作品レビュー 私感
拙サイトでは、基本的に書誌に徹しており、個々の作品について触れることはしていない。当然ながら、ミステリ読みとして、作品について語ることは嫌いじゃないし、実際に、過去には、何人かの作家について、全作品レビューをしたことがある(山沢晴雄や、宮原竜雄といった、作品数が限られる作家についてだが――。書誌マニアの業だろうが、作品レビューをするなら、可能な限りはその作家の作品すべてを扱いたいのだ。他に未入手だが作品が存在することが分かっている作家を手がける気にはなれない。その作品が本になったかどうか、は個人的にはとても些末なことだ)が、ここ最近、敢えてやりたいと思うことがなくなっていることは否定しない。それが何故なのか、ちょっと思ったことを書いておこう。
霜月蒼の『アガサ・クリスティー完全攻略』以降の、浅木原忍『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド』、小野家由佳『結城昌治読本』などを読むと、確かにこの種の作品レビューには一定の面白さがあることは間違いないと思う。労作だし、そこここに何がしかの発見が感じられるからだ。その作家への知識の濃淡によるだろうが、その作業に賞讃を贈りたい(個人的には、書誌面でも頑張っていることが分かれば、それだけでも拍手なのですが)。
その一方で、これらを読んでいて何となく感じてしまったのが、自分がそれほど読んでいない作家のものは、確かに興味深く読める。でも、それなりに数を読んでいる作家のものは、どうしても自分の読み方と比べてしまうので、それほど楽しめない≠ニいうことだった。ああ、そういう読み方が出来るのか――といった面白さもある反面、その解釈はどうしても納得できない――という違和感が生じてしまうせいかも知れない。(全く自慢にはならないが、連城にしても結城にしても、読んでない作品も多かったのだ……)
このサイトに、小峰元作品について私が行った作品レビューに対する読者の意見と、それに対する私の補足見解を載せているが、その時にも思ったのが、読んだ年代や環境が違う読者に対して、その真意を伝えるのは難しい――ということだった。その作家・作品をリアルに読んで来た者と、十年、二十年遅くその作家・作品を読んだ者とでは、当然ながら前提とするもの(知識や基本情報)が全く違う。その前提の違いを、こういったレビューでクリアするのは容易ではない、ということになるだろうか。
読者と作家・作品との関係を大別するなら、
@ その作家・作品を、刊行と同時に読んできた。
A その作家・作品に、刊行から遅れて触れた。
の二つになるだろうか。更に云うなら、@は「ほぼ、デビュー時から」、「数年遅れて」、「全作品ではなく、読んでいないものもある」といった感じで細分できるが、この点には触れないでおく。
当然ながら、同じ作家でも、読者によって@とAのどちらかなのかは異なる。これは、年齢等が違うからどうしようもないが、作品レビューの際には、この違いは大きいと思うのだ。
アガサ・クリスティであれば、彼女と同時期に読んで来た読者はそういないから、そう違いはない(読んだ作品数の違いはあるだろうが、それこそ、読み込んできた冊数に基づいたレビューになるだろうから、立場が違うまでにはならないだろう)。私が行った、山沢や宮原も、同時期に読んできた読者はそれほどいないだろうから、やはり、立場の違いは余りないと思う。
しかし、今も現役の作家であれば、その作家に触れた時期によって、これらは大きく違ってくるだろう。
幸か不幸か、私の中学・高校時代は、日本のミステリ作家の文庫化が盛んに行なわれた時代で、お小遣いはそちらにほぼ費やされていたこともあり、作家の新作を追うようになったのは大学に入ってからだった(一般的には本格の冬の時代とされる頃だろうか)。そんな読者生活を送ってきたせいか、私がデビュー以来著書をずっと読んできた作家としてまず挙げるのは、やはり東野圭吾になるだろうか。それこそ、売れっ子になる前から読んできたから、好きな作品を挙げようとなると、最近の傾向とはかなりずれてしまうのは間違いなかろう(作品の出来と同時に、その作品を読んだときの自分の環境なども、感想に加味されるので)。二、三年の遅れを許容してもらうなら、先の小峰元もここに含められるだろう。そんな人間がレビューをしようとしたら、最近の読者のそれとは違う前提にならざるを得ない。
やはり、二、三年の遅れを許容してもらうと、(途中まで)著書をずっと読んできた作家に挙げられるのが、赤川次郎になる。(『死者の学園祭』と『赤いこうもり傘』を除いて、)たぶん『三毛猫ホームズの追跡』あたりからは、ずっとリアルタイムで読んできたはずだ。さすがに著書の数が多過ぎて、1995年前後には全作品を読むことを諦めたけれど、それでも十年以上は著書は全部読んできたつもりだ。そんなこともあって、某書でも赤川の作家紹介を担当したが、そこにも書いた通り、私にとって赤川はそもそもユーモアミステリ―の作家ではない。ユーモラスなタッチを持ち味とした、いろいろな顔を見せる作家――だったのである(デビューして数年後には、ユーモアミステリ―の比率が格段に高くなるが、それでも年に2、3冊はシリアスなものを書いていた)。そんな人間からすると、赤川の作品世界の出発点がちょっと違うんじゃない、とは思ったりする。
当然ながら、作家によって、そういった違いが生じないこともあるだろう。やはり、数年の遅れ以降はずっとリアルタイムで読んできた作家に辻真先がいるが、この人などは、最近の読者と比べても、たぶんそう大きな違いは生じない気がするのだが、どうだろうか(もっとも、キャラクターたちの人生への思い入れには違いはあるだろうが。湊マホという人などが代表的だろう。あくまで、ミステリとしての感想に限ってのものである)。だとしても、これは作り物に徹したその作品世界故のもので、こちらの方が特別だと思うのだ。
もちろん、初期から読んでいるから偉い、というつもりはない。
私にとっては、中町信は十年遅れでリアルタイムに読みだした作家になる(『奥只見温泉郷殺人事件』からリアルに読み始めた。『自動車教習所殺人事件』が刊行された時も、名前は知っていたのだが、最初の出会いが悪過ぎた――「急行しろやま」を読んで、そのトリック・センスに失望したのだ――ため、手を出さなかったのだ。当時は、一般読者には、その作風が全く知られてなかったと思う)が、同じ時代を過ごすということは、読み終えるまで失敗作かどうかが分からない、ということにもなる。個人的に、中町は中期以降は初期より劣るものが多いと思っているから、これは読まなくても大丈夫、というのが事前に分かっていることは別な意味で幸福な読書となるに違いない。そういった観点で書かれるレビューには、大いなる意味もあるだろう。
(そういった時に、でも、この作品にもこういった面白さがある、としたがる可能性はあるが……)
あくまでも、作品レビューということをしたときに、その違いというのは避けて通れないだろう、ということである。
そんなことを考えると、とりあえず本人が楽しめるうちは、書誌研究の立場を主とする方が気軽だよね、と思ってしまうのも確かなのだ。
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戸田和光