☆聖書では割礼について度々出てきますが、今日教会でこの割礼についてメッセージすることは殆どないとおもいます。
わたしも、2年ほどのクリスチャン生活の中で教会で、割礼について説明をうけたことはありません。
ただ、幸いなことに、2012年7月に洗礼をうけた日の晩に、突然、降って湧いたように割礼についての知識を受けました。
これは、どこからというのではなく、思いついたのでもなく、思いだしたのでもなく、まさしく降って湧いたように受けた知識でしたが、不思議となるほど、と納得した次第です。
ですから、これは、誰からの受け売りでもなく、教会で得た知識でもありません。
その点を踏まえて、お読みください。
ちなみに、前述の如く、教会では、この割礼についての説明は今後も一切ないとおもいます。
それは、以下の理由だと私は勝手に思っています。
それは、新約聖書のガラテヤ5章6節にこうあるからです。
キリスト、イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
ですから、割礼について知りたくない人は以下の文は読む必要はありません。
それでは、私が自然に湧いて出てきたような説明はこういうものです。
創世記に神は人を自分に似せて作られました。神に似せて作られたのですから、すでにこの時点で人の体には一切の無駄なものはなく完全であった筈です。
ところが、御承知のように、アダムとエバが神の言いつけに反して、善悪を知る木の実を食べた時点で、自分が裸であること知り、いちじくの葉をつづり合わせて身にまとったとあります。
この時点で、完全であるはずの人の体に衣服という人の造った創造物が添付されることになったのです。
つまり、新たに衣服が添付された分、からだの一部にいらない部分ができてしまいました。それが、聖書の記述にもある、包皮の肉です。
この部分は元来は、野山を裸で駆け回っても、ペニスの先端が傷つかないように守る役目がありましたが、人が衣服をまとうようになったので、いらなくなりました。
割礼はこうした現実問題だけでなく、実は割礼を受けるということは、あなた方は神のいいつけを守らなかったアダムとイブの子孫なのですよ、という神の印だというのです。
創世記3章21節に、神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。とあります。
この皮の衣があるので、本来、神が造った完全な、体の一部にいらないものが生じてしまったので、それを切り取りなさい。というのが私が受けた割礼の意味です。
旧約聖書では、度々この割礼の有無が問題となっています。有名なダビデとゴリアテの一戦も、無割礼ーすなわち真の神を信じないペリシテ人と割礼を受けた、イスラエル人との闘いと言えます。
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