日蓮は千葉県の生んだ英雄ではないのか。


谷 州展


私は高知県出身です。郷土の生んだ英雄は誰だと尋ねられれば、迷うことなく明治維新の立役者「坂本龍馬」と答えます。ずっと以前にNHKの大河ドラマ「竜馬がゆく」の原作となった同名の司馬遼太郎の小説。
ここに描かれている龍馬がいいですね。天衣無縫な明るさ。行動力。今もこの英雄を土佐人は愛しつづけています。


私は縁あってこの千葉県に10年ほど前に来ました。千葉県の生んだ英雄。長嶋茂雄という人はいても、不思議と「日蓮」と答える人は少なかったように思います。「日蓮」に関しては千葉県民は意外と冷淡、というのが私のもった印象でした。

私なりに判断して、これはどうも日蓮が宗教家であることに関係があるように思えてなりません。宗教も一つの思想である以上、当然のことながら人々にその思想に対しての賛同・不同意の価値判断を求めることになります。

つまり、彼の考え方である法華経という宗教のみで、つまりもっと正確に言うと、彼の思想の表見のみ(日蓮宗という宗教が好きか嫌いか。もっと単純にいえば、宗教が好きか嫌いか。)で判断するような環境の中で千葉県民は日蓮を見てきたのではないか。これが私の考えです。


私は彼の思想である法華経に賛同するもなにも、法華経自体を勉強していませんので答えようがありませんが、私が日蓮に興味を引かれるのはその行動力です。自ら正しいと信じた道をひたすら突き進んだ彼の行き方そのものです。
失礼ながら、当時の片田舎であるさびれた一地方の果てに、このような人物が現れたのはまさに奇跡といっていいかもしれません。


人間の価値は、単にどういうことを言ったか、いかなる行動をとったかというだけで判断するのは不十分で、いかなる社会的状況の下でそのような言動をしたのかという時代背景を考慮することによって、その人間の価値・偉大さが決まるものだと思います。

日蓮の生きた鎌倉時代、今のように言いたいことが言えるような時代でないことは容易に想像がつくと思います。このような時代背景の下で、己の信ずるところに従いなんらの妥協もすることなく他宗を徹底的に批判、太平の世の実現を目指し自らの信ずる道を貫き通した生き様は大いに学ぶべきものがあると私は思っています。
千葉県人にもこのようなエネルギ-を持った生き方をした人間がいたということは大いに自慢していいことじゃないのかな。

考えてみたら、日蓮という自らの名前を宗派の名前にしているのは日蓮だけである。

「逆説の日本史」の著者
井沢元彦氏によれば、法華経を絶対の真理として信じ、仏教の末法の世の後釈迦から命じられた真の仏法を広めるために出現する救世主「上行菩薩」の生まれ変わりは日蓮自身に他ならず、日蓮の法華経に対する解釈をすべて正しいと信じる宗派、それが「日蓮」宗と説明している(逆説の日本史6より)。

そして、井沢氏によれば、日蓮の原動力となった確信たる論理は、「法華経は絶対に正しい→ゆえに他宗を非難する→非難するから迫害を受ける→法華経にはこの経を広める者は法難(迫害)を受けると書いてある→だから法華経は絶対に正しい(最初に戻る)」(同逆説の日本史6より)にあったとされる。

現代日本人の人間としての質の低下、それは宗教心というものを失ったからだと考える人もいますが、そういえば、「銀河鉄道の夜」の宮澤賢治も法華経を信ずる行者の一人でしたね。
彼のあの優しさに満ち溢れる美しい文学的表現はたんに才能という問題ではなく、なんの打算もなく本当に宇宙全体の幸福を願うという彼の腹の底から湧き出た言葉だからということは、俗物のこの私にもなんとなく分かるような気がします。

ところで、日蓮の生まれたところはどこでしょうか。ほとんどの人は、「小湊」(現在の天津小湊町小湊)と答えるでしょうね。私もある本に出会うまでは信じて疑いの余地もありませんでした。

手元にある地元出版会社「うらべ書房」刊・「ロマンと不思議の里南房総」(戸田七郎著)を開いてみると、次のように書かれている。「貞応元年(1222)2月16日、大本山小湊山誕生寺の建ったあたり、安房国東条郷片海・小湊でお生まれになり、善日麿と名付けられました。」(66頁)。

また、筑摩書房刊・日本の思想(第4巻)「日蓮集」も、当然のように「安房小湊に生まれる(2月16日)」との記載がある。
そして、大学受験参考書である前東京大学教授・笠原一男著「詳説・日本史研究」(山川出版社)も「日蓮(1222〜82)は安房の小湊に生まれ」と記載、さらにまた、日本語辞典の代表格的存在である広辞苑も「安房小湊の人」と説明している。以上のように、日蓮「小湊」誕生説は既定の事実となっている。

ある本とは、袖ヶ浦図書館で偶然手にした
「日蓮伝承考」(新人物往来社刊・鈴木正知著)である。
鈴木氏は、次のように述べている。「誕生地についていえば、日蓮自身その遺文の中で自分の生まれたところは安房国長狭の郡東条郷の片海であると明言し、小湊で生まれたとは一言半句も語っていない。そして一方他の遺文の中で故郷の地名を片海・市川・小湊と列挙しているのであって、これでは片海誕生説はあり得ても小湊誕生説は成立しないことになる。」

そして鈴木氏は、日蓮自らが「安房国東条片海の石中の賤民が子である。」(『善無畏三蔵抄』)と述べた日蓮誕生地「片海の石中(いそなか)」とは、現在の「石ノ上」(いしのうえ)と結論づける。
その理由として、石の字は磯(いそ)の字の借字であり,「上」は「上つ国」(なかつくに)と読んだ古文書の使用例の存在をあげている。

また、現存する古文書小湊の誕生寺にあてた市川・片海両村連盟の侘証文からも、小湊・市川・片海はそれぞれ別個の地域であったことが裏付けられるとする。
詳細は省くが、その考証は論理的で緻密であり十分に説得力を持つものであるといえる。

余談であるが、数年前私は千葉県柏市に住んでおられる鈴木氏に会いに行ったことがある。すでに日蓮研究に対する情熱は冷めておられたが、高齢(大正2年生まれ)にもかかわらず、さらなる次のテ-マに取り組んでいると語られていた。衰えを知らないそのエネルギ-には驚くばかりである。

鈴木氏のこの本は、昭和59年11月20日に初版発行され、出生地以外にもいまも地元に伝わっている
「ヒカケ」「ゴチ」「トクリ谷」の呼称の由来につていて独自の説を展開している。

まず、「ヒカケ」という特称について「ヒカケに、遺文にいう日蓮出生に因む漢字を当てはめると『日荷家』となる。つまり荷とは連のことであるから、それは『日蓮家』ということである。蓮をそのまま用いて直接日蓮家と呼ばなかったのは、特称の命名者が露骨な呼び方を避けたからであろう。」と説明して、
「ゴチ」については、ゴチとは「御乳」であるとし、「御」は貴婦人の敬語、「乳」は母を指すことばと解釈、当時、まだ母系制度の残滓が濃厚であったことから、特称「ゴチ」は「日蓮の両親の家」の意味であるとして、
ヒカケが日蓮家、ゴチが日蓮の両親の家と結論づけている(上掲日蓮伝承考90〜91頁).。

また、いまも現地に実在する「鰻谷」(うなぎやつ)という小川につけられている特称「トクリ谷」について、トクリとは「董里」であって、董は蓮の根の部分をいうから日蓮の出た処を意味すると結論づけている(同90頁)。

また、だれもが信じて疑わない誕生寺は日蓮の生まれた場所に建てられたものであるという通説を否定して、「誕生寺」は日蓮が母の病気回復を祈念するために建てた道場の発展したものであり、日蓮の誕生地を記念して建てられたものではない(同31〜32頁)等、日蓮に関する多くの独創的研究成果を発表しているにもかかわらず、日蓮研究者からはなぜか無視されつづけている。

今日の新興教団の多くは、日蓮宗をその根本教義としているが、日蓮の誕生地については、私の知るかぎりきわめて冷淡である。
鈴木氏はいう。「門下といい信者というも、祖師の誕生地も立宗地も知らず、架空遺跡に合掌して何の信仰ぞ、日蓮地下に泣く」。

先に紹介した戸田七郎氏の日蓮誕生地に関する記述「片海・小湊」とは、片海こと小湊の意味なのであろうか。理解に苦しむところである。
戸田氏が平成11年9月1日初版発行のこの本を書くにあたって参照したとされる「参考書一覧」の中にもまた、鈴木氏の「日蓮伝承考」の名は見当たらない。(平成16年2月27日)


追記
天津小湊町役場に問い合わせたところ、鈴木氏が日蓮出生地と推定する「石ノ上」(いしのうえ)は、現在天津小湊町内浦の一部となっており普段この地名を使うことはないが、小字として現在も地名は残っており、土地評価をする際には、この地名を使うとの説明を受けた。

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