藤田とレオナルド

by Futaro

☆フジタ☆

☆絵の資料を借りに図書館に行った際に藤田嗣治(つぐはるー異邦人の生涯ー(近藤史人著)を借りてきて読んだ。彼が活躍したエコールド、パリには私の好きな画家がたくさんいる。
今から丁度100年ほど前だが、パリが芸術の都として絶頂にあった頃、一人の日本人がピカソと並び称されていたという、なんとも素晴らしい時代だった。
私も一応絵を描くが、あくまでそれは聖書を読み解く手段としての絵であって、本格的に学んだこともなく、また自分が画家であるという意識は殆どない。
それでも、風景写真をやっていたころ、上野の都美術館で、彼の絵を見たことがある。日本人画家で知っているのは、彼と岡本太郎くらいしかいなかった。
予備知識はそれくらいで、本を読み進むうち、彼が戦中に戦争画を描き、それが元で、日本の画壇から追及され、一人責任をとるようにしてフランスに帰化したことを知った。
詳しくはウキペデイアをご覧いだだきたい。
私がここで、書きたいのは、この際、彼が夫人と共にフランス国籍を取得し、同時にカトリックに回心して、クリスチャンネームに、あのレオナルド、ダ、ビンチのレオナール、フジタ(Leonardーフランス読みでレオナール)となったことだ。(以下フジタと記す。)
彼が日本から捨てられ、かつて自分を育ててくれた古巣フランスに戻り、そこでキリスト教徒となったいきさつは、一応理解できる。
しかし、そのクリスチャン名がレオナルドであることに、私は不思議な感じがした。
まず、レオナルドはフランス人ではなく、イタリア人である。当時のイタリアが統一国家ではなく、都市国家であったとしても、彼の生まれ故郷も活躍した場所のイタリアであった。
それにレオナルドはキリスト教徒ではない。そればかりか、彼は無神論者であった。
普通クリスチャン名は、聖書から多くとるものだから、これには同じ画家としての何か共通点があるものかと、私なりに考えてみた。
まず、画風だが、レオナルドはモナ、リザで用いて有名になったフスマート技法というぼかしが特徴である。
一方、フジタは乳白色に生地に面相筆の黒を用いた、線画が基本である。
技法としては、レオナルドより同時代のサンドロ、ボッテチェルリの方が近い。
しかるに、彼が技法においてレオナルドを永遠の師匠としたとも思えない。
人間的には、どうだろう。生涯独身を通し同性愛者との噂もあったレオナルドに対して、フジタはフランス人を含めて五度の結婚をしている。
人間的にも技法的にも、彼が天国では、かくなりたい、と願望を込めて命名したレオナルドには程遠い。
しかし、どこかに、彼がレオナルドに憧れたものが有る筈である。でなければ、永遠に続く天国で、彼がレオナルドと同じような者となる意味がない。
そこで、注目したのが、彼が日本を去る(本人の言葉に依れば捨てられた)原因となった、画家としての戦争責任である。
戦時中、多くの画家が彼と同じような戦争画を描いている中、彼一人がその矢面に立たされた。
フランスでの派手な生活がたたっと言えば、それまでであるが、当時、ハチャメチャな生活は、謂わば絵描きのトレードマークだった。
酔いどれのユトリロ、同じく酒と女に目がない色男のモディリアーニ、作風と同様次々と恋人を変えて行ったピカソ、乱痴気騒ぎが時代の象徴だった世の中で、芸術家に真面目に生きろというほうが無理な話だ。
但し、富国強兵を旨とする当時の日本ではそれが通用しなかっただけだ。
実際には、GHQが発表した戦犯リストに画家の名前は一人もなかった。当時の画壇と世間のやっかみが生んだ目立ちすぎた画家の悲劇だった。
それが、レオナルドとどう関係あるのか。ちょっと、こじつけかもしれないが、レオナルドは画家である前に当時としては革新的な科学者であったことだ。
科学者として彼が発案したものに、当時としては刷新的な、兵器がある。
文献には、実用性はないが、レオナルドの優れた独創性を示すものとして紹介されている。
当時、イタリアでは日本の戦国時代のように群雄割拠する時代であった。優れた軍事家は主君に用いられたから、当時から万能の天才とうたわれたレオナルドが、己の才能を誇示するために多くの兵器についてのデザインを残している。
今となれば、実現不可能と思われるものでも、当時の科学水準からみれば、革新的といっていいものもある。
幸い殆どが実用には至らなかったらしいが、彼の己の才能を誇示するには、殺人もいとわないという姿勢が見れて興味深い。
そのことが画家レオナルドにどう影響していたかだが、不思議なことに当時も今も、殺人兵器を開発したレオナルドを万能の天才と賞賛しても、彼を人類の敵として見ることはない。
画家としても、稀代の天才と謳いこそすれ、一方で殺人兵器を開発していた悪魔の輩と告発されたこともない。
当時のルネッサンスの社会において、芸術と軍事的発明は、何ら矛盾することなく賞賛に値していたという事実である。
このことが、一部画壇や知識人に戦争犯罪人の如く非難され、揚句、祖国を追われたフジタにとって、名状しがたい憧れになったのではないかと私は個人的に思うのであります。
方や遙か500年も前に、芸術は芸術、軍事は軍事と、割り切った価値観で人を評価できたヨーロッパがあり、方や祖国のために戦争画を描いた自分に対して一方的に非難した画壇や知識人にたいして、かれは面と向かって抗議をすることもなく、 静かにかつての古巣であるフランスに戻り、レオナルドというクリスチャンネームを、永遠の名前として用いることが、彼の祖国に対する密かな抗議であったように思います。

2016年5月2日 ☆

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