その7.太宰治「カチカチ山」
この短編は、たぬきに婆を殺された爺のためにうさぎが復讐をしたという内容のむかしばなし「かちかち山」に題材をとった太宰のオリジナル作品です。
うさぎを「16歳のいまだ色気のない美人処女うさぎ」、一方のたぬきを「もてない中高年のせこい愚鈍なたぬき」と想定した際立って対照的な二人の掛け合い。うさぎの人物?設定を考えれば、純情で心の優しいうさぎと思わず連想しがちなのですが、太宰はさらに鋭く分析し、この種の美人処女を「人間のうちでもっとも残酷なたちの女性」として描いたのです。
そして年甲斐もなくうさぎに惚れたたぬき。これに対する冷酷非情なうさぎの、愚鈍な人のいい狸に対する容赦のない仕打ちという物語に仕上げたのです。
にもかかわらず読んでいくうちに思わず笑いこけてしまうこと請け合いですが、私が何よりも感心したのは、太宰のこの着想のすばらしさです。
「模に秀でているが創造性に乏しい」日本人。よく言われる言葉ですが、この「カチカチ山」。学校の教科書あたりに採用したら、つまらない国語の授業、もっと面白くなるのではないのかな。
小生、学校を離れてだいぶいやかなり時間がたちましたが、今思うとつまらん授業が多かったように思います。英語の「education」(教育)、ラテン語の語源では「能力を引き出すこと」らしいですね。今の学校教育、この事をどう実践しているのでしょうか。
今教育現場に欠けている最大のものは、創造性豊かな個性あふれる熱血教師の不存在。生徒に単なる知識を教える労働者たる教師よりも、創造性の重要性を自然に分け与えてくれる教師の存在。子を持つ親だったら文句なしにこちらの教師を選ぶな。
これは私の持論なのですが、全国的にいや世界的に見ればすばらしい個性的生き方をしている人材が多数いるはずです。年齢制限なしの途中採用の実施による人材確保。魅力あふれる教師がきっと出現するに違いありません。
また、いつになったら、いまや世界共通語ともいえる「英語」を学問として捉える発想から脱却できるのかな。アジア諸国の中でも、日本人の英会話能力は最低レベルとか。
さもありなんです。この言葉知っていますか。「MEGAFEPS」(メガフィップス)。目的語に動名詞をとりto不定詞をとることのできない動詞の頭文字です(mind・enjoy・give…)。
これは受験勉強のための英語で今でも覚えています。今もって学校の英語教育は英文解釈が主の学問としての英語で、実務としての英会話は従たる地位に甘んじています。
こんなものより「早く飯が食いたい」。この英語をしゃべれるほうが社会に出てどんなに役に立つことか。まいどそう思います。英語をしゃべるのに理屈はいらないんです。
当たり前の話ですが、アメリカでは、英文法を知らない人でも英語をしゃべっているのですから。
泳ぎを覚えるのに、田舎の子供は自然の環境の中で遊びとして覚えていきますが、都会の子供はスイミングクラブという有料の施設の中で対価を支払った授業として覚えていきます。
英会話もしかりです。義務教育の中に外国籍をもつ公務員の存在を認めない役人の発想は大局を見ていない視野の狭いものでしかありません。小学1年生の時から、学級担任に外国人がいたっていいではないですか。
外人のおっちゃん先生・おばちゃん先生。この感覚を幼い頃から日常生活の中で自然に持たせることの重要性。もっと深く認識してもいいのではないのかな。
そもそも言葉は相手の表情を見ながら自然に覚えていくもの。ほめてくれているのか怒っているのかは、言葉の意味はわからなくても表情をみればわかるのですから。国際色豊かな義務教育。いつになったら実現するのでしょうか。
東大出身の官僚役人にこの国を任せておいていいのか。
これ以上大きな声を出すのは止めておきます。「東京の大学」は出ましたが、「東京大学」を出なかった者のしょせん「遠吠え」にすぎないでしょうから…。
(平成16年2月20日)