将棋ファンの妄言をちょっとだけ。
山沢晴雄『ダミー・プロット』に、芦辺拓さんが解説を寄せている。その中で、フレドリック・ブラウンのショートショート「退場」を題材に取って、山沢晴雄の作風を語っているのだが……。それを読んで、ちょっとだけ違和感を感じた個所がある。それについて、書いておきたい。
(芦辺さんの解説自体には、何の問題もない。まさに、その通りの内容であり、拡げ方も巧みである。私がブラウンの良き読者ではなく、この解説で、このブラウン作品を初めて知り、その違和感を感じた、というに過ぎない。実際、今回の妄言をした上でも、芦辺論には全く影響はない)
「退場」は、要するに、戦争の中で一人の兵士が自らの視点から戦況を語っている――と思わせて、実はそれはチェスの駒のものだった、というものである。戦いが終わるとともに、片づけられる宿命を描いたものだ(作中人物は、本格ミステリを描くための将棋の駒に過ぎない、という山沢晴雄のスタンスを、そのままなぞったようなオチと云えるだろう)。これはこれで、まとまった作品である。
問題は、その訳文にある。
まさに、芦辺さんが引用している個所になるのだが、この作品中では、「王手」に「チェックメイト」とルビがふられているのだ。しかし、普通に考えれば、王手とチェックメイトは全く別なものである。少なくとも、日本人作家が書いた小説で、王手にチェックメイトとルビを振ることはないと思う。
多分、原文は単に“checkmate”とあるだけだろう。そうであれば、全く問題はない。
だが、最初の翻訳者(小西宏氏)が、checkmate≠どう訳すか迷った末に、一般的な将棋用語である「王手」と訳して、しかしそれだけだとまずいかも知れない……とも考え、敢えて「チェックメイト」とルビを振ったのではなかろうか。であるなら、苦労の跡は感じるけれど、誤訳とまではいいにくいにせよ、もともとの意味を考えれば適当なものとはいえまい。あるいは、当時は日本ではチェスがそれほど一般的ではなかったろうから、それほど気にする人がいなかったのかも知れないが……。少なくとも今の目で見るなら、あれ、と思う人は相当数いるような気がする。
(だが、昨年刊行された新訳版――『フレドリック・プラウンSF短編全集』――でも、全く同じ翻訳がされている――。適当な訳が難しいのは分かるから、敢えて同じ訳に揃えたのかも知れないけれど、刊行までに指摘する人はいなかったのだろうか……?)
本来の意味だけで考えれば、「王手」にチェス用語を使ってルビをするなら「チェック(check)」だろう。これなら、意味的にもほぼ同じだ(チェックも王手も、放っておいたら王様を取りますよ、という状況を指している)。一方、チェックメイトは、チェックの一種ではあるが、もう王様に逃れる術はなく、勝利を宣言する手になる。だからこそ、「退場」でも、この言葉のあとで、舞台が傾けられるのだ。だからこそ、その場面で「王手」という単語を使ってしまうと、そのニュアンスが伝わりにくいように思うのだ。
個人的には、「チェックメイト」をそのまま使うか、あるいは、(一般的に使われる言葉ではなく、馴染みにくいとは思うが、)「詰みました」――くらいしかなかった気がする(山沢晴雄の作品世界を描くなら、後者の言葉が相応しいかも知れない)。
まあ、勝った方の勝利宣言ではなく、負けた方の敗北宣言(投了)で勝負が終わる、極めて日本的な将棋に、「退場」作品世界が馴染むのは容易ではなかった、ということかも知れないけれど。
戸田和光