山形マット死事件



2005年9月7日東京新聞朝刊に、つぎのようなタイトル記事が掲載されていました。

山形マット死事件・「元生徒7人が関与」確定・損賠訴訟上告棄却・自白認定の2審支持

各社の新聞報道によれば、この事件の経緯は,あらましつぎのとおりです。

この事件は、1993年(平成5年)1月13日夜、山形県新庄市の明倫中学校体育館で発生しました。
当時、中学1年生だった児玉有平君(13歳)が、体育館の用具室に巻いた状態で立てられてあったマットの中で頭を逆さにされた状態で死亡しているのが見つかったのです。

警察の捜査の結果、7人の少年が監禁致死などの疑いで逮捕・補導されました。
7人は、捜査段階では非行事実を認めるも、その後全員が否認に転じたために、物証が乏しいなか、決め手となる、取調べ段階で少年達が自白をした供述内容の信用性が最大の争点となる事案へと進展していったわけです。

まず、成人の刑事裁判にあたる山形家裁で行われた少年審判では、犯行当時14歳の3人が事実上の「無罪」である不処分、当時13歳の3人が事実上の「有罪」である保護処分として初等少年院送致、当時12歳の一人が児童福祉司の指導に付する行政処分となりました。

そして、保護処分決定を受けた3人が、これを不服として仙台高裁に抗告したところ、高裁は、7人全員の事件への関与を指摘した上で、少年3人の抗告を棄却し、さらに再抗告(最高裁)も棄却されたことから、話はややこしくなっていったわけです。

そこで遺族は、真相解明を求めるために、約1億9千万円を請求する民事訴訟を平成7年に起こしました。
ここまでが、第一段階までの経緯です。

第二段階は、第一審である山形地裁判決から始まります。同地裁は、2002年(平成14年)3月、つぎのように判示して、全員のアリバイを認め、「無罪」判決を言い渡したのです。

「元生徒らは保護者等の立ち会いが排除された状態で、長時間で過酷な取り調べを受けていた。自白を裏付ける客観的証拠や秘密の暴露がない」。

これに対して、2004年(平成16年)5月、控訴審である仙台高裁は、以下のように判示して、7人全員の関与を認める「有罪」判決を出したのです。

「自らマットの空洞に入った可能性は低く、むしろ複数の者が暴力を振るって入れた可能性が高い。元生徒らのアリバイを裏付ける証拠はなく、自白 は信用できる」。

これを不服とした元生徒側が、「任意性のない自白を採用している」として上告した結果が、今回の決定であり、最高裁第三小法廷は、実質的な審理をすることなく「適法な上告理由に該当しない」として、元生徒らの上告を棄却する決定を下し「有罪」が確定したというわけです。

まさに、真実は闇の中。本当の事実を知っているのは、事件に関与したとされている、7人の元少年達です。事件からすでに12年が経過しています。いま元少年達は社会の中でどのような生活をしているのでしょうか。全員が成人となり、自らの責任においてものを語ることができる立場にある今現在において、

せめて一人だけでも、そう、せめて一人だけでもです。事件の真相を語る者がでてこないのか、でてきて欲しいと切に願うものです。
事件の真相を語ることすらもできず若くして亡くなった有平君に対する人間としてのせめてもの義務ではないのか。私には、そう思われてなりません。

無罪=必ずしも無実(事実なし)ではないように、有罪=必ずしも有実(事実あり)でないことは勿論のことですが、最高裁に上告してまで、無罪を主張した以上、元少年達には、そのいずれであれ、自らの知るところを語る人間としての責任があるのではないのか。それが何よりも有平君に対する供養となるはずです。
その本質は、お金で片がつく問題ではないのですから。

私も、子を持つ父親の立場です。東京新聞に掲載されていた有平君の父親である児玉昭平氏の談話には、無念な死を遂げた最愛のわが子に対する深い愛情がひしひしと伝わってきて、思わず胸のなかに熱いものがこみ上げてきました。


「信じていたことが真実だと証明された。一番有平のために良かったことは山形地裁の事件すら無かったことのような判断が否定されたこと、自分からマットに落ちたような愚かしい少年であったことの全面否定です。有平の名誉は回復されたと思います。」

                             (平成17年9月7日)


追記

真実はどうであれ、有平君が、学校の管理施設である体育館で死亡したことはまぎれのない事実です。
このことを考えたとき、山形県新庄市及び学校側の管理責任なしとした最高裁の決定は、私はおかしいと思います。

高度の管理責任があり、また以前から一部の生徒間でマット遊びが行われていたことから考えて、予測困難であったとの理由は正当性がないと考えるからです。

また、この7人の元生徒達を支援する「山形県明倫中事件・無実の少年たちを支援する会」が結成されていたとのことですが、有罪と確定したいま、「山形県明倫中事件・冤罪をはらす会」へと進展させ、その活動を続けていくつもりなのでしょうか。

よく聞かれる言葉ですね…。
生きている人間の人権は守れても、死んだ人間には守られるべき人権はないのだから。結局は、死んだ者が一番損なんだよ。なんとも悲しいやりきれない言葉です。

ことの真実を明らかにする物理的装置は存在しません。
結局のところ、人間のもつ良心に訴えかける以外に方途はないわけです。
ただ、合掌あるのみです。

 形マツト死訴訟 
   続・山形マット死訴訟