民法709条の「過失」と722条2項の「過失]はどこが違うの?


民法709条
 
「故意又は
過失に因りて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず」


民法722条2項
「被害者に
過失ありたるときは裁判所は損害賠償の額を定むるに付き之を斟酌することを得」



花子
:前々からいつも疑問に思っていたのですが、同一法律の中で規定されている同じ文言の意味内容の解釈は同じでなければ戸惑うばかりです。民法に規定されているこの「過失」という言葉の解釈なんか典型的なものです。
同じ民法の中の規定でありながら条文によって過失の内容の意味が違うと聞きました。そのへんがどうも理解できないのですが…。 

太郎
:もっともな疑問だと思うね。法が道徳・宗教などの他の社会的規範と大きく違うところは、国家を背景とした強制力をもってしてでも守らせようとするところにあるのだから、同じ法律の中で条文によってその意味内容が違うというのは確かにおかしいよね。

まず、このような場合を考えてみてください。花子さんが交通被害事故の当事者となったとします。示談交渉の結果を担当代理店から、次のような過失割合になったとの報告を受けたとしましょうか。
@Aのケ-スは、90(相手方):10(花子)。 ABのケ-スは、90(相手側):0(花子)。

結論から言うと、Aの示談案を花子さんが了解したということになれば、花子さんは相手に発生した損害のうち1割の不法行為としての過失責任分を支払うことを認めたと同時に、花子さんに支払われる花子さんが受けた損害額の10%を差し引かれるということをも認めたということになるのです。

また、Bの示談案を認めたとすれば、花子さんは、相手に対する自己の不法行為としての「過失]責任は認めなかったけれど、相手が花子さんに支払わなければならない花子さんに生じた全損害のうち1割分の損害発生「過失」責任分は減額して相手が支払うということを認めたということになるのです。

花子
:はぁ…?

太郎
:ところで、花子さんが述べた、同一法律内の用語の意味内容は同一のものでなければおかしいのではないか、という素朴な疑問。この疑問は至極当然であって、実はかつての通説・判例は花子さんのおっしゃるとおり、722条2項にいう「過失」は709条の「過失」と同じ意味であるとしていたんですね。

でもこう解釈すると、どうしても不都合が生じてくるんですね。

というのは、709条にいう「過失」とは、自らの不注意な行為によって相手に損害を与えたときに賠償義務が発生するという規定でしたから、当然としてその前提に、他人に損害を与えるような不注意な行為をしないように行動することのできる能力が必要ということになります。
そのような選択行動能力のない者には、そもそも「過失行為」そのものが存在しないわけで、損害が発生したからといって責任を負わせるわけにはいかないんですね。

自らの行為によって相手に損害を与えないようにするためにはどのようなことを注意しなければならないか、ということを事前に考えて行動することのできる能力が行為時に行為者に備わっていて、はじめて過失責任を問えるというわけです。

このような能力のない未成年者や心神喪失状態の者が相手に損害を与えても、社会的非難はできず責任追及はできないというわけです。

たとえば、あなたが友達と一緒に昼寝している間に友達の顔面を足で蹴飛ばし友達が大怪我をしたとしましょうか。あなたはまったく覚えておらず、友達に怪我を負わせない行為を選択できる可能性がまったくなかったにもかかわらず、ただ怪我を負わせたという事実だけで治療費等の損害賠償を法的に請求されたとすれば、やはりこれはおかしいということになります。一緒に寝て安心して目をつぶることのできるのは家族だけということになりますからね。

ちなみに、学者はこの能力のことを「責任能力」と呼び、民法は712条・713条でこの責任能力のない者の権利侵害行為は損害賠償責任を負わないと規定しています。 

そうしますと、722条2項の「過失」も、責任能力のある者の過失行為でなければならないということになりますから、裁判官は、損害を受けた被害者にこの責任能力がなければ、発生した損害のすべてを加害者に負担させなければならないことになるわけです。

そこで裁判官は考えたんですね。実際の事案においては、発生した損害原因について被害者側が何らかの関与をした、何らかの影響を与えたという場合も大いにありえる。
にもかかわらず、被害者に責任能力がないというだけで発生した損害の全責任を加害者に負担させていいものであろうか。

そこで、条文を次のように解釈したわけです。
722条の「過失」相殺規定は、加害者が賠償すべき損害額を認定するに当たって、発生した損害をその関与した加害者と被害者とが責任の度合いに応じて公平に分配すべきだという考えからできた規定だ。

だとするならば、加害者として不法行為責任を負担しなければならない場合に要求される709条の責任追及の「過失」と同じに解釈する必要はないはずだ。発生した損害を関与度合いに応じて加害者と被害者とが分配するという見地からの損害配分としての「過失」ということを考えてもいいはずだ。

だったら、損害発生につき何らかの影響を与えた被害者の不注意が認定されれば「過失」ありとして、裁判官の自由裁量で加害者の支払うべき賠償額を過失相殺(つまり、被害者の過失分何割を差っ引く)して減額できるようにしようとしたわけです。 
この考えが現在の通説・判例(最判・昭39)の立場です。

この見解に従えば、被害者に、損害の発生を避けるのに必要な注意をする能力があれば足りることになるから、下級審判例の中には4歳の子供にもこの能力あるとして過失相殺を肯定したものもあります。

さらに、現在の最高裁の考え方は、被害者にこの損害発生回避注意能力がなくても、一緒にいた母親などの監督義務者に過失があれば、この過失も722条の過失に含まれるとして「被害者側」の過失も認めるところまできています。(最判・昭34)(参考文献:自由国民社刊・千字式合格論文民法編)

花子
:なるほど。よく理解できました。

太郎
:花子さんの代理店が報告した「90:10」・「90:0」の意味理解できましたか。
注意しなければならないのは、
自動車保険実務で「90:10」で示談成立といったときは、過失相殺率(722条の過失相殺としての過失責任の割合)と過失割合率(709条の不法行為責任としての過失責任の割合)の二つのことを同時に意味しているということです。

最初に述べたように、花子さんの過失が10%ということは、花子さんの受けた損害の10%は相手が支払う賠償額から差っぴかれるということを意味すると同時に、花子さんは相手に対して10%の不法行為責任分を支払わなければならないということをも意味しているのです。

このへんのことをきちんと整理して理解している実務担当者は意外と少ないんですね。それは、不法行為としての「過失」と過失相殺としての「過失」との区別をよく理解していないからです。

言葉で言うと単純明快なようですが、交通事故のようにお互いが加害者・被害者の関係にあるときは、非常に複雑な問題が生じますね。いま説明したようなことを明快に解説をした本は私の知る限り見当たりません。

しかし、いかなる場合であろうと、相手に対して損害賠償をするということは709条の不法行為としての過失があったということです。

花子
:よく分かりました。たとえ10%でもこちらの過失を認めるということは、相手の損害に対して、こちら側の不法行為責任を認めたことになるんですね。つまり事故回避は不可能ではなかった。「信頼の原則」は適用できない事故であったということを認めたということなんですね。

太郎
:そういうことですね。90:0の重みはここにあるんです。不法行為としての過失は認めないということですから。

花子
:本日はありがとうございました。(平成16.2.22 )



◆追記
(平成16・10・22)

722条2項「過失相殺」についての説明は、内田貴・東京大学法学部教授「民法U」(東京大学出版会)が、わかりやすくて説得力があり、きわめて秀逸ですね。

まず、損害発生につき被害者側にも責められる点がある場合には、加害者が被害者に賠償しなければならない賠償額を、被害者の負うべき責めの程度に応じて減額しようとするのが、722条2項の趣旨でありこれを過失相殺(そうさい)という、と他書と変わらない一般的な説明をした後で、

そもそも、
「人が過失行為により責任を問われるのは、あくまで過失のない行為を選択する能力がある」からだとして、この「過失のない行為を選択する能力」を「責任能力」だと明確に説明した上で、「過失相殺を行うにも、被害者に責任能力が必要なのだろうか」と問いかけるところから始めています。

そして、たまたま道路から飛び出してきた被害者が、責任能力者であったか否かによって、加害者の支払うべき賠償額が左右されるのは適当ではないとして、最高裁の、責任能力よりも低い「道理を弁(わきま)える能力」<事理弁識能力>があれば過失相殺ができるとする結論を肯定し、

さらには、たとえば被害者が3歳児等で、この「事理弁識能力」がなかったとしても、「被害者と身分上ないしは生活関係上一体をなすとみられるような関係にある者(父母等)」に過失が認められれば、「被害者側の過失」として過失相殺可能であるとする最高裁の達した結論をも肯定している。

しかし、最高裁の、幼時の通う幼稚園の保母は、「被害者と一体をなすとみとめられない者」との判断は、事故の加害者からみたとき、同じ態様で幼児が飛び出してきたのに、そばにいたのが親か保母かで賠償額に差が出てくるのはおかしくはないか、と疑問を呈した上で、

「最高裁が過失相殺の要件から責任能力を外した時点で、実は判例は、被害者の過失ではなく行為態様を賠償額の判断において斟酌するという方向に踏み出していたというべきであろう」として、
「そうだとすれば、過失にとらわれることなく、被害者の行為態様だけを問題にして過失相殺するのが一貫している。」と独自の理論を展開している。

つまり、内田教授の見解に従えば、722条2項に規定する、過失相殺が可能となる「過失」に該当するかどうかは、過失相殺の対象となりうるような被害者の「行為態様」が存在したかどうかによって判断されることになる。

そうだとすると、発生した損害を被害者に分配する余地があるかどうかという判断が、被害者の客観的な行為によって可能となり、過失相殺適用がより明確・透明性を増すことになる。

判例によると、この722条2項の規定により、過失相殺をするか、どの程度の割合で過失相殺をするかということは、裁判官の自由裁量によるとされており(最判34)、また、いちいち過失相殺をした根拠を明らかにする必要もないとされていることを考えたとき、

被害者側の非難に値する具体的「行為態様」を明示することによって過失相殺がなされるとするならば、訴訟当事者に、程度の差はあるにしてもある一定の納得感を与えることが可能となる。
このことを考えたとき、内田学説は他書にはみられないよりすぐれた理論として評価しえるのではないか。私はそう考えるのです。(内田民法U403頁〜406頁引用・参照)

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