はじめに

私が現役の警察官だった当時いつも思っていた素朴な疑問は、つぎのようなものでした。
「自らの人権制限について学んでいない警察官に、はたして国民の基本的人権を尊重擁護することができるのか」。

これから、この疑問にもとづき、昭和56年(1981年)にしたためていたものに若干の加筆・修正を加えながらある程度の時間をかけ、ずいじ公開していきたいと思います。もちろんこの小論文は未発表のもので、今回初公開ということになります。

ちなみに、平成2年、国立図書館に対して、「警察官と労働基本権に関する論文」について問い合わせをしたところ、以下の回答がかえってきました。

「平成2年10月17日付受理の標記の件について、下記のとおり回答いたします。
当館の蔵書を調査しましたが、
『警察官と労働基本権(特に団結権)』に関してのまとまった文献は判明しませんでした。この件については、警察官を公務員の範囲にまで拡大し、公務員と労働基本権(団結権)という観点から調査し、抽出した方がよいかと思われます。ただし、これらの作業は、当館のレファレンス業務(筆者注:照会業務?)の範囲を超えるものですので、ご自身で行っていただきたいと思います。その際の手がかりとなる主な目録を下掲にご紹介します。(以下省略)」。

以上のように、少なくとも、平成2年の段階においては、「警察官と労働基本権」の問題について正面から取り組み論じた文献はないということでした。そういう意味においては、このつたない小論文の公開は、少しの価値が見出されるのではないかとひそかに自負しているところです。




論題:「警察官と労働基本権‐特に狭義の団結権を中心として」

1.序論

今回、警察官と労働三権を意味する労働基本権という研究テ-マを設定し、いくつかの参考資料をあたっていく過程において気づいたことは、意外ともいうべきことに、右テ-マに関して本格的に取り組んだ研究論文は皆無に等しく、しかも、警察官に労働三権、特にその中でもその基本的権利ともいうべき狭義の団結権さえをも与えていないという事実が、国民の自由と権利を担うべき個々の警察官の人権意識形成過程にいかようにかかわりあっているのか、またそのことが、国民の基本的人権にいかような影響力を与えているのか、という右テ-マと警察官の人権意識、及び国民の自由と権利との相互関連性について多角的視点から論じた文献は、私の知る限り存在しなかったという事実である。(注1)
私は、まさしくこの点において、このテ-マの研究価値を認めようとするものではあるが、何よりも私自身、現職の警察官として組織における自己の存在位置を認識するうえからも避けることのできない重要な問題なのであって、またそのことが、私の国民に対する義務でもあろうと信ずるからにほかならない。

(注1)
広中俊雄教授は、昭和44年8月22日「きょうの問題」という東北放送のラジオ番組で、「警察官の団結権」というテ-マで話しておられるが、その中で、「警察官が基本的人権の一つであるところの団結権を奪われているということ自体が、社会的にどういう意味を持っているのかということであります。基本的人権を保障されていることを自ら身をもって知ることがない、そういう警察官が、はたして基本的人権のほんとうの重要性というものを自覚できるのだろうかということ、これは懸念されて然るべき問題であります。基本的人権の保護に徹した警察、これこそが民主警察ということになるのでありますが、こういう民主警察を作るためには、警察官自身の基本的人権を保護する、尊重するということが大切なのではないか。団結権だけでも認めるということが真の民主警察への重要な一歩になるのではないか。」(広中俊雄「市民と法と警察と」13頁)
と述べ、警察官の基本的人権に関する問題が、警察官個人の問題ではなく、民主警察と関連する重要不可欠の問題であることを指摘している。


2.公務員の労働基本権制限の論理的根拠をめぐっての検討
地方公務員法(以下「地公法」と略す)第52条第5項は次のように規定して、警察官が団結することを禁じている。「警察職員及び消防職員は、職員の勤務条件の維持改善を図ることを目的とし、かつ、地方公共団体の当局と交渉する団体を結成し、又はこれに加入してはならない」(ただし、本項に違反した場合の罰則規定はない)

この規定が、憲法第28条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」という規定に抵触して違憲の疑いがあるとするのは、すでに学界の常識的見解
(注2)であるにもかかわらず、厳として右地公法の規定が存在するのは、いうまでもなく、現在までにおいて、右地公法の合憲性の在否について裁判所の判断を仰いでいないことを意味するが、このことはまた、当然のことながら、少なくとも右地公法第52条5項の規定に違反して分限(職員の身分の喪失及び身分上の変動)(警察時報社刊、警察小辞典より)・懲戒処分(公務員の義務違反に対して国又は地方公共団体がその使用者として有する権力に基づき公務員関係における秩序を維持する目的をもって公務員に科する処罰)(同上)を受けた警察職員が、その身分的回復を裁判所に求めた事実がないことをもまた意味している。

(注2)@
浦田賢治早稲田大学助教授
「現在、警察職員…(筆者中略)がこの権利(団結権「筆者注」)までも否認されている(国公108の2X・地公52X)のは、正当な理由によるものかどうか疑問であり、
違憲の疑いがある。」(基本法コンメンタ-ル憲法110頁)

(注2)A
本多淳亮大阪市立大学教授
「今日、警察職員…(筆者中略)は、労働組合を結成したりこれに加入したりすることが禁止されている。その合理的根拠はいったいどこにあるのか。これらの公務員も、その社会的、経済的地位は労働者であることにかわりがないから、本来ならば原則として労働基本権が保障されなければならない。ただ、争議権については、一定の制約をうけることもやむをえないと判断される職務があるが、
団結権についてはまったく合理性が認められないのである。」(労働法の基礎「入門編」12頁)

(注2)B
清水睦中央大学教授
「本来、公務員の職務の性質に照らし、労働権の保障の範囲を決めることは妥当であるが、…(筆者中略)形式的に公務員の労働関係をとらえるのは疑問であり、労働者の生存権を国民も政府も無視することはできないということである(このように考えることは、決して国民主権『全体の奉仕者』たることに矛盾しない)。
公務員に保障される労働権のいかなる態様が、国民生活に、具体的に重大な危険をおよぼすものかが次に考えられなければならぬ。かかる発想に基づけば、たとえば、
警察官に団結権を認めないことは妥当性に乏しいように思われる。」(南雲堂深山社刊・「憲法」323頁)

(注2)C
警察時報社刊・「注解法学集<上>」142頁
「団結権を保障するとは、個々の『勤労者』に永続的または一時的な団結の結成・加入・共同行動の自由を保障することである。
現在、警察職員・海上保安庁職員・監獄勤務者・消防職員がこの権利までも否認されている(国公108の2X、地公52X)のは、正当な理由によるものかどうか疑問である。」


まず、公務員に憲法28条が保障する労働基本権が制限されている論理的理由としていかなる理論構成がなされてきたのかを、簡単に検討しておくことにする(参照文献、古西信夫「公務員の組合」新労働法講座2・112頁以下)。

@憲法28条の「勤労者」に公務員は含まれないとする説
かつては、公務員の労働者性について、「憲法第28条によって直接に保護せられる勤労者は、私企業における勤労者であって、『全体の奉仕者』として国又は地方公共団体と特別の関係に立つ公務員及びこれに準ずる者を当然に含むものではない」(清宮四郎「憲法要論」109頁)とする見解があったが、一般の公務員が、「賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」(労働法第3条)であり、「憲法第28条にいう『勤労者』であることは疑問の余地がない」(清水睦「憲法」317頁)のであって、「公務員も対価を得て労働を提供するものという意味において労働者であり、第28条にいう『勤労者』に含まれ、従って同条の定める勤労者の権利を有する。公務員は『全体の奉仕者』であるということを理由に公務員の労働者たる性質を否定することは許されない」(佐藤功「日本国憲法概説」232頁)のである。

それゆえ、昭和22年の国家公務員法では、公務員の労働権を一般の労働者と同様に考え、労働三法の公務員への適用を認めていたのである。

そして、判例も、公務員が憲法28条にいう「勤労者」であることを古くから認めており(注3)、昭和41年10月26日の全逓中郵事件において、最高裁は、公務員が憲法28条の「勤労者」であることを認めて次のように述べている。
「労働基本権は、私企業の労働者だけに保障されるのではなく、公共企業体の職員、国家公務員、地方公務員も、原則的には、その保障を受ける」

(注3)@岐阜電気通信局第二事件(名古屋高裁判、昭和24・11・22)
(注3)A国鉄弘前機関区事件(最高裁判、昭和28・4・8)

A「公共の福祉」を理由とする制限説
「国民の権利はすべて公共の福祉に反しない限りにおいて立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とするものであるから、憲法第28条が保障する勤労者の権利も公共の福祉のために制限を受けるのはやむを得ないところである」とする判例(最高裁判、昭和28・4・8 前出国鉄弘前機関区事件)や、「日本の憲法の解釈としては、公共の福祉が基本的人権に対する唯一の制約であり…(文献引用者中略)公共の福祉に依る制約は無条件、無制限のものと解するのが正当」であるとする学説(柳瀬良幹「基本的人権と公共の福祉」208頁)が、この立場に立つ見解であるといえる。

しかしながら、この「公共の福祉」なる概念をその意味・内容を明確にしないまま安易に用いることは、「何が公共の福祉であるかについての解釈が極めて弾力的に権力者に好都合に行われる」(野村平爾「日本労働法の形成過程と理論」267頁)可能性が大なのであって、「観念そのものが抽象的であり、弾力性をもっているので論者の世界観、特殊的には国家観、法律観によって可成り恣意的に解釈を加えられ易い」(沼田稲次郎「団結権擁護論」168頁)から、「この漠然とした観念によって労働三権…(引用者中略)を法律的に規制することは危険である」(石井照久「労働法総論」341頁)との批判が加えられている。

B「全体の奉仕者論」を理由とする制限説
憲法第15条2項が、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定していることを根拠にして、「公務員は『全体の奉仕者』であり、その労働関係は労使対抗関係ではなく、公務員の労働関係の相手方は、外見上は政府であるが、究極的には国民であり、双方の関係は信託奉仕の関係である。公務員の労働条件の決定も国民の意思によって決定される。政府に対する争議行為は、政府の活動能力を低下阻害し、結局、国民の信託に反し、『全体の奉仕者』たることに反する」(佐藤功「コンメンタ-ル」128〜129頁)とする学説や、
前掲、昭和28年4月8日の最高裁判決「特に国家公務員は、国民全体の奉仕者として(憲法第15条)公共の利益のために勤務し、且つ職務の遂行に当っては全力を挙げてこれに専念しなければならない性質のものであるから、団結権、団体交渉権等についても一般の勤労者とは違って特別の取扱いを受けることがあるのは当然のことである」などが、この立場の論理的根拠となっている。 

これに対して、「憲法15条2項の趣旨は、ドイツ皇帝を追放して共和制を採用した際に定められたワイマ-ル憲法130条1項が『官吏は全体の奉仕者であって、一党派のそれではない』と定めたのと同趣旨に解すべきであって」(古西信夫「公務員の組合」新労働法講座2 116頁)、憲法15条2項の歴史的意義は、「公務員は天皇の公務員でないことはもとより、国民の一部に仕えるものでないことを鮮明にした」(清水睦「憲法」311頁)したことにあり、従って、憲法15条の規定を「公務員の人権を制約する具体的規範として本項をみるのは適当でない」(前掲清水睦311頁)のであり、右規定は、「官僚機構の民主化の方向に向けて理解せられるべきものであって、労働者としての基本権制限のための理論として使われるべきものではない」(野村平爾「日本労働法の形成過程と理論」261頁)とする主張がなされている。

C「特別権力関係論」を理由とする制限説
特別権力関係とは、「特別の法律上の原因に基づき、公法上の特定の目的を達成するために必要な限度において、一方が他方を包括的に支配する権能を取得し、他方がこれに服従すべき義務を負うことを内容とする関係」(田中二郎「新版行政法・上巻」89頁)を意味し、公務員の人権制約の根拠に、この理論を用いた次のような判例がこの立場である。

「憲法第21条は一般的な規定であって、公務員その他の特別権力関係に服する者に対しては、その職務の性質上必要な限度において表現の自由に制限を加えることを禁ずる趣旨ではないと解すべきであるから、社会の治安維持をその任務とし、職務上はもちろん私行上も慎重な行動を要求される警察官については、警察官吏および消防官吏身上規定第16条『職務上その他に関する所見を公表しまたは新聞雑誌に寄稿せんとするときは、原稿を呈示して所属長の許可を受くべし』との規定に定められた程度において表現の自由を制限することは、憲法第21条に違反するものということはできない」(東京高裁判、昭和27・6・23)。

しかしながら、そもそもこの理論は、「19世紀ドイツにおける、行政権の、立法権・司法権に対する優位性を保障するひとつの理論として登場」(清水睦「憲法」129頁)したものであり、「ドイツ的立憲君主制下の官僚制の理由づけに用いられた概念」(佐藤功「日本国憲法概説」137頁)なのであって、現行憲法が、国会を唯一の立法機関としていること(41条)や徹底して基本的人権を尊重していること(11条・13条・97条)などを考慮すれば、特別権力関係の主体の包括的支配権を認める伝統的理論は、現憲法下では妥当性を欠くというべきであって、「特別権力関係であることを理由として、基本的人権に対する制約を無条件に正当化することは許されない」(田中二郎「新版行政法・上巻」91頁)との批判がなされている。

D代償措置を理由とする制限説
「現行法は、公務員の労働三権を制限する代償として、国家公務員は人事院の意見や勧告によって(国公28条・63条・67条・86条など)、また、地方公務員は人事委員会または公平委員会の意見や勧告によって(地公24条・26条・46条・49条など)それぞれ賃金その他の勤務条件が保障される建前になっているが、このような代償措置がなされているかぎり労働三権の制限は可能であり、憲法28条に違反するものではない」(注4)と説くのがこの立場の見解である。

(注4)
政府側の立法過程における説明であり、国鉄門司車掌区事件(福岡地裁小倉支部判決、昭和33・8・26)の判旨などの見解である(前掲小西119頁)。また、最高裁大法廷も、全逓中郵事件(昭和41・10・26判決)で、この見解を示した。

しかしながら、「問題は、このような代償措置が違憲性を免れるだけのものとして、実質上、十分に機能しているかどうかということ」(古西信夫「公務員の組合」新労働法講座2・119頁)なのであって、「ILOのいわゆるドライヤ-委員会(日本における公共部分に雇用される者に関する結社の自由実情調査調停委員会)が報告書の中で、それら代償措置の不十分さを指摘し、『不可欠な業務または職業の労働者のストライキが制限され、または禁止されるところでは、かかる制限または禁止には、職業上の利益を擁護する不可欠の手段をこのようにして奪われた労働者の利益を、十分に保護する適当な保障をともなうべきであること。この目的のために、不偏不党の機関を設置すべきであって、そこでの決定はひとたびなされた後は完全かつ迅速に実施されるべきであること』を示唆」(同119頁)したことは、公務員の労働三権を制限する代償的措置は、公務員が、本来与えられているべきはずの労働三権を行使することによって得られるべき利益を、まったく同様に達成しえる機能を有する、いかなる組織からも自由な機関を設けることによってのみ、その存在意義が認められることを明らかにしたものであって、「代償措置としての勧告や仲裁裁定などに、労働三権を制限する十分なる代償としての機能が、勧告・裁定機関の公平性などを含めた内容の面においても、また労使当事者のみならず政府機関などにも法的拘束力が及ぶとする効力の面においても、またさらに、それらを実施する迅速性の面においても、すべて完全に発揮されるよう措置されていないかぎりは、公務員の労働三権を制限することは許されないと考える」(同119頁)との批判がなされている。

もっとも、労働三権の本質的意義を、たんに労働者の経済的地位向上のための手段とはみずに、
「すすんで人間としての尊厳を保持しつつ、社会的地位の向上を全うさせようとする基本的かつ必要不可欠の権利」(和歌山地裁判、昭和50・6・9)と理解する立場をとる筆者にあっては、原則として、労働三権に代わるべきいかなる措置も認めがたく、ましてや、この代償措置を、安易に基本権制限の論理的根拠とすることは、とうてい許されないと考えるのである。



3.警察職員の団結権禁止をめぐっての考察
以上が、公務員の労働三権が制限される論理的根拠として展開されてきた理論であるが、それでは、警察官と労働三権、中でも、これら三つの権利のうち、もっとも根源的・基底的性格を有する、狭義の「団結権」との関係、すなわち、警察職員が団結するすることを禁じた地公法52条5項が、憲法28条に抵触せず合憲性を有していることを、当局側はいかなる理論構成でこれを肯定しているのであろうか。
まさしく、この問題も、序論で述べたように、警察官と労働基本権について正面から取り組んだ文献が少ないのに対応して皆無といってもいい状況にあるのである。このことは、見方を変えれば、当局側において、内部的にも外部的にもその必要性がなかったことの証にほかならない。

残念ながら、私は今日までの調査において、当局側が右問題に関して本格的にその合憲性について論じた資料は入手しえなかったので、ここでは主として、内部関連資料に基づき若干の考察をしてみたいと思う。
まず参考資料としては、昭和45年10月17日、公務員制度審議会(第二次)の答申の際における「使用者側委員の意見」がある。

「警察職員…(引用者中略)の職務は、国の治安と国民の生命、財産を守る最も公共性の強い職務である。最高裁判決もいっているように、公務員の職務内容が公共性をもち、その職務の性質、内容に応じて労働基本権について何らかの制約があるのは当然であり、上記の職種は、その制限が最も強く行われるべきものであることは明らかである。
ILO87号条約(筆者注:「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」)9条1項は『軍隊及び警察』の範囲を国内法令で定めることを認めているのであり、我国の上記職員(警察職員・消防職員等:筆者注)に対する『軍隊及び警察』及びこれと同視すべきものとしての取扱いはILOも承認しているところである。
土壌、風土の違いを無視して単に欧米諸国の実情にならえという主張は採るべきではない。これらの職員は、国家存立の基盤、すなわち国の治安と国民の生命、身体、財産の安全確保するというその職務の性格からいって、常に厳格なる規律を保持し、事に臨んでは自らの危険もかえりみず、迅速、果敢かつ強制力をもった行動が要請される。
これらの職員に団結権を認めると、当局と組合の間に対立的意識が生じ、忠誠心の分裂、命令の二元性等の問題に発展して、強制力を行使する際の迅速性、公正さが保たれず、命令と団体意思の混乱を生ずるおそれがある」(下線筆者)。
この下線部分に、体制側が警察官等に団結権を認めがたい本質的理由が見事に述べられており、団結権付与禁止が行政実務上の強い要請から出たものであることを物語っている。

昭和55年度、秋田県警警部昇任試験問題「公務員の団結権について述べよ」の模範答案例として、立花書房発行の「昇任試験問題と答案」
(注5)(昭和55年版)は、次のように記載している。

(注5)
この答案例集は、昭和55年3月5日発行の「警察公論」第35巻第3号別冊付録であるが、この警察公論が警察官の昇任試験用専門雑誌として果たす比重は大きく、その影響力は決して無視できないものである。

1.憲法28条と団結権の保障
 憲法28条は、勤労者の団結権及び団体行動権を保障している。…(引用者中略)しかし、これらの団結権や団体行動権は、無制限に許されるというものではなく、憲法12条及び13条の趣旨からも公共の福祉による制約のあることは当然である。…(同中略)公務員については、全体の奉仕者としての本質上、この権利は種々の制限を受けている。

2.公務員の基本的性格
 憲法15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定し、公務員の性格を端的に表明している。すなわち、公務員は「全体の奉仕者」であるということである。この「全体の奉仕者」が「全体のため」に奉仕する者であるということは、換言すれば、「公共の利益のため」に奉仕する者ということである。
 そして、ここで重ねて「一部の奉仕者ではない」ことを規定しているのは、公務員が公共の利益、すなわち全体の幸福のために奉仕すべきものであって、一部の特殊な社会勢力や政治勢力の利益ために奉仕すべきものではないことを示しているのである。
 このような「全体の奉仕者」たる公務員については「国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障する」(国家公務員法1条)ために、勤務の規律を厳格に定めることが必要である。
 公務員法においても「すべて職員は、全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」と規定し(30条)し、公務員の根本基準を示している。この根本基準から職員の団結権の制限が理由づけられるのである。

3.公務員の団結権の制限
 国家公務員法は、公務員に職員団体の結成は原則として認めているが、団体交渉による労働協約を締結すること及び争議行為をすることについては禁止している。地方公務員法も、またこれと同じ建前をとっている。
 公務員も、労働を提供しその対価としての報酬を受けるという意味においては、もとより勤労者であり、本来、憲法28条に規定する団結権、団体交渉権、争議権等の勤労者の権利は保障されるべきものである。しかし、公務員について、これらの労働権が制限又は禁止されるということは、公務員が一般に他の勤労者とは異なる右のような性格を有するためにほかならない。したがって、その労働関係にはおのずから特殊性があると考えなければならない。
 警察職員は、…(同中略)職員団体の結成(団結権)を禁止されているが、これは、警察職員が公共の安全と秩序を維持することをその責務とするものであるという職務の特殊性に基づくものである。


この論旨によれば、警察官が「団結権」を禁止されるのは、次のような理由によることになる。すなわち、警察官が組合を結成すれば、公共の安全と秩序の維持という「公共の利益」すなわち「公共の福祉」をそこなうことになり、憲法15条「全体の奉仕者」に反する。そもそも労働三権は、「公共の福祉」によって制約可能であり、警察官が労働組合を結成することによる憲法15条違反は、当然に「公共の福祉」に反することになるから、警察官の団結権は制限しうる。

そして、何故、警察官が団結することが、「公共の福祉」に反することになるのかについてのより具体的な根拠は、前掲の公務員制度審議会の「使用者側委員の意見」における下線部分に代表され、警視庁警察学校初任科用教科書(警視庁警察学校編、昭和53年度発行)「警察行政法」も次のように述べている。
「警察職員等については、他の公務員の職種に比較して、争議の影響力が非常に大きいことから、争議に発展する可能性ある団結権や団体交渉権も否定されているということができる」(207頁)



4.警察職員の団結権禁止の合憲性についての検討
もとより私は、憲法28条に規定する労働三権が、いかなる場合でも公務員に無制限に保障されるべきものであるとは、決して思っていない。
公務員は「全体の奉仕者」(憲法15条) であり、「全国民の奉仕者として、公共の利益のために勤務すべき」(佐藤功前掲252頁)ものであって、公務員のもつこのような特殊性から、「第28条の定める勤労者の権利についても、一般私企業の労働者とは異なる制約を受ける」(同232頁)ことは、合理的理由あるかぎりやむをえないことであろうと考える。

しかしながら、「全体の奉仕者」であることを理由とする無制限な当局側の恣意的制限は許されないのであって、労働者としての公務員の労働三権の制限は、「公務員に保障される労働権のいかなる態様が、国民生活に、具体的に重大な危険をおよぼすものか」(清水睦前掲憲法323頁)という観点から、「国民生活全体の利益のために必要な最小限度の制限にとどめなければならない」(佐藤功前掲233頁)と考えるのである。

なぜならば、たしかに、労働三権は、資本主義体制の過程において必然的に生じてきた、経済的弱者としての労働者の地位の向上を直接の目的とする、資本主義経済体制の維持を図るために、資本家階級が認めざるをえなかった労働者の生存権的基本権(社会権)であるが、和歌山地裁判決(前出)も述べたように、私は、この労働基本権を、単に、労働者の経済的地位の向上だけのものではなく、労働者が社会共同生活の中で生きていく過程において、独立した一社会人として、その人間的向上を目指すためには、不可欠の権利であると理解するからにほかならない。

よって、私は、昭和41年10月26日の全逓中郵事件における、最高裁大法廷における判決を支持するものである。判旨は次のとおりである。
「労働基本権といえども絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包する。具体的にどのような制約が合憲とされるかについては、左の諸点を考慮して決定する必要がある。
(1)労働基本権を尊重する必要と国民生活全体の利益を維持する必要とを比較衡量して、両者が適正な均衡を保つことを目途とし、制限は合理性の認められる必要最小限度にとどめること。
(2)労働基本権の制限は、職務または業務の内容が公共性の強いものでその停廃が国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるため必要やむを得ない場合について考慮されるべきこと。
(3)制限違反に対して課せられる不利益は必要な限度をこえないこと。とくに刑事制裁は必要やむを得ない場合に限ること。
(4)制限に見合う代償措置を講ずること。

この判決による限り、警察官などの「団結権」や「団体交渉権」という、「国民生活にいささかの影響も与えない権利が、制限されるにとどまらないで否認されなければならないいわれは、どこにも見出し難い」(野村晃・コンメンタ-ル「地方公務員法」230頁)といわなければならない。

また、この判決は、労働基本権制限の理論構成として、従来のどの理論よりもより具体的、かつ明確な「比較較量の理論」を展開した点で画期的判決であり、従来の「公共の福祉」論を具体的、かつ発展的に展開した、いわば、「公共の福祉論」を深化した理論であると考える。

この点については、早稲田経営出版「司法試験・受験教室・憲法(上)、早稲田司法試験セミナ-編」の記述が極めて秀逸である。
「憲法は『公共の福祉に反しない限り』国政上人権は最大限の尊重を要すると規定する(13条)。つまり、裏を返せば公共の福祉の要請がある限り人権は制限されるものであることを憲法自ら認めているといってよい。いわば『公共の福祉』とは人権を制約する場合の根拠であるといえよう。一般に『公共の福祉』とは、『社会的共同生活の利益』であるとか、『最大多数の利益』であるとか説かれるが、要は、憲法がすべての人に平等に人権を保障しようとすれば、当然そこには人権の制約を伴わざるをえないことを意味するのである。Aに表現の自由を保障するといっても、他方Bの名誉も尊重されなければならず、Bの名誉を害する場合にまでAの表現の自由を保障することはできない。1789年のフランス人権宣言第4条が「自由とは他の者を害しないすべてのことをなし得ることをいう。…(引用者中略)」と規定していたのは、このような趣旨である。
…(同中略)要するに『公共の福祉』とはある人権を保障しようとする場合、それによって害される他の利益ないし価値であるということができる。たとえば、現行法上公務員は政治活動をする自由を制限されているが、それは公務員が自由に政治活動をすることを許すと公務の中立性が害されるためである。また、同様に労働基本権も制限されているが、公務員がストを行うと公務が停廃し国民に対するサ-ビスが行われなくなるからである。この場合の『公共の福祉』とは『公務の中立性』であり、また、『公務の安定的・継続的な提供』ということである。」

さらに、この引用書は、「『公共の福祉』論の限界と利益較量論の登場」の項目において次のように述べている。
「今日では人権保障の限界の問題としてはこれだけ(引用者注:『公共の福祉』論)では十分でないとされている(通説)。一体それはいかなる理由に基づくものであろうか。…(同中略)公務員は現行法上政治活動の自由を制限されているが、これが果たして合憲か否かを検討する場合、従来の判例は、右の制限は『公共の福祉』に合致するとして簡単に合憲であるとしてきた。つまり、公務員に政治活動の自由を認めると公務の中立性が害されるのであるから、右の制限は公務の中立性確保という公共の福祉に合致するものであり、豪も憲法の精神に反するものではないとするのである。確かに公務員が政治活動の自由を制限されることはやむをえないと思われるし、その制限によって公務の中立性が確保されることも事実である。しかし、だからといって直ちに現行法が合憲であると判断することは早計である。なぜなら、(a)『そもそも制限しうるか』という問題と(b)『憲法上どこまで制限しうるか』という問題とは次元の異なる問題であり、前者を憲法上肯定しうるとしても、必ずしも憲法上許される制限の程度を超えていないとすることはできないからである。実は、およそ憲法上制限し得ないとされる人権は『内心の自由』以外にはなく、これ以外の人権はすべて制限しうるものなのである。内心の自由はそれが内心にとどまっている限り、他人の利益を害することはないから、これを制限しうるとする根拠は見出せないが、その他の人権、たとえば、表現の自由などは、それが外部に表現され、したがって、他人との交渉をもつものである以上、他人の何らかの利益を害することが予想され、当然ここに制限の必要性が肯定されることになるのである。」

そして、この引用書は次のように結論づける。
「単に『公共の福祉』というのみで、その内容を指摘しないときは、人権制約の根拠が示されるのみで、制約の程度は必ずしも明らかにされないのが普通である。即ち、人権制約立法の合憲性が問題になるとき、…そもそも当該人権を制限できるか(制限の可否)、制限できるとしてもどの程度できるか(制限の程度)が検討されなければならないが、公共の福祉論では、前者の根拠とはなりえても、後者について何ものも語らない。そこで、公共の福祉論は、実際上、当該人権制約立法を合憲とする結果となる。しかし、内心の自由のように絶対無制約である人権を除いては、すべての人権は、何らかの形で外部との交渉を持ち、従って、その制約が可能であることを考えると、公共の福祉論ではそのすべてが合憲となってしまう。かように考えると、問題なのは、制限の程度であって、問題となるのは人権制約立法の多くが制約の程度を超えていることを考えると、制限の程度こそが重要ということになる。そのために登場したのが、他ならぬ利益較量である。」


以上みてきたところから明らかなように、警察職員の団結権を禁止した地公法52条5項は、その規制になんらの合理的根拠も見出せない憲法違反規定であるということができる。警察職員の団結権(及び交渉権)は争議権と同等視することは許されず、公共の福祉を根拠とする制限自体が
許されないと考えるからである。
警察職員が地公法の禁止する「賃金・労働条件の維持改善を目的」とする「当局と交渉する団体」を結成することによって損なわれる社会公共的利益は見出し難いと思われる。むしろ自らの勤労者いや一人の人間としての自覚を警察官が持つことによってもたらされる利益(接する国民の人権に対する配慮・尊重等による仲間意識の醸成)のほうが大きいと思われるのである。



警察当局が、職員の団結権自体をも認め難い本質的理由は、労働運動そのものを異端視した19世紀的思考法から一歩も出ていない、組合結成即左翼的イデオロギ-化イコ-ル組織崩壊という、もはや信仰的ともいえる短絡的思考法に基づくものであって、ある警察庁幹部の次のような発言が、このことを如実に物語っている。
「何らかの組織は必要と思うが、組合をつくらせることは絶対反対だ。なぜならば必ず左翼化するから」(注6)

(注6)

東京学芸大学教授星野安三郎氏の、警察官の種々の不平不満解消の解決策として、組合を認めたらどうかという質問に対して答えたものである(法学セミナ-「現代の警察」30頁)

鈴木卓郎氏が指摘するように、「そもそも日本警察は明治初期に藩閥政府のもとで創設いらい市民保護の英米型ではなく、政府保護という大陸型の体質を持っている」(朝日新聞、1972・6・29)ことからも明らかなように、あらゆる思考の出発点は、体制側の一員としての認識にその源泉があるのであり、警察官などが組合結成を否認される本質的理由は、「常にこれらの者は、国家権力の意にしたがって行動すべきであり、労働組合を結成することによる、労働者意識の強化は、これに反するということ」(正田彬「官公労法」66頁)にあり、「資本制国家が、労働者の団結に対する反情を常に抱いていることと関係して、むしろ国家権力の要員(資本家階級の要員)としてこれらを確保しておくためにほかならない」(同正田66頁)と思われるのである。



5.今後の展望

私がこの警察社会に対してもった最初の疑問は、率直に言って、ときとしては自らの生命をかけなければならない仕事の内容に比較しての、社会的地位の低さであり、外部的評価の低さであった。
けっして、私たちの職業は、単純な機械的労務ではなく、国民の自由と権利を護ることを究極の目的とした、法治国家の先兵たる地位を有していると自負していた私にとっては、苦労の多い交番生活を全うした挙句、マ-ケット・病院等の守衛に再就職していく先輩たちを見て、ある種の憐憫と怒りがこみあげてくるのを禁じえなかったのである。

しかしながら、警察社会に対する社会的評価の低さの根本的原因が、けっして外部にあるのではなく、われわれ自身の中、ひいては警察組織そのものに内在することに気づくのには、たいした時間を要しなかった。

一部警察官にみられるような、救い難いほどの意識の低さ、社会的視野の狭さはどこからくるのか。種々の社会的問題にはまったく無関心で自己の世界のみにひたすら閉じこもろうとする姿勢はなにゆえなのか。一社会人としての独立心も自負心をもどこかに置いてきてしまった没個性的態度は何を意味するのであろうか。

私は、これら一連の問題が、けっして単なる個々の警察官の個人的資質の問題ではなく、組織の中で機械化された没個性的人間が生じてきた最大の原因は、当局側の姿勢そのものにあり、このような人間を意図的に創り出してきたという事実こそが、私たち警察官にとっても、またなによりも国民にとって最も重要な問題だと思われるのである。

ここに、私が警察学校初任科で使用した二冊の教科書がある。その一つは、国家の基本法である憲法講義用「憲法」(警察庁編)であり、他の一つは、警備用教科書「警備警察」(警視庁警察学校編)である。
私がこの二つの教科書を意図的に取り上げたのは、個々の警察官に対する警察教養の重点がどこにあるのかということを如実に示しているからに他ならない。すなわち、前者にあっては、総ぺ-ジ数153頁の小冊子にすぎないが
(注7)、後者にあっては、前者の約四倍弱の総ぺ-ジ数577頁の分厚い体裁をなしているのである。

このことは、当然に、講義時間数の長短をも示しているのであり、このような状態(人権よりも思想の重視)が続く限り、けっして、「民主警察の本質と警察の責務とを正しく認識せしめる」(警察教養規則4条)ことを義務づけられた警察学校教養は、その目的を達しえないばかりか、「警察職員が、警察法の精神にのっとり、民主警察の本質と警察の義務とを自覚し、人格を磨き、学術を修め、実力を養い、もって公正明朗、かつ、能率的に職務を遂行し得るよう、これを教養するにある。」(国家公安委員規則第12号)(警察教養規則第2条)とする警察教養の目的は、とうてい実現不可能となるであろう。

(注7)
私の初任科当時、憲法は学校教官たる警察官が教えていた。警察官にとって、一番重要且つ基本的なこの教科(特に人権分野)は、外部の大学教授・講師等の手によって多くの授業時間を割いてなされるべきだというのが私の考えであるが、現時点、警視庁をはじめ、全国の警察学校においては、いかなる教養体制になっているのであろうか。


いま振り返ってみて、自己の体験上いえることは、警察学校における初任科教養をはじめとする各種警察教養が、右に述べた警察教養の目的を達成するのに十分かつふさわしい内容を備えていたとはとうてい肯定はできず、権力を付与された自己の職務執行において民主警察の何たるかを深く考えようともしない、また悩もうとはしない警察官が少なからず散在するという事実は、国民にとっても決して無関心ではいられない不幸なことといえよう。

言葉を変えれば、私たち警察官に対する警察教養は、ひたすら義務のみを教え込む「義務教育」
(注8)なのであって、警察官である前に一人の人間として、また一国民として憲法上保障された基本的人権の重要性を説く教養、つまりは、みずからの人権は国民の人権と表裏一体の関係にあるという見地からの人権教養がなされたことは一度もなかったというのが、私の率直な感想である。(注9)

(注8)

各県の警察学校における憲法の教養においては、いかなる教材を用いだれが教養を担当しているのか国民はまったくカヤの外に置かれている。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるが、特に「人権」教養は、近い将来において権力を行使する立場にある警察官の卵にとって重要である。まったく、無知の状態にある彼らに、いかなる意図の下に教養を実施するのかは、権力を行使される国民側にとっても決して無関心ではいられない重要な問題だと思われるのである。

(注9)
警察学校を卒業し新任配置となった高校卒の警察官三名に対し、地方公務員としての警察官が団結権を禁止されている根拠法令を質問したが、答えることができなかった。答えるどころか、彼らには質問の意味すらも理解できなかったのである。
さらに、実務6年の大学卒警察官に同様の質問をしたところ、「警察官服務規程かなんかですか」と答えた事実をここでは指摘するだけにとどめておきたい。


いま私たち警察官に望まれることは一体なんであろうか。それはけっして、抽象的な精神論を頭にたたき込むことではなく、憲法の保障する諸種の基本的人権がいかような歴史的経緯を経て成立したものであるかということを、もう一度自らの目と耳で確認することから出発して、すくなくとも、「人権」や「民主警察」といった観念を、身近な自己の所有的観念として消化し身につけることにあると考えるのである
(注10)
このような観点から出発しなければ、私たち警察の同僚たる国民の自由と人権を護ることこそが、警察に課せられた使命であり、そのことがまさに、「民主警察」としての本来の姿なのであって、警察法2条に規定する警察の責務を全うすることにほかならないという認識と自覚は生まれようはずもないからである
(注11)

(注10)
これらの観念を、多分に左翼的なヒビキをもった観念として捉える傾向にあるのが、いつわざわる現場における警察官意識の実態である。
また、警察教養においては、戦前における特高警察を中心とする、国民に対する警察の人権侵害については一切触れないために-このことはまた、基本的人権の歴史的経緯をまったく教養していないことを意味する-若い警察官の中には、「特高」ということば自体を知らない者が多数存在している。

(注11)
すでに述べてきたことから明らかなように、警察当局の目指すところは、国民大衆と密着した真の「民主警察」とはかけ離れたところにあり、現在の警察組織を市民サイドまて引き戻すことは多難といってよく、もとより、一警察官などの力では及びもつかないところであろうと思う。
少なくとも、私がここで指摘しておきたいことは、論者の多くが説くように、現状のような警察官僚と政府との癒着状態を断ち切り、議会こそが警察組織の根元であるとの認識が生ずるような政治体制にもっていくことが急務ではないかと考えるものである(西尾莫「現代日本の警察」・鈴木卓郎「日本警察の秘密」・大野達三「警察官の現状と課題」)。



不幸なことながら、戦後の日本における民主政治は、わずかの例外を除いて民主主義の原点ともいうべき価値観の多様性を現実の政治において実現していないのであり、政権交代のない保守一辺倒の政権が、警察をいやおうもなく政府の警察に近づけたことは、否定することのできない事実であろうと思う。
仮に、政権交代が頻繁に行われ実情を反映した法律等の改正が日常的になされれば、議会の議決した法律こそが警察業務運営の基盤であって、法律こそがすべてであるとの風潮が警察内部に生じ、現実とはかなり異なった自由主義を基調とする警察組織が成ったのではないかという気がしてならないのである。

私は、序論において述べたように、警察官の労働基本権(特に団結権)制限が、個々の警察官の意識形成過程いかような係わりあいをもっているのか、またそのことが、国民の自由と権利にどのような影響を与えているのか、この密接不可分の関係を明らかにすることがこの論文の究極の目的であったが、いまひとつの仮定としていえることは、自らの人権制限について無知・無関心な警察官に、「人権」の重み・重要性を認識しえるはずがなく、そのことは結果として日常の職務執行において、接する国民の人権擁護の認識の希薄さとなっていろいろな場面において現象化しているという事実である。

自らの人権制限について深く考えない警察官に、自らの同僚たる国民の自由と人権を擁護するという認識を求めることは困難であり、そのことは、自らに与えられた権力行使はまさにそのためにあるという自覚の欠如となって表れ、日々の職務活動における国民の基本的人権の擁護阻害要因となっているということである。

一人ひとりの警察官が、自らの人権と対峙しその重要性を認識することは、和歌山地裁判決も述べているように、まず自らが一人の独立した労働者・社会人としての自覚を持つための不可欠のものなのであり、この基盤の確立されていない者に高度の精神論をたたきこんでも、砂上の楼閣にすぎず、結局のところは接する国民にかえっていくことなのである。


6.おわりに
警察職場においては、「組合」の話はタブ-である。団結権即組織命令系統の二元化即左翼化危険思想の感が根強く、その思想統制は警察組織が作り上げたものとはいえ、見事というほかはない。自らの労働基本権制限についての正視がない警察組織は、国民にとって看過できない重要な問題であるにもかかわらず、その根元を正視し改善を図ろうとする力が出現しないのは何故なのであろうか。

最後に、市民警察精神の何たるかを述べた「イギリス警察の調査報告書」からの抜粋と、中央大学清水睦法学部教授の次のような一文をここに紹介して、このつたない論文の筆をおくことにしたい。

「警察官は、たとい公安維持のための責務に従事しているときであっても、政府の一員であるという事実から由来する権限を行使してはいるが、それは、政府の一員として行動するのではなくて、コミュニティの市民の代表として、どんな市民もひとしくもっているはずの権限を行使する市民として、行動しているのである。なるほど、市民は治安判事の命令や警察官の警告に拘束されはする。しかしわが国においては、警察官の権限は、すべてを結局のところ、彼の同僚たる市民の精神的・物理的な支持に基礎づけられているのである」(和田英夫「警察権力における行政と政治」・法律時報40巻5号12頁)。

「警察組織と作用の法が人権を保障する観点から明確に定められていたとしても、組織を運営し、具体的に活動するのは警察官であるから、警察官の法意識が、どのような人権感覚に根ざしているかは重要な問題である。
警察官の教育が、社会全般を広く見渡せるような柔軟性に富んだ思考能力を養うのではなく、警察犬の調教のようになされているとしたら、警察が政治権力の忠実なしもべとなることは明らかであろう。人権を制約された警察官が、みずからをもって、一般国民の人権を意識する基準とする傾向がもしあるとすれば、警察官の人権意識は、国民の人権問題そのものにほかならないことになる。」(法学ゼミナ-増刊「現代の警察」285頁「警察をめぐる法構造」より) (昭和56・1・15脱稿)



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