第6回 ハルタルのダッカから
長い空白ができてしまった。この間、つかの間の寒い季節を通りこして、ふたたびいつもの暑い日々がやって来た。雨季でもある。しかし、日本でのようにシトシトと雨ばかりの毎日とはちょっとおもむきがことなる。夜中に激しく、ときに雷鳴をとどろかせて降ったりする。朝方、街路樹がなぎたおされていたり、ビルの屋上などにあった広告板(ビルボード)がふきとばされて路上にころがっていたりする。ときには夕方、スコールとしてやってくることもある。その直後は、ちょっぴり涼しくもあるが、それ以外はいつも暑い。
こんな雨と暑さに感応してか、この季節におもむろに咲き出す花がクリシュナ・チュラと現地でよばれる火炎樹である。ベランダから眺めおろす風景に遠目にもあやな朱色にきわだって見える。それがいま満開である。年中咲いているすみれ色やオレンジ色、白のブーゲンビリアとちがって暑くなると咲き出すので当地で季節感を味わわせてくれる数少ない風物のひとつである。熱帯でも探せば季節の到来や節目をしめすしるしはなきにしもあらずである。
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暑くなる季節に咲くので、 春の到来をつげる桜にたとえられて「南洋桜」とよばれたりもするが、暑くなってかなり経ってからでないと咲かない、のんびりと構えた花である。 緑のなかに燃え上がるように見えるので「火炎樹」ともいう。 | 朱色の五弁花で、英語でも文字通りフレイム・フラワー(火炎樹)とよぶ。かなりの高木で、手を差し伸べて摘むことはむずかしいが、前晩の暴風雨にあおられて落ちたのを拾うことができた。 |
3月には夕暮れ時、蝉の啼き声が事務所のある家畜普及局DLSの構内で聞かれた。れいろうとした硬質の澄んだ音色だった。蝉は4月はじめにバンコクの都心のホテルでも啼き声を聞くことができた。
この暑いシーズンになるまでの年末の12月から新年にかけて3ヶ月間のあいだに、一年近くじじむさくしわぶくことを余儀なくされた喘息様の症状が軽くなった。この間には気温が急激に低下することがある。とうとう年末にはファンのついたヒーターとラジエーター式の輻射型ヒーターをふたつ買った。というのは、中国製のG社のエアコンは名ばかりで、冷たい空気は出るが、25度以上に上げて暖房に用いようとしても冷風しか出てこないのだ。エアコンとは冷暖房の両方につかえるものと思っていたのだが。そのためにしばらく使う事がなかったが、2月にニュー・デリーに4日間、バンコクに6日間出張し2月末に帰ってきてみると日射しが強く暑い季節にもどっていることに気づいた。またエアコンを始めた。するととたんにのどがむず痒くなり、ついで咳がぶりかえした。思ったとおりエアコンのフィルターがアレルゲンのハウス・ダストをまき散らしていたのだとわかった。管理人と家主に告げて即刻エアコンの掃除をしてもらった。このエアコンは、日本製のものとはことなってフィルターらしいものがついていなかった。カバーを外すと出て来たのは、茶こし用にも粗すぎるような一枚のプラスチックのメッシュで、それがベットリと黒々としたホコリでおおわれていた。新築で入居してから2年間のあいだにたまったハウス・ダストだ。それを洗滌してもらって以来、エアコンをつけても咳は起こらなくなった。
このところ時節柄か「ハルタル」(ゼネスト)が立て続けに起こっている。そのため、国内にいるとき仕事はほとんど、自宅で行なわざるをえなくなっている。ホー・チ・ミン・シティへ会議で出張していた4月22日から25日までの4日間のうちの2日間、そしてかえってきてから週末が明けてふたたび2日間、バスなどの公共交通機関は運休するし、商店も臨時休業、公官庁、会社、学校も休みである。もう1日長引かなかったのは, 次の日、5月1日がメーデーで休日だったからである。
こんなハルタルのさなかであるにもかかわらず、おどろくべきことに4月30日にはダッカ市内の南部の生鳥市場が12カ所で一日閉鎖され、洗浄及び消毒作業が実施された。
ダッカのCity
Corporation、つまり日本の都庁にあたる役所が、号令を発してくれたのである。永年の懸案であったこの閉鎖を16日に、まず市内でもっとも規模の大きいもののひとつで、しかもFAOその他による改善のこころみもむなしくまだまだ問題が多数残るカプタン・バザールで実施し、洗浄及び消毒を行なった。
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一日平均50万羽の鳥が取引されるこのカプタン・バザール生鳥市場は今まで一日も休息日をもつことがなかった。したがっていったん汚染されてしまったあと、感染の連鎖が断たれることがなかったとみなしてよい。 | いつもは家禽であふれかえっている市場が、がらんどうになったのをはじめてみるのは壮観であった。 |
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手前の帽子にマスク・サングラス姿はニュー・デリーのアメリカ大使館勤務のデイビッド・リーシュマン氏である。名前の示すとおり、1901年に、ダムダム熱(またの名を「カラアザール」・「黒熱病」・「内臓リーシュマニア症」という)で死んだ患者の脾臓塗布標本にその原因となる原虫をはじめてみとめたウィリアム・リーシュマン卿のひい孫にあたる。1903年にチャールズ・ドノヴァンがそれを新種として記載した。その後、ロナルド・ロスがこの生物と病気との関連性を認め、Leishmania donovaniという学名を与えた。 はじめて会ったとき、ひょっとしてドクター・リーシュマンのご親族ではないかと思ってたずねてみたらそのとおりだった。自然科学者にとって学名に、しかも種(スペシーズ)でなく属(ジーナス)のレベルで名を残すということは、天文学者が新惑星に自分の名前をつけるのとおなじ、たいへんな名誉なのである。バングラデシュはブラジル・インド・ネパール・スーダンとともに名だたる高侵淫地のひとつである。 |
このカプタン・バザールに引き続いて、1週間後の23日、ダッカ市内の
全生鳥市場が閉鎖されるはずだったところハルタルのため、延期のやむなきにいたった。30日もまたハルタルであったが、一部ながら実施されたのである。29日付で、今後毎週1日、月曜日に閉鎖を行い、家禽の搬入を禁止する通達が発せられたのだ。この2月と3月のあいだの1週間たらずのあいだに、市場の家禽労働者から3人のH5N1感染者が見つかっていたことが追い風として大きく影響したのだろう。つぎの課題は、ダッカすべての生鳥市場とダッカ以外のバングラデシュ全土の生鳥市場すべての洗浄及び消毒のための週1回定休日の実施だ。
ことしの1月はじめからは、狂犬病の予防活動にもかかわっている。バングラデシュは世界の狂犬病による年間死亡者55,000人のうちすくなくとも2,000人以上を出している。インドに次いで、中国と2位を競い合うほどの高発生国なのである。
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いままでシティ・コーポレーションの野犬捕獲員に捕獲されたのち、殺処分されていた野良犬を捕獲し、メスには避妊手術をほどこし、狂犬病ワクチンを接種し、ふたたび放すという活動をするNGOをこの1月からFAOで支援することにした。 | 飼い主のいない犬たちもかれらに言わせると地域 コミュニティの犬たちなのである。 |
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アメリカの疾病管理予防センターCDCからFAOの本部に出向してきている狂犬病コントロールの専門家の友人Jをローマから招聘して、アドバイスをしてもらった。かれはミシガン州出身で、父親も獣医師だった二代目である。 |
狂犬病は炭疽と同様、動物と人間と環境の接点で起こる人畜共通感染症の典型例だから、医学と獣医学と環境の分野の共同作業がもっとも功を奏する領域である。One
Health イニシャティブの成果の見せ場といってもいいだろう。
ダッカ暮らしも2年を突破し、4ヶ月が過ぎた。
それにあたり、もとめられて所感をある広報誌に綴った。要旨は、バングラデシュと日本がこの国の建国のはるか以前からふかい縁があるということである。ハルタルという国内事情がありながらも、バングラデシュは非常に親日的な国のひとつである。
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まん中の女性が現首相のシェイク・ハシナさんである。国会議事堂の構内にある首相官邸でのレセプションにまねかれたとき、中東などからの大使たちにたのまれて写真をパチパチとってあげていたら日本人と知られて「それならそばに来ていっしょに写りなさいよ」と声を掛けてくれた。 |
東パキスタンにおけるベンガル人政治指導者で、1971年1月12日、独立したバングラデシュの初代首相となったシェイク・ムジブル・ラフマンの娘にあたるのが現首相のシェイク・ハシナである。去年は建国40周年だった。バングラデシュ独立後間もない1972年、日本は米国、中国等に先駆けて国家承認を行った経緯がある。他方、南アジア8カ国で初めて日本の国連安保理常任理事国入りに支持を表明したのがバングラデシュである。バングラデシュの国ができる以前、極東国際軍事裁判でインド代表として判事を務め、戦犯に問われた敗戦国日本の被告人全員の無罪を主張したラダ・ビノード・パール氏は、現在のバングラデシュのクシュティヤ郡カンコレホド村出身の弁護士である。新宿にある「新宿中村屋」の名物メニューとして続いているらしい、きっとそれと知らずに食べているであろう「純インド式カリー・ライス」はインドの独立運動の志士のひとり、ラース・ビハーリー・ボースによる発案ではじまったものである。アジアで初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞し日本にも馴染みの深い人物が詩人のラビンドラナート・タゴール、ノーベル平和賞受賞者にマイクロ・クレジットのムハマド・ユヌスがいる。たとえ国籍がインドでもベンガル人はベンガル人なのである。
ハルタルは野党主導による政権与党の早期退陣をうながすための反政府抗議行動であり、合法的とはいえ場合によってはかなり過激にエスカレートし、バスや乗用車に向けての投石や放火がおこる。したがってハルタル期間中、外出はつつしむことを余儀なくされる。国内にいるときハルタルが起こると仕事はほとんど、自宅で行なわざるをえなくなるのはそのためである。
こんな事情で、4月末の数日間は週末もふくめてほとんど家にこもりっきりだった。
外気温は日中には日陰でも摂氏35度は下らない。屋内はエアコンで25度くらいにしているが、頻繁におこる停電があるうえ、発電機がアパートには設置されているもののフルには稼働しない。ときにはまったく機能しない。すると室温はたちまち上昇して外気温に近づくのである。裸でバスローブを羽織るだけでいても、体を動かさないでいるにもかかわらず、汗がジワジワとにじんでくる。すると床は大理石で素足にはひんやりするので、バスローブの両裾を手で翼のように羽ばたかせながら室内を歩き回るのである。足下から股間のあたりがすずしく心地よい。ものの本によれば体感温度は湿度と放射熱に比例し、すずしい風に反比例するというから。これがトレンチコートで屋外だとしたら公衆に裾をはだけて前を見せたがる露出狂とかわらないだろうが。
暑いからとはいえ、いつもの調子で料理をするときも裸だとおもわぬ目に遭う。ポテトをスライスして、たっぷりのバターをフライパンに溶かしたものに加えたら、水切りがわるかったのだろう、沸騰した油滴が腹部に向けて飛びはねて、そのひとつがへその左横2.5センチのところにあたった。すぐ水で洗い流して冷やしたがあとに発赤ができて、翌日には水泡となった。それが3日後つぶれるとあとに薄い痂皮(かさぶた)ができた。自然に取れるまで待てばいいものを無理に剥がすとアズキ大のアザがあとに残った。のちにハーバード大学の教授になった古い友人のイギリス人生化学者のCがわかいころ単身でダボスのアパートホテルに滞在中、ポテトチップスをつくろうとして沸騰したオイルに冷凍のジャガイモを放り込んだところ油が燃え上がって腕を火傷したのみならず、キッチンまで焦がして大騒ぎになったことがある。それとくらべれば、損傷はまだ軽微である。想像するだにおそろしいことであるが、あやまってナニの先端に油滴が飛び散るという最悪の惨事をまぬかれたのは不幸中のさいわいといわねばなるまい。
わたしのオフィスのトイレがきれいだからと使いにくる者がいる。
「ちょっと借りるね」
といって入ってきて、用を足したあとニコっとほほえんで出て行く。こちらの伝統的なトイレは和式に似て、しゃがんで用いるのもまだまだ多くみられる。それは西洋人には用いるのがむずかしいのだろう。たとえ西洋式のものがあっても
「臭いし汚いので」
と言ってやってくる。わたしは、むかしから職場でも他所の家のトイレでも飛行機の機内のトイレでも、床や便器にしずくがこぼれているとかならずトイレットペーパーで拭かないではすまさないという習慣があるのだ。『トイレの神様』という歌の出て来るはるか以前からである。だから前に使ったひとがしずくをはねていたりすると、あのひともまだまだだな、と微笑を禁じ得ない。なかにはスプリンクラーか、と思われるほどあたり一面の床をビチャビチャ
にする人もいて、なにをしていたのだろうといぶかしんでしまう。こちらのトイレには、実際、フレクシブルスチールホースのついた手持ち型のシャワー・ヘッドが壁に掛けてある。それは床をそうじするのではなく、用が済んだあと、トイレットペーパーをつかわず、右手でかざして、左手の指をもちいて洗浄するためのものである。この国には日本で普及しているようなシャワトレはまだ皆無といってよいが、伝統的に尻は水で洗う習慣があるのである。シャワーがなければ、バケツに水が張ってあって、その水を右手で水差しを使って左手に受け、指先で洗うのである。日本式のシャワトレに馴染んでいるものには、最初は抵抗があるが、すぐ慣れる。左手はしたがって、不浄の手とみなされ、握手などで左手を差し伸べることはたいへん失礼にあたる。
日本のシャワトレの発達と洗練ぶりはひとつの独自文化を形成しているといってもよいほどと思うが、かつて日本のお家芸とも言われたトランジスター技術がもともとはアメリカ人のウィリアム・ショックレーらにより発明されたものだったように、温水洗浄便座も日本で導入されるより遥か以前、アメリカやヨーロッパの一部で使われていた。ただ、それは医療・福祉用に開発され用途が限定されていたため一般にまでは普及しなかっただけある。所長があたらし物好きであったスイスの研究所には1981年にすでに使われていたから、それ以前からあったものだろう。
用足しに関連してこちらでまだ慣れないことのひとつは、男性がしゃがんで小用を足すことである。最初、街頭で見かけたときは壁にむかってしゃがんでうなだれてお祈りをしているのだと思っていた。しかし、やがて
「あれは、ピー(小便)をしているんだよ」
とおしえてもらってはじめてわかった。そう思って眺めてみると、結構ひとの往来のある町中でもやっている。「立ち小便」というのはなかなか人前でするには抵抗があるが、「座り小便」というのはどこでもできるのかも。ながくこらえた末に放尿する恍惚感にともなっておこる身震いも座り小便で起こるのだろうかと思ってしまう。これはしかし「ルンギ」と呼ばれる男性用の伝統的な民族衣装である腰巻きであってはじめて可能な技であり、ズボンを履いていてはむずかしい。きっとパンツを履いていないのだろう。涼しそうなので、わたしもいつか履きたくなるかもしれない。
(2012・5・4)