カーストについて
インドでは身分差別のためのカースト制度があるとよく聞く。
 私がバラナシ(ベナレス)の国営ガバメントツーリストバンガロー(日本でいえば国民宿舎?)に泊まっていたある日、門の外で客待ちをしていたリキシャのオヤジに荷物があるので中まで入って一緒に積んでくれと頼んだところ、オヤジはちょっと困った顔をして「私はカーストが違うのでこの建物の敷地に入れない」と言った。

 それまでインド各地を旅行してカースト制度があることは知っていたが、部外者の私はあまり気にならなかった。しかしこうして実際にカースト制度が根深く根付いているのを目の当たりに体験した。
 確かに無数のカーストが存在し召使の中でも、料理人や洗濯人や子守りや掃除人などのカーストがあり、掃除人ですら上下があり、庭にしか入れない外の掃除人と建物の中で掃除をする掃除人とは別であることは知っていたし、映画などでもカーストの違う恋人たちが結ばれない運命であるといった悲しい恋愛の内容のものもいくつか観た事があったが、実際にその事を目の当たりにすると、考えさせられてしまう。

 カーストは大きく分けてバラモン(司祭)、クシャトリア(王族、武人)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(農民)、その下にハリジャン(不可触民、触ってもけがれると言われている)などがある。さらにその1つ1つがさらにいくつものカーストに分けられている。カーストとは人権を無視した極めて悪い制度であると言える。

 が、しかしある僧侶からこんな話を聞いた。ある村のハリジャンの両親が病気で亡くなってしまった。そして生きる術を無くした子供だけが残されてしまった。そうしたら村の村長が彼を引き取って一番下の掃除人として彼の生活の面倒をみたそうである。
 私が思うに、カーストとはインドの何千年という歴史の中で、何億もの人々が貧しいながらも生きていくために造られた必要悪の制度ではないだろうか。
 洗濯人は一生洗濯をする仕事しかさせてもらえないが、しかし他の人が来て洗濯人の仕事を奪う事は無い。すなわち洗濯する仕事をして豊かではないにしろ一生生きていくことができるのだ。こうやって何千年もインドの人々は生きてきたのかも知れない。 

 カーストと言っても、実に複雑である。ヒンズー教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、シーク教徒、仏教徒、カトッリク教徒すらも上下関係は別としても、それぞれが1つのカーストとして扱われていると言ってよいだろう。全ての宗教や民族を飲み込んで1つの国としてインドはしたたかな歴史を築いてきたのであろう。それゆえ私はカーストを否定もしないが肯定もできないでいる。
 しかし、最近はめざましいITやその他工業が発展しておりカーストの枠を超えてインドがますます成長し豊かになり、やがてなんらかの解決をインド自身が見出すと思っている。