最終更新日2012年04月10日
心と身体の悩み受け止めます

☆私の祖父さん(柳井徳次郎)が、人をお助けした時の事を全国各地で講演したときの話の一部を綴ります。如何せん、随分と遠い昔の話ですから 随分と今で言うところの差別用語が多々出てきますがどうかお許しくださいませ。私達(信仰者)は、日夜を分かたず東西南北に走り回って、助け一条に苦労を重ねておりますが、お助けには心の助けと、身上(病気)の助けと二つ有ります。身上の助けは表に現れたものを助ける事であり、心の助けは目に見えないものを助けさせて貰う事になります。世の中に心の患いほど恐ろしいものはありません。四百四病と言われている業病難病も、心の患いが表に現れたものであるからであります。
お言葉(神の)にも
「病というも病ではない、心の埃である」と
仰せになって居ります。例えば、親として、親の思うようにならぬ子を持って「困ったなァ」と言うって居るのは、心の患いであります。酒は飲み、女は買い、ばくちを打つ夫をもって、昼も夜も嘆き悲しんでいる妻は、これも心を患っている証拠です。この世を眺めて心の患いほど恐ろしいものはないのです。神様は決して身上や病を助けようと言うのではなく、世界中の人間の心を話そうとされて今度表(世界)に現れてくださって、この心の患いを助けて下さるのであります。その心の患いは、悪しき心使いによって起こるもので、それを「埃」といい、八つに分けておさとし頂いております。即ち「埃」というのは、一口にいえば、胸の内で嫌な思いをなし、不足に思うことであります。目に見える「埃」はちり、あくだでありますが、心の埃は胸三寸で、心を濁らせている事が、皆埃なのです。この八つの心得違いが、それぞれに病となって、表に現れているのであります。業病難病と言われるものも、元は心の埃の積み重なったものの現れであります。八つの埃とは
☆八つの埃:おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん
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おしい
ほしい
にくい
かわい
うらみ
はらだち
よく
こうまん
その他に 「うそ」と「ついしょ」というほこりの心づかいがあります。ともに慎まなければなりません。
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八つの埃と病気との関係について
常々おしいの心があれば、其の心から、神(自然)の理にそむき、又、人に対して、おしいの不足を積み重ね、だんだん盛んになりて、その重き一つの理が積もったものが、労咳という病であります。これは出すに出されんと言う理、総て癇ろう、痔ろうは、皆此の理から起こるのであります。 かわいいの理が重なりて、悪きを行い、常々に心にかけて居ると、胃の病を生じます。これは、出すに出されぬという理であります。その他、排泄、飲み食い便通の病は、皆我身可愛いいで、人を倒す心の理であります。
にくしみは、口耳から起こります。此の心を積み重ねると、唖声になる。是はいうにいわれん理なり、聞くに聞かれんという一つの理であります。口の中の痛み悩み、又、耳の痛み悩みは皆にくみの不足の理なり、又、常にうらみ、そねみ、ねたみの理を外より受けるに依って、らい病となる。其他がんかさ、できものとなり、皆見せにくいに依って、見せるに見せられん、という理であります。総て、天然自然の理につまるという、はらだちの心で、悪きを行い、常に心にかけて、不足を積む時は、骨にかかりて肢体障害となる。是は、立つに立たれんと言う理、其他腹立ち、骨にかかりて、悩みと痛みを起こします。
慾の心、悪しき不足つけて来た理が、脹満及び腹の病、是は出されんと言う理であります。其他痔という病、又は、ふんずまりは、皆慾の理です。高慢、我慢という理を常に心にかければ、筋にかかって来るに依って、がん、かたかいなという病になります。是は、のすにのされんという理、皆、高慢は、筋にかかりて、悩み痛みとなる理であります。次回は各病について。
病のさとし(各病について)
胃弱:心汚い、おしい、ほしい、なんぼ食っても食いたいという欲の理。又食い物でも、我れさえ良くばよい、と思う心から、人に嫌がられる理があります。人がむさぐるしがる理もあるのです。自分がうまいものを食べて、人が若しそれを食べますと、心から腹が立ち、癇が立ちて怒るのであります。腐ってしまっても、人に食べさせんよう心を使うのであります。これが積み重なりまして胃弱となり、段々進んで腐れが廻って来まして、肺の方になるのと,気管が損じ肺腺が損じて来ますのと二つございますが、食べ物のことについて、汚い方は胃から肺に迫るのであります。言葉の使い様の汚いのは、気管から肺腺を損じまして、自然に結核性の肺病になるので御座います。それで、言葉ばかりは、角のないように、綺麗な美しい言葉を使わなければならんのであります。
耳鳴り:は聞き分けが足らん、人のいう事は聞き分けせんが、頭からガンとかけつけていう理、是を物にたとえて諭しましょうなら、たたいたら響くであろう、頭からガンと切り口上で、かみつけていうて響くが理、物事に腹をたてましてどなったり、癇を立てまして、大きな声を出しますと、自然天然に耳鳴りがするのであります。何の音もせんのに耳が鳴りますのは、自分の心がのぼりつめて居るのでございます。
歯の痛み:真を忘れ、物事かみ分け、こめかみに力を入れる理であります。何事もかみくだいて、その味わいをかみ分けず、自分がこめかみに力を入れて、人に丸呑みに話をする。自分だけ得心して、向こうに判らんのに、それで宜しいというような心を使いますと、歯の痛みが出来るのでございます。判らんものに、かみくだいて判るように、味をつけて知らせれば、自然天然に飲み込んで判るようになるのでございます。
ねつ病:人間の身の内に、どこに悪しきの事が出来ましても、直ぐに熱が現れ出て来るのでござります。其の熱におかされますのは申す迄もなく、慈悲なり、親切なり、人様に対しての、総てのぬくみがたらぬ為に、熱病が出てくるのであります。人間の肉体で申しますれば、一生懸命に力を入れて働きますと、ぬくみが増してくるのであります。寒い時分に道を走りますと、身体が温かくなります。総て、此の体の働きをさして貰いますと、ぬくみが増してくるのであります。それでありますから、人の働いた物を自分が食べて、人に汗水かかせて自分が其物を身に付けたり、食べたり致しますと、こちらに熱が出てくるのでございます。擦れ合うことが熱の元でありますが、食べ物の事で、すれ合いましたのと、着る物ですれ合いましたのと、金銭上の損得の為にすれ合いましたのと、親子ですれ合いました理と、同じ親子でも、母親とすれ合いました理、父親とすれ合いました理、人と人との心のすれ合いました理と、こういうように、身上に熱が現れてきましても、すれ合いの相手方に依りまして、身に現れてくる処が違うのであります。
肩のこり:は何事見ても、追い詰め、言い詰める理、肩のこりに就きまして、難渋なさる方は、総ての事に言い詰めたり、追い詰めたりする理が積もり重なるのであります。心のこりが、肩のこりになるのであります。平生に自分の思うこと、する事がよいと思う心から、立ち切って通りますから、天然自然に凝りが現れて来るのであります。此のこりから、かたまりが出来てきますと、天然自然にのぼせとなり、こぶとなって形に変化して現れるのであります。人間の身上は、自由自在、どちらにでも、やわらかに使わして貰って、人にも偏らず、自分にも偏らないように、使わせて貰えるのであります。如何程もんで貰いましても、是は又こって来るのであります。其場合、神様のお話を聞かせて貰いまして、心をもみ直して貰い、今まで硬い人は軟らかになり、強い人は優しい人になりましたならば、こりが取れるのであります。
のぼせ:何事にても俺が勝ち、負けることは嫌い、物事に采配を振るいたい心が多い。又、人より俺が上がりたい心が多い。又、人を頭から押さえる人が多い。人間身の内で、のぼせほど恐ろしいものはありません。是が、只今で申しますと動脈硬化と同じでありまして、天然自然に脳溢血、脳充血、或いは軽くても半身不随ということになるのであります。其ののぼせというのは、総て俺が、わしがと自分が先に立って人を総て引きまわし、人に働きさして、自分は働かないでとくを取りたいと思い、又、取り込んだ理が自然天然にのぼせるのであります。何故、のぼせるかというと、人は一生懸命働きますと、体内に熱が出て汗が出る。汗水垂らして働かせて、それをこちらへ取り込んで来るから、のぼせて天然自然に汗が出る如くに、寝所に居りまして、終いには寝汗が出るようになる。それは人を働かせて取るから、寝汗が出るようになる。依ってのぼせは肺病の先道とも申すのであります。
あげくだし:は物事を包んで居る埃であります。包んだものは出るのが理、物を食べまして、あげたり、さげたりしまして、急性胃腸カタルという病気になりました時に、是は平生に自分の不足を包み隠して、思う事をゆおうか、ゆうまいかと思うのでありますが、まァまァと云うので包んで居りますが、物の食べ合わせの時に、あげ下しになるのであります。平生に結構、結構を包んで居りますれば、決して如何なるものを食べましても、あげ下しすることなく障りはございませぬ。
ぜんそく:人に負けぬ心から、片意地張りで、息のかすれた汚い心から、人を不足にして、たんのうのたらん理。切れたら心持良い。切れぬから苦しむ。ぜんそくに外の息を入れたらば助かるぜんそくと、しめ切って置いて、うちらの息で助かるぜんそくとあります。 同じぜんそくでも、咳の為にもたねればならん咳と、うつむいてかがまなければならぬ咳とあります。うつむいてかがまなければならん咳は、前生で無理なことをいい、職人ならば弟子や丁稚、小僧、総てを言葉で押さえて、親切の足らん理が積み重なりて苦しむのです。もたれなければならん苦しみの咳の出るのは、前生で親となり、兄となり、職人ならば親方となり、総て目上の人にもたれること出来ずして、逆ろうて来た理が積み重なって来たのでございます。ぜんそくとは、日々物事に不足を積み重ね、殊に食べ物の不足の多い理であります。
見えん処にかゆみ:が致しますのは、自然天然に自分の心で楽をして、働かずして多くの値を取り込もうということになるのであります。それでできものが出来、膿が出てしまいまして、後に癒える時分になりますと、大概のできものは、かゆみを覚えてくるのでありますが、かゆみが出ますと、癒えるこぐちになって居るのであります。それは、自然天然に悟りがつきまして、成程借りたものは返さなければならんと思う心になり、無理なものを取り込んだのは、悪かったということはお話を聞かなくても、天然に悟りがつくのであります。でありますから、神様のお話を聞いて頂きまして、分かり易いお話をさして貰いますれば、できもの一切はわが身の為、我が家のため、我が子の為めにむりなものを取り込んだことになるのでありまして、親の思う為に取り込んだものは、上の方に出来てくるのであります。手足にかかるものは多く我が子を思うたり、我が家を思う心から取り込んだ理になるのであります。
できもの一切:は心の強いのが始まりでございまして、心の優しい人には、できものは絶対にないと申して宜しいのであります。気の強いというにも、段々次第がございますが、働きの上に就いて強いのもあり、或いは、言葉の上に就いて強いのもあります。又、酒を飲みましても、沢山飲む人は「あああの人は酒に強いな」というのです。此の強いという言葉の使い方に就ては数々ございますが、心使いの強いのと、弱いのは、話に終わりに、心持好く人に得心して貰いまして、向こうに勝ちをとらして、此方が負けて通らせて貰うという事が、心の優しい事になるのであります。
みずおちの悩み:心小さく開けん心で、喜びたんのうすることが出来ん、不足に思った理であります。一般のさとしで言いますと、先を案じてはいかんと言う事になります。それを心小そうて、開けんというのは、ものの戸を開きますにも、それから同じ日本の国でも、奥州の山の中に行きますと「ああ、此辺は開けん」といいます。是は、開けんという意味は「判らん」という意味に諭せばよいのであります。みず落ちの悩みは、判らん人、鉄道の無い処では鉄道を知らない。電信や電話のない処では電信電話を知らない。知らないのは即ち開けないのであります。即ちみずおちの痛みは、心が小さいのでありますから、教えて行けば開けてくる。野原ならば、悪い木や草を取りさいすれば立派な田地になる。又片田舎でありましても、只今電車でも行くようになれば開けてくる来るのと同じように、やがて進んで来ますと開けて来るのであります。総てみずおちの悩みは、お諭しを聞く事に就て、全く人並みより後れてござるお方で、是をお話させて貰って、自然天然にものを開いてくるよう、お話させて貰えばよいのであります。
痔の患い:は生きくるしい心を日々に出す。其の痔の中で、いぼ痔の、日々に人の尻を切る理、人の尻を切るということは、人にうえらい仕事をさせては、自分が楽しく良い顔するのが、人の尻を切るのや、例えば、奉公人を置いてある人ならば、あの者に此の仕事を残して置く、下に甘き慈悲のない、又金銭でも、人の尻を切り、又、自分が出さずに出した顔するのが、是も人の尻を切り、日々に人の頭をはりて、旨い事をしようと思う。日々にむさくるしい心出して人の尻切るのが埃となり、又女の月やくの狂うのは、女の心狂うてある。又、前生で色の道で人を狂わせて来た理、又、此世でも心穏やかならん、心狂うてあるものに隔て心多し、心定まらん、日々に胸苦しい心である。人間の痔の患いは一番下の汚い、見るに見られん処でありまして、其の汚い処の患いがありますと、始終手をそこへ持っていかなければなりません。人間も後ろへ手を廻して行かなければならないようになったのは、神様が、其の人の尻の始末のつかん事を教えて下さるのであります。上方で申しますれば、人に損をかけたのを 「ばばかけた」という話が多くありますが、此の尻の掃除をして貰わなければならんという事に就きましては、小さい生まれた子ならば、当然親に尻の掃除をして貰うのでありますが、道楽息子が金を使い過ぎまして、其の後始末をつけますのは、尻の掃除をして貰うた事になるのであります。総て痔にかかります患いは、前生前生から積み重ねた理は、自分の尻の始末を人に片付けて貰うた道が多くて、後の始末はどうなってもかまわんという尻に帆をかけた人なのであります。
それが、積み重なりまして、はしり痔となる。悪いことして、とっとと逃げたりするのは、はしり痔となるのです。痔ろうというのは、自然天然に肛門の側に孔が開いて腐るのでありますが、是は縁につきましても、辛抱出来ずして、其処の有る金を使い倒して、かまわずに其のまま縁切って行く人が、痔ろうとなるのであります。女の人には割合に痔の患いは少ないのであります。男の人に多いいのであります。けれども、女にはつきやくという苦しみがあります。
女の乳のなやみ:は人に慈悲のない、ほしい、をしいの心の多い理。いづれも人に慈悲すれば、わが身けすられて出さねばならん。施せば我身けずらなければならん。我身けずりて施せば、真の慈悲という。我身削りて取らねばならんから、飲ませば痛むのや、是皆女の埃なり。唯神様のお言葉はここに書いてありますが、乳の出る出ないは、我身を削って、人に施す心がありますれば、神様は直ぐに授けて下さるのであります。そこで、子供さん授けて貰いまして、乳の出ないのは、働きが人並みより少ないから乳が少ないのであります。人並みより多く働く御婦人ならば、乳が多いのであります。家の為にも、人の為にも、多く働いて我身苦しめて、そうして親にも食べてもらい、子にも食べて貰い、夫にも食べて貰う心を使えば、良い乳が出るのであります。昔、御天子様に乳を飲ますのは、八瀬大原の百姓の娘から乳を貰いました。総て働く人に乳が多いからであります。又、産後の血脚気になりますれば、乳を飲ますことが出来ません。
ひぜん(疥癬):は元来高慢の理、首から出きるくさや、できものは、心汚い故つなぐ心なし、又、金銭を粗末にする理です。ひぜんは、昔の牢屋には、十人居れば十人、百人が百人ひぜんを患ろうたのでありまして、同じつなぎにかかりましても、ひぜんばかりは、神様が高慢の心癒さなければ、助けて貰う事が出来ぬのであります。それは、どういうもので、そういう事になるかと申しますと、ひぜんは此のかゆみが13年つづくと、古来からいわれているのであります。年々かゆくなるのが、13年も続くのであります。高慢というものは、誠に汚いものであります。其の高慢の現われがあちらこちらにかゆみの出来るひぜんとなります。ひぜんは多く指の股に出来るのであります。昔からひぜんは顔にはかかりません。らい病は顔や手足にかかりますが、ひぜんは顔だけにはかからんのであります。それでくさやできものの内で、下の方に、口から下の方に出来て居りますのは、汚い中の最も汚いのが現れて来るのであります。前の道具の両股に現れてきますのは、色情の為に金銭の欲の心使いの汚いのが現れて来るのであります。世の中で、此の道に就いて使いますのが、一番粗末になるので、此の道で金銭を粗末に使いますという事が、筋皮が腐るようになる元を作るのであります。それでもって、世界でも、此の金は死んだくされ金というのであります。人を助け、人に喜んで貰う良い方に使われますれば、其の金が生きて行くのであります。良い方に金を使いました奥さんは、顔も形も肌合も綺麗に生まれているのであります。何百万円の金をこさえましても、無理なものを取り込んで居りますれば、其の肌合が汚いのであります。
リウマチ:我が心治めるに、ゆくゆく人を悩ます理。気侭勝手の理なりとありますが、是は千人が千人、万人が万人同じ様に参りません。総て先ず、此のリウマチの湧いて来るのは我が心、自分の悪いという事を悟らず、何からでも人が悪いよう、悪いように考えるのであります。又そういうように思う。そうして人を苦しめる。リウマチの処へお助けに行きますと判りますが、夫婦でも、兄弟でも、其の人が一人居る為に治まらん。それを神様のお話に依りまして、誰方の心にでも、合わすよう合わすようさせて貰いますと、その因縁を切らして貰えるのであります。
たむし:金銭のことで、我が身充分かきたる理、金銭に就いて不足に思い、まだまだと思う心であります。たむしの出来ますのは、誰でも金銭には汚いものでありますが、人に非常に勝れた汚い心を持って居り、そうした金の為に、人と人の中が直ぐ仇になってしまう、金の為に味方をこさえますのと、金の為に仇を作りますのとで判るのです。金の為に仇を作った因縁ならば、今度は金を出して味方を作ればよいのです。そうなりますと、着る物でも、食べる物でも、人に着て貰い、人に食べて貰う為に金を出して行けばたむしもも助かる。神様のお話を聞かせて貰いましても其の通りで、神様の御恩判ってしっかり大恩を送らせて貰えば助かる。是は取り込んだ上に取り込み、取り込んだ上にも取り込み、たんおうが出来んものがたむしになるのです。
ふうがん(結膜炎):は人の中に取り入って、金銭をむさぼる理。人の中に入って、両方から取る理。今の仲介者のようなもので、甲からも、乙からも、取り込んだ理がふうがんにかかる。その他、総て、強欲の欲が積み重なった理が其処にせまるのであります。
なみだ目:は縁談相対定まりて、我一代に定まって居るにかかわらず、男女に不足の心が知らず知らずに湧いて来ました理が積み重なって来るのであります。人間も不足に思われた理は、蔭で互いに泣かなければならん。神様のお話を聞かせて貰いまして、生涯縁の定まったものなら、喜ばせて貰いますれば其の不足も取れ、涙の出るのも自然に助けて貰う事が出来るのであります。
目の側のただれ:は近所で悪い事をいう理。是は近所の側の人の悪い事をいう事が積もり重なりまして、目側がただれますので御座います。下賤の人、低い人の目の側がただれるのが多いのであります。是は、多く親子喧嘩、夫婦喧嘩をする場合が多いばかりでなく、世上の人のことを悪くいうから、自然自然目が悪くなって来るのであります。グルリ八方の人の事を誉めて、ああ自分が悪かったと悟りがつきましたならば、助けて貰う事が出来るのであります。我より側の人に、きずをつけないようにする事が第一でございます。
やにめ:は目の心のきたなき理。目の悩みにつきましては、やにが出ますが、其のやには、心のきたない理と諭してありますが、人間の心のきたないと申しますのは、物が欲しいと思う心が湧いたときに、きたない心が、湧いて来るのでございます。人間は難儀な人を見ましても、恵む時には、ああ何と美しい綺麗な人じゃろうと人が申します。そこで、慈悲情けの深い人は、難儀を見ては逃さず、聞いては聞き逃さず、進んで恵む人は綺麗なのであります。又、見えん処で、汚いものでも、取り込んでいこうという心は、汚いのでありまして、それがやに目になるのであります。
ひえめ:は目を道楽に夜をふかす理と教えてありまが、是は梅毒から来ました目のことを申すのでございます。梅毒は総て夫に不親切、女房に不親切の人に出来るのであります。前生で夫を苦しめ、女房を苦しめて来た不親切の人、又、その道で苦しんで来た因縁で御座いますから、つめたい、ひえる、そこで「ひえめ」と名がつきますのは、夫に対してつめたい、女房に対してつめたい、ひえめになるのであります。又、夫がありましても、勝手に又男の人をこさえるというような心は、夫に対してつめたい、即ちひえるのであります。それでありますから、芸者、女郎商売をした人は、どうしても家庭の人となりましても、総てがつめたいからひえめが多いいのであります。梅毒性の目が多いのです。
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