私は、一応ミステリ読みを自称しているが、SFも多少は読んできたつもりだ。それこそ、ショートショートは人並みに星新一から入った人間だし、テレビドラマといえば少年ドラマシリーズで育った年代だから、学生時代までは、少しは意識して読んでいた記憶もある。社会人になって確立してしまった読書サイクル故に、一冊で物語が完結して欲しいという欲求が強くなり、一方でスペースオペラが致命的に肌に合わないことを自覚してしまったために、それ以降の冊数は壊滅的に少なくなったが、それでも、草上仁の短編集の何冊かは面白く読んだし、今でも(本になった)新井素子の小説はたぶん全部読んでいるはずだ。
本稿は、そんなド素人が、ミステリの書誌調べをする中でよく分からなくなっていることを並べておこう――というものである。最近、SF史をまともに読んでいないから、ひょっとすると既に結論が出ていることが多いのかも知れないけれど、とりあえず、これまでに何回か思ったことを書き残しておくことを優先してみた。ご了解いただきたい。。
それこそ、戦前の海野十三や、戦後の香山滋や南沢十七らによるいくつかの作品が、現在の感覚でのSFにあたるのかどうかは知らない。良くも悪くも、“空想”による着想から創られた物語であって、“科学”的な裏付けが十分だったのか分からないからだ。
とはいえ、数こそ少ないのかも知れないが、『鉛の小箱』の丘美丈二郎など、“科学”的なことも考慮した作品・作家もあったように思っている。こういう作家もいた、といった表現を見た覚えはあるけれど、その作品が現在のSFに寄与する部分があったのか等も、個人的に気になっている。――つまりは、《宇宙塵》や《SFマガジン》創刊前のSF志向作品の位置づけが分からない、ということになるのだろう。このベースは、4まで続くことになる。
昭和20年代には、《少年少女譚海》や《探偵王》をはじめとする少年向けの小説雑誌が刊行されていて、それらには様々な作家による空想小説も掲載されていた。ミステリ(冒険小説)仕立てであるが、SF要素を前提にしたものも数多く書かれていた印象がある。
それらの多くは科学的な裏付けに乏しいものではあったろうが、中には、一般向けと同じように、“科学”的なことも考慮した作品・作家もあったのではないか。実際、個人的には、その代表として触れておくべきなのが、『科学と空想』をまとめた岩田賛だと思うのだ。
もちろん、現在の眼では評価に値しない作品群なのかも知れないが、それでも、歴史の一部を埋める役を果たしていた気もするのだ。違うだろうか? ただ、ジュヴナイルだから、という理由であるなら、それはちょっと寂しい気もする。
《宇宙塵》の位置づけがよく分からない。当然、この雑誌が呼び水となって、《SFマガジン》も創刊され、数多くのSF作家がデビューした――という流れは分かるのだが、その出発点である同誌がどのようにして始まったどのようなものなのか、ピンと来ないのだ。
たとえば、星新一や光瀬龍のように、ここが出発点の作家もいる一方で、既に作家デビューしていた作家が何人も参加している。そもそも小隅黎自身が昭和20年代から少年向きを手掛けていたし、宮崎惇や矢野徹なども、昭和三十年前後にはデビューしていた。初期の矢野は、KTSCに参加するなど推理小説寄りの面もあるが、それでも新聞に科学小説を連載していたらしいから、SF作家の側面は最初からあったと思っている。つまり、少なくとも創刊時には、一応作家デビューしていた人たちの方が多かった気がするのだ。ただ、世の中にはSFがあまり浸透しておらず、執筆依頼は殆どなかった(あったとしても、少年向けくらいか?)。だから、裾野を広げ、うまくいけば商業誌へ寄稿する機会が増えるかも知れない、といった目的で創刊したとされた方が納得しやすいし、参加した方もそのつもりだった――可能性はないのだろうか。どうもこの辺りが曖昧な気もする(実際に、商業誌を睨んだ活動ということでは、既成推理作家が始めた“おめがくらぶ/科学小説”の方がこれに近い気もするくらいだし)。
創刊したことがだ最大の功績だ、と言うことを認めた上で、やはりこの辺りの事情は気になるのだ……。
《宇宙塵》の創刊前夜にあたる時期にも、それなりの数のSFは書かれていた印象がある。
その頃の執筆者を見ると、矢野など、当然ながら《宇宙塵》に参加した作家も多いが、参加していないと思われる作家も目につくようだ。新田次郎など、SFに理解はあるがそもそもの志向が違うだろう作家は措いても、先に触れた丘美などもそうだろうし、(参加はしていたようだが、同誌に作品は掲載してなさそうだから、)瀬川昌男も入れておくべきだろう。
そして、その代表的なのが、森田有彦ではないか。一般文芸誌である《大衆文芸》を主舞台としていたせいかもしれないが、SF志向の長短編を書いている割には、その作品に触れている作品を見た覚えがない。作品としても主流ではなかったのかも知れないが、それらにも触れておくことが、その後の本流を特長づけるものになるのではなかろうか。
《SFマガジン》創刊以降、SFの主舞台は、(《宇宙塵》も含めた)専門誌になっていくようだ。当時は、同誌に、佐野洋や河野典生、樹下太郎、生島治郎といった推理小説を主舞台とする作家が書いていたようだが、この傾向は、そもそも昭和20年代に、そもそもが乱歩や大下宇陀児を筆頭に、渡辺啓助や千代有三など、SFに理解のある作家が多くいた流れもあるから、そう不思議ではない。都筑道夫に至っては、どちらが主舞台だったのか、よく分からなくなっているし。
ただ、まだ昭和30年代は、中間小説誌の数は少なかったから、そちらへのSF作家の執筆は、そう多くなかった印象がある。代わりに舞台となりうるのが倶楽部雑誌だと思うのだが、そちらへのSF作家の掲載もそれほどなかった気もする。(名前を見るのは宮崎惇が多いが、これらの雑誌への掲載は時代小説が多かったようなので)
ただ、倶楽部雑誌にSFが載らない訳ではなかった。加納一朗もいくつか書いているが、最も数が多いのは、蒼社廉三(柳瀬廉)かも知れない。最近、珍本全集に数編収められらが、それ以外にも明らかにSFに分類される作品を書いているのだ。つまり、この時期、SF雑誌を読まない層に最も身近なSFは、蒼社のものだったのである。
これらの作品(推理作家によるもの)が、SF界にどう寄与したのか、ちょっと見てみたいのだけれど……。
上節のおまけで、一人正体不明の作家がいる。斎藤哲夫だ。
斎藤は、昭和33年に《宝石》でデビューし、大半の作品を同誌に発表している(他に、新聞への掌編1編と、倶楽部雑誌への掌編連作2編までは確認している)。ただ、明らかに斎藤は推理作家ではなく、明らかに志向からして普通のSF作家なのだ。
まだ《SFマガジン》は発刊していなかったから、《宝石》でデビューしたことに不思議はないが、その後、SF雑誌に進んだ気配がない。それこそ、《宝石》の廃刊に合わせて筆を折ったのではないか、と思わせる活動期間なのである。
アンソロジーには収録されているそうだから、SF界でも語られている作家だとは思うのだが、私自身はあまり見た覚えがない。どうなのだろうか?
昭和40年代のSFは、ジュヴナイルの時代――というのはさすがに私だけの認識ではないかと思うのだが、まずこの前提がどうなのか、実はよく分かっていない。専門誌以外で、(様々な媒体に書かれたショートショートを除けば、)きちんとした小説を書く舞台は、学習雑誌を中心としたジュヴナイルが大半だった、と私は思っているのだが、これはジュヴナイル好き故の偏見はあるかも知れない。
ただ、よくも悪くも、学習雑誌の存在は大きかったと思うのだ。
昭和41年度の《高3コース》に読切掲載された小説のラインナップを見れば笑ってしまう(福島、矢野、眉村、光瀬、筒井、豊田、小松、平井、と続くのだ)し、一方で、昭和42年から45年にかけて《中一時代》に掲載された犯人当てミステリーの執筆者を見ると、微妙に首をかしげたくなる(都筑や鮎川の名前もあるが、一方で、筒井、豊田、光瀬、眉村、といった作家が書いているのだ)。執筆の場を学習雑誌が提供していたのは間違いなかろう。
そんな学習雑誌全盛の中で、この時代のこの媒体でしか見ない名前も散見する。それでも、石津嵐(せき・らん)や佐藤有文といった名前はほかでも時々見るが、三浦清や北村昶あたりになると、他ではあまり見ない。ただ、この時期、いくつもジュヴナイルSFを書いていたのは確かなのである。
ジュヴナイルSFは、(たとえば、北川幸比古や斎藤晴輝のように、)児童文学者も数多く手がけているから、SF界から見ると、評価する必要もないのかも知れない。ただ、そういった作家に触れたものを見た覚えがないので、これらの位置づけも見てみたいと思ってしまうのだ。
《宇宙塵》の成り立ちについては、柴野拓美のインタビューをまとめた『塵も積もれば』が詳しい――という指摘があり、確認する。親本は刊行時に読んだはずだが、当時はまだ書誌的な活動を始めていなかったから、それこそ、SF同人誌の活動記録、といった読み方しかしなかったのは間違いない(繰り返し書いているが、今回の拙稿は、書誌調査を行って来た中で、よく分からなくなったSF史に対する疑問から出発している)。
改めて読んでみて……。半分疑問は解消されたけれど、やはりよく分からなかった、という感じだろうか。やはり、よくも悪くも同人誌の立場から語っていて、一般的な書誌面への言及が殆どなかった気がしたのだ。
柴野自身が、SF同人誌を発行したい、という思いから始まった面が強くて、その際に、何人かに直接声をかけた、と読めるが、それ以前に興味深かったのが、柴野自身が、探偵小説雑誌に載っていたSF系の作品を余り認識していなかった、という部分だったろうか。つまり、その時代のSF状況については熟知していない中で、自分なりにSFというジャンルを大きくしていきたい、と思ったように読めたのだ。海野十三作品は好きではなかった、とあったから、それこそ、それまでの国内SF作品の状況など知らないままだった可能性も感じた。
むしろ、そこに参加した人たちの方は、商業誌への進出も意識していた人が多かった気もする。違うだろうか。
そんな訳で、4.や5.については、柴野がそれほど意識していなかった場合、作家側から参加しなかったら、ここに該当する形となった気がする(参加しなかった理由は人それぞれだろうが)。であるなら、やはりこれらのSF史の中での位置づけは、分らないままだった……。(5’の斎藤については、《宇宙塵》に参加していて、作品も載せていたことを知ったが、そのあとの活動への疑問についてはやはりよくわからなかった)
この本の目的がそうだったから――と言われればそれまでだけれど、先に書いたように、柴野本人が書誌研究とは無縁だし、インタビュアーも関心がなかった印象を受けるから、書誌的な発見は余りなかった気がする。それこそ、《科学画報》に短編を連載した、ということに触れるなら、新田、森田、丘美が半年間ずつ中編を連載した後を受けてのものだったと書いても良かった気がするし、石川英輔の「大地底」の連載は昭和33年一年間だから、《宇宙塵》の創刊後(だから、『火星に咲く花』と一緒に論じるのはちょっと混乱を招く可能性がある)――というのも、読み取りにくかった気もした。
……そんな訳で、当初の文については、何も直さないでおきます。
戸田和光