死について考えてみた。
インドでは、まず普通に田舎などでは、人が死ぬと川に流して捨てられる。男は白い布に巻かれ、女は赤い布に巻かれて川に捨てられるのだ。金持ちなら焼いてその灰や骨を流す。その川の流れはやがてガンジス河につながることになっている(はず)。
東京農大探検部の「ガンジス河川下り」を見ていただくとわかるとうり、川原には死体がころがっているのだ。それを野良犬やカラスなどかむさぼり食う。また川には死体がいくつも流されて漂っている。
日本では考えられないことだが、家族が死んでも墓はないし、位牌や仏壇も無い。49日や一周忌の法要も無い。死んだら全て終わりであり無であるのだ。これは宗教上の習慣や解釈の違いであり、インドでは当たり前の事である。
また、ゾロアスター教(拝火教)では死体をサイレントタワー(沈黙の塔)という塔の上に放置し、鳥に食べさせる鳥葬を行う。
私の個人的な体験ではあるが、私は小学校6年の頃「死」とはどういうことかと考えてしまった。
特に、夜寝る前に布団の中で考えると、死ぬことがとても恐ろしくて、体がふるえて眠れなかった。
自分の存在が無くなる。こうやって考えたり、日常生活をして遊んだり笑ったり、苦しんだり悲しんだりすることすら全てが無くなってしまう。それを思うととても怖くなった。
人間は何のために生まれてきたのか・・・死ぬために生まれてきたのだ!
この現実というか真実は小学生の私にはとても怖いことだった。
そして、年月がたち、私が20歳の時、母がガンのために死んだ。
皆に親切で優しくて頑張り屋で、誰からも好かれていたとても良い人間だった母が、ガンに犯され苦しんで苦しんで死んでいった。善人の最たる見本のような母がなぜこんなに苦しんで死ななければならないのか?こんな苦しむ母に「大丈夫だから頑張って!」と、死ぬのが分かっているのに嘘をつく私は、何もできない全くの無力で本当に情けなかった。
神などはいない!私はそう思った。
その後私が30歳の時、今度は父がガンで亡くなった。そしてその数年後、姉が幼い子供を残してガンで亡くなった。
今でこそ死は避けられない仕方のないことだとあきらめて日常を送っているが、やはり心には引っかることではある。
母が亡くなってから、インドに行こうとしたのは、何か生きることや死ぬこと、そして人生について何か得ることがあるのではないかという期待もあったからだ。ブッダが悟りを開いたブッダガヤにも行きたかったしヒンズー教の聖地ガンジス河にも行きたかった。なにか「ハッ!」と気づかせてくれる悟りのようなものがありはしないかと思ってみたりした。
ただどの宗教にも天国と地獄やあの世があり、人々はそれを信じて死を恐れずに生きている。
私が思うのには、これは人々を死の恐怖から救うための詭弁だと思う。そうやってか弱き人々に希望を持たせ正しい行いをさせて生きていくため宗教が存在する理由の一つであろう。
そうやって、その人たちからいくらかのお布施な寄付などをもらって宗教(組織や教会や寺院)が存続していけるのだ。
それは悪いことではない。そうしないと社会が無法状態となりとても危険な生活を送らなければならなくなる。宗教はそれゆえ必要であると思う。
(ただ、中東などで起こっている異教徒どうしの宗教戦争はとても残念だが)
ブッダ(仏様)は死ぬ前に弟子たちに偶像などは作るな、死は無に帰ることだと言った。天国や地獄やあの世などがあるとは言っていない。
旧約聖書のモーゼもそうであり、イスラム教のモハメッドも偶像崇拝はするなと言っている。
しかし後になって、人々の宗教心を煽るために仏像や天国の話などが作られた。実際に目に見える偶像は人々の心をつかむためにとても便利な道具だったからであろう。
宗教を信じる云々は人それぞれの自由であり、どの宗教を信じようとそれなりの良い道があると思う。
結局のところ、インドで私が思ったのは、死は避けられないことであり、それゆえ今ある生を大切に使うしかないという当たり前の事である。自殺するなどもったいないと思う。
人間どんなことをしても生きていける。破産をして自殺する人もいれば、自己破産手続きをして周りが思っているより気楽にまた商売をはじめる人もいる。私なら後者になりたい。
苦しければ逃げれば良い。生きるための逃げは有りである。戦争では不利な場合逃げるのは立派な作戦であり決断である。他人からの評判を気にして大事な兵士や自分を死なせるのは指揮官としては最低である。
インドの宗教の中に「ブラフマン」という存在がある。
「ブラフマン」それは神であり自分である。すなわち自分がこの世界の神様であるという悟りである。
地球の裏側に誰が住んでいようと、自分が知らなければその人は存在していないのと同じである。自分が新聞やテレビでたまたまその人の存在を知ったからその人は自分の知識の中に存在するのである。この地球も宇宙も自分が自分の脳の中に知ったから存在するのである。
もし自分が死んで数日後、地球に大隕石がぶつかって地球が滅んでしまっても、死んでしまった自分には何の意味も無い。すなわち、生きている自分こそが全てであり、死んだあとは全てのことが無意味であるということである。自分こそが全てでありこの世の神であるのだ。
嬉しいことも悲しいことも辛いことも全て自分の存在が生み出していることであり、生きている証である。
自分が神であるならば、もっと自分を幸せにしたい、苦しみを無くしたいと思うだろう。しかし現実の話、たとえば100mを8秒で走ることはできないし、スーパーマンのように空を飛ぶこともできない。ただただ自分のありのままである。
つらいこと悲しいこと嬉しいこと全て、逃げるなりほっておくなり受け入れるなり立ち向かうなり、自分で決めているのだ。その結果がどう出ようが自分がしてきた結果であり、その結果をどうしたいかを考えて自分で行動(努力)するしかないのだろう。
しかしそんな自分の脳の中にある世界が自分の世界、すなわち現世界の全てである。自分が死んだらその後、世界が存在しようがしまいが自分にとって何の意味もないし知りようもない。
いまある自分が全て、すなわち自分が全てでありこの世界を作っている神であるのだ。
まあ、こんな感じの悟りかな・・・。