『♂♀戦争』余話

 手元に、『♂♀戦争』という新聞連載小説がある。まず、この小説のあらすじを簡単にまとめてみよう。

 参議院議員選挙で落選した前議員、甲賀蝶子は、ライバルを支援した前夫と息子に、そして男の論理が支配する国会に失望し、逆襲を決意する。娘のりん子が研究していた人口精子を実用化し、男性がいなくても妊娠・出産が可能な世界を作ろうというのだ。
 実験成功を受けて、子供のできない夫婦などに、人工精子の注射をはじめた蝶子は、並行して、新宗教の創始者として、布教を開始する。様々な女性の支持を受け、次第に信者が増えてゆく中で、人口精子による初めての子は、無事に誕生する。
 こうして設立された“聖虫協会”は、様々な世論を惹き起こしながらも、着実に拡大化していく。信者と非信者と、それぞれの立場で男性と一線を画してゆく女性たち。蝶子は議員に返り咲き、首相に上り詰める。世の中を女性が支配してゆく中、蝶子の初恋の相手である博士は、やむなくあるものを発明し――。

 SF的なアイデアをベースに構成された奇想小説といえるだろう。世の中を見つめる冷徹な視線はあちこちから伺えるが、基本はユーモラスなタッチで物語は展開する。
 人を食ったタイトルも合わせ、作者の見当がつく人も多いだろう。そう、これは山田風太郎の作品である。昭和31年から32年にかけて連載された、短めの長篇である。忍法帳に手を染める前年に書かれており、初期長編に分類できそうだ。

 現時点で公開されている山田風太郎の著作リストにはない作品のようで、ちょっと面白い発見なのかも知れない。そんな小説をこんな形で紹介するのには、理由がある。私が確認した範囲では、現状いくつもの欠けがあり、全編を読み通すことができないのだ。何より、最終回が読めないため、実際にこの物語がどのような決着をみせたのか、全く分からないのである! 直前まで読み限り、さまざまな登場人物がそれぞれのエピソードを織りなしているため、やや散漫な印象も受けるが、作者はどのように収拾させたのだろうか……。


 このような小説をあげるまでもなく、新聞小説の書誌を研究する際には、いくつもの障壁がある。それがどれだけ人に知られているか分からないので、ちょっと整理してみる。

<その1>
 ・新聞小説は、作者自身による作品リストからも漏れることがある

 これは、掌篇や短篇に多い問題点といえるだろう。
 比較的詳細な作品リストを残している作家であっても、新聞に掲載された小品ははずされていることも多い。書いたことを忘れる、ということもそうないだろうから、掲載紙が贈呈されないことがあったり、保管の際についつい散逸させてしまったり、というミスが生まれやすく、短篇集に編まれるタイミングを失したままリストからも消えた――といったことだろうか。
 一昨年、作者自らがまとめたという大河内常平の作品リストが初めて公表されたが、このリストでも、新聞に掲載された掌編(4回ほどの短期連載を含む)は漏れている。不思議な話だが、これが現実なのだ。

<その2>
 ・新聞連載小説は、本にならないことも多い

 こちらは、長篇の話になる。
 最近は、新聞連載小説は連載終了後間もなく刊行されることが殆どで、本になっていないものを探すことの方が難しいが、昭和50年前後までは本にまとめられないものも多かった。以前佐野洋の長篇について調べたことがあるが、「血が走る」と「空の波紋」という2長篇について、刊行を確認できていない(加筆の上、書き下ろしとして刊行された可能性はあるが――)。著書の多い佐野洋にしてこうなのだから、他の作家に目を向ければ、同様の例には事欠かないはずだ。
 似た例はSFにも見られる。矢野徹には、昭和30年に新聞連載された「天駆ける夢」という連作長編があるが、このタイトルの著書はない。果たして、加筆の上で刊行されたのだろうか。昭和30年代に数多く新聞連載された少年向けのSFも、瀬川昌男の数作品などごくごく少数しか刊行されなかったようだ(その多くが専門作家によるものではなかったせいはあるにしても)。森田有彦の4,5編もある長篇SFが刊行されていないのは、別稿の通りである。

<その3>
 ・新聞連載小説は、確認が困難である

 最後に、長篇、掌編に共通する問題を挙げよう。
 過去の新聞小説を調査しようとした場合、最大の問題点は、収蔵してあるところが殆どないことだろう。頼りにできるのは国会図書館しかなく、その他の公立図書館は、県の代表紙は保管されてあるかも、という程度に過ぎない。といって、古書店での流通もまず見込めない。最後の砦であるべき新聞社も、通常は調査に応じてもらえないし、既に社がなくなっている場合も多い。――こうして並べてみると、新聞と比べれば雑誌の方がどれだけ調べやすいか分かる。
 もちろん、全国紙やブロック紙、県紙は、国会図書館にかなり揃っているため、これらに読切掲載された掌編は、それなりの調査も可能だ。ただ、長篇連載も含めると、調べるのが楽しく、さまざまな発掘が期待できるのは、むしろ、夕刊紙や県の二番手、三番手レベルの新聞なのだ。専門紙もこちらに含められるだろう。そして、これらは国会図書館に収蔵されていない新聞が非常に数多い。特に、昭和30年代に発刊されていた夕刊紙は殆どない、といっても良いだろう。むしろ、戦後間もない時期のカストリ新聞の方が確認しやすい、というのは皮肉な話だ。
 しかも、収蔵されていたとしても安心するのはまだ早い。この種の新聞は、ある期間ゴソッと抜け落ちていたり、一日単位で所蔵モレとなっていることが非常に多いのだ。これは所蔵目録の事前確認では分からず、実際に新聞をあたるしかない。“確認が困難”という言葉には、全回の確認ができない、という意味も含んでいる訳だ。
 ――そして、当初に挙げた『♂♀戦争』が、この典型的な例となる訳である。


 とはいえ、“苦しさ”しかない訳ではない。
 もちろん、面倒なのは確かだし、だからこそこの種の調査を行う人が今まで少なかったのだろうが、その一方で、発掘する“楽しさ”は、何物にもかえがたいと思っている。

 長篇であれば、楠田匡介には本になっていない長篇が、新聞連載だけでも、一般向けとジュヴナイル合わせて三篇あるとか、新羽精之の処女長篇は非ミステリだとか、私も調査する中で初めて知ったことがいくつもある。

 掌編になると、小さな発見は数知れない。
 西村京太郎には新聞に掲載されたまま今でも単行本に収録されていない掌編がまだ十数編あると書くと、意外に感じる人もいるのではないか。島久平には、時代小説や艶笑小説だけで200篇以上あるのは有名なのだろうか。
 最近でも、一昨年8月に綾辻行人「蒼白い女」が読売新聞(大阪本社版)に掲載されるなど、数こそ減っているが、ゼロではない。


 もちろん、各人で調べられることは限られている。この拙文も、結局のところ個人で調べる限界を示しただけなのだろう。
 とはいえ、ここまで来たら、飽きるまで調査を進めるに違いない。


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戸田和光