第5回 ダッカ 日常生活の冒険
住み馴染んですでに東京にいるかのように思えてきているダッカからたまに離れて郊外に出てみると、慣れて気にならなくなっていた渋滞による交通地獄、市場の饐えたゴミの臭いやドブの水の臭い、多数の路上生活者の物乞い、それに排気ガスなのか人いきれなのか由来はさだかでないがダッカの街をおおうスモッグがないことなどに気づかされる。
人口過密がダッカほど顕著に目にみえる形で現われているところは世界でもめずらしい。それにくわえて、国土全体が低地であるため海水の水位上昇による居住地の縮小、耕地の不足、おとろえる気配のない人口増加、食糧生産の不足がある。気候変動にはきわめて無防備で脆弱である。その結果、農村からダッカへの許容量を超えた『気候難民』の人口流入は加速しており都市の居住環境が劣悪化している。これらは後進性ゆえの問題というよりも、地球上に棲息する人類のすべてが遅かれ早かれ、いずれ直面することになるであろう問題である。ゆえに先進国の抱える問題を先の先まで先取りしているといっても過言ではない。
ダッカは、世界の140の都市のなかで、その住み難さにおいて、ダントツの、住み易い順から数えて139番目にランクされている(『エコノミスト』誌、2011)。ビリからかぞえれば2番である。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈」とは言え日本の大阪は30項目を比較して国際水準からみれば上位から堂々12位だ。安全でおいしい水がある、信頼できる公共交通機関がある、保健制度が一般に普及している、信頼できる郵便制度がある、高い教育水準がある。ダッカにはそのような、都市の快適環境を支える基本的要素がいちじるしく欠乏しているのは否めない。
このような現地事情とはうらはらに、国連の苛酷地分類が6カテゴリーH, A, B, C, D, Eのところ、ダッカはCからBになった。それに対して、ダッカ勤務の外国人職員から「なんでやねん」と猛反対が起こった。この評価にもとづき苛酷地手当てが決定されるからである。Hは本部の所在地ローマで、ハードシップ・アローアンスはゼロ、AからEの順で、給与の何パーセントかが補償として段階的に増額されるのである。DになってしかるべきのところBに格上げするなど言語道断というのが反対者たちの主張である。
ダッカから350キロ北西のインドとの国境にちかいラングプールという街に2泊してからの帰路、雨季で水位の増大したため水没しているところも見られる田園地帯を横切るハイウェイ上である。今日は朝の4時にラングプールの宿舎RDRSを出発した。4時といえばまだ夜中のようなものである。5時過ぎともなると夜明け前とはいえ、海底のような薄明かりのなかに道路の両側の田園には背丈の倍はある萌黄色をしたジュート栽培の矩形の畑が遠方にまであちこちに見える。
水を買うために果物などを並べて売る露天のつらなった道ばたで停車する。ゴミ捨て場にカラスたちが食べ物をあさって群がっている。電線にもとまって騒がしく明けガラスの鳴き声をとどろかせている。「ひとつ、ふたつ、みっつ…」とつい数えてしまう。ことしはじめ、バングラデシュの何カ所かで発生したカラスの大量死の中から高病原性鳥インフエンザH5N1が検出されたことから、カラスには警戒を怠れないのだ。電線の上だけでも20羽以上いるだろう。食べ物探しに余念がないかに見え、遠くからでもカメラを向けると、さっと四散する。賢くひとの動きを、視力の高い目で抜かりなく追っているのである。
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明けガラス |
まだ沈まずにいる満月が西の方角の水平線から20度くらいのところに浮かんで見える。 |
4時5時などという早朝は、深夜とともにダッカでは特別な用事がないかぎりほとんど外出することがないからいつも気がつくと日はすでに昇っている。そして、7時ころ扉をあけて外にでると、外気は蒸し風呂のように暑いのが日常である。朝からすっかり真昼のような暑さである。ナイロビでの経験でも、そもそも熱帯というのは日の暮れる速度が早い。昼間から、暮れなずむことなく、とたんに夜になるという感じである。明暗がはっきりしている。朝も、夜からいきなり昼になるような感じである。長い時間をかけて徐々に日が昇って来るという気がしない。日の暮れも昼と夜のあわいの灰色の時間を経ずに、昼から唐突に夜になるように見える。だからつかの間にせよ夜明け前の風景にひさしぶりにひたると別世界のように思えるのだ。
一昨日は朝の6時にダッカのアパートを発って、午後4時前に現地の宿舎に着いた。昨日のある式典で挨拶を述べるのが目的である。日本なら知事に相当するらしい県長官や副市長などが臨席する中、鳥インフルエンザの国内外の状況を説明し、生鳥市場関係者のいままでの貢献に感謝しつつ、まだまだ根気づよい努力の継続を必要とするので、なお一層の協力をねがうというのである。おおむね、いつもあちこちで同じような内容の演説をしているのだが、わたしはできるだけマイクも要らないほどの音量で気合いを入れてしゃべることを心掛けている。内容も大事だが、それにもまして重要なのが気迫である。原稿をただ棒読みしていては、そのような気迫は伝わらない。日頃、腹式呼吸を意識して腹筋をきたえておくのが良い。
拍手をあびて、席にもどるとデピュティ・コミッショナーが握手を求めて来た。そして、わたしがどこの国の出身なのかとたずねるのである。日本だと言うと、バングラデシュに来る前、日本のどこに住んでいたのかと訊いてくる。東京のちょっと北にある街だと、応えた。「そうか、わかった」それだけで十分なのだろう。次のスピーチではベンガル語でしゃべることを詫びたあと、なにか日本のことをひとしきりしゃべった様子である。いくどか拍手が湧いた。
あとから、同行していたスタッフに訊いたら、4ヶ月前、東京を訪問し、何層にもなった地下鉄がダイヤに狂いもなく運行していて、地上では交通渋滞もないことにたいへん感銘を受けた。そんなすごい国からバングラデシュにあなたが来たことをとてもこころ強く思う、というような内容で、拍手はあなたのためだったんだよ、という。地震と津波被災後の日本人の姿勢にもふれたのだろう。たった30分たらずのスピーチのためだけにダッカから9時間半かけてやって来た甲斐があったというものである。
余った時間に名所旧跡を見る機会があった。ラングプールの見物に奨められるまま、したがった。ひとつは、カーマイケル・カレッジという大学のキャンパス。つぎにいまは博物館となっているタジハット・パレスという、旧地主だかの邸宅。そして正式には「ラングプール・リクリエーション・ガーデン・アンド・ズー」というラングプールの動物園。
下の写真左はタジハット・パレスで、写真をいっしょに撮ってほしいと話しかけられ、写真を撮らせてあげたついでに自分のカメラでも撮ってもらったものである。
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女性でも女子大生だけはどこの馬の骨ともわからない異邦人にも愛想がよい。 |
見ず知らずの女性から話しかけられる機会というのは、道路でものもらいをする子連れの多い路上生活者をのぞくと、バングラデシュでは滅多に起こらない。この一年半のあいだに、二度しかない。一般食堂の給仕も女性はほとんど皆無といってよい。宗教上ならびに社会習慣としてなじまないのだろう。外では黒っぽいブルカで頭から足元まで全身を覆う女性もかなりいる。しかし、大学生は別である。こんなふうに好奇心をすなおに表して来る。英語を使ってもっとしゃべりたいこともあったのだろうが、写真撮影後お金を請求されるのではないかというつまらない懸念から、はやばやと別れてしまった。もうひとつが世界の獣医学教育がはじまって250周年を祝うイベントにマイメンシンのバングラデシュ農業大学にまねかれた今年の2月、獣医学部の学生たちに歓迎されたときだった(写真上右)。
動物園への探訪は、個人的な興味であるとともになかば仕事でもある。バングラデシュの動物園は水産畜産省の畜産普及局の所管なので、その運営、病気の診断、治療に関してわたしも助言を求められることが多い。昨日も、動物衛生行政課の課長兼
同行してくれたのがこの4月にわたしのチームメンバーとして採用されたBで、それまで、動物衛生行政部の部長兼チーフ・ベテリナリー・オフィサーを務めていたことから、副園長を呼ぶと、ただで入れてもらえたのみならず、園内を一通りていねいに案内までしてくれた。見たかったベンガル・タイガーがふて寝をしている檻に来て、写真を撮っていると、
「あのう、日本の方ですか?」と話しかけられた。見ると左横に、ふたりの女性がいた。
「日本人ですけれど、あなた方は?」日本語を話すからといって日本人であるとは限らないという思い込みがいつの間にか身についてしまっているらしい。
「日本人です」
ひとりは農村共同体開発のしごとで当地ラングプールに赴任して1年半になる看護婦のTさん、もうひとりはフィラリア根絶計画でラルモニルハットに来て3ヶ月のSさんで、ふたりとも青年協力隊JOCVから派遣されてきたボランティアだ。ラングプールはバングラデシュの最北西部に近いが、ラルモニルハットはさらに北で、インドに接している。
ダッカが東京であるかのように思えてくるほどだから、今年に入ってから3往復したバンコクではもうほとんど生まれ故郷に帰った気分である。バンコクに行くと、日本食や和食の食材、日本語書籍をはじめいろいろなものが容易に入手できるし、食べられるのが嬉しい。とくにイスラム圏では食べ物の選択肢が少ないから。
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シー・プラヤー通りにあるバンコク最古参の日本料理店Hでもカツ丼を食べた。元首相岸信介がひいきにしていたらしい。 | スクンビット通りにある居酒屋Yでカツ丼を久しぶりに食べる。豚肉はイスラム圏では御法度なのだ。マスターは歌舞伎役者のような風貌である。 |
アジアの国々に赴任している商社員や外交官などからはリトルトーキョウと呼ばれて日本人向けのさまざまな生活必需品の調達に定期的に訪れる重宝な街としての機能をはたしているのがバンコクである。ホテルのコンセルジュに聞いたら夜8時を過ぎてからも、ボートや地下鉄など公共交通機関をつかってデパートに行けば、たとえば日本から持って来るのを忘れたニコンのデジタルカメラの電池の充電ケーブルでも買うことができるという。東京ならともかくそんなことはダッカではとうてい望めない。行ってみたらその通りだった。どっぷりダッカの暮らしに馴染んでいると、そんなことが新鮮な驚きとさえなる。すっかりバングラデシュの暮らしを当たり前のこととして受け止めていたのである。同じ熱帯でありながらバンコクでは、日没の早さをさほど意識しないのは、夜でも街が活動しているからでもあろう。むしろ昼間よりもナイトライフの方を好む外国人旅行者が多いくらいである。
ダッカとバンコクの往復はいつも同じ便を使う。ダッカを発つときはタイ航空のTG322便のエコノミーで13:40発と決まっている。現地到着は17:00時である。帰りはTG321でバンコクを10:55に発って、ダッカに12:30に着く。時差は1時間で3時間弱の飛行である。スチュワーデスは最初、くるぶしまであるマキシ丈の巻きスカートにそろいの柄の丸首襟無しの上着に掛け帯を左肩から右横腹にたすき掛けにし、ひだり胸元に
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左側後部に疎林の木がめりこんで大破した車。 |
ダッカにおける交通渋滞はアパートから事務所までの6キロの距離が40-50分かかるほどである。市内ではほとんど車らしい走りができず、交通麻痺Traffic
snarlが日常的である。このため、スピード超過による死亡事故は市内ではすくないだろう。しかし、いったん、郊外へ出るとむちゃくちゃ飛ばす車が多い。4月24日の午前9時、ダッカから北へ車で3時間のところで、一直線のハイウェイを高速で走行中、老練なドライバーらしくもなく突然ハンドルを右に切って反対車線を越えて右側の車輪が路肩をはみだしたと思ったら、また左にハンドルを切って、そのまま道路を突っ切って二メートル下方の林の中に空中を飛んで激突した。反対車線から飛び出して来た大型のトラックが猛スピードで真正面から直進してきて正面衝突を避けようとしたらしい。その間わずか1−2秒だったが、助手席では上席研究員のBがさきほどから読んでいた書類から目をはなして「どうしたんだい」という表情でドライバーにたずねていた。わたしは膝の上に置いて使っていたマックブックプロを両手に、ドライバーのうしろの後部座席で急旋回するジェットコースターのような遠心力を体感しながら、左後部座席にいる上席研究員のMを見た。セーフティ・ベルトもしめずに窓にもたれて熟睡している。すごい衝撃が確実に来るだろうし、たぶん車はペチャンコになってこのまま死ぬのだろうなと思った。車が宙に浮いたとき、そのまま天国へ昇ってゆくかのような気分になった。そうするといろいろなことが一瞬のうちに思い出された。なにかウェハースのようなもろいものがひしゃげるような音とともに衝撃が腹のあたりで感じられた。左側のMを見ると、同じ姿勢で頭を窓ガラスにもたれさせたまま、口を開けている。もしかして死んでいるのかもしれないと思えた。
田園地帯のまっただなかでガードレールもなく、通行人もおらず、道路わきの林だけだったのはせめてもの幸運だった。またたく間にどこからかひとが集まってきて、左後部ドアを開けて気絶しているMが抱き下ろされ地面に横たえられた。ダッカの国連安全保安部UNDSSと、FAO代表代理のC、家畜普及局の局長Aに携帯電話で事故を報告した。だれか救急車を呼んでくれないかと呼びかけると、車で運んでくれるというひとが現れた。30分後、病院に着くと、目的地だった地区の家畜保健所や郡の
5月にふたたび用事でローマを訪れる機会があった。今度はFAO本部からコロッセウムとは逆の方向の小高い丘の中腹の坂にあるホテルAに滞在した。FAO本部まで歩いて10分の距離である。毎日歩いて通い、町並みを見て楽しんだ。モダンな建物はすくなく、高い木立のたくさんある古い豪壮な邸宅をいくつもの家族が集合住宅として使用しているのが多い、落ち着いた住宅街である。町並みに合わせてだろう、ホテルの室内はフレスコ風の壁模様にわざと薄汚れたように見せかけてあった。建てつけのよい窓がよい。
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ホテルAのパチオに生っていたレモン。 | イタリアではネスポラとよばれる枇杷の実が生っているのが見えた。 |
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5月のプラタナスの大木。 |
でかい松ぼっくりが歩道に落ちている住宅街。 |
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帰る直前の5月11日の夜、足は自然とコロッセウムに向かった。写真の日付が12日なのは、4時間早いダッカ時間だからだ。縁があって、また来たよ、という感じで壁に触れてみた。招き寄せてくれたのかもしれない、という気さえする。 |
コロッセウムにいたる石畳に足を乗せる。 |
ちなみに、おなじ『エコノミスト』誌(2011)によれば、ローマの住み易さランキングは52位、パリは17位、東京は19位らしい。最下位140位はアフリカの南部の内陸にあるジンバブエのハラレだ。どんな冒険ができるのかと好奇心が湧く。