6.Robert Wunderer氏との対話-アレキサンダーヴンデラーについて
この拙Webページしかも日本語のページが、思いもかけない方の目にとまった、いや検索にかかったらしい。私からすれば、歴史上の人物であり、もはや伝説の領域でしかないアレキサンダー・ヴンデラーのお孫さんであるロベルト・ヴンデラーさんのお孫さんが私のサイトを見つけて、ロベルトさんに伝えて下さった。「博物館」と謳っているにしては、あまりに内容に乏しいのは私も認めるところではあるのだが、電気技術工学修士であるロベルトさんが日本での会議のために東京にいらした際に、私に見せるために「家宝」を持ってきてくれた。それが第3章の「アレキサンダー・ヴンデラー最後のリード」である。
以下忘れかけている所もあるのだが、そのロベルトさんから伺ったアレキサンダー・ヴンデラー関する話を列挙してみることにした。
- アレキサンダー・ヴンデラー(以下AWと略)が亡くなった1955年にロベルトさんは13歳だった。
- ザルツブルグ郊外に引退して住んでいた頃にザルツブルグ音楽祭のためにやって来る人々が、お宅を訪問してくる。その中には確かにハンス・カーメシュとか誰それとかいう名前があったが、当時ロベルトは彼らがどんな音楽家であるかを知る年齢にはなかった。
- 第二次大戦の前からユダヤ系音楽仲間の立場を理解擁護し、ナチに反対してアメリカに移り住んだ。そこではオーボエではなくて、むしろ合唱を教えた。
- ヘルベルト・フォン・カラヤンに確かに指揮法を教え、旅先のカラヤンからAW宛の絵はがきが来ていた。
- リヒャルト・シュトラウスと大変に懇意にしていた。彼の作品で技術的に大変難しい箇所があって、それがどれだかわからないのだが、AWがシュトラウスに質問すると、「そこはあなたができるように吹いてくれれば良い」という旨であったとか。しかし、私が思うところだが、AWに技術的困難などあろうはずがなく、シュトラウスに言いたかったのは、おそらくは「なんでそんなパッセージにする必要があるのか」「私は演奏できるが、後輩達がこれを将来できるようになるか不安だ」とかいう意味ではないだろうか。
- 「日本人のあなたがなぜAWのことをWebに出しているのか」との問いに対して、以下の答え:
- 自分のために作ったハダモフスキー・オーボエ教則本の前書きにAWが出てくること、
- 「木管楽器とその歴史」にもオーソリティとして出てくること、
- 東京芸術大学の小畑先生が20世紀始めのウィーンの作品の重要性を認識していて、その割に作品が見つからないところであり、作曲家としてのAWの作品を探している。
- ロベルトさんの自宅に、大きな箱があり、AWの遺物が入っていて、確か、「オーボエソナタ」があった。それをハダモフスキーの息子が、ロベルトさんらの前で演奏してくれたことがある。この件はさっそく小畑先生にお伝えした。
- その箱にいろんなものがあったと思うが、楽器はない。ウィーンフィルの誰かが展示会か何かのために借りに来てそのままになってしまい、今は問い合わせることもできない。