日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
コメ自由化への試案
日本人が作りだした農産物
品種改良にみる農業先進国型産業論

  コメ自由化への試案  日本人が作りだした農産物  品種改良にみる農業先進国型産業論    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   趣味の経済学   コメ自由化への試案

日本人が作りだした農産物  品種改良にみる農業先進国型産業論
(1) コシヒカリの誕生 研究者の根気と偶然性 ( 2003年6月30日 )
(2) コシヒカリを超えられるか? 競い合う各県の農業試験所 ( 2003年7月7日 )
(3) コシヒカリから生まれた優等生 海外でも人気を博す日本米 ( 2003年7月14日 )
(4) コシヒカリ独壇場の秘密 市場原理と豊かな消費者 ( 2003年7月21日 )
(5) 野菜・果物・花卉の品種改良 「一代雑種」という改良方法 ( 2003年7月28日 )
(6) 諸外国での品種改良 緑の革命とEU農業政策 ( 2003年8月4日 )
(7) 新大陸からの金銀以上の宝物 トマト、ジャガイモの普及と改良 ( 2003年8月11日 )
(8) 美味いものには国籍不用 進歩する品種改良手法 ( 2003年8月18日 )
(9) まだまだあった新大陸の味覚 コロンブス時代からの植物史 ( 2003年8月25日 )
(10)江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴 ( 2003年9月1日 )
(11)稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網 ( 2003年9月8日 )
(12)品種改良の方法 メンデル、選抜育種法、交雑育種法 ( 2003年11月10日 )
(13)在来種への思い入れ 消費者に気に入られる野菜とは ( 2003年11月17日 )
(14)外来種が定着し在来種となる 野菜の原産地・導入育種法 ( 2003年11月24日 )
(15)日本人に適した品種改良 好奇心と遊び心 ( 2003年12月1日 )
(16)細胞育種法 ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ ( 2003年12月8日 )
(17)自家不和合性と雑種強勢 農業経営組織・制度の品種改良は可能か? ( 2003年12月15日 )
(18)日本人が切り開いたハイブリッド技術 外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス ( 2003年12月22日 )
(19)ハイブリッドライスの可能性 先進国型品種改良への転換 ( 2003年12月29日 )
(20)遺伝子組み換え技術の誕生 医薬品からの実用化 ( 2004年1月5日 )
(21)野菜に加えられた良き性質 GMOの広がる可能性 ( 2004年1月12日 )
(22)遺伝子工学の方法 何が進歩して、何が停滞しているのか? ( 2004年1月19日 )
(23)批判派・推進派の主張 世界の食糧危機を救うか? ( 2004年1月26日 )
(24)安全性について考える 利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念 ( 2004年2月2日 )
(25)栽培しないことの利益と不利益 「結論を延ばす」という結論の機会費用 ( 2004年2月9日 )
(26)品種改良で農業の将来はどうなるか? 日本農業は崩壊しない ( 2004年2月16日 )
(27)品種改良を経済学の目で見る 先人たちの助言を聞いてみよう ( 2004年2月23日 )
(28)自給自足こそが貧困への第一歩 いろんな時代のアダム・スミスたち ( 2004年3月1日 )
(29)農作物を世界で分業すると…… 低賃金と劣悪な労働条件の最貧国、しかし…… ( 2004年3月8日 )
(30)有閑階級の恋愛と贅沢と資本主義 正義と嫉妬と不平等の経済学 ( 2004年3月15日 )
(31)タネ作りは種子会社に任せよう 在来種もF1も、その改良品種も ( 2004年3月22日 )
(32)反進化論は品種改良をどう説明する? 「ルーシー」と「ミトコンドリア・イブ」 ( 2004年3月29日 )
(33)市場重視と株式会社参入 さらなる進化のために ( 2004年4月5日 )
(34)やはり農業は先進国型産業であった 参考になった文献集 ( 2004年4月12日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)
コメ自由化への試案 Index
(1)コシヒカリの誕生
研究者の根気と偶然性
<NIRA報告書から> TANAKA1942bが「コメは自由化すべし」と主張するのは「農業は先進国型産業である」との考え、すなわち「農業は日本のような先進国に適した産業で、研究開発に熱心な日本人にこそ適した産業だ」と考えるからだ。「農業先進国型産業論」という考え方は「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)に書かれたのが最初ではないか、と思う。そこで今回のシリーズでは「NIRA報告書」を頭に置きながら、「品種改良」をテーマに「農業先進国型産業論」を展開していくことにした。 「NIRA報告書」をまとめた叶芳和氏が農業問題に発言しなくなってから、「農業先進国型産業論」は聞かれなくなった。「NIRA報告書」の姿勢を引き継ぎながらも、そこでは扱われなかった側面から、日本の農業を考えようと思う。アマチュアがどこまで「農業先進国型産業論」を展開できるか?しばらくこのHPにお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 「NIRA報告書」で叶芳和氏等が農業をどのように考えていたか?報告書の初めの部分を引用しよう。
 日本農業が直面している高価格、過剰供給(生産調整)、低自給率等の諸困難は、解決可能な課題だと考える。さらに、諸外国の農業者にわが国市場へのフリー・アクセスを与えることも可能だと考える。 農業は先進国で比較優位をもちうる産業である。日本は先進国であり、農産物の輸出国にさえなれる潜在的条件をもっている。この条件をいかに生かすかが重要である。技術革新と規模の利益を実現させるシステムを設計することが肝要である。(中略)
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
<米の品種改良から調べてみよう> 江戸時代のことを調べている内に、江戸時代の植物の品種改良はけっこう進んでいた。メンデルの法則など知らなかったのにそれを応用したかのような品種改良をやっていた。武士や町人が花木や金魚など、でも商売と言うより趣味でやっていた。そのポイントは「好奇心」と「遊び心」。その2つが必要条件となると、これは「アマチュアエコノミスト」の必要条件と同じとなる。 そんなことを考えていたら、江戸時代の農業に関しては「先進国」だったことに気付いた。江戸時代から日本は先進国だったし、農業は先進国型産業だったのだ。
 こうして江戸時代から先進国型産業だった日本の農業、では現代ではどうなのだろうか?そこで「もしも品種改良がなかったら、日本の農産物はどうなっていたろう?」と考えると、日本の農業から品種改良の成果を除いたら、どうなっていたか想像もつかない状況だと考えるようになった。
 品種改良にみる農業先進国型産業論、先ずはコメの品種改良=コシヒカリ=から始めよう。
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コシヒカリ開発略年表
<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂>
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
 田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
 高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。 しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。 ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
 石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。 後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。 しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
 一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。 国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
 表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
 貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
 昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。 もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。 
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年  この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年  2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha  3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
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<主な参考文献・引用文献>
「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)                     総合研究開発機構  1981.8.1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生    酒井義昭著                中公新書      1997.5.15
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
「コシヒカリを創った男」           粉川宏                  新潮社       1990.3.15
「コシヒカリ」                日本作物学会北陸支部北陸育種談話会編   農山漁村文化協会  1995.12.15
( 2003年6月30日 TANAKA1942b )
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(2)コシヒカリを超えられるか?
競い合う各県の農業試験所
<コシヒカリをめぐる7不思議> 2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積をみると、1位=コシヒカリ3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ851,700トン、157,800ha 3位=ヒノヒカリ829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)。 このコシヒカリは全額国庫負担の水稲育種指定試験によって育成された品種で、民間企業の研究開発・新製品発売とは違って、研究開発者には成功報酬としてのボーナスはない。後日発表される資料に育種した農業試験場の名前はあるが、研究者の名前はなかなか見当たらない。このようなとても地味な研究の成果であり、その研究者には職人的な性格さえ感じる。誕生から普及への歩みは平坦ではなく、特にコシヒカリは何度も、あわや廃棄処分という危機に見舞われるなど、波乱に満ちた歩みだった。 育種から普及までの歩みを見ると、いくつもの「不思議」があることに気付く。酒井義昭著「コシヒカリ物語」からその「不思議」を要約すると次のようになる。
(1)戦争末期から敗戦直後の食糧難時代に、なぜ日本一おいしい新品種が育成されたのか?
(2)イモチ病に強い新品種を生み出すのが目的だったのに、コシヒカリはイモチ病に最も弱い品種である。
(3)新潟県農事試験場が人工交配したのに、福井県で水稲育種試験が実施されることになった際、譲り渡された系統から誕生した。
(4)福井県はなぜか、県奨励品種に採用することを拒否し、後に一度諦めた新潟県農試が奨励品種への採用を決断した。
(5)戦前、東日本と西日本では米について好みが違うと言われていたが、コシヒカリは東日本でも、西日本でも好まれている。
(6)草丈が高く倒れやすく、機械化が進めば消え去ると言われていたのに、栽培面積が増加した。機械化適応品種に変身したのか?
(7)稲の品種の寿命は10年ぐらいと言われているのに、誕生以来すでに40年。これを超える新品種を開発できないでいる。
<2002年産水稲の品種別収穫量> コシヒカリの実力はどの程度なのか?消費者はどの位コシヒカリを欲しがっているのか?他の品種との比較をしてみよう。
順位 品 種収穫量(トン) 作付面積(ha)登録年・育成場所 主な生産県コシヒカリ系統
1 コシヒカリ3,187,000606,500  1956 福井農試 新潟、茨城、栃木
2 ひとめぼれ 851,700157,800  1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島
3 ヒノヒカリ 829,500163,700  1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡
4 あきたこまち721,300131,300  1984 秋田農試 秋田、岩手、山形
5 きらら397362,00071,000  1988 北海道立上川農試 北海道
6 キヌヒカリ315,00062,000  1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉
7 はえぬき285,20045,400  1992 山形農試庄内支場 山形、秋田
8 ほしのゆめ137,20027,500  1996 北海道立上川農試 北海道
9 つがるロマン122,82021,400  1997 青森農試 青森
10 ササニシキ104,80018,700  1983 宮城県農試古川分場 宮城、山形、秋田
11 むつほまれ98,60016,400  1986 青森県農試黒石本場 青森
12 日本晴75,30014,100  1963 愛知県農試 滋賀、埼玉、兵庫
13 ハナエチゼン71,80013,300  1991 福井農試 福井、富山、石川
14 ゆめあかり68,50013,000  1999 青森農試 青森
15 夢つくし63,40012,800  1993 福岡農総試 福岡
16 ふさおとめ52,5009,440  1999 千葉県農試 千葉
17 あさひの夢49,8009,900  1998 愛知県農試 愛知、群馬、栃木
18 ハツシモ49,80010,700  1950 安城農業改良実験所 岐阜
19 あいちのかおり48,6009,540  1987 愛知県農総試 愛知、静岡
20 祭り晴47,9009,220  1993 愛知総農試 愛知、京都、大阪
農水省「子ども相談電話」HPからの数字を中心に作成  ○はコシヒカリの子供、孫、ひ孫の品種。つまりコシヒカリを祖先に持つ品種。
<数字を読む> 「2002年産水稲の品種別収穫量」から数字を読んでみよう。
(1)抜群にコシヒカリが強い。コシヒカリの収穫量は2位ひとめぼれ以下、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397、キヌヒカリの6位までの合計よりも多い。
(2)コシヒカリより後から登録されたのに、コシヒカリを追い越せない。コシヒカリよりも前に登録されたのは18位ハツシモだけ。それ以外はコシヒカリよりも後に登録されている。品種改良によって新しい品種の米が生まれるのに、コシヒカリを超える品種は生まれない。
(3)戦前からの品種はない。一番古いのがハツシモ(1950年)、次がコシヒカリ(1956年)。「米は日本の伝統文化だ」としても、伝統的な品種は影が薄い。赤米や紫黒米などのような古代米の方が残っているくらいだ。「米作りの伝統」とは「品種改良の伝統」「新しいことにチャレンジする伝統」なのだろうと思う。 江戸時代から日本のお百姓さんは「好奇心」と「遊び心」いっぱいの「革新派」だった、というのがTANAKA1942bの考え方。
(4)コシヒカリから生まれた品種が多い。とは予想していたが、調べてみてビックリ。コシヒカリを祖先に持つ品種がこれほど多いとはオドロキ。(2)との関連で考えると、品種改良は進歩がないのではないか?との心配も生まれそうなほどだ。
※                      ※                      ※
<コシヒカリを超えられるか?> 戦後日本の自動車産業が乗用車を作り始めた頃、クラウン、セドリックやコロナ、ブルーバードはスタンダードとデラックス仕様だけだった。生産台数が増え始めてハイデラックス、スーパーデラックスとかGLなどが登場した。トランジスタ・ラジオ、テープレコーダー、ウォークマン等も新製品として市場に登場したときは1種類だった。 商品が市場で成熟する、ということは多くの種類(グレード)が出ること、消費者の多様なニーズに応える品が揃えられる、ということだろう。たくさんのグレードの商品が揃い、その一つのグレード(例えば「スーパールーセント」)がかつての「デラックス」より生産数が少なくても悲観することはない。米の品種のこと、「コシヒカリを超えられない」問題もこのように考えられる。コシヒカリという新商品が登場した。消費者の多様なニーズに応えて、そして生産地の気候・地域性に応じて、コシヒカリから改良された商品(ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまちなど)が登場した。このように考えれば悲観することはない。これからも先進国型産業として期待できる。日本の高度成長を引っ張ってきた自動車産業や家電産業と似たような商品開発が行なわれている、と考えられる。
 米の品種改良という点に注目すると、他の「ものづくり産業」と同じように、市場での消費者ニーズに応えて商品開発を進めてきた、と言える。さらにその商品開発携わった研究者は競争原理に刺激されて成果を上げてきた。 新しくできた農試には捨てるようなものを回したり(1947年)、成果を上げて余裕が出てきたので、あまり期待できない品種も登録したり(1957年)、何でもいいから成果を示すために奨励品種登録してしまったり(1953年)、コシヒカリの誕生にはそれぞれの農試、研究者に資本主義。市場経済の特徴である「競争原理」が働いていた、と考えられる。
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
 農業は「ものづくり大国日本」に適した産業なのだと思う。そこでコシヒカリから生まれたいくつかの品種、についてもう少し詳しく調べてみることにしよう。
( 2003年7月7日 TANAKA1942b )
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(3)コシヒカリから生まれた優等生
海外でも人気を博す日本米
<「美味しい米」系が、円熟した商品取り揃えとなる> 自動車産業を振り返ってみると、クラウン、セドリックがタクシー、法人向けジャンルを拓き、コロナ、ブルーバードがファミリーカーを普及させ、カローラ、サニーがさらにファミリーカー需要を開拓した。以後もスバル360やホンダN360が軽自動車を普及させ、フェアレディZやセリカがスポーツカー部門を開拓し、ホンダのシビックが低公害車を引っ張った。 こうした傾向は他の産業でもみられる。例えば、味の素が化学調味料を普及させ、ウォークマンがウォーキングカセットという商品を生み出し、インスタントラーメンやカップヌードルという新しい食品分野を生み出した。 テレビで言えば、薄型テレビや液晶テレビが開発され新しい商品ジャンルが生まれ、乗用車では燃費の良さが評価の基準になった。コメでは美味さが評価の基準の一つになった。このようにコシヒカリは他の工業製品と同じような過程で消費者に気に入られていったのだった。食味の科学的判定が確立しコシヒカリの「美味さ」が評価されるようになり、コシヒカリが評価され話題になったことにより科学的評価も信頼されるようになった。 このように、新しいヒット商品が新しい商品分野を切り開いてきた。それが市場で消費者に気に入られれば、ライバル企業が参入し、充実した商品構成になる。このようにして、市場では企業や商品が消費者に気に入られように、との競争が始まる。
 コシヒカリの誕生については、先週「(2)コシヒカリを超えられるか?」で書いたように多くの不思議がある。それでもハッキリしているのは、「コシヒカリがこれほど普及したのは消費者に気に入られたからだ」ということ。消費者に気に入られたコシヒカリを追ってライバル商品が開発され、コシヒカリ系はコメ市場で一つの新しいジャンルを作った、と考えられる。そしてその背景には「日本が豊かな国」で「豊かな消費者が、いいものには高い対価を払う」という状況があったからだと考えられる。 それではどのような商品がコシヒカリから生まれ、コシヒカリのライバルになろうとし、コシヒカリ系という分野を作っているのか?そのような好奇心に答えるように、いくつかの品種について調べてみることにしよう。
※                      ※                      ※
<ひとめぼれ> (普通栽培・中生の晩)
<来 歴>
育成地  :宮城県古川農業試験場
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:「初星」 (初星の交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:40-11喜峰)
交配年次 :1981(昭和56)年   
育成年次 :1991(平成3)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
特徴
耐冷性(冷害):「ササニシキ(やや弱)」より強い“極強”。
食 味:「ササニシキ」より粘りが強く、「コシヒカリ」並以上の"極良"。   
玄米品質:「ササニシキ」に優る"極良"。
耐倒伏性:「ササニシキ」より強い。
穂発芽性:「ササニシキ」より発芽しにくい"難"
草 姿:「ササニシキ」より穂数が少ない。丈は同程度。
出穂・成熟期:「ササニシキ」並の“中生の晩”。
耐病性:いもち病抵抗性は「ササニシキ」と同程度。  
特徴 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=「ひとめぼれ」はどんなお米で、人気はあるのですか。(小学生)
答え=「ひとめぼれ」は、「コシヒカリ」と「初星」を両親として平成3年に宮城県古川農業試験場で誕生しました。味とかおりが良く、ねばりの強いお米です。 名前の由来は、「見て美しさにひとめぼれ、食べておいしさにひとめぼれしていただき、全国のみなさんに愛される米にしていきたい」との願いがこめられています。 「ひとめぼれ」は、東北地方を中心に作付けされており、お米の中で、コシヒカリの次に作付け量及び流通量が多い品種で、市場においても人気があります。
生い立ち
@1980(昭和55)年冷害の実態から、耐冷性の向上が急務となる。翌年古川農試では 新しい耐冷性検定法(恒温深水法)を開発し、既存品種の耐冷性評価の見直しを開始する。
A耐冷性の強い「コシヒカリ」を母本として選定し、耐冷性と食味の両立する栽培しやすい品種の開発を目指し、1981(昭和56)年「コシヒカリ」と「初星」を交配して選抜を開始する。
B1988(昭和63)年「東北143号」を育成し、奨励品種決定調査を開始する。その年の冷害で耐冷性の強さと食味の良さが実証され、1991(平成3)年「ひとめぼれ」と命名されデビュ−する。
C1993(平成5)年の大冷害で耐冷性の強さを発揮し、「ササニシキ」の壊滅的な被害を軽減する。  この年を契機に「ひとめぼれ」の評価は急速に高まり、1994(平成6)年には「ササニシキ」に 替わり全国作付け二位となる。その後も作付け地域を順調に拡大し、南は沖縄県まで普及 している。現在の奨励品種採用県は21県。
 古川農試では、「ひとめぼれ」の成功をバネに晩生新品種「こいむすび」(母親:「中部 73号」X父親:「ひとめぼれ」)を育成し、宮城県北部平坦地帯及び仙台湾沿岸地域に普及させようとしている。このようにコシヒカリの子孫「美味しい米」系が続々と誕生している。
ベトナムで育つひとめぼれ ベトナムにアンジメックス・キトクという会社がある。1991年に日本の米問屋「木徳」とベトナム・アンジャン省の輸出入公団がパートナーとなってできた会社。 木徳が67%、公団が33%を出資し、6人の役員のうち、社長を含む4人が木徳、2人が公団の出身。 アンジメックス・キトク社では、ベトナムの地元農家に委託して日本米(「はなの舞」「ひとめぼれ」)を生産を委託し、生産を受託している農家にとっては、日本米をつくるには高い技術と細心の注意が要求されるが、それに見合う高収入が保証されている。 省としても「全面的に協力する」(アンジャン省人民委員会レ・ホイ委員長)という姿勢だ。
 委託生産面積は99年の200ヘクタールから2000年の400ヘクタール、2003年の600ヘクタールと毎年順調に広がってきた。300人にもおよぶ契約農家を3人の出向者と7人の現地技術者で数人ずつチームを組み技術指導のため巡回するシステムを組んでいる。
 主要な売り先は回転寿司=「すし金」」(Sushi King)で、現在マレーシアで21店、タイで1店を展開しているチェーン店。近く30店舗ぐらいまで拡大する予定とのこと。22店舗のコメの使用量は年間200トンだが、予定通り30店展開すると300トン近くになるという。(この項は URL http://www.sigetosi.com/page056.html から引用)
※                      ※                      ※
<ヒノヒカリ> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :宮崎総農試
交配組合せ:母親:愛知40号(黄金晴)×父親:「コシヒカリ」 (「黄金晴」の交配組合せ:母親:「日本晴」×父親:40-11「喜峰」)
育成年次 :1989(平成元)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
生い立ち
ヒノヒカリは旧系統名が「南海102号」で、宮城県総合農業試験場水稲指定試験地で育成された中生のうるち種。1989(平成元)年に、福岡、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の各県が奨励品種に採用した良食味品種。西日本、九州の代表的な品種になりつつある。
品種の系譜からみた特性 ヒノヒカリは黄金晴とコシヒカリを親として生まれた品種。この系統からみたヒノヒカリの特性は次の通り。
@炊飯米の光沢が良く、粘りが強いーーコシヒカリの食味。
A耐倒伏性は不十分ーー農林22号、コシヒカリより強いが、黄金晴より明らかに弱く、日本晴並み。
B稈が太く長いーー農林22号ほど長くはない。
C初期の茎数は多くないが、モミ数を取りやすいーー黄金晴。
D外観品質は、やや小粒であるが粒厚は比較的厚く、腹白。心白が出にくいーー黄金晴に似ている。
Eイモチ病抵抗性遺伝子型ーー黄金晴と同じで、抵抗性もやや弱。F脱粒性が難ーーコシヒカリ、黄金晴より難。G穂発芽性が難ーーコシヒカリ。
山口県農業試験所のレポート「水稲品種「ヒノヒカリ」の奨励品種採用 」を引用しよう。
[背景・ねらい] 新食糧法の施行により米の産地間競争が激化し、これまで以上に「売れる米」、「おいしい米」が求められており、不評を来している瀬戸内平坦部の品質、食味の改善は急務となっている。このため、良食味品種の「ヒノヒカリ」を奨励品種に採用し、瀬戸内平坦部産米の良食味品種への転換を図る。
[成果の内容・特徴] 出穂期、成熟期は「せとむすめ」より3〜5日遅く、「中生新千本」並み〜2日遅い中生種である。 稈長は、「せとむすめ」、「中生新千本」より長いが、「せとむすめ」並みに倒伏は 少ない。 穂数が少なく、1穂籾数の多い偏穂重型種で、u当り籾数は確保しやすい。 収量は「中生新千本」よりやや多く、「せとむすめ」並みの多収である。 外観品質は良好であるが、年次によっては乳白米により低下することがある。 食味は極良好である。
[成果の活用面・留意点] 中生種であるので、気象、水利慣行等から主として瀬戸内平坦部の普通期や麦跡栽培に適する。 やや長稈で倒伏の恐れがあるため、極端な多肥栽培は行わない。 品質向上のため、穂肥偏重による籾数過多や、早期落水を避ける。 刈取適期は、刈り遅れによりうす茶米や胴割米が発生しやすいため、比較的籾水分が高い、やや早い時期である。
収量性=日本晴よりやや多 ヒノヒカリは、収量性に関する主な特徴として、
@耐倒伏性が碧風より明らかに劣り、日本晴やコガネマサリ並であり、
A碧風の収量が620キロ以上になる多肥条件では、倒伏のために碧風よりかなり収量が劣り、
B1平方メートル当たり頴花数が3万5000以上になると年により倒伏が発生するほか、未熟粒が多くなって米質が低下する、という3点がある。(「銘柄米をつくりこなす ヒノヒカリ」から)
※                      ※                      ※
<あきたこまち> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :秋田県農試
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号
交配年次 :1977(昭和52)年
育成年次 :1984(昭和59)年
主な生産県:秋田、岩手、山形
品種の系譜 あきたこまちはコシヒカリを母に、奥羽292号を父に交配して生まれた品種で、秋田県農業試験場では1977年から水稲の育種を開始すると同時に育成選抜を行い、1984年にその第1号として誕生した。あきたこまちの系譜を見ると、母方は
名前の由来 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=あきたこまちの名前の由来をおしえてください。(小5)
答え=秋田県雄勝町小野の里に生まれたと伝わる小野小町にちなみ、おいしい米として名声を得るようにとの願をこめてつけられました。
タイで人気の「あきたこまち」 2003年7月9日、テレビ東京WBSでタイで「あきたこまち」が人気を博している、と報道された。
@山岳民族うつ族の村、サンサリー村では5年前から地元の精米所であきたこまちを買っている。この地方の料理に合う、と評判がいい。
Aチェンライの富士農園社長梶八十二氏「10数年前から地元の農家に委託して作っています。この3年で倍くらいになっています」
Bチェンライのバーヤン村では年2回日本米を収穫する。農民は言う「日本米はタイ米よりずっと高く売れるから」
C日本食ブームで、日本米は高くても売れる。日本産コシヒカリ2Kg=2,300バーツ、タイ産2Kg=818バーツ、タイ米2Kg=400バーツ程度。
D日本米の輸出実績、2001年度=231トン、2002年度=538トン。内74%は台湾への輸出。
 これに対するコメンテーター、フェルドマン氏は次のように言う。
 日本の戦後の政策は水田よりも票田ということが問題だったのですね。票を取るために輸入を制限して、高い補助金を出していた。それによって自民党も他の党も票を取ったのです。けれども90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。 それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います。 今度は補助金を減らしていかなければならない。財政再建ですね。こういう風に、貿易を自由にして、輸入も輸出もできるようになると、財政再建にもつながる。いいな、と思います。
 豊かな日本で「美味しい系」のコメに人気が集まり、タイも豊かになり日本と同じように高くても「美味しい系」のコメが売れるようになってきた。以前ポール・クルグマンは「アジアの経済成長は外部からの投資に支えられているだけなので、いずれ成長は止まる」と言ったのに対し渡辺利夫は「そうではない。アジア経済は確実に成長している」と反論した。 タイで「あきたこまち」のような「美味しい系」のコメが売れ出した、ということはタイも豊かになれる人から豊かになり始めた、と言える。この点から見ると渡辺利夫の主張は正しかった。
タイで日本米を作る人、あきらめる人
HP「オリザの環」タイ「貿易の覇者」(3)に次のような文があった。
 タイでは日本の市場開放の動きをにらんで、高く売れる日本米の研究開発も盛んだ。タイ政府が昨年発表した「農家に栽培を奨励する外国品種」の1号はササニシキ、2号はあきたこまち。どちらも東北の人気銘柄だ。 栽培に適しているのは比較的涼しい気候の地域だという。最北部の都市チェンライに近いサンタンルアン村で生産者に会った。 ブンコーン・チージュムパンさん(52)。タイ企業との契約で、昨年から1.6ヘクタールの水田のうち、約0.6ヘクタールで日本米の栽培を始めた。売り渡し価格が地元のコメより2割高かった。 意欲を持って日本米に取り組んだチージュムパンさんだが、2回収穫した体験から「日本米づくりは難しい」と音を上げていた。 企業からは肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。さらに、苦労して収穫しても品質が十分でなければ、契約通りの価格で買ってもらえない。「タイ米の何倍も手間が掛かる。品質が不十分でタイ米の値段がいいときは、今までの方がもうかるくらいだ。ねばついて自分で食べる気もしないし」タイ政府は、今年1月から3月まで国内9カ所で「タイ農民の新しい選択。日本米」と銘打ったフェアまで開いて普及に力を入れている。が、チージュムパンさんは「来年からは日本米づくりをやめ、もとからあるコメをつくろうかと思っている」と漏らした。 「世界に誇るうまいコメをつくる」というタイ農民のプライドが、国際競争の中で揺らいでいる。

 タイでは、肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。日本では農業経営者が当然のこととして自主的に行なう。ヒューマン・キャピタルの違いだ。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「あきたこまち物語」                        読売新聞秋田支局編 無明舎出版    1989.6.10
銘柄米をつくりこなす「あきたこまち・はなの舞」        農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.15
銘柄米をつくりこなす「ヒノヒカリ・ミネアサヒ・早期コシヒカリ」農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.30 
( 2003年7月14日 TANAKA1942b )
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(4)コシヒカリ独壇場の秘密
市場原理と豊かな消費者
<きらら397> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農試
交配組合せ:母親:渡育214号(しまひかり)×父親:道北36号(キタアケ) (「しまひかり」の交配組合せ:母親:北陸77号(コシホマレ)×父親:そらち)(コシホマレの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:収921)
交配年次 :1980(昭和55)年   
育成年次 :1988(昭和63)年
主な生産県:北海道
北海道から初の全国デビュー 北海道を本格的に開発しよう、と具体的に動き出したのは田沼意次の時代だった。工藤平助(1734-1800)(享保19-寛政12)の「赤蝦夷風説考」に触発され、松本秀持とその協力者たちは田沼意次の意向を受けて蝦夷地調査隊を編成した。そして1785(天明5)年4月29日、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊がおのおの松前を出立した。しかし、田沼意次を追い落とした松平定信は1986(天明16)年10月28日、蝦夷地調査を中止し、関係者を処分する。以後明治になって屯田兵制度で北海道開発が始まるが、良質のコメはできない。食管法時代は政府が買い上げてくれたが、自主流通米時代になって消費者は美味しい米を求めている。北海道にはそれに応える品種がなかった。そこできらら397が登場した。
北海道での水稲うるち上位作付品種とシェア(2001年産)は次の通り。
作付面積=111,774haの内、 きらら397 (64%)、 ほしのゆめ (28%)、 あきほ (4%)
 きらら397に関しては、品種改良に携わった佐々木喜雄著「きらら397物語」が参考になる。この本の要約ではなく、この本から「きらら397物語」の特徴を読み取ってみよう。
 鳥またぎ猫またぎと揶揄された道産米がかつてのスター、ササニシキを抜いて全国5位の収穫量になった。その始まりは1980(昭和55)年北海道立農業試験場に優良米の早期開発を目標としたプロジェクトチームが組まれた。きらら397の場合は品種改良の過程よりも、その売り込み方に興味を持った。ネーミングそれ自体を販売戦略の一環とするため、北海道では初の一般公募による名称募集を行なった。 当時、「あきたこまち」が今までにないネーミングで注目を浴びていたため、「上育397号」のネーミング選定にあたっては、既存の品種と差別化できるような斬新なネーミングが求められていた。一般公募はわずか12日で2万101通の応募があった。「あきたこまち」「きらら397」「ひとめぼれ」こうした名前は古い感覚の、農業界の大物には容認できない。 そうした大物に逆らっての新しいセンスのネーミングが、「コメ新時代」に消費者のハートにアピールした。さらにネーミングとイラストの発表会が、1989(平成元)年9月26日開かれ、この模様のニュースが各紙によって報道され、「きらら397」に対する関心は高まった。
きらら397に続け
2000(平成12)年にはきらら397を育成した北海道上川農業試験場で「ほしたろう」が誕生し、2001(平成13)年から作付が始まった。きらら397に続くヒットとなることが期待されている。
※                      ※                      ※
<キヌヒカリ> (早植栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :北陸農試
交配組合せ:母親:F1×父親:北陸96号「ナゴユタカ」(F1の交配組合せ:母親:収2800×父親:北陸100号(コシヒカリにコバルト60を照射))(収2800の交配組合せ:母親:IRS×父親:コシヒカリ)
交配年次 :1975(昭和50)年   
育成年次 :1983(昭和58)年
主な生産県:滋賀、兵庫、埼玉
生い立ち キヌヒカリは、強稈・良食味・イモチ病抵抗性の強化を目的として、1975年に収2800(母)X北陸100号(父)の交配を行い、夏にこのF1を母としてナゴユタカ(北陸96号)を父として三系交配を行なって育成された。1978年のF4で個体選抜、1979年F5から系統選抜を繰り返し、1983年F9で北陸122号と命名され、関係府県に配布された。 倒伏に強い中生種で、食味はコシヒカリに匹敵する良食味であるため、茨城県では大空に、福井県ではフクホナミに替わるものとして1988(昭和63)年に奨励品種に採用され、同年5月「キヌヒカリ」として種苗登録された。 キヌヒカリの母方は、短稈・多収の IR-8 というインディカ稲に多収稲のフジミノリを交雑し、そのF1に良食味遺伝子の導入を主目的に、コシヒカリまたはコシヒカリ由来の系統を3回戻し交雑したものを用い、父方はトドロキワセやギンマサリ等の栽培特性の良さを導入したナゴユタカを用いている。このため短・強稈で、食味良好、穂数はやや少ないが好天籾数を多くつけ、不良天候下でも収量の低下が少なく品質の安定度が高いなど、これまでの品種と異なる特性を持つ。
形態的・生態的特性
短稈・強稈で葉色は濃い=4月上旬に播種した場合、第三葉の葉鞘長はコシヒカリよりやや短く、苗丈もやや短い。葉身の形状は同品種に類似し、葉色はやや濃い。稈長はコシヒカリよりかなり短く、やや剛である。
密に着粒し千粒重く絹の輝き=穂長はコシヒカリより短く、粒着はやや密で穂の下部に多くつく。穂数は同品種より5-10%少なく、草型は中間型。玄米の粒大は中程度で、形状はコシヒカリよりやや丸みを持つ。千粒重は同品種よりやや重い。まれに心白がみられる。光沢に優れ、絹のような輝きを持つ。みかけに品質はコシヒカリより優れる。
耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い=出穂期および成熟期は、コシヒカリより1-2日遅い。中生の早に属する。稈の太さはコシヒカリと同程度の中であるが、稈基部は同品種よりやや太く、稈質はやや剛い。耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い。
※                      ※                      ※
<はえぬき> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :山形農試庄内支場
交配組合せ:母親:庄内29×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
育成年次 :1992(平成4)年
主な生産県:山形、秋田
大分県農業技術センターのHPに「はえぬき」に関する文があったので要約してみた。
 大分県ではおいしい米の生産を目指して「コシヒカリ」、「ヒノヒカリ」等良食味品種の作付けを推進してきました。その結果、「ヒノヒカリ」がおいしい上に栽培しやすいこともあって作付面積は水稲全体の作付面積の75%以上を占めるまでに増大しました。その結果(1)収穫作業が一定期間に集中し、(2)収穫時期の遅れるものが出てきて、(3)玄米の品質低下、(4)ライスセンター等共同乾燥施設への集中と稼働率の低下、(5)いもち病や倒伏の被害を集中的に受ける恐れ等が懸念される状況になってきました。 平成11年産水稲では出穂後25〜30日頃の、登熟の仕上げの大事な時期に台風18号の強風害を受けて、県下全域の水稲が倒伏する被害を受けました。倒伏は早く起こるほど被害は大きいことから、ヒノヒカリに作付けが集中していることが被害を大きくした可能性が考えられました。 これほど「ヒノヒカリ」に作付けが集中した原因は前述の作り易さもありますが、ヒノヒカリより早生の良食味品種がないことが最大の原因です。当部では早くから、早生の良食味品種の選定に取り組んできましたが、今回やっと極早生の良食味品種「はえぬき」を選定し、奨励品種に採用される運びとなりましたので紹介します。
 この「はえぬき」という品種は「はえぬき」とは言いながら、大分県の生え抜きではありません。東北は山形県の生まれです。山形県立農業試験場庄内支場で、「庄内29号」を母とし、「秋田31号(後の「あきたこまち」)」を父とした組み合わせから育成された県単育成品種で、山形県の主力品種です。山形県では35,000ヘクタール程度栽培され、主として東京方面に出荷されています。さらなるシェアの拡大のために他県での栽培を薦めようとする戦略に乗って大分県でも検討してきた品種です。 大分県では平成8年から奨励品種決定調査に供試してきました。
※                      ※                      ※
<ほしのゆめ> (中生の早)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農業試験場
交配組合せ:母親:F1×父親:きらら397 (F1の交配組合せ:母親:あきたこまち×父親:道北48号)(あきたこまちの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:奥羽292号)
交配年次 :1988(昭和63)年   
育成年次 :1996(平成8)年
主な生産県:北海道
特徴
「ほしのゆめ」は、1988(昭和63)年、北海道立上川農業試験場において、良食味・耐冷性品種の育成を目標に、極良食味品種「あきたこまち」と早生・耐冷性系統「道北48号」のF1を母とし、中生・良食味品種の「上育397号」を父として、人工交配を行った雑種後代から育成された。F1は、交配を行った1988(昭和63)年の冬に温室で養成し、平成元年にはF2〜F3は鹿児島県で、さらにF4は冬期沖縄県で1年3作の世代促進栽培を行った。1990(平成2)年にF5の穂別系統栽培を行い、1991年以降は「上系91340」として系統の選抜・固定を図るとともに、生産力検定試験、系統適応性検定試験ならびに特性検定試験を実施してきた。その結果、中生の良食味・耐冷性系統として有望と認められたので、1993(平成5)年に「上育418号」の地方系統名を付し、関係機関に配布し、さらに、1994年から現地試験に編入して地方適応性を検討してきた。1996(平成8)年に水稲農林340号として農林登録され、「ほしのゆめ」と命名された。
栽培上の注意
@耐倒伏性が不十分なので、「北海道施肥標準」を守り、多窒素栽培は厳に慎む。
A中生種としては、いもち病抵抗性が不十分なので、発生予察に留意し適正防除を徹底する。
B割籾の発生が多いので、斑点米や紅変米などの被害粒発生による品質低下を招かぬよう病害虫の適正な防除に努めるとともに、綿密な圃場管理や適期の刈取りを励行する。
C種子生産に当たっては、脱ぷ粒が発生しやすいので、種子の取り扱い注意事項に十分留意する。 
※                      ※                      ※
<つがるロマン> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :青森農試
交配組合せ:母親:ふ系141号×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
交配年次 :1985(昭和60)年   
育成年次 :1997(平成9)年
主な生産県:青森
青森県のHPから「つがるロマン」の宣伝文を引用しよう。
「つがるロマン」の先祖は、コシヒカリ  「つがるロマン」は、血統ではコシヒカリの孫にあたります。「つがるおとめ」に比べて、食味が1ランク、品質で2ランク優れている、大変おいしいお米です。
「つがるロマン」は限定適地に作付け  「つがるロマン」は、優れた食味と品質を守るために青森県内で特に気象条件に恵まれている津軽中央地帯・津軽西北地帯・南部平野内陸地帯の適地に作付けを限定しています。  さらに「つがるロマン」を作付けする生産者は、細やかな土の管理、低農薬、無理のない乾燥、大きな網目で整粒などの栽培協定にのっとって大切に育てています。
「つがるロマン」はヘルシーな低農薬米  「つがるロマン」は、青森の豊かな自然と水、そして空気が農家と一緒に育てています。田畑を潤す水は、白神山地に代表される山々に原生するブナの森に源を発します。ブナの腐葉に保水された雪解け水が伏流となり、渓谷を伝い、そして田畑へと流れ込みます。天然の肥料ともいえる清らかな水と、病害虫の少ないという恵まれた自然条件をいかし、農薬散布が少ない低農薬米をお届けします。
※                      ※                      ※
<品種改良は物づくり産業の商品開発と同じ>
@品種改良研究開発担当者は職人。文献に登場する工業製品の開発に携わった人たちや、テレビで紹介される町工場の金型職人・旋盤職人などと共通の気質を感じさせる。
A各県の農試が新製品開発を競った。品種改良の分野も競争社会だった。
B生産工場ではQC運動など現場の作業員の知恵が生かされた。コメでは実際に栽培する農家の知恵が生かされた。
Cコシヒカリがこれほど普及したのは市場で、消費者=お客様=神様に気に入られたから。
D豊かな消費者が「美味しい系」のコメを育て、コメの評価基準が土地の生産性から付加価値生産性に変わった。
E新製品開発から消費者に支持されるまでの経緯は、物づくり大国日本の製造業のそれと同じ。
F品種改良という新製品開発を担当する研究者、新品種を実際に栽培する農業経営者、美味しければ高価でも購入する消費者。コメ作り産業は日本のような豊かな国に適した「先進国型産業である」と確信します。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「きらら397誕生物語」            佐々木多喜雄著          北海道出版企画センター 1997.7.9
銘柄米をつくりこなす「キヌヒカリ・初星」    農山漁村文化協会編集部編     農山漁村文化協会    1990.3.30
( 2003年7月21日 TANAKA1942b )
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(5)野菜・果物・花卉の品種改良
「一代雑種」という改良方法
<コメ以外の品種改良> コメの品種改良はコシヒカリを基本に、各県の農試が競って新製品開発に力を注いできた。農林1号と農林22号を交配し、雑種何代目かで固定する。登録された品種の内から各県の農試が奨励品種にして、栽培を指導する。これがコメの品種改良のシステムだ。これに対して野菜・果物・花卉は違っている。 それらを全てまとめるには力不足なので、その内から気になった幾つかの例だけを取り上げてみた。
<一代雑種> 稲の品種改良は雑種何代目かを固定させる。ところが「一代雑種」と言われる品種改良は違う。固定する前のF1、つまり1代目の雑種を使う。これはメンデルの法則を知っていると理解できる。
メンデルの法則
「優劣の法則」 第一代目雑種には優性な形質だけが各個体に現れ、劣性な形質は潜在する(現れないが情報として遺伝している)。
「分離の法則」 雑種第二代では、優性形質を現す個体と劣性形質を現す個体に分かれる。両形質が渾然と混ざり合うことはない。
「独立の法則」 遺伝型がそれぞれ独立して子孫に遺伝することを「独立の法則」と言う。
 一代雑種についてもう少し詳しく、文献から引用しよう。
 ある程度性質の違う、縁の遠い品種の間で交雑させると、その間に生まれた雑種は両方の親品種に比べて草勢が強く、生育が旺盛で、不良環境に対する抵抗性が強く、収量も多い場合が多い。このように雑種の草勢が旺盛になる現象を雑種強勢と呼んでいる。植物は大抵の場合、自家(花)受精を続けていわゆる純系に近い状態になると、草勢が弱くなる。このためもあってか、植物は元来自家受精をさけるような特性をもっていることが多い。
 交配して得られた雑種は、遺伝的な特性を両親からうけ継いでいる。そこで両親のすぐれた特性を併せもつような組合せを計画的に行なうと、雑種は作物として優れた性質を表現するはずである。そしてもし交配をする親系統が、それぞれ遺伝的に比較的斉一なものであれば、両品種間の雑種普通の品種以上に特性がよく揃う。但しこの雑種は、形質の違う両親の遺伝質を併せもっているので、この雑種から種子をとると、次の世代ではメンデルの法則に示されているように分離し、雌親に似たもの、花粉親に似たもの、中間的なものなど種々雑多の形質のものが生じ、非常に不揃いになることが多い。そこで雑種第一世代だけを作物や家畜として栽培。飼育することが考案され、これを一般に「一代雑種」と呼んでいる。一代雑種は現在野菜や花、トウモロコシなど多くの作物や、家畜、家禽、蚕から材木まで、多くの動植物で実用化されている。野菜の場合は1924年に世界に先がけてわが国で初めてナスの一代雑種の利用が実用化された。近年は多くの果菜類やハクサイ、キャベツなどの主要な野菜では、栽培品種の大部分が一代雑種になっている。(中略)
 一代雑種の利用は、一回の交配でたくさんの種子が得られるウリ類、ナス類などの果菜類や、交配の手間の省ける雌雄異株のホウレンソウとか、雌花と雄花が別のトウモロコシなどでまず実用化された。ホウレンソウではタネをとろうとする系統と花粉親にする系統とを並べてまいておき、花茎が伸び出して来て雄株と雌株とが判別できる時期になった頃、採種しようとする系統の雄株を開花する前に全株抜き去る。すると隣に植えてあった雄系統の株の花粉が風の働きで運ばれて授粉が行なわれ、人の手で交配する必要もなく一代雑種のタネが得られる。
(青葉高著「野菜」在来品種の系譜 法政大学出版会 1981から)
※                      ※                      ※
<ホウレンソウ> 漢字では『菠薐草』。西アジア原産。ホウレンソウ「菠薐(ほうれん)」とは中国語でペルシャのこと。 西洋種の導入は明治以降。現在は、西洋種と東洋種を交配した一代雑種が主流。収穫量は千葉、埼玉が全体の2割以上。作付面積は年々増加している。ホウレンソウは雌雄異株。雄株を除去して一代雑種にする。ホウレンソウは風媒花で、雄株と雌株がある。そこで、一代雑種を採種するには両親の品種を別々のうねにまく。雌親品種に出る雄株を若い段階ですべて抜き取ると、雌株にできる種はすべて一代雑種になる。この抜き取る作業がけっこうたいへん。アメリカでは学生のちょっとしたアルバイトになっているとか。
<メロン>東アフリカ原産。中近東から中央アジアへ、また地中海を渡ってヨーロッパへ広がったとされている。アメリカへは新大陸発見後導入され、アメリカン・カンタローブになった。日本にはアメリカの露地メロンとヨーロッパのカンタロープメロンが明治になって入ってきた。しかし温室メロンは高価で庶民には手が届かなかった。 庶民にも手が届くメロンの品種を改良したのは坂田種苗(現サカタのタネ)社長坂田武雄氏だった。坂田氏は、戦後帰還兵が中国から持ち帰ったマクワウリに、南欧で味が良かった、シャランテ系の路地メロンをかけあわせて次々に新種を作っていき、、試行錯誤の結果たどりついたのがプリンスメロンだった。発売が1962(昭和37)年だったため、皇太子ご成婚にちなんで、プリンスメロンと命名された。
 その後しばらく高級な温室メロンとプリンスメロンが共存したが、1983年頃から「アムス」「アンデス」といったビニールハウスで栽培される、品質の良いハウスメロンが出回り始めた。肉質や外観も温室メロンに似ていて、価格も手ごろなので急速にハウスメロンの時代に入った。
 メロンは販売・消費の段階では果物として扱われるが、園芸学上は野菜に入る。
※                      ※                      ※
<サクランボ 佐藤錦> 山形の天童市周辺でサクランボ盗難収まらず サクランボの盗難事件が相次ぐ山形県天童市周辺で24日も出荷間近の高級種の「佐藤錦」が摘み取られる事件があり、山形県警が窃盗事件として調べている。同日午前4時50分ごろ、山形県東根市長瀞の農業小松孝三郎さん(68)のサクランボ畑で、収穫間近の木5本からサクランボ約50キロ(出荷額15万円相当)が盗まれているのが見つかり、村山署に届けた。 また同日午前5時ごろには天童市矢野目で、サクランボ約30キロ(同6万円相当)が畑から盗まれているのを所有者の農業の男性(62)が見つけ、天童署に届けた。盗まれたのはいずれも高級種「佐藤錦」。 天童市周辺でのサクランボ被害はこれで10件目、計1310キロ(同389万円相当)が盗まれている。〔共同 2003/06/24〕
山形のサクランボ 盗難騒ぎで?出荷絶好調 サクランボの高級種「佐藤錦」の盗難が相次いだ山形県で、サクランボの出荷量と出荷額が過去10年間で3番目の好成績になる見通しとなった。全農山形は「盗難は許せないが、騒ぎが話題性を提供した可能性もある」としている。 全農山形によると、農協を通じた今年の出荷量は15日現在で約4750トン。少量の出荷はまだ続くが、3番目に多かった2001年の約4730トンを超えた。出荷額も約81億円で、既に3番目の好成績。 好調の理由を全農山形は雨よけテントなど栽培技術の確立が考えられるとしているが「(6月から相次いだ)盗難の全国ニュースが勢いづけとして影響したのかも」としている。5月時点では平年並みと予想していた。〔産経新聞 2003/07/17〕
佐藤錦誕生秘話 これほど盗難にあう高級サクランボとはどんなものなのだろうか、生産地東根市のHPから佐藤錦誕生の話を引用しよう。
 山形県におけるさくらんぼの栽培面積は、約2,500haである。このうち、品種構成では「佐藤錦」が約8割を占めている。 昭和50年代までは、加工向け生産がほとんどであったため、果肉が固く豊産性のナポレオンを中心に栽培され、佐藤錦は雨による実割れが多いため、一部生食向けに栽培されている状況であった。山形県は、梅雨時の降雨が全国で最も少ない地域ではあるが、それでも降 雨は避けられないため、赤く熟す前の「黄色いさくらんぼ」を収穫していたのである。昭和60年代から、パイプハウスの屋根部分にビニールを被覆する「雨除けハウス」が普及すると、完全に熟すまで収穫期が延ばせるため、佐藤錦本来の真っ赤で美味しい食味が出せるようになり、佐藤錦への改植・新植が進み、今日の王座を築いたのである。
 佐藤錦は、大正始めに東根市で生まれたが、その誕生秘話を紹介しよう。
 東根町三日町に生まれた「佐藤栄助」は、明治41年に株投資に失敗して家業(醤油醸造)を廃業し、家屋敷を整理し松林を開いて果樹園経営を始めた。明治のはじめに、時の政府は欧米から輸入した桜桃(さくらんぼ)を全国20県に配布し、栽培を試みたが、収穫期が日本特有の梅雨の季節と重なるためことごとく失敗し、山形県内で細々と試作されているに過ぎなかった。栄助は、この苗木数種を買い取り、自分の果樹園に植裁し、当時開通したばかりの鉄道により関東方面に出荷できないかと考え、甘いが果肉が柔らかく保存の利かない「黄玉」と、酸味は多いが果肉が固く日持ちがいい「ナポレオン」を交配し、大正元年ころに質の良さそうな20本を選抜した。さらに育成試験を繰り返し、大正11年に「食味も日持ちもよくて、育てやすい」新品種の育成に成功し、栄助の友人である苗木商「岡田東作」はこの新品種の将来性を見抜き、昭和3年に佐藤栄助の名を取って「佐藤錦」と命名し、世に送り出したのである。栄助は、「出羽錦」との案を出したが、東作は「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」と押し通したといわれており、新品種の育成からおよそ80年、今もさくらんぼの王様に君臨する比類なき特性を持つ「佐藤錦」によって、今日の果樹産業の隆盛を築いたといえるのである。
※                      ※                      ※
<デコポン>
<来 歴>
品種名   :不知火
育成地   :長崎県口之津試験場
交配組合せ :母親:清見タンゴール×父親:ポンカン(清見タンゴールの交配組合せ:母親:温州みかん×父親:トロピタオレンジ)
育成年次  :1972(昭和47)年
市場デビュー:1990(平成2)年
主な生産県 :宮崎、愛媛、熊本、広島
 1972(昭和47)年、デコポンは長崎県農水省の口之津試験場で、ポンカンと清見を交配して作られた。デコポンの品種名は不知火で、1997(平成9)年全国統一名称となった。「大きさはソフトボールくらい。ポンカンのやさしい香りと清見タンゴールの甘酸っぱさが絶妙にブレンド。 甘くてジューシーなのはもちろんのこと、簡単にむけて、ほとんど種がなく、手を汚さず袋ごと食べれるのが人気の秘密です。」これが宣伝文句。 郵便局の「ふるさと小包」にも採用され、人気上昇中。
<20世紀>
1888(明治21)年に千葉県東葛飾郡八柱村大橋の石井佐平宅のごみ捨て場で当時13歳の松戸覚之助少年によって発見された梨の苗木は、10年後の1898(明治31)年に初結実した。その果実は豊円で外見が美しく、美味なことから農学者の渡瀬寅次郎や池田伴親らによって、『20世紀梨』と名づけられた。命名の理由はやがて訪れる20世紀に王座をなす梨になるだろうと意味をこめてということらしい。その予言どおり、20世紀を現役で生きぬき、研究者の情熱と努力で多くの優秀な子孫を残している。鳥取県では明治37年に北脇永治によって気高郡松保村桂見に導入された20世紀梨は、鳥取県の気候と風土によく適応し、県人の粘り強い根気とたゆまない努力によって慈しみ育てられ、地域特産品として成長し今世紀の鳥取県の農家経済を大きく支えてきた。今では海外へ輸出されて世界中の民族に愛されている。
※                      ※                      ※
<花の品種改良> 農業は産業なのか?公共事業なのか?日本の農業を見るとこのような疑問が生まれる。ヨーロッパの農業ほど税金をつぎ込んで保護されているわけではないが、「農業の多面的機能」を理由に、農業が産業として発展するのを邪魔している人がいる。そんな農業環境にあっても、花卉産業は元気だ。これからも品種改良が進み生産者は増えるだろう。 東京では大田市場で花卉取引が1990年9月に開始され、当初150万本/日(切花換算)が1999年には281万本扱うようになった。
 大田市場では、オランダ式の機械ゼリ(ダッチオークション/時計ゼリ)が導入され、その成功によって今では10数社が機械ゼリを導入している。従来のセリは、セリ人が場立ちし、手や声によって値段などのやり取りを行い、競り合いによって価格が徐々に上昇し、最高値を示した買参人が購入する仕組み。それに対して、機械ゼリではスタート価格から徐々に下がる電光表示を見ながら、購入希望になった時点で手元のボタンを押し、一番初めに(高値で)ボタンを押した人が購入できる仕組み。その違いにより、従来のセリを上げゼリ、機械ゼリを下げゼリと呼ぶ。機械ゼリの導入は、セリ人による判断が少なく、高値、安値の判断を電子的に処理することから、公平さや公開性に優れ、またコンピュータによる制御によることから、事務処理の迅速化などに優れている。機械ゼリが多くの人に受け入れられ、普及したのも、この様な優位性が認められたからと言える。しかし最近では、セリ時間を短くする先取り(時間前取引)や事前のオーダーによる注文取引を志向する傾向があり、 切り花のセリ販売は全体の1/3にまで低下している。このように大きく変化し、発展する花卉市場、民間企業が引っ張るこの市場を見てみよう。
キク 精興園のHPによると、1921(大正10)年から菊の新品種作りに取り組み、5.000種以上の品種を作り出した。全国で栽培されている菊の50%以上が精興園で育成(交配により新しい品種を作り出す)された。精興園で育成された品種は、全国10.000戸の切花栽培家の農場で生産され、市場を通してフラワーショップの店先に並ぶだけではなく、趣味の園芸家の庭で、全国各地で開催される菊花展の会場で、そして職場、学校、公園・・・でと、美しい花を咲かせ続けている。精興園では国内向けの品種の開発だけでなく、広く世界の市場に向けて品種の育成を行っています。
花菖蒲 こちらは加茂花菖蒲園のHPから引用しよう。 品種改良、育種と言うと、なんだか難しいことのようなイメージをもたれる方も多いと思いますが、その作業手順は至って簡単しかも単純で、交配、播種育苗、選抜の繰り返しにすぎません。  花菖蒲は、交配から開花までの期間が2年と短く、栄養繁殖ができるので、煩雑な固定作業は必要ない。選抜した優良個体がある程度の数に殖えさえすれば、即、品種として確立することが可能。そこで、一般趣味家が改良に取り組むのには適した植物と言える。 品種改良の目的は、今までにない優れた品種を育成することにあるが、要領さえつかめば何も難しいことはなく、根気よく継続すれば、誰にでも成果をあげられる、実に楽しい仕事です。以下に、参考となるように要点をまとめてみましたので、皆さんも花菖蒲の品種改良にチャレンジしてみてください。
バラ ある資料では「19世紀に人為的交雑が始まって今日(1994年)まで、27,000もの園芸品種が記載されている」とある。日本だけを取り上げても「1951年から1980年までの30年間に約4,300品種」が発表されている。オランダを中心としたチューリップの品種改良は有名だが、その数が16世紀から現在までで約8,000種といわれていることと較べても、いかにバラが愛好者をとらえ、多く育種家を奮い立たせ、ついにはアカデミー賞を獲得する以上の喜こびをもって、世界的なバラコンクールで金賞を手中にすることを夢みているかが、容易に想像される。 業界では浜田バラ園がよく知られている。
トルコギキョウ ありえないものの象徴<青いバラ>に全く別のアプローチから迫る、バラのようなトルコギキョウ(Eustoma grandiflorum)をサカタが開発し、販売する。 トルコギキョウは、北アメリカ原産で、原種は、草丈が約90cmで、花は、一重の花で、花色もブルーに限られていた。戦前、おもにヨーロッパで改良され、同時期、日本へも導入され、戦争をはさみ海外では多くの品種が絶え、日本に残った品種から現在までに花色や八重咲きなど花形の充実がなされ、茎を強健にする、あるいは生態型などでの育種が進められてきた。サカタでは1975(昭和50)年には1品種しかなかったものが、現在では145品種を有するまでになっており、パンジー、ペチュニアなどと並ぶサカタの代表品目のひとつとなった。 多くの切り花品目で、作付け面積、出荷量が、減少傾向にあるなかで、トルコギキョウは、前年度比同等の生産状況を示しており、平成13年度切り花類の作付面積調査(農林水産省)によると年間出荷量は、1億2、320万本で、キク、カーネーション、バラ、ガーベラに次ぐ、出荷量第5位の品目となっている。 こうして日本のトルコギキョウ品種が牽引役になり、現在では世界のトルコギキョウ市場の約7割を日本の品種が占めるようになった。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「ぜひ知っておきたい 昔の野菜今の野菜」    坂本利隆著      幸書房       2001. 6.30
野菜 在来品種の系譜              青葉高        法政大学出版局   1981. 4.10  
日本の野菜 産地から食卓へ           大久保増太郎     中公新書      1995. 8.15  
( 2003年7月28日 TANAKA1942b )
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(6)諸外国での品種改良
緑の革命とEU農業政策
<緑の革命> に関しては執筆者の主観が強く出て事実関係が曖昧な文が多いので、ここでは平凡社大百科事典から要約する。
 「緑の革命」(green revolution)、この言葉は1968年3月、アメリカの国際開発局長であったウィリアム・S・ガウドが、国際開発協会(第二世銀)で行なった講演で初めて使ったといわれる。その後レスター・R・ブラウンがレポートで用いてから、急速に世界中に広まった。しかしこの緑の革命の定義は必ずしも定まったものではない。
 メキシコでの小麦の改良と並んで知られている、アジアでの米の改良は次の通り。
 ロックフェラー、フォード両財団の援助で1962年フィリピンのマニラ近郊ロスバニオスの政府提供の土地に国際稲研究所(International Rice Research Institute)(IRRI)が開設され、世界各地から優秀な科学者たちを集め、1965年に奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8、その翌年に同じくIR-5を公表した。これら新品種は、これまでの在来種に対し、きわめて優れた特徴をもっていた。
@在来種の3倍以上という多収であること。
A在来種が180cmに対し100cm内外という短稈になった。もっともこれは深水地帯への導入を阻害する要因になった。
B草型が光合成に都合のよいように葉が直立して短く、下葉まで日光がよく通り、水切りが早いこと。
C生育日数が在来種で180日程度のものが、IR-8では125−135日と短くなり、台風期をたくみに避けることができる性質をもっている。
D季節的な日長の変化に感じない非感光性となり、時期や緯度を選ばず、いつでもどこでも播種できるという性質を持っている。
E多収となるための性質として肥料の吸収利用効果の高い耐肥性という特別の性質をもっている。
F比較的病虫害にも強い性質をもったが、白葉枯病などまだ弱点を完全には取り去っていなかった。
 以上のような性質は、総じて水利調節のよい水田で、しかも肥料、農薬などを多用できる条件が必要で、それらの条件を欠く場合には、本来のこの優れた能力が十分に発揮できず、多収を期待できない性格であった。発展途上国では十分な肥料を確保するのが困難で、地域、環境に適応した各種タイプの品種が要求される。このため国際稲研究所は1973年ころから従来の育種目標であった多収主義を変え、セミ・ドワーフ(短稈性)のみではなく、草型もさまざまで、特定の環境に適応する特別の新品種が1976年から基本方針となった。このころから多収品種を含めた改良品種という言葉が多く用いられ、緑の革命の対象は米麦から雑穀に拡大した。(中略)
 緑の革命に対する理論的評価には厳しいものもあったが、伝統的農法に対する国民的反省と農業開発への刺激を与え、伝統農業への変革への門を開いたことは高く評価できよう。そしてそれは本質的には、1980年代に入ってもまだ進行している。(平凡社大百科事典 から)
<「緑の革命」成否はヒューマン・キャピタルにあり> 1960年代から1980年代にかけて、インドネシアやフィリッピン、パキスタンなどはコメ生産量が倍増している。これほどの成果がありながら、出版物でもWeb上でも緑の革命に批判的な論評が多い。一つは日本の出版界、楽観論より悲観論の方が受けがいい、との見方があるからだろうが、それにしても緑の革命批判論は多い。ポイントは「成功は一時的で、以後伸び悩み、環境破壊などのマイナス面が目立ってきた」だろう。何故このようなマイナス面が目立ってきたのか?次の2点が考えられる。
 @国内需要を満たした後、輸出産業として伸びなかった。その理由は日本など本来輸入国になるはずの国が輸入しなかった。コメを必要とするLDCはアジアから買うだけの財政余裕がなかった。このため生産者の販売価格が上がらず、産業として魅力がなく、アジア諸国は農業国から工業国へと変わろうとした。このことは「タイ米を買うのは、タイに迷惑か?」で書いた。
 A「IR8」は肥料を多く与えることによって多収性が発揮される。ランニング・コストが高いという事は、計画的な農業経営を行なわないと十分な収益をあげられない。多くの肥料を投入することによって土地が疲労するので、それを防ぐための知識(化学肥料・農薬・土壌などの知識)が必要となる。農作業に携わる者にこうした知識が必要になる。ヒューマン・キャピタルが「緑の革命」を生かすか殺すか、のカギになった。それは日本のコシヒカリ誕生から市場制覇への過程を見ればわかる。 いもち病に弱く、倒れやすいコシヒカリ、これを育てたのは農試の技術者だけではなく、実際に栽培した農家の人たちだった。「緑の革命」を成し遂げたアジア、しかしその後を育てるヒューマン・キャピタルは不足していた。
国際イネ研究所(International Rice Research Institute、略称IRRI)
 国際イネ研究所は1960年に設立され、CGIAR(国際農業研究協議グループ)を通してメンバー国、世界銀行、アジア開発銀行などから資金の供与を受けている非営利の国際農業研究センターの一つで、フィリピン・マニラの南60kmに位置している。米の増産技術の開発普及に当たっており、高収量のインディカ米IR8などを開発して、アジアを中心とした貧しい人々の生活を改良したいわゆる「緑の革命」の拠点となった。2002年時点で、職員数は約700人、日本からの拠出額は約360万ドル(4億3千万円)。日本人職員は、本部に理事が2名、ほかに日本からの長期あるいは短期の研究員、大学院生等が数名滞在して研究や情報交換を行っている。IRRIからも日本へ研究者の派遣を行っており、 独立行政法人国際農林水産業研究センター(JIRCAS)が交流の窓口となっている。(http://www.irri.org/
※                      ※                      ※
<ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?>ドイツでは豚の品種改良が進み、在来種であるシュベービッシュハル豚(通称ハル豚)が絶滅に瀕している頃、その味の良さに目を付けて商品として売り出した話。ただし番組の取り上げ方は「何でも新しいのがいい訳ではない」という取り上げ方。ハル豚がなぜ消費者に受け入れられたかと言えば、それは品質がいいからであって、古いからではないはずなのに、番組制作者の捉え方はこの通り。
 2003年2月3日と4日にNHKテレビ「ETV2003」で「EU21世紀の農村再生」という番組があった。この番組に関して 「農業は産業?それとも公共事業?」で上記のように書いた。今回は品種改良という面から再び取り上げる。 番組では「絶滅に瀕していたハル豚が復活し、7万頭までになった」「今までは品種改良された新しい豚ばかりに人気が集まっていた。新しければ何でもいい、という誤った考えがこれで崩された」「これにより地域が活性化され、雇用が確保された」といいことばかりのように報道された。コメンテータのノンフィクション作家島村菜津(なつ)氏はこのように言っている。「能書きだけでなく、美味しいんですよ。噛めば噛むほど深い味がするのです」。 番組制作者もコメンテータもハル豚の復活をいいことだ、ととらえている。本当にいいことなのだろうか? 報道された事実を少し違った立場から見てみよう。
 結論を先に言えば「ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?」となる。 いろいろ豚の品種改良が行なわれた。しかし結局在来種であるシュベービッシュハル豚に人気が集まった、という訳だ。何故品種改良された豚が見捨てられたのか?番組のニュアンスとしては品種改良は1品種ではなさそうだ。何種類かの改良が行なわれた、しかし結局ダメだった、ということになる。商品として市場に出すには、品種改良された新しい豚の2倍の時間がかかる。当然消費者販売価格は高くなる。それにも拘わらず消費者はハル豚を選んだ。新しいものが何でもいい、という事はない。それと同時に、だからと言って、古ければ何でもいい、ということもないはずだ。 コメンテータ島村菜津氏の言葉を受け入れれば「美味しかったので消費者に気に入られた」となる。つまり、品種改良は失敗だったのだ。短期間で市場に出せる、コストのかからない品種改良も結局マズカッタのだろう。安くても美味しくないものを消費者は買わない。美味しければ高くても買う。美味しければ高くてもコシヒカリに人気が集まる。これが「先進国型消費者」なのだ。 日本のコシヒカリは大成功。さらにコシヒカリを基に各種の改良が行なわれ、好評を博している。
 NHKの番組の捉え方は間違っている。先進国型産業と思われたドイツの畜産業、実はそうではなかった。伝統から抜け出せない、乗り越えられない、古典的な産業でしかなかった。消費者が豊かになって美味しければ高くても買う「先進国型消費者」になっていたことに気がつかなかった。しかしコメンテータを含めた番組制作者の考えは、「だから良かった」のだ。畜産業は常に品種改良や飼育方法の革新を通して産業として発展していく、それとは対極にあって、昔からの方法を守り、伝統を重んじ、コストとか生産性を重視しない、産業と言うより文化である、という考え。それはグローバル化という言葉を嫌う人々の反資本主義的感情に訴えるものではある。農業は儲かってはいけない、との考え。 そしてこの番組に登場したヨーロッパの社会主義的農業政策者の考えではあるかも知れない。「畜産業も先進国型産業であるし、そのように育つといい」との立場に立つか?「資本主義はさらに勢いを増し、その勢いはグローバル化している。せめて畜産業などの食糧生産は市場経済の外にあるべきだ」
 農業政策担当者が「農業に生産性向上を求めない」と言うことは「農業は儲からなくてもいい」と言うことであり、「農家は儲からなくてもいいが、破産しては困るから補助金を出そう」は「百姓は生かさず、殺さず」とそっくりではないか?「百姓も先に豊かになれる者から、豊かになる」政策がいい、たとえ将来所得格差が広がりジニ係数が上がったとしてもいいと思う。 
<EU農業は世界に後れる>
ここで叶芳和氏がその著「先進国農業事情」で指摘しているEU農業の問題点を要約しよう。
 第1に、EUは域外に対して徹底した保護政策をとっている。国内の生産者価格が国際価格より高い場合、その価格差の分だけ輸入課徴金をかけて輸入品の進入を防いでいる。そのためどんなコスト水準でも生きないで農業ができる。技術革新が遅れ、国際競争力が低下する。農家はイノベーションの努力をしない。
 第2に、EU諸国はギルド社会である。ライセンスがないと新規参入できない。ハム、ソーセージを作るにはマイスターの免許がないとできない。新たな競争相手が参入するおそれがないから経営革新が遅れる。
 第3に、動物愛護主義者の団体が農業に介入し、産業的発展を抑制している。デンマークでは、鶏を狭い金網の中で工場生産的に買うのは「かわいそうだ」という理由で、採卵鶏のケージ飼いを禁止した。かつては鶏卵の輸出国であったデンマーク、しかし今では鶏卵輸入国になっている。
 第4に、農民のヒューマン・キャピタルが低い。
(叶芳和著「先進国農業事情」 日本経済新聞社 1985.2.25 119P)
 いまEU農業は危機に直面している。国際競争力が低下し、保護コストが膨大になり、財政負担が限界にきている。1983年度以降、価格支持政策も取れなくなり、農業部門は深刻な不況に陥っている。いままで価格支持政策の下、供給過剰になった農産物は輸出補助金付きで輸出してきたが、これもアメリカとの農業戦争がきびしく、困難になっている。EU共通農業政策には伝統的に「生産調整」の考えがないが、もはや生産調整政策も不可避である。こういう状況では、農業の後継者も少なく、農村は衰弱していくことになろう。所詮、価格支持政策で農業と農村の問題を解決するのは無理なのだ。 なお余談になるが工業の発展が農業と農村の安定に寄与していることを理解しておくべきだと思う。他の章で明らかにしたように、EUの農業不況な背景は工業が弱く、マクロ経済がダメになったからである(農業保護のための財政の破綻)。(同書 251P)
 上記とは逆に驚嘆すべき点もあげている。
 ただ、一つ驚嘆すべきことは、農業政策に長期的視野があることである。例えばオランダでは、何十年後に使うかもわからないのに、地平線の彼方までの目の玉が飛び出るほど広大な面積の干拓事業が進められている。まさに100年の計で農業を考えている。完成に長い年月を要する育種技術の高さもその一例かも知れない。世界の歯車が変わるとき、このユックリズムは強さを発揮するかも知れない。そういう底力をもっていることも知っておくべきであろう。 (同書 121P)
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
農業の雑学事典            藤岡幹恭・小泉貞彦       日本実業出版社  1995. 9.10
先進国農業事情 農業開眼への旅    叶芳和             日本経済新聞社  1985.2.25
( 2003年8月4日 TANAKA1942b )
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(7)新大陸からの金銀以上の宝物
トマト、ジャガイモの普及と改良
<西洋野菜の履歴> トマトがなかったらイタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう?もしジャガイモがなかったら、ドイツ人やロシア人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 現代の西洋料理、その食材にはかつて西洋諸国には存在していなかったものが多くある。
 1492年10月12日、クリストファー・コロンブスと彼の部下たちがインドや東インド諸島への近道を探しているうちに、カリブ諸島に到着した。アジアの一部と思い込んでいたアメリカ大陸を発見してしまったコロンブスの後、多くの冒険家が新大陸を目指し、帰りには金や銀や、そして野菜を持ち帰った。 ヨーロッパ人が知らなかった多くの野菜、それがどのように受け入れられていったのか?「新大陸からの金銀以上の宝物」「ヨーロッパ人が食べ始めた農産物」について調べてみた。
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<トマト> 新大陸からヨーロッパへやってきて、今日ではあたかも古代からヨーロッパにあったかのように思われているトマト。最近では高糖度トマトが話題になり、さらに品種改良が進み、需要層を広げている。 そのようなトマトの履歴を見ると、トマト属に入る野生の植物は、南アメリカの西側、アンデス山脈周辺の多くの地域でみつけることができる。しかし古代の人々は栽培植物として育ててはいなかった。野生の植物を改良してトマトの栽培をはじめたのはメキシコ人だった。1500年代前半にスペインの征服者たちはトマトの種持ち帰ったが、あまり歓迎はされなかった。せいぜい観賞用として育てられていた。イギリスと北ヨーロッパ諸国では、トマトにはジャガイモと同じような催淫効果があると信じられていた。
 アメリカでは植民地時代に入植したスペイン人によって栽培されていた。1800年初頭にトマス・ジェファーソンはヴァージニアの自宅でトマトを栽培した。そのアメリカでトマト普及のきっかけとなった出来事があった。1820年、アメリカ独立戦争の退役軍人ロバート・ギボン・ジョンソン大佐は、トマトが危険な食物ではないことを証明しようと、ニュージャージー州セイレムの裁判所の階段に立って、かごいっぱいのトマトを食べ始めた。しかしすぐに気分が悪くなることも、あとで高血圧や脳炎、あるいは癌になることもなかった(当時、トマトを食べるとこういう病気になると考えられていた)(もっともジョンソン大佐は実在したが、これは俗説だ、との意見もある)。
 1876年、H・J・ハインツが商業生産したトマトケチャップを売り出した。この2つの出来事がトマト普及の大きなきっかけになった。
 ヨーロッパ人が400年以上も前にアステカ帝国の畑で栽培されているのをはじめて目にして以来、トマトは長い旅を続けてきた。そしてトウモロコシやジャガイモのような世界経済に影響を与えるような作物にはならなかったが、人々の料理や食事のあり方にとても大きな、楽しい影響を与えてきたのだった。
トマトの品種改良 アメリカには1860年頃イギリスやフランスから導入された。1910年頃にかけては、偶然変異の選抜や純系選抜法によって、ポンデローザ、アーリアーナ、ボニー・ベストなどの優れた品種が育成された。さらに1911年から1935年頃には、品種間交雑に重点をおいた改良で、地域適応性や輸送加工性に優れた品種が多く育成された。1936年以降は一代雑種の利用が急速に普及するようになった。
 トマトの品種改良、それには他の農産物とは違った目標を持った改良が行なわれた。「世界を変えた作物」から引用しよう。
機械で採るトマト
サンフランシスコから双発のプロペラ機で、サクラメントに飛んだときの話である。海岸山脈を越えてセントラル谷に入ると、色タイルを敷き詰めたような模様が眼下に開けた。西の海岸山脈と東のシェラネバダ山脈にはさまれて広がるセントラル谷は、温暖な気候とサクラメント川の豊かな水に恵まれて、みごとな灌漑農業を発達させていた。色タイルのように見えた模様のなかの赤い部分がとくに目についた。双発機がサクラメントに近づき高度を下げたとき、赤いタイルがなんとトマト畑であることがわかった。トマト畑を大型コンバインが走り、トマトが機械で収穫されていた。これは、著者の一人が、もう10年以上も前にアメリカで見た光景である。 (この本は1985年初版)
機械で収穫できるトマトの改良は、まず草丈の短縮。2メートル以上の草丈になると支柱を立てて茎を固定することになる。しかし支柱があると機械収穫ができない。草丈の低い矮生と呼ばれる突然変異体を利用し、草丈の低い品種を改良した。
機械収穫に必要な第2条件は、均一な成熟だ。機会で一気に収穫するには果実がいっせいに成熟する必要がある。
第3の条件は、果実の離脱性が優れていること。普通の栽培ではあまり取れやすいと、収穫前に落ちてしまうので、逆に離脱しにくい方に改良がされていた。
そして第4の条件は果実の破損耐性。トマトは薄い果皮と多汁質の軟らかい果肉からなっているので、少しの衝撃でも果実が破損しやすい。機会収穫に適したトマト品種育成では、衝撃に強いことが最も大切であった。
 1942年、アメリカのトマト栽培家ジョンゲニールが思いついた、トマトを機械で収穫すること、これは約20年かけて達成された。矮性化で無支柱栽培を可能にし、心止まりで果実の成熟をそろえて一斉収穫を可能にし、果実の小形化、細長化、硬質化によって損傷にたえるようにし、さらに離脱性を適度につけて、機械収穫用トマトの改造は成功した。いかにもアメリカ的な改良。これによって「トマト栽培は先進国型産業である」ことがはっきりした。
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<ジャガイモ> ヨーロッパ人は最初に、カリブ海とメキシコで新世界のほとんどの作物に出会っていた。1492年、クリストファー・コロンブスの一行は上陸してまもなく、エスパニョーラ島でトウモロコシとアヒ(トウガラシ)が栽培されているのを発見し、エルナン・コルテスは1519年、メキシコに到着後、チリ(これもトウガラシ)で味付けされたトウモロコシのトルティーヤを食べ、アステカ族のカカオの飲み物、カカワトルをすすった。侵略者であるスペイン人たちはアステカ帝国の首都テノチティトランの青空市場を訪れたとき、トウモロコシやチリやカカオの実のほか十数種類ものトマトとインゲンマメを目にした。 しかしアステカの大市場では、とても重要なアメリカの作物が売られていなかった。それは北アメリカや熱帯のカリブ諸島の人々はもちろん、アステカ族やマヤ族の人々も知らないものだった。この作物、つまりジャガイモは南アメリカだけで、それもアンデス山脈の麓でのみ栽培されていたのだった。
 高く連なるアンデス山脈とその周辺地域は、数千年にわたってアメリカ先住民の文明の発祥地だった。すでに紀元前1000年には、人々はペルーの開眼周辺と安です山脈の山あいの高原に都市を建設し、作物を栽培していた。それから2000年を経て、アンデス一帯は強大なインカ帝国に支配されるようになる。メキシコのアステカ帝国と同じように新しく台頭してきたインカ族は紀元1400年ごろペルーでインカ帝国を建設したが、アステカ帝国よりもはるかに短命に終わった。1532年、およそ260人の兵士を率いたスペイン人フランシスコ・ピサロが、黄金を求めてペルーを侵略する。ピサロが皇帝アタワルパを拉致し処刑すると、インカ帝国は崩壊した(インカ帝国はメキシコからひろまったヨーロッパの伝染病によってすでに弱体化していた)。
 ジャガイモはインカ帝国が権力をにぎる数百年もまえからその土地で作られていたし、インカ族の暮らしになくてはならない作物だった。しかしヨーロッパ人には目新しい、とても不思議な食物だった。1500年代のヨーロッパ人は、地下茎を作る植物についてあまり知識がなかった。ニンジンやカブのような根菜なら知っていたが、ジャガイモはそれらとあまり共通点がないようにみえた。芽の出方も変だった。ヨーロッパ人が知っていた作物はたいてい土にまいた種子から芽が出てくる。しかしジャガイモは一部をそのまま植えると、やがて新しい芽が顔を出すのだ。
ジャガイモに毒がある? トマトもそうだったように、ジャガイモも初めのうち毒があると信じられていた。迷信は長く信じられたが、次第に実用的な特徴に気がつき始めた。
栽培が簡単である。 北ヨーロッパの寒い地方でもよく育つ。 収穫量が多い。 苗を植えてから3ヶ月もすれば収穫できる。 同じ広さの土地から、コムギはもちろんトウモロコシの5倍の収穫がある。 炭水化物はじめビタミン類など栄養面で優れている。 地下に育つため強風や雹の影響を受けない。
 これほど優れているにもかかわらず、1600年代から1700年代のヨーロッパの農民はすぐにジャガイモを植えようとはしなかった。「デンプン質で風味がなく、命を永らえることだけを考えている人々の食物」と考えられていたのだった。
 プロイセンでは1600年代後半、何度か凶作に見舞われた。このためプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルムは、すべての小作人にジャガイモを栽培するよう命令した。プロイセンで広く栽培されるようになった結果、1700年代後半におこった戦争でジャガイモは重要な役割を果たした。17780年プロイセンのフリードリッヒ大王は隣国オーストリアと一戦を交えたが、両軍はたがいに敵国のジャガイモ畑を徹底的に荒らした。この戦略のせいでこの戦いは「カルトフェルクリーク(Kartoffelkrieg) 」、つまり「ジャガイモ戦争」(正式名称は「バイエルン継承戦争)としてひろく知られるようになった。
 もう一つヨーロッパ人がジャガイモを食べるきっかけを作った戦争がある。1756年から1763年まで続いた7年戦争中に、フランス軍に従軍していた薬剤師アントワープ・パルマンティエはプロイセン軍に捕らえられて3年間投獄された。牢獄でジャガイモ料理をあてがわれたパルマンティエはこのアメリカからきた地下茎はフランスの農民にとって理想的な作物になる、と確信した。そして1771年、栄養豊富なジャガイモは「緊急時には普通の食物の代用品になる」と、栽培を推薦する学術論文を書いて賞を受けた。パルマンティエのジャガイモ推進運動は王室の関心も捉える。1785年バスケットいっぱいのジャガイモをルイ16世に、ジャガイモの花で作ったブーケをマリー・アントワネットに贈って好印象を得た。
 1700年代後半になってパルマンティエの努力が実を結ぶ。農民はジャガイモを栽培し始め、多くの料理が工夫され、「フライドポテト」(フレンチフライ)の世に生み出されるようになった。1765年、ロシアではエカテリーナ2世がジャガイモの栽培を国民に奨励する。ポーランド、オランダ、ベルギー、スカンジナヴィア諸国でもジャガイモのお陰で、栄養のある安定した食生活が送れるようになった。
アイルランドのジャガイモ アイルランドでは1754年から1845年までに人口が320万人から820万人に増加した。ジャガイモのおかげで増加した人口、しかし1845年ジャガイモの凶作が訪れた。1848年にもジャガイモ凶作になる。1849年までに150万人が死に(200万人との説もある)、年間20万人、計100万人がわずかなたねイモをもって北アメリカに渡った。アメリカ東北部にアイルランドからの移民が多いのは、このことに関係がある。このジャガイモ凶作からの移民から、後に2人の大統領、ケネディとレーガンが選出された。
 1700年代の末以降、フランスでは薄めに切ったジャガイモを熱い油で「フランス風に揚げて(フレンチフライ)」いた。トマス・ジェファソンは1789年に駐仏対しとしてフランスに赴任したとき、フライドポテトを知り気に入ってしまった。それが高じて、数年後アメリカ大統領になると、晩餐会の客のためにフライドポテトを作るようにホワイトハウスのコックに命じたという。フランス人はフライドポテトが大好きだったので、それを2度揚げする方法を思いつき、きつね色にふっくらと揚げるポテトスフレを生み出した。アメリカではポテトチップスが生まれた。1870年代、ニューヨーク州サラトガスプリングズの避暑地で、レストランの客が「フライドポテトが分厚すぎる」と文句を言ったので、コックはジャガイモを紙のように薄く切って熱い油で揚げて見せた。すると客たちは大満足し、「サラトガチップ」が誕生した。合衆国ではその名前はのちにポテトチップスに変わったが、イギリスではポテトチップスと言うとフライドポテトのことになるので、この新しいチップスは「ポテトクリスプ」と呼ばれている。
ジャガイモの品種改良 ジャガイモが多く栽培されるヨーロッパは、赤道に近い原産地アンデスとは違って、高緯度が多い。このため夏には昼が著しく長くなり、北欧では白夜がみられる。ヨーロッパでは夏がすぎて故郷アンデスとおナ時程度の短い日長になるまで、イモが太らない。このためいちじるしく晩成になるか、まったくイモをつけずに終わることがある。このためヨーロッパの夏の長い日長条件でもイモを太らせ、秋の早霜がくる前に収穫できるタイプが選ばれていった。長日適応性と早熟性をそなえた新しいタイプのジャガイモ、テュベロスム種テュベロスム亜種の原型ができたのは1830年ごろであったが、本格的に栽培されるのは疫病発生以降であった。
アイルランドのジャガイモ疫病から、科学者のジャガイモ研究が始まった。今回の疫病の犯人は、糸状菌の一種で、フィトフトラ・インフェスタンスト名付けられた。フィトフトラとは植物破壊者という意味で、防除にはブドー栽培で発見された農薬ボルドー液がよくきくことがわかった。
イギリスで疫病抵抗性の品種を作ることを目標に、ジャガイモの計画的な品種改良がスタートした。イギリス人、W・パターソンは、スコットランドの在来種の中から優良な個体を選抜し1856年に品種ヴィクトリアを育成した。
アメリカにジャガイモはヨーロッパから逆輸入された。それは1719年、ニューハンプシャーのロンドンデリーに入植したスコットランドとアイルランドの移民がもってきたのが最初であると伝えられる。1845年からのジャガイモ疫病はアメリカにも及んだ。ニューヨークのC・グッドリッチは1851年、原産地チリから数品種のジャガイモを取り寄せた。これを基に1854年から3年間に8700の実生系統を育てた。その中で早生で多収の淡紫色のイモをつける品種、アーリー・ローズは、北アメリカだけでなくヨーロッパへの伝わり、早熟性への改良のための重要な母本として使われた。
1870年にルーサー・バーバンクは、大きな白い丸いイモをつける個体を選び、新しい品種とした。この品種はバーバンクと呼ばれ、彼はこの品種の特許を売った金を元手に800種以上の植物の品種改良を成し遂げた。
1876年、アメリカ在住のアイルランド系靴屋により、白花で淡紫色のイモをつけるアーリー・ローズの畑から、淡紫色の花でイモの黄色な個体が見つけられた。このアイリッシュ・コプラーと呼ばれた品種は、北海道函舘当別の農場主、川田竜吉男爵によって、1907(明治40)年わが国に輸入され、男爵イモの名で、いまも北海道の主要品種として広く栽培されている。
※                    ※                    ※
<主な参考文献・引用文献>
世界を変えた野菜読本    シルヴィア・ジョンソン  金原端人訳    晶文社      1999.10.10  
世界を変えた作物      藤巻宏・鵜飼保雄              培風館      1985. 4.30
じゃがいもの旅の物語    杉田房子                  人間社      1996.11. 7  
( 2003年8月11日 TANAKA1942b )
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(8)美味いものには国籍不用
進歩する品種改良手法
<トウモロコシ> 1492年10月12日、3ヶ月も続いた航海の後クリストファー・コロンブスの一行はようやくカリブ諸島に到着した(アジアの一部と思いこんでいた)。この見知らぬ土地を探検してみると、見たこともない不思議な光景につぎつぎ出くわした。とくに好奇心をそそられたのは、畑に横たわっていたある植物だ。それは人の背よりも高く、人の腕ほどの太さの穂をつけ、その穂は「エンドウマメほどの大きさの粒でおおわれていた」。それはマイスという名の植物で、島に住むアラワック族が作物として育てていた。 4回目のアメリカへの航海に同行し、すなわちトウモロコシ(マイス)を試食してみたら、「茹でてあったり、焼いてあったり、挽いて粉になっていたりしたが、とても美味しかった」と記している。 コロンブスの航海に続いてほかのヨーロッパ人たちも出航し、この不思議な新世界を探検してその富を搾取した。トウモロコシは、彼らが足を踏み入れたアメリカ大陸のほとんどすべての土地で栽培されていた。
 1519年、スペイン人エルナン・コルテスの一行は、メキシコの岩だらけの土地を行軍してアステカ帝国の首都テノチティトランにたどり着いた。大きな都市を囲んでいる浅い湖には、チナンパと呼ばれる人口の浮島を利用した畑がいくつもあり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。スペイン人は、アステカ族の人々が作るトウモロコシ料理の多様さに驚いた。紙ほどの薄さのパンのようなトルティーヤ、トウモロコシの軟らかいパン生地で具を包んださまざまな種類のタマーレ。タマーレには、「幅広のタマーレ、先の尖がったタマーレ、白いタマーレ……貝殻の形にマメを並べたタマーレ……赤い果物のタマーレ、シチメンチョウの卵のタマーレ」があったという。
 フランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちは、ペルーのインカ帝国に「兵士の槍のように背の高い」トウモロコシが栽培されているのを発見した。彼らは1533年、インカ帝国の首都クスコに到着し、聖なる太陽神殿に隣接する庭園で金と銀でできたトウモロコシの茎を見た。インカに市場では、本物のトウモロコシの粒が貨幣として使われていた。スペイン人の記録によれば、食べ物を買いにきた女は、品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に一粒づつ足していったという。
 1500年代から1600年代にかけてアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人がみんな、コルテスやピサロのような探検家や征服者だったわけではない。新天地を求めて旧世界に別れを告げてきた開拓者たちもいた。彼らにとってトウモロコシはただの珍しい植物ではなかった。このアメリカの穀物は、未知の危険にみちた土地で彼らを飢えから守ってくれる食糧となったのだから。
(世界を変えた野菜読本 シルヴィア・ジョンソン 金原端人訳 晶文社 1999.10.10)
ヨーロッパで普及するまで トマトやジャガイモと同じように、トウモロコシもヨーロッパで普及するには時間がかかった。トウモロコシは次の様に優れた作物であった。
収穫量が多い。同じ面積でコムギのおよそ2倍の収穫量。 収穫までの期間が短く、ほかの穀物に比べて手間も暇もかからない。 様々な気候や異なった条件下で栽培できる。
 こうした利点がありながらヨーロッパではコムギが常食だった。その最大の理由はパンを作ることができないことだった。トウモロコシにはグルテンが含まれていない。グルテンはコムギに含まれているたんぱく質で、イーストと結びついてパンを発酵させふくらませる働きをする。トウモロコシはビスケットのように硬くてパサついていた。パンを常食とするヨーロッパ人にはなかなか受け入れられなかった。ごく一部の地域=ルーマニアやハンガリーなどヨーロッパ南東部の、貧しい人々は安くて収穫量の多い穀物だと気付いていたが、ヨーロッパのほとんどの地域では、トウモロコシは家畜やブタの飼料にふさわしい穀物だと考えられていた。
 1600年前半にスペインやポルトガルの小作農がトウモロコシを栽培し始めていたようだ。1670年代にイギリスの哲学者ジョン・ロックは、南フランスを旅行中にトウモロコシ畑を目にしている。彼は、その穀物がプレ・デスパーニュ(スペインコムギ)と呼ばれ、「貧しい人々の食欲を」満たしていることを知った。
 北イタリアでは、トウモロコシ粥はポレタンと呼ばれた。ポレタンはポリッジにあたる古いラテン語からきている。1780年にこの地方を訪れたドイツの作家ゲーテは、小作農の家族が毎日ポレタンを「そのまま何も加えずに食べたり、たまにすりおろしたチーズを振りかけて食べている姿」を記している。
アフリカで普及するまで ヨーロッパではトウモロコシは限られた地域でしか常食されることはなかったが、アフリカでは何百万人もの人がこのアメリカの穀物に依存するようになった。トウモロコシが初めてアフリカに伝わったのは、国際的に奴隷貿易が行なわれるようになってからだった。それは1400年代に始まり、ポルトガル人がアフリカの西海岸にやってきてアフリカ人を連れていき、ヨーロッパや中近東で奴隷として売った。1600年代にヨーロッパの国々が新世界に植民地を建設するようになると、奴隷の需要は大幅に増え、およそ300年のあいだ奴隷船は大西洋を横断して、多くのアフリカ人をアメリカ大陸のプランテーションへ運んだ。初期の奴隷商人は帰路につく際、新大陸からアフリカへトウモロコシを持ち帰った。トウモロコシは初めアメリカ大陸へ輸送されることになっている奴隷に、安くて手ごろな食べ物を供給するために西アフリカで栽培されていた。しかしそのうちアフリカの多くの地域で栽培されるようになる。それは育てやすく収穫量の多い、アフリカの人たちにとって最適の穀物であった。
世界中に普及する トウモロコシはアメリカ大陸から世界中を旅して、多くの人々の食生活や料理に影響を与えてきた。インド北部では1800年代にトウモロコシが常食されるようになったが、あまりにも広く行き渡ったので、多くのインド人が、トウモロコシは太古からインドの食事に欠かせないものだと思っているらしい。中国でのトウモロコシ栽培は1700年代まで南西部に限られていたが、1800年代になると北部にも広がっていった。現在中国のトウモロコシ年間生産量はアメリカについで世界第2位になっている。
 トウモロコシは現代では昔のアメリカ先住民には想像できないようなかたちで消費されている。一つはコーンオイルで、これは粒のなかの油分豊富な胚芽から作られる。胚芽はやわらかくしたトウモロコシ粒を現代の製粉技術ですりつぶして分離させる。もう一つはコーンスターチやコーンシロップで、残ったものをさらにすりつぶして加工するとできる。これらのトウモロコシ製品は、マーガリンやサラダドレッシングやパン・ケーキ類など沢山の種類の加工食品に使われている。このようにトウモロコシは、昔と同じように今もアメリカ大陸の人々の食卓をほとんど毎食のようにかざっている。
トウモロコシの品種改良 トウモロコシがアメリカ大陸からせ買い各地で栽培されるまで長い時間がかかった、そして品種改良も本格的に行なわれるのは18世紀後半になってからだった。20世紀に入って、雑種強勢(ヘテロシス)を利用する一代雑種(F1ハイブリッド)による改良が始まるまでは、このやっかいな他家受粉植物の改良に、あの手この手の育種法が試みられた。
 第一の方法は品種混植法による改良で、1808年に発刊されたフィラデルフィア農学会誌によると、ニュージャージー州の農業主が、1772年に、ギニアから導入したフリント種と在来の早生種とを混合栽培して、早生で穂の大きい株から種子をとったという記録がある。 インディアンから贈られたトウモロコシに本格的な改良の手が加えられるようになり、品種混植法、集団選抜法、一穂一列法などの育種法が考案され、アメリカのコーンベルトの大穀倉地帯を形成する基本品種が生まれた。しかし、他殖性植物のトウモロコシは自殖性植物と違って、選抜された材料の受粉様式を厳密に制御しないと、選抜の高価があがらない。このため20世紀になって一代雑種を利用する育種がさかんになるまでは、トウモロコシの改良のテンポはゆっくりしたものだった。アメリカのコーンベルト地帯におけるトウモロコシの収量は、一代雑種の利用によってはじめて飛躍的に向上した。
 この新しい一代雑種合成法は、つぎのような手順で進められる。
(1) 自殖によって多数の系統をつくる。
(2) その中から優良な自殖系統を選抜する。
(3) それらを交雑する。
(4) 雑種強勢の顕著にあらわれる組合せを探す。
(5) この組合せの両親系統を自殖で繁殖させる。
(6) 毎年一代雑種を作って利用する。
一代雑種法の進歩 この一代雑種を利用する方法、しばらくは普及しなかった。その理由、自殖系統間の交雑では、母本とする系統の生育が貧弱で、十分な交雑種子を生産できなかったことによる。そこでコネチカット州のジョンズは、自殖系統間交雑で得られる一代雑種どうしを交雑する複交雑法を提案した。雑種強勢のよくあらわれる4種の系統A,B,C,Dを用意する。AとBとの交雑で得られる一代雑種を母本とし、CとDとの交雑で得られる一代雑種を父本として、一代雑種同士を交雑する。交雑によって強勢化した一代雑種どうしの交雑で、農家に配布する種子を生産できるので、採種効果は高まった。この方法は一代雑種を2度行なうので、「二代雑種」とでも言うべき方法だ。 こうして普及した複交雑、しかし現代では生育旺盛な自殖系統が育成できるようになり、単交雑によく一代雑種種子の生産が効率よくできるようになった。このようにトウモロコシはアメリカでの品種改良により生産効率高まり、先進国では家畜の飼料用穀物として重要な農作物になっている。
※                      ※                      ※
<トウガラシ>トマト、ジャガイモ、トウモロコシと続いてその後がトウガラシ。インゲンマメとかピーナツ、カカオ、カボチャ、パイナップル、アボガドなど差し置いて「トウガラシ」。その理由は追々明らかにするとして、ヨーロッパ人とトウガラシの出会いから話しを始めることにしよう。
 クリストファー・コロンブスは1493年1月15日の日誌に、カリブ海のエスパニョーラ島で沢山の「アヒ」を発見したと書いている。彼は、ヨーロッパで珍重されている高価な黒い香辛料のいたとえて、アヒを先住民の「コショウ」と呼び、「とても体に良いので、人々は毎食欠かさず食べている」と記している。 26年後にメキシコを征服したスペイン人は「チリ」と呼ばれる刺激の強い作物がアステカの料理でとても重要な役割を占めていることに気づいた。アステカ族は「辛くないレッドチリ、太いチリ、辛いグリーンチリ、イエローチリ・・ウォーターチリ・・ツリーチリ」などいろいろな種類を栽培していた。
 アヒとチリはそれぞれ別のアメリカ先住民の言葉だが、両方とも一つの重要な植物を指す。この植物とそれから作られる食品は、新世界から旧世界へ輸出されたものの中でもっとも人気のあったものの一つだが、もっともその原産地が忘れられがちなものでもある。現在その植物は世界中で栽培され、いつでも沢山の紛らわしい矛盾した名前で呼ばれている。例えば英語圏の人々のあいだでは、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カプシムカ、カイエン、パプリカなどと呼ばれている。
 これらの聞きなれない名前はどれも紛らわしく謎めいているが、植物学者にとってその植物は謎でもなんでもない。これはナス科の仲間であり、ナス科には他にジャガイモ、トマト、タバコといったよく知られたアメリカ原産の作物がある。この植物はナス科の「トウガラシ」(カプシムカ)属に入っている。カプシムカという言葉は箱という意味のラテン語からきているのだが、この名前の付いたのは種の入っている部分、つまり実がなんとなく箱のかたちに似ているからだろう。トウガラシの実は内側に沢山の種子がついた肉質の壁でできていて、中は空っぽになっている。ほとんどが未熟なときには緑色で、熟すと黄味や赤味がさす。
(「世界を変えた野菜読本」から)
 別の文献には次のように書いてある。
 1492年11月4日、日曜日付けのコロンブス航海誌によれば「キューバ島でインディオたちがクルミのような形をした果実を持っていたという部下の言葉に大変驚き、もしやそれが探し求めているコショウかニッケイではないかと、体が震えるほど興奮した」とあります。当時、ヨーロッパではコショウは肉の防腐や香り付けになくてはならないものとして貴重品扱いされており、大航海時代はこのコショウの資源拡大を求めて始まったともいえるわけです。しかし、キューバ島の赤い果実はコロンブスが求めていたコショウでもニッケイでもなく、現地でアヒーと呼ばれている植物でした。このアヒーは、今日私たちがトウガラシと呼んでいるもので、クルミのようだという記述から、当時すでにトウガラシの栽培品種が存在していたことがうかがえます。これがコロンブスとトウガラシの初めての出会いでした。 (「世界を制覇した植物たち」から)
コショウ、東方貿易、トウガラシ インド、インドネシア、マレーシアで取れるコショウはヨーロッパ人にとって生活必需品だった。肉食を維持するためには、防腐、消臭、調味のためにコショウはなくてはならないものだった。しかしこれはヨーロッパでは栽培できない。アジアから持って来なければならない。そこに東方貿易の目的があった。ジェノバ商人が独占していた東方貿易、しかしオスマントルコがビザンチン帝国を滅ぼし、コンスタンチノーブルをイスタンブールと改名するに及んで、東方貿易は消滅する。ヨーロッパ人はコショウなどの香辛料を何らかの方法で入手しなければならなかった。
 ちょうどこの頃羅針盤が改良され、地球球体説が認められてくる。そこで「コショウ一粒は黄金一粒」とまで言われた香辛料の、新たな輸送ルート開発が待望される。そして多くの冒険家が登場した。ヘンリー航海王子、バーソロミュー=ディアス、バスコ=ダ=ガマ、フェルディナンド=マゼラン、アメリゴ=ベスプッチ。ここでは名前をあげるにとどめて置くが、この時代香辛料は命を賭けて探し求めるほど価値があった。トウガラシの英語はRed pepper、つまり「赤いコショウ」となる。
トウガラシの普及 コショウを求めて新大陸へ向かった冒険者たち、しかしトウガラシは余りも辛すぎて直ぐには普及しなかった。そんなヨーロッパ人とは違った、アフリカ、アジアでは直ぐに普及した。1500年前半にはサハラ砂漠以南のアフリカの多くの地域で栽培され、インド、中国(とくに雲南省と四川省をふくむ南西地方)でも栽培されるようになった。こうしてアジアで栽培されたコショウはオスマン帝国へ普及し、東ヨーロッパを経由し西ヨーロッパへと普及していった。そうしてアメリカ大陸のヨーロッパからの移民には、ヨーロッパを経由して伝えられて行った。
 ビタミンCの発見でノーベル賞を受賞したセント・ジェルジーが1937年にトウガラシの果実に大量のビタミンCが含まれていることを見つけた。このことが契機となってヨーロッパでのパプリカ系の甘味トウガラシの栽培が急増することになった。このようにヨーロッパでは新しい食材に対して保守的であった。 
トウガラシの仲間たち ピーマン、シシトウ、パプリカ(カラーピーマンとも言われた)これらはトウガラシの仲間。トウガラシは戦国時代、日本に入って来て江戸時代にはかなり普及した。ピーマンはアメリカで品種改良された(一代雑種)辛くないトウガラシであり、カリフォルニアワンダーなどが日本で栽培されだしたのは明治に入ってから。 本格的に作られるようになったのは昭和30年以降で、昭和20年代には売上高は第50位くらいであった。 現在はベストテンに顔を出す売れっ子で、昭和30年の売上高は5,700万円、昭和50年の売上高は62億9,000万円だった。生産高トップは宮崎県。
 「ピーマン」をキーワードに検索したら、次の様な文があった。 
 子供の「嫌いな食べ物」の上位にランキングされるピーマン。舌がピリピリして苦くてまずくて…わからないでもない。なぜこんなピーマンが食用として流通しているのか。これには戦後の食品流通が関係している。 敗戦直後、食料品には経済統制の網がかけられ、ほとんどの食品は自由に売買することが出来なかった。この時、ピーマンは対象外。というのも、そもそも日本人の食卓にピーマンが出てくることはほとんどなく、その存在も忘れ去られていたため。 東京近郊の農家は、他の野菜や米は自由に作れないのに対してピーマンなら自由に作って自由に売買できることに目を付けた。食糧難の時代、闇市で飛ぶように売れて日本人の食生活に浸透していったのである。食糧難だからマズくても食べていたが、次第にそうもいかなくなる。だから、最近では品種改良も進みピーマンはおいしくなってきているらしい。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
世界を制覇した植物たち        日本園芸化学会編              学会出版センター    1997. 5.10  
( 2003年8月18日 TANAKA1942b )
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(9)まだまだあった新大陸の味覚
コロンブス時代からの植物史
<インゲンマメ> コロンブスは、アメリカとヨーロッパの「果物」と「草木」には「昼と夜ほどの違いがある」と言ったが、かれの言葉は当たらずといえども遠からずだった。たしかに全体がすっぽりと皮につつまれ、その中に丸々とした粒が並んでいる穂をつけた背の高いトウモロコシ、あるいはアメリカ先住民が作る特別な飲み物の材料、カカオ豆が実るカカオの木のようなものはヨーロッパにはなかった。ヨーロッパ人は、甘くてとげのあるパイナップルのような不思議な果物、あるいはピーナツのように土の中で育つ「木の実」も見たことがなかった。
 しかしアメリカの作物の中にはあまりエキゾチックとは言えないものもある。実際、ヨーロッパで栽培したり食べたりしているものととてもよく似た作物もあったのだ。その良い例が新世界のマメだろう。アメリカ原産のマメはそのうちヨーロッパで広く栽培されるようになるのだが、ヨーロッパ人によって発見された当時はあまり注目を集めなかった。コロンブスをはじめとする探検家たちはヨーロッパのマメをよく知っていたので、アメリカ大陸の新種のマメもまた、何千年ものあいだ人間の食生活に取り入れられてきた作物と同じ科に属しているのだろうと考えていた。
 ヨーロッパでは古くからソラマメを食べていた。古代ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパでも一般庶民はソラマメを常食していた。アメリカ原産のインゲンマメがヨーロッパに伝わったのは、ヨーロッパ人がはじめて新世界に上陸した直後だった。コロンブスが1493年に2回目の航海をした後、スペインにマメの種子を持ち帰った。その新しいマメは1540年大にはヨーロッパで出版された植物誌に載るようになったが、アメリカ原産であることは知られていなかった。初めイギリスで広まったときは、食糧としてではなく、きれいな赤い花を観賞するために育てられた。 しかしヨーロッパ人は、このマメが目を楽しませてくれるだけでなく、お腹も満たしてくれることを発見した。現代、インゲンマメはアジアではそれほどでもないが、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカで広く普及するようになった。
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<ピーナツ> 南アメリカは今から3000年以上も前にピーナツが初めて登場した場所であり、古代のペルー人は野生のピーナツを栽培し、乾燥した海岸地方の砂土で作物として育てていた。ピーナツがこの地域で常食されていたことは、考古学的な発掘から明らかになっている。紀元前500年以前に、ピーナツは原産地の南アメリカからメキシコへ伝わっていた。そこではピーナツを食物というより薬として考えていたようだ。サアグン修道士の本によれば、アステカの市場でピーナツは「ハーブの知識と根菜の知識をもった治療師」である、「薬屋」で売られていたという。粉にして水にとかしたピーナツが解熱剤として使われていたらしい。1500年代に初めてピーナツの存在を知ったヨーロッパ人は、それがなじみのある木の実とは妙にちがっていることに気づいた。おそらくスペイン人とポルトガル人が持ち帰っただろうが、ピーナツは広く栽培されることはなかった(ヨーロッパの大部分の気候はピーナツを栽培できるほど暖かくなかった)。そのかわりトウガラシと同じように、ピーナツはアフリカやアジアに新天地をみつけた。 トウガラシ同様、最初にピーナツをアフリカに持ち込んだのはポルトガルの商人と船乗りだった。1560年代にはアフリカの西海岸で栽培されており、その同じ地域でポルトガルなどのヨーロッパの奴隷商人が奴隷売買をしていたのだった。
 アフリカでピーナツはトウモロコシやキャッサバと同じように、深刻な栄養不足を補ってくれた。アフリカ大陸は広大で気候や地形も変化にとんでいるにもかかわらず、耕作に適した作物がほとんどなかった。そこで育てやすいだけでなく、ひどく不足していた栄養分を補給してくれるピーナツはとりわけ歓迎されたのだった。北アメリカではのちにスナックになったが、西アフリカではたちまち日々の重要な食材になった。
 ピーナツがアジアにたどりつくと、アフリカの場合と同じようにたちまち毎日の食事に欠かせないものになった。東南アジアの人々は、ひき割りピーナツがコメや肉や野菜にかけるソースにぴったりなことに気づいて、ピーナツにトウガラシやココナッツやミルクやライムの果汁などさまざまな種類の材料を混ぜて辛味のあるソースを作った。 ピーナツをつぶすと、料理に使える透明な油が出てくる。これはアフリカやアジアの多くの地域でもっとも重要な料理用油になった。ヨーロッパの人々もピーナツ油の質の高さに驚いた。ヨーロッパでピーナツは食材として人気は出なかったが、ピーナツ油はひろく使われるようになった。
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<カカオ>チョコレートといえばこのHPでは「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」で取り上げた。 カカオ豆最大の輸出国コートジボアール(象牙海岸共和国)の輸出量は106万トン。ガーナは輸出量29万トン。日本の2001年の輸入量は約5万トン。ガーナからの約3万7千トンがトップ。別の資料による生産量はコートジボアールが120万トン、ガーナが35.5万トン。ヨーロッパの輸入量はドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・オーストリア・デンマークの7ヶ国で計81万トン。  
 日本ではカカオはアフリカ産と思われている。しかし原産地はアメリカ大陸。1519年、エルナン・コルテスの一行は、メキシコの東海岸に上陸すると皇帝モクテスマの特使たちに歓迎され、友好と平和のしるしに食べ物や飲み物でもてなされる。飲み物はカカワルト(カカオ水)だったが、あまり美味しそうには見えなかった。「スペイン人が飲もうとしないのを見たインディオたちは、すべてのヒョウタンの中身を毒見してみせた。スペイン人はチョコレートでのどの渇きをいやし、それを飲むとどんなに元気になるか、知った」
 ヨーロッパに初めて伝えられたカカオ豆は、1528年にスペインに帰国したコルテスによってスペイン王であり神聖ローマ帝国皇帝でもあるカール五世の宮廷に献上された。1500年代、カカオの木はメキシコのプランテーションだけで栽培されていたので、スペインがココアの原料を統制していた。しかし直にイタリア人やフランス人もその泡だった濃厚な飲み物の存在を知った。カカオ豆はスペインやメキシコからひそかに持ち出され、裕福なヨーロッパ人はすぐにスペイン人がしていたように、カカオ豆を炒ってから挽いて粉にし、できあがったココアを泡だてて飲むようになった。
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<タバコ>「1492年10月15日……丸木舟に1人で乗った男が、サンタ・マリア島からフェルナンディナ島へと向かうのに出会いました。彼は、握りこぶしほどの大きさの彼らのパンを少しと、水を入れた瓜殻(カラバサ)と、赤土を粉にして練ったものと、乾いた葉っぱを2,3枚持ってきました。この葉っぱは、サン・サルバドール島でも贈り物として私に持ってきましたから、彼らが珍重しているものに違いありません」
 これは「コロンブス航海誌」(林屋永吉訳)の1節で、「私」とはコロンブス、「乾いた葉っぱ」とはタバコのことです。コロンブスの新大陸発見は、先住民にとってはその後の悲惨な歴史の始まりだったわけですが、黄金を求めていたコロンブスはタバコには目もくれず、最後までタバコとは縁のない男だったのです。
 当時、南アメリカからカリブ海の周辺にかけては、先住民のインディオによってタバコが栽培されていました。一方、北アメリカ東部では、タバコと比べると香りや味が劣るルスティカタバコが栽培されていました。
 これらのタバコがヨーロッパに伝来したのは16世紀初めごろで、まずスペインに伝わり、その後16世紀のうちに、ポルトガル、フランス、イギリスへとそれぞれ別の経路で伝えられました。しかし、16世紀前半の約50年間はタバコはあまり問題にされず、ごく限られた人たちがたばこを吸っていただけでした。ところが、1543年、スペインのサラマンカ大学の教授が医薬品としてのタバコの効能を発表してから50年間は「万能薬」として盲信されました。たばこ喫煙がヨーロッパ中に広まったのは、17世紀前半の30年戦争がきっかけでした。なお、「シガレット(紙巻たばこ)」の歴史は新しく、18世紀ごろに始まりましたが、19世紀中ごろのクリミア戦争中に、兵士らが大砲の火薬を包む薬包紙で巻いてたばこをすったことをきっかけに、広く普及したといいます。
(「世界を制覇した植物たち」から)
タバコの品種改良 タバコの品種改良はアメリカがリードしている。17世紀初め(1612)にイギリスの開拓者がアメリカのヴァージニアに入植し、ベネゼラのオリノコから伝来したタバコの栽培を始めた。雑種集団の中から個体を選び、その自殖系の分離集団のみを利用したり、突然変異株を利用していた。1859年に黄色種乾燥法の基盤ができ、同じ時期に紙巻たばこが開発され、アメリカのたばこ産業は発展した。 20世紀に入ると、メンデルの法則が一般の育種家たちにも受け入れられ、各地で交雑育種による品種改良が行なわれるようになった。アメリカでは、農務省、州立大学や農業試験場、が一体となって品種改良に取り組んだ。産学協同、官民共同で改良が行なわれた。1930年代には紙巻きたばこの全盛時代になり、改良は各種病害対策が主流になった。この流れは現代にも通じ、抵抗性品種を開発するとそれを侵す新しい菌糸が出現し、常に新しい抵抗品種の開発に力が注がれている。
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<その他の農作物>この他にも多くの農作物がヨーロッパに伝えられた。これまで取り上げた植物に比べたら大きな社会的影響力を発揮したわけではないけれど、かと言って無視することはできない。そのような植物について調べてみた。
パイナップル 1500年代にパイナップルはヨーロッパに船積みされた。すぐに富裕な人々の贅沢品として普及した。それが1800年代にはアメリカ大陸だけでなく、オーストラリア、アジア、アフリカでも栽培されるようになり、富裕な人々の贅沢品ではなくなった。現在ではタイが最大生産国で世界の総生産量のおよそ4分の1を栽培している。
カボチャ 1500年代にインカ族、アステカ族、マヤ族など多くにアメリカ先住民族の畑でカボチャが栽培されていた。これは割合に素直にヨーロッパ人に受け入れられた。ミルクと卵と蜂蜜を加え、ヨーロッパではパイの具にするようになった。このカボチャの仲間でイタリア名で通っているのが、ズッキーニ。この皮のやわらかいカボチャは1600年代にイタリアに伝えられ、イタリア料理に取り入れられた。
キャッサバ 日本人には馴染みのないキャッサバ。北アメリカでもヨーロッパでも知られていない。1500年前半ヨーロッパ人はキャッサバの栽培があまりにも簡単なのに驚いた。茎を切って土中に植えるだけで、1年以内にその根は人間の足ほどの大きさに育つ。またヨーロッパ人は、あらびき粉が腐ることなく数年も保存できることにも強い印象を受けた。しかしその風味の乏しい味を好まず、普及しなかった。しかし、ポルトガル人によってアフリカに伝わると、たちまち広まった。ほかに作物がない熱帯地方で主要な穀物となった。こうして北アメリカやヨーロッパでは知られていないキャッサバ、しかしプディングを固めたり、ソースにとろみをつけるために使われるタピオカは、乾燥したキャッサバから作られたものなのだ。
アボカド アステカ族はアファカ・ムリと呼ばれるアボカドソースを作り、トウモロコシのトルティーヤといっしょに食べていた。ちょうど現代人がトルティーヤチップでグアカモーレをすくって食べるように。アボカドは傷みやすくヨーロッパまでの船旅に耐えられなかったので、1900年代になって船積みと保存の有効な方法が開発されるまで、アメリカの作物にとどまっていた。現在はアメリカとメキシコ、ブラジルが主要生産国。
バニラ アステカ族がカカオの飲み物カカワトルを作るときによく加える香味料のひとつに、ランの莢から作った「トリルショチトル tlilxochitl」があった。これが現在よく使われる香味料バニラのことだった。スペイン人はそれを「小さな莢」という意味で「バニラ」と呼んだ。1800年代にメキシコ以外でもバニラを栽培できるようになった。ベルギーの植物学者が人工的にそのランの花を受粉させる方法を研究したからだ。それまでは他の土地ではうまく栽培できなかったが、それはメキシコで花を受粉させていたミツバチとハチドリがいなかったからで、人工受粉が開発されると、バニラが大好きなフランス人は熱帯地方の植民地にプランテーションを開いた。
サツマイモ サツマイモは1500年代には、ペルーの低地はもちろんのこと、カリブ諸島やアメリカ大陸の暖かい地方で栽培されていた。1500年代後半にはヨーロッパで普及するようになった。ジャガイモ=ポテト(poteto)、に対してサツマイモはスイートポテト(sweet poteto)と呼ばれた。新大陸からヨーロッパへ渡ったスイートポテト、新大陸からの食物としては珍しく、ヨーロッパ人に素直に受け入れられた。 まずコロンブスの船員たちが船上食糧として採用した。この時代の航海で恐ろしいのは壊血病であった。貧血・衰弱・脛骨の疼痛・歯ぐきの炎症・皮膚からの出血などで、治療の方法がなかった。ところがこの新大陸産のイモを食べるとこの病気にはかからないことが分かった。生で食べることもできたし、船の中でも腐らなかった。
※                      ※                      ※
<地産地消という微視的感覚> 新大陸原産の野菜がヨーロッパ、アフリカ、アジアと旅をして、新たな料理法が考えられ、普及していく。その時間は1492年から現代までに亘っている。この広さと時間の長さ、これに頭の働きを合わせていると、あの「地産地消」とか「身土不二」という微視的感覚に対しては、一体なんとコメントしたらいいのだろうか?あまりの感覚の違いに何も言うことが出来なくなってしまう。 これでもシルクロードや東方貿易やその他、ゲルマン民族の大移動、アレキサンダー大王、十字軍などによる食材の遠征なども考えたら、「地産地消」とか「身土不二」は余りにも小さい、狭い感覚でしかないので、やはり問題点にピントを合わすことが出来ない。今は1492年から現代に至り、さらに未来の食糧に思いが走って行く。品種改良の将来、いずれ技術者の夢も扱ってみようと思う。
※                ※                ※
<主な参考文献・引用文献>
さつまいも史話            木村三千人                 創風社出版       1999.11.10
( 2003年8月25日 TANAKA1942b )
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(10)江戸町人の好奇心と遊び心
花卉園芸・元禄グルメ・西鶴
<大江戸品種改良> コシヒカリの品種改良から始まった、「日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論」はコシヒカリ系=美味しい系の品種改良、野菜・果物の品種改良へ、それから緑の革命、コロンブス以後の新大陸からの宝物=農作物へと話を進めた。TANAKA1942bの話の進め方としてはどうしても江戸時代を無視するわけにはいかない。江戸時代は好奇心と遊び心いっぱいの江戸町人の花卉園芸関係の話、それと現代的な意味では品種改良とは言えないにしろ、品種の特性を充分生かして生産していた稲作、これらについていろんな文献を調べてみた。それらをTANAKA1942bなりの視点からまとめてみた。
<大江戸キク事情> 関が原の合戦(1600[慶長5]年)の勝利のあと、徳川家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた(1603[慶長8]年)。ようやく平和な時代を迎えることとなって、園芸復興の時代が訪れる。たとえば後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)の嗜好に倣って、大御所(二代将軍)徳川秀忠(1579-1632)や貴人たちはツバキの鉢植えに熱中する。時は寛永年間(1624-44)であった。
 この<寛永ツバキ>の流行と同時に、秀忠は諸国から珍しい木や草花を集めることに執心した。これがおそらく江戸時代の庭園造りの始まりでもあったろう。こうした<将軍の道楽>がゆるされたのは、なにより世情の安定がもたらされた故に他ならない。江戸城を中心に周辺の町割り計画による市街化の進行や、利根川・隅田川等の河川の整備が進んで、江戸幕府の財政的基盤の安定と幕藩体制の定着が背景にあった。
 秀忠に続いて三代将軍徳川家光(1604-51)もツバキの愛好者であった。もうこの頃になると、大名や貴人たちの中にあって「お留花」と称して、自慢の品種の花を確保し、門外不出として愛でることも、ままなされていた。この「お留花」は、園芸を自身だけもひそやかな楽しみにするという精神構造から生まれた典型的なものであったともいえよう。
 寛永期には、キクの栽培もいっそう熱心に行われた。江戸時代になると、キク作りも趣味から高価な珍種売買の実利を兼ねた商売まで、平安期の貴族趣味とはまた違った発展があったようだ。そこには「菊合せ」の復活によって再びキク作りが盛んになったという事情があった。京都や大坂の上方では、キクなどの「花合せ」(花の品評会)が頻繁に行なわれていたのである。もっとも、こんどの「菊合せ」のやり方は、左右に分かれて競いはするものの歌は添えない。花だけを並べ、一対ずつ純粋に花の優劣を競ったものであった。いわゆる今日のキクの品評会に近いものであるといえばよかろう。
(棚橋正博「江戸の道楽」)
<江戸名所花暦 雑司ヶ谷の菊> 巣鴨村や染井村と隣接する雑司ヶ谷(豊島区雑司ヶ谷、南池袋)も観菊の季節になると賑わった。岡山鳥の著した「江戸名所花暦」(1827[文政10]年)から現代文にしたものを引用しよう。
 
鬼子母神の境内や、貨食屋(りょうりや)の奥庭や、あるいは茶店、植木やはいうまでもなく、どこでもみな、よく菊を栽培して造り、毎年十月八日より、死者の追善供養をする会式なれば、その参詣の群集を期待しているのである。浄土宗や日蓮宗の寺院にも、おなじ時、境内または庭中へ菊を植え、日光からの日陰をつくる障子をかけ渡して、菊作りの見事さを見せようとしているところもある。また日蓮上人が諸人を救い給うところを、または浄土宗の寺では法然上人御難のところなどを菊の作り物とする。そんなことで参詣する人々は、本堂前に充満して、帰ることを忘れることを忘れるほどなのである。
<江戸の朝顔> 江戸の町では、朝顔は5月のなかばから売り出して、8月前までを限りとした。「アサガオやあ、あさがお」と棒手振りで夜明けから朝顔売りが町々を歩き、正午までに売り切って帰る。素焼きの小鉢作りで、花には紅、白、瑠璃、あさぎ、柿色、ふちとり、しぼりなど多様な色と模様があり、花の大きいものが喜ばれた。裏長屋の門口にも、貧富の差なく咲く朝顔、それが江戸の夏の風景であった。朝に咲き、夕べにしぼむ朝顔は、江戸っ子気質に合ったのだろう。その栽培は」盛んだった。
 朝顔は元来観賞用草花ではなかった。はじめ薬用として栽培されていたものが、しだいに観賞用として人々が愛好するようになったものである。文化のはじめに、下谷御徒町(したやおかちまち)の植木職人が朝顔の栽培を行なっていたのだが、このころから花や葉の改良が始まり、文政期(1818-30)になると、深川や浅草方面に広がっていった。
 そして、この元来は観賞用草花ではなかった朝顔を観賞用として、花を開かせたのは、それは江戸の”先端科学””江戸のバイオ”の成果であった。園芸文化の世界でメンデルよりも前に遺伝の法則を心得た極地の花を創り出したのは、江戸の人々であった。バイオ時代を迎えたいまこそ、もう一度彼らの知恵と経験をたどってもいいのではなかろうか。(中略)
 「変化朝顔」は見かけは普通で奇形とは思えないが、種子のできる兄弟株の朝顔から生まれてくるのだ。その秘密を見抜いたのが江戸の植木職人で、兄弟株の種子を保存しながら系統を残してきた。これはメンデルの遺伝法則では「劣性の形質」にあたるもので、両親からその遺伝子をともに受け継いだ場合に出てくる。また、表面に出なくても、遺伝情報として隠しもっている。出てきた双葉の形を見て、「変化朝顔」になるか否かを判断すればよいのだ。
 文政元年(1818年)の栽培手引書「牽牛花(あさがお)水鏡」には「雑花よりして奇品を変じ出さしむるをもって、この花をもて遊ぶ楽しみとなす」とあり、一大ブームになっていく要因がうかがえる。江戸の人々は経験からメンデルの法則をつかんでいたわけで、その技の巧みさは、現代の遺伝研究者も舌を巻くほどだった。この”先端科学”の技術は「世界に類例のない園芸文化」の達成とまでいわれている。再び遺伝子の研究が盛んになったいま、朝顔にはまだまだ隠された変化の秘密が明らかになったら面白いはずだ。
(中田浩作「江戸は躍る!」)
<ソメイヨシノ>
江戸時代の品種改良といえば、この「ソメイヨシノ」を忘れてはならない。しかしそれでも古い時代のこと、必ずしも学説が統一されているのではないようだ。そこでその中の一つの説を紹介することにしよう。
 1716年ころから8代将軍徳川吉宗が江戸の各地にサクラをうえて一般に開放し、1800年ころから江戸中の人たちがお花見で大騒ぎをする基礎を作った。しかしすでに1720年ころからサクラの品種改良をしようとする動きがでていた。現在、世界中でも、古い品種では「この品種はこの人が作ったのだ」と言える植物はほとんどない。ところが江戸時代に生まれたサクラで、作った人の名前がほぼ確定した品種がある。それが、現在、日本中の人たちが見ている「ソメイヨシノ」なのである。
 「ソメイヨシノ」は1730年ころに、江戸染井村の植木屋、伊藤伊兵衛・政武が人為交雑を行なって作りだした、という説がある。この説に従えば、次のようになる。 「ソメイヨシノ」が作られたと推定される1730年ころは、世界の生物学者の間では、雌しべ、雄しべがどのような役割をもっているかについて、詳しく知らなかった時代なのである。このような時代に「ソメイヨシノ」が作られ、1750年ころには幕府の直轄薬草園(現在の東京大学の小石川植物園)の入口近くに1本植えられた。現在も小石川植物園の入口近くに、その「ソメイヨシノ」がひこぼえ(切った根や株から芽が生え出ること。その芽)によって生きている。これこそは、日本人が作った世界で最初の人為交雑個体である。なお、「ソメイヨシノ」は江戸時代末期(1845年ころ)の「吉野桜」として染井の植木やから売り出され、隅田川堤その他に植えられた。その後、上野公園の「吉野桜」が吉野山の「ヤマザクラ」と違うことから、1900年に藤野寄命によって改めて「染井吉野」と命名された。 (「日本人が作りだした動植物」から) 
※                      ※                      ※
<アヘス→バタタ→Sweet Potato→甘藷→薩摩芋> サツマイモが人類によって野生から栽培されるようになったのは、古く1万年前からとも言われるが、考古学的には紀元前3000年頃には、熱帯アメリカでかなり広く食べられていて、南太平洋の島々には紀元前1000年頃には伝わっていたとされる。しかし一般には1492年コロンブスのアメリカ大陸到着からスペインにもたらされ、15世紀松にヨーロッパに広まり、アフリカやインドを通って東南アジアに達し、中国を経て日本に伝来されたルートがよく知られている。日本に伝わったのは、1597年に宮古島、1605年に沖縄、1705年に鹿児島、そして関東には1734年に徳川吉宗の命で青木昆陽が江戸小松川でサツマイモを試作したのが最初。コメ、ムギなどに比べて日本では比較的新しい作物だ。
 コロンブスが到着した島々で「アヘス」と呼ばれる芋があった。これがスペインに持ち帰られ「バタタ Batata」と呼ばれるようになる。やがてジャガイモが入ってきて、名前を区別するために「スペインいも(Spanish Potato)」あるいは「甘いいも(Sweet Potato)」と呼ばれるようになった。これがポルトガルの人たちによって開かれたアフリカの南端を経由する海の道によってまずベトナムあたりに伝わり、それが中国で「甘藷」と呼ばれるようになった。
 この伝播のルートがわかりやすいのだが、学問的にはサツマイモが世界に伝播したのには3つのルートがあるとされているので、専門家に批判されるのもシャクなので、ここに記すことにする。
@バタタ・ルート 前述ルート。西インド諸島⇒ヨーロッパ⇒アフリカ⇒インド⇒インドネシア⇒ベトナム⇒中国
Aカモテ・ルート 16世紀以降、スペイン人によりメキシコ⇒ハワイ⇒グアム⇒フィリピン
Bクマラ・ルート 有史以前に南米ペルー⇒マルケサス島⇒イースター島⇒ニュージーランド⇒ハワイ⇒ポリネシア⇒メラネシア⇒ニューギニア
 サツマイモの現在の作付面積は55,000ha、生産量は130万t前後。作付面積は減少しているが生産量はあまり変わらない。それは単位面積あたりの収量の向上で、明治11年の10aあたり560kgから大正年代および昭和初期の1300kg前後、戦後の食料増産時代の1500kg前後、イモ作が安定した昭和35年頃の2000kgへと増加し、現在では2300kg前後にまで向上した。この原因は昭和15年以降の在来品種に代わる育成品種、とくに昭和20〜30年の沖縄100号と護国藷、30〜45年の農林1号と農林2号、45〜60年の高系14号とコガネセンガンの新品種の普及と育苗技術の改善による適期挿苗、チッソとカリの合理的施用による施肥改善など、栽培技術の改善によるところが多い。
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<元禄のグルメ、西鶴を現代文で読む> 江戸時代の文化、そのキーワードを「好奇心」と「遊び心」としたならば、江戸時代のグルメにも目を向けてみよう。
 当時最高の高級レストランであった揚屋に出入りしていた西鶴が食通であったのは言わずもがな、その一端を示した書簡体短編小説集「万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)巻一の「来る十九日の栄耀(えよう)献立」を現代語訳でお目にかけよう。
 「昨日は御ていねいに二度までもお手紙を頂きましたが、あいにく北野不動へ参詣していましたので、御返事がおそなりました。さて来る十七、八、九日の三日のうちに、川舟で御馳走なさりたいとの事、ついでがありましたので、その事を旦那に申し上げて都合をうかがってみました。
 十七日は堺へ茶の湯の先約があり、十八日は生玉(いくたま)の観音講へ御出(おい)で、十九日も昼までは何かと御用があります。それを片付けてから夕涼みにうかがおうと申されました。十九日が今月中の旦那の暇日(ひまび)でしたのは、あなた様のお仕合せで御座います。こちらから旦那がお連れなさる者は、按摩取りの利庵、鍼医者の自休、笛吹きの勘太夫、もしかすると浪人の左太兵衛も参るかも知れません。そのほか小坊主を二人お連れになるだけで御座います。そちらからは碁打ちの道円をお連れになるとの事ですが、長話をせぬよう耳打ちしておいてください。歌舞伎若衆などは、さい当たってお乗せなさるに及びなせん。旦那の御機嫌を見合わせ、お指図しだいに致しましょう。
 さて格別にお心遣いの献立をお見せくださいましたが、舟遊びの御馳走としては結構すぎるよう存じます。諸道具類も船中では面倒です。旦那も近ごろは病後のことなので、美食はお好みになりません。無用と思われま分を指摘しておきましょう。
 はじめに出る汁に雑魚(ざこ)をごったに入れるのは一段と結構ですが、竹輪や皮鰒はのけていただきたい。しつっこ過ぎます。膳の先に置く鮎(あゆ)の鯰は見合わせてください。川魚が重なります。めいめいに杉焼をそえてお出しなさるがよい。その材料も鯛と青鷺の二色にするようにお申しつけください。冷采(にざまし)は真竹の筍一種のほうが、さっぱりしてよろしいでしょう。割海老(さきえび)と青豆のあえ物、吸物は鱸(すずき)の腸(わた)、お膳に添えて出す肴は小鯵の塩煮とたいらぎ(海産二枚貝)の貝柱の田楽、それから二度目に出す吸物の実は舶来の燕巣(えんす)と金柑麩(きんかんふ)にして、どちらも味噌汁にしないでいただきたい。
 酒は三盃でやめて膳を引いてください。それから後は寒晒粉(かんざらしこ)の冷やし餅と鱚の細(ほそ)作りの吸物で酒を一盃のまれてから、早鮨(はやずし・鮎の一夜鮨)を召し上がりますが、旦那は蓼(たで)をたべられません。山椒か生姜を付け合わせてお出しください。日野真桑瓜(河内日野産)に砂糖をかけてお出しになり、御茶は菓子抜きで一服ずつ立ててお出しになさるがよろしいでしょう。なお御馳走ついでに小さい屋形船に風呂をこしらえ、暮れ方に湯浴みなさるよう御用意しておいていただきたい。これまでで、その後の夜の用意はいっさい御無用に願います。すでに当方も旦那より、太夫元(もと・歌舞伎の興行人)へ十九日の夜は取巻きの役者を用意しておくよう申し込まれました。日暮れに舟を上がって、そちらへお出かけになります。ともかくこの上は天気のよいよう祈っています。いずれ十八日にそちらへうかがい、最後の御相談をいたしましょう。(下略)
 この手紙の差出人は長崎屋という一流の貿易商人の番頭で、宛名の呉服屋次左衛門は日ごろ御出入りの商人。
 成績をあげるために得意先の旦那を招待したわけだが、西鶴の注に曰く、町人の饗応にしてはぜいたくな話で、この費用も内輪に見積もって銀三百四、五十匁(約六十三万円)はかかるだろう、といっている。
 旦那が病後でしかも夏料理という設定なので、いかにも西鶴らしく材料の吟味は行き届いているが、全体に淡白な懐石料理風であるのは、「生類憐れみの令」強行中の元禄の世相の一端であろう。 (暉峻康隆「江戸の素顔」から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸庶民の四季              西山松之助   岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る                中田浩作    PHP研究所    2001.11. 7
江戸の道楽                棚橋正博    講談社       1999. 7.10
江戸の素顔                暉峻康隆    小学館       1995. 7. 1
さつまいも ものと人間の文化史90    坂井健吉     法政大学出版局   1999. 2. 1
さつまいも史話 コロンブスから芋地蔵まで 木村三千人   創風社出版     1999.11.10 
( 2003年9月1日 TANAKA1942b )
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(11)稲の品種の使い分け
非情報化時代の情報網
<品種改良は花卉園芸関係だけだった?> 江戸時代はわが国において花卉園芸の分野で著しい進展が見られる時代であるが、何か新品種育成について新しい技術が生まれても、それを主食である稲に技術転換しようといった発想が、ほとんどなかったようである。稲を栽培したのが農民であったため、当時の身分制度のなかで花卉の改良の主役であった武士、町人が生み出した技術が稲に転移されるような機会はなかったのである。それよりも、幕藩体制の中で政治の主体であった藩庁に品種の改良を意識して行い、それを主催するといった意識がほとんど生まれなかったのが原因であったと見られ、当時の科学知識のもとでは、それは止むを得ないことだったのであろうか。
 コシヒカリの育成者のひとりであった池隆肆は、稲品種の来歴の調査にも情熱を傾けたが、同氏の調査によると、年号が明治と改められるまでに成立した品種の中でながりなりにも成立や育成の事情のわかったものは15品種あった。その中で1800年以前のものは3品種にすぎない。
(菅洋「稲」から)こうした見方がある一方、また違った視点もある。
<農民的余剰の成立> 徳川家康が、年貢は「百姓を生かさぬよう殺さぬよう、ぎりぎり一杯まで取り立てるのが理想だ」といったという有名な話が残っている。このように農民の手元に一粒の余剰も残さず収奪する体制を学問的には全余剰労働部分収奪体制といい、江戸時代初頭の年貢は、ほぼそのとおりだったと考えられる。しかし四代将軍家綱のはじめごろになると、このような体制はくずれ、農民の手元にも年貢納入後一定度の剰余が残るようになる。これは全江戸時代をとおしてみても注目すべき重大変化で、その影響はあらゆる方面に及んでいる。(中略)
 農民の手元に剰余労働部分の一部が残るようになると、より多くの品を交換にだそうという意欲を持つ。自給経済時代にもっていた「今日を満たせば足りる」といった自足的意識は農民から脱落していく。少しでも多くのものを生産し、それを交換に出して、より豊かな生活をしようという、飽くことを知らない経済人的労働人間へと農民の体質は変わってゆくのである。 (大石慎三郎「江戸時代」から)
 この本では、農民がコメを商品として意識し始めたと指摘している。江戸時代に農業は公共事業ではなく、産業になったわけだ。
 わが国の気候風土はきわめて多様であり、そのうえにたった適地適産は農業の要諦であるが、米が商品としての意味をもってくると、農民たちはより自分の土地にあった稲をつくりだすことに全力をあげるようになる。
 この文の後、多くの品種のコメが栽培されていた例をあげている。1706(宝永3)年、1734(享保19)年の例をあげ、一つの郡で、早稲27種、中稲36種、晩稲46種、計109種が栽培されていたという。江戸時代中期(元禄ー享保)に適地適産原理にもとづく稲の品種改良熱が農民層を捉えていた。 このように多くの品種を栽培していたということは、リスクを分散していた、と言える。こうしたリスク管理能力、経営感覚は現代のような政府・農協の保護がなかった分「自己責任」に徹底していたのだろう。
※                   ※                   ※
<イネに対する知識> 江戸時代にイネに対する知識が深かった例として、次の文を引用しよう。
 江戸時代中期の寛政年間(1789-1801)に、羽後国平鹿郡浅舞町の玄福寺の住職であった釈浄因が書いた「羽陽秋北水上録」にはイネの品種について貴重な記録があるが、それを詳しく調べた木原らによってその内容を紹介しよう。(中略)
 同書の中には「各地方は、気候、土、水などにおいて異なっており、決して同一ではないので、ある土地の植物をほかの所へ持ってきて植えても、性質が変わって別のものになってしまうものである。とくに稲は変わりやすいもので、無芒のイネは有芒となり赤い種子をつけるものの中から無色のものが生じ、種の色や形や成熟の早晩など千差万別に容易に変化する」と述べている。これらのことは、生物の変異性を認め、これが新しい品種の生まれる原因となることに気がついていたことを示している。
 この本を研究した篠遠・筑波・木原は、明治以前の記録の中で、作物の品種についてこれほど広範な知見は空前絶後だとして、その特徴をつぎの10点に要約している。
単なる品種の羅列ではなくて、品種の由来についても考察している。
当該地方における品種の変遷が、その理由と共に記述されている。
品種選択は機構を考えてなすべきことが指摘されている。
珍奇な品種の無批判な導入に対して反対している。
奨励品種を決めて作付けを奨励すべきことを述べている。
作物に変異する性質があることに気づいている。
環境の変化に応じて、品種は性質を変えると考えている。
突然変異の存在を事実上発見している。
品種の管理の重要性を説いている。
10 純系分離淘汰の有効であることに、事実上気がついている。
 おそらく明治以前には、観察眼の鋭い農民がここに紹介したような経緯で周辺のイネと異なった個体に注目し、それを選抜することにより新しい品種が育成され成立していったものであろう。少ない旅の機会に、他の地方からイネを持ち帰ることもあったと思われる。比較的、旅の機会の多い武士があまり関心を示さなかったことを思えば、このような経緯でイネが持ち帰られたのは、近世以降であろう。(「日本人が作りだした動植物」から)
※                   ※                   ※
<百姓の品種交流の実態> 当時新興商品作物については、例えば初期の甘しょ、イグサ、アイなどは藩のきびしい統制によって国外流出が禁じられたので、従来、稲の優良品種の交流についてもこれと同様で、藩の壁が普及上の大きな障害となっていたのではないか、とする考え方が強かったようだ。実際かかる例がごく一部には見られないわけではなかったが、一般的に見ると、もちろん現在ほどの円滑さはないにしても、品種交流はかなりよくなされていたものと思う。当時精農家といわれた人々の間では、初歩的ながら民間育種がある程度行なわれていたことは、品種名などからも推察され、また既述のように種々の機会に地域間交流のあったことがわかる。当時はすでに進んだ農民の間では品種に対する関心は著しく高かったであろうし、優良品種を求めようとする欲求はきわめて強く、そのためにいろいろの機会が利用されていたものと思われる。18世紀の「雑事紛冗解」に示された細川藩領における栽培品種503種のうちには、国外、国内の地名のついたものが20%、選出種をも含めて人名のついたものが10%も含まれていたことは、上記の考えの一つの根拠になるであろう。(中略)
 江戸時代、九州での早生種はそれに適する早植栽培がかなり広く行なわれていたのに大使、品種名などからみて、おそらくこれと同系または類似系と思われる一部のものが東北地方南部では晩生種として栽培されていた、と思われる。しかしこの型の稲作は東北地方の平坦部では平年でこそ成立をみたが、冷害年ではひどい打撃を受け、そのため年々安定した稲作は比較的近代まで成立をみなかったといっても過言ではなかろう。このようは東北地方における晩稲晩植栽培も、また、九州での早稲早植栽培もともに、まだ充分に進歩をみない以前の時代の稲作法であったといえるのである。
 その後、その大部分が九州では晩稲晩植化の芳香へ、東北では逆に早中稲早植化の方向へと動き、両地域とも品種と作季の両面で大きな地域分化を示し、それぞれ進歩の方向をとったのである。このように、藩政期におけるわが国の稲作は全国的にみて、まだいくつかの共通品種をもち、それに適応した古い形の作季がみられたことは、さらにそれより古い時代のわが国における稲作技術の地域分化の未発達状態の残りともみられるのではなかろうか。
(嵐嘉一「近世稲作技術史」から)
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<伊勢参りは新品種採種の旅>  日本の隅々の人までが何らかの蓄えをして、そして伊勢講をつくったり、あるいは金毘羅講をつくったり、善光寺講をつくったりしまして、順番で参詣に出かけて行くというようなことが全国的に行なわれるようになりました。こういった参詣には字が読めなくても出かけて行くことができましたし、その旅はその人たちにとっては、精神的にはたいへん豊かな文化生活であったと同時に非常に新しい知見を、いたるところで得ることもできたのです。たとえば伊勢参りでは、自分が作った稲の穂をお供えして、人の供えた新しい稲をもらってくる、ということがなされなした。つまり新種を手に入れてくる、といったようなこともいたしましたし、栽培法を新しく勉強してくるとか、いろいろな勉強をしてくることになったのです。 (西山松之助「江戸庶民の四季」から)
旅の土産は新品種
 「山口県農事調査書」(明治24年)によると、山口で多く見られた「都種」は、1832(天保3)年に弘永半助、内海五郎左衛門の2人が、旧藩主と同道して上洛の途中、摂津国西宮付近から持ち帰ったものであるが、その際西宮付近の農民が言うには、この稲はそれより2−3年前、船乗りが筑前から持ち帰ったものだという。
 大坂市場で好評を博した「栄吾種」という品種は、1849(嘉永2)年和気郡堀江町大字大栗の植松栄吾が、四国霊場を巡礼した折に、土佐国幡多郡山谷の小さな溝に生えていた一株を採集してきて、これから育成したものといわれる。また、「相生(中)」は当時備中から伝わった「一本稲」という品種から、伊予郡稲荷村の浅田嘉蔵が明治3年頃選び出したもので、下浮穴郡では作付の面積の6割を占めた。「三宝米」は別名「三盆米」とも称し、越智郡の別宮村南光坊の住僧寛雄が高野山に参詣した折、三宝院から良い籾だとして得てきたものだという。
(菅洋「稲」から)
 このように幕藩体制はそれぞれの藩が国家のようで、日本全体で鎖国していて、各藩も鎖国していた、というイメージとは少し違う。幕府の公式姿勢はともかく、現実には稲の品種が藩の壁を乗り越えて、地方に伝播していたことになる。
関所はどうした? 江戸時代は関所があって、百姓,町人が自由に旅することはできなかった、とのイメージがあるかもしれない。建前はともかくとして現実にはかなり自由に旅していた、という例。
 江戸時代の一揆、そして幕府に直接訴える越訴、こうしたことと道中手形の問題を考えてみましょう。いま仮に「非情な」名主を訴えるために、「耐えかねた貧農」が江戸に向かって越訴を試みたとします。当然名主や代官役所には「無断」のはずで、道中手形の交付も受けられないでしょう。この場合もし途中に関所があればどうなるのか、という問題が起きます。当然間道を抜けたり、その他非合法な手段を講じて通り抜けざるを得ないわけで、関所破りの罪に該当します。これは幕府の規定では死刑に該当する重大犯罪のはずです。ですから訴訟になれば、この違反事態、越訴とは独立に深刻な問題になり得るわけですし、幕府が不埒な越訴を本気で抑圧するつもりなら、この点だけ取り上げて処分してもよかったでしょう。
 では実態はどうだったのでしょう。幕臣実務担当者の回想証言によりますと、このような場合の標準的対応は次のようだったとされます。つまり、関所近くの山中で道に迷っていたところ、たまたま、土地の木こりか猟師に助けられ、教えられた道をたどったところ「図らずも」関所を越えた次の宿場に出てしまった。関所破りをする積りはなく、ともかく「無知蒙昧」はわれら農民にはありがちのことで、お咎めをうけるのもやむを得ないが、追い込まれ、切迫した特殊事情を何とぞ斟酌下されたく、うんぬん。大筋こんな弁明を取り調べ記録(口書)に載せ、「恐れ入ります」の一札で済ませるのが普通だったようです(安藤博「懸冶要略」青蛙房)。
(水谷三公「江戸は夢か」から)
 これは一揆とか越訴など深刻な問題で、お伊勢参りなどとは違うが、これほど深刻な問題でもこの程度、ならば信仰の旅に対する幕府・末端の姿勢もおおよそ推測できる。
往来手形と旅の心得 江戸時代の中ごろから庶民の旅が盛んになった背景に、講の発達があった。講とか頼母子講とか無尽とか言われる。この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀となっている。
 江戸で人気が高かったのは、相模の大山詣や下総の成田山新勝寺などで、遠くは出羽三山や越中の立山、加賀の白山などへの宗教登山の講。特に人気のあったのは富士講と伊勢講、富士登山と伊勢神宮参宮の旅のための講。共に100を超える講社があり、富士講などは俗に江戸八百八講と言われたほどであった。
 往来手形の申請も講が事務手続きを代行したし、手形を発行するのが地元の社寺であったので、こうしたことに不慣れな百姓でも心配はなかった。さらに講は現代の旅行代理店でもあり、参詣や登山に必要な衣装や笠、杖など、さらに土産物、宿泊施設の手配など、至りつくせりであった。同じ時代のヨーロッパなど比べ物にならないくらい庶民の旅行は盛んであった。 とくに伊勢神宮(お伊勢さん)には多い時で(1829年=文政12年)500万人の人々が参宮したと言われている。また雇い主、代官所などに無許可で熱狂的に伊勢神宮を目指し歩き出す、「おかげ参り」とか「ぬけ参り」といわれることが50年毎にあった。これに関しても取り上げれば面白いのだが、ここでは突っ込まないことにしよう。
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<旅学者という農業カウンセラー> 稲の品種や農業技術の普及に「旅学者」が活躍した。これについては山本七平の「江戸時代の先覚者たち」から要約しよう。 徳川時代は、考えれば考えるほど面白い時代である。まず1640年から1853年までは定義どおり鎖国であり、、この間はもちろん、その前後も日本はほぼ完全に自給自足の世界であった。韓国・中国・オランダと貿易があったとはいえ、それは国内の需給に基本的な変化を与えるほどのものではない。そして人口は、さまざまな推計があるが、1600年ごろが1千万台、1720年を2千600万台とすると、120年間に2.6培の増加を見せ、これが幕末には約3千万人になっている。そしてこの人口増加は、おそらく家康も予期していなかったであろう。いずれにせよ3千万近い人口がこの4つの島で、自給自足で生きてきたのであり、このことはたとえ生活水準を上げなくとも、生産量を3倍に増加させねばならなかったということである。この鎖国下の人口増に対応するという課題は、ヨーロッパにはなかった。彼らには植民地があった。
 鎖国し自給自足でやってきた江戸時代、すべてを国内で調達し、そのために多くの工夫がなされた。米俵一つでさえ大きな発明だった。しかし江戸時代は情報化社会ではなかったから、どこかの藩のどこかの村で何らかの発明がなされても、すぐこれが全国に普及するわけではない。だがそうなると、旅学者というのが現れてくるから面白い。
 藩の経営がうまくいかないと、武士の給料が半分になったりする。そうなると「わが藩の経営はどうなっているのだ」と言いたくなり、全国を旅行して諸藩のことに詳しい旅学者の抗議を聞いて、藩の財政を立て直そうということになる。そこで海保青陵や本多利明が招かれて、藩の経済建て直しのため講義するようになる、といったことも起こっている。また山片蟠桃は仙台藩の経済再建に独自の方策を生み出している。
(山本七平「江戸時代の先覚者たち」から)
 こうした旅学者は農村では名主に招かれ、農業コンサルタントとして活躍した。このように百姓も情報網をもっていた。それは幕府や藩に頼るのではなく、自分たちで情報源を確保しようとする姿勢に応えるものであった。
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<主な参考文献・引用文献>
近世稲作技術史               嵐嘉一     農山村分化協会  1975.11.20
江戸時代                  大石慎三郎   中公新書     1977. 8.25
江戸は夢か                 水谷三公    筑摩書房     1992.10.30 
江戸の旅人                 高橋千劔破   時事通信社    2002. 5. 1
村からみた日本史              田中圭一    ちくま新書    2002. 1.20  
江戸の宿                  深井甚三    平凡社      2000. 8.21 
江戸庶民の信仰と行楽            池上真由美   同成社      2002. 4. 1
百万都市 江戸の生活            北原進     角川書店     1991. 6.30
江戸時代の先覚者たち            山本七平    PHP研究所   1990.10.19
近世の村と生活文化             大藤修     吉川弘文館    2001. 2.20
江戸の産業ルネッサンス           小島慶三    中央公論社    1989. 4.25
百姓一揆とその作法             保坂智     吉川弘文館    2002. 3. 1
江戸商人の知恵嚢              中島誠     現代書館     1999. 5.20
稲 品種改良の系譜 ものと人間の文化史86 菅洋      法政大学出版局  1998. 5. 1
( 2003年9月8日 TANAKA1942b )
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(12)品種改良の方法
メンデル、選抜育種法、交雑育種法
<遺伝学の基礎=メンデルの法則>  赤い花と白い花を交配するとその子(F1)は赤い花となり、そのF1の自殖で得た子(F2)を100株育てると、赤い花が全体の3/4、白い花が1/4となる。赤白の違いが1遺伝子によって決まっていて、赤が優性のときに、F1が赤い花となり、F2で赤と白が3:1に分離する。 赤の遺伝子をA、白の遺伝子をaとすると、赤花の親の遺伝子型はAA、白花の親の遺伝子型はaaであり、F1の遺伝子型はAa、F2の遺伝子型はAAが1/4、Aaが2/4、aaが1/4となり、Aがaに対し優性でAaの株は優性の性質である赤花となると考えることにより説明できる。 AAやaaのように同じ遺伝子をペアでもつものをホモ接合体、Aaをヘテロ接合体といい、F1で優性の性質が現れることを「優性の法則」、F2で両親の特性が3:1に分離することを「分離の法則」という。
 遺伝の法則がこれだけでは、違うものを交配しても何も新しい特性のものが生まれてくる訳ではなく、面白くもない。メンデルが明らかにしたもう1つの法則が、品種改良を行う上で重要な法則、2つの独立した遺伝子の関係だ。赤花で正常な形の花を持つホモ接合体の親、白花で切れ弁の花をもつホモ接合体の親があり、赤花が白花に対して優性で、正常花が優性で切れ弁が劣性とする。 F1では全てが赤花で正常花。F2では赤花の正常花が9/16、赤花の切れ弁が3/16、白花の正常花が3/16、白花の切れ弁が1/16に分離するというものだ。ここで重要なことは、「親とは異なる新しいタイプである、赤花の切れ弁や白花の正常花が得られること」なのだ。このように親とは違う特質をもつ種類が得られることになる。これを
「独立の法則」という。
 このメンデルの法則が正しいことは証明されているが、実際はこれほど単純ではない。たとえば、直径10cmの大輪花と直径3cmの小輪花を交配しても、単純にF2で10cmの大輪花と3cmの小輪花が3:1で分離するわけではなく、大輪花から小輪花まで連続して分離する。10cm以上、3cm以下の花が分離することもある。6cmの中輪花のものを選んで自殖し続けると、だんだん花径の変異の幅が狭くなり、数世代続けると花径がほぼ均一となり新しい中輪の系統を得ることになる。これを「品種が固定化された」という。
<選抜育種法>人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 食料を生産する者は、野生の植物を作物として栽培し、その作物の生産性を向上させようと努力した。それは農作物の品種改良となった。原始林の木々を切り倒し、そこを農地とすれば、一種の環境破壊であったが、誰も咎めなかった。ではその当時どのような品種改良が行われていたのだろうか?
 農耕が定着して人々の安住生活が安定してくると、栽培植物の中から、より多くの収穫できるものや、より食べやすいものが経験的に選ばれるようになった。その方法は
「選抜育種法」(分離育種法)と呼ばれ、現代でも十分に利用されている技術の一つだ。植物の品種改良はその植物の持つ性質を鋭く見抜いて「選ぶ」ことが基本になる。その「選ぶ」ということは、いい物を守り、いらないものを捨てることだ。「もったいない」と不要なものを残しておくと生産性が下がる。 日本では明治になるまでこの方法で品種改良を行っていた。江戸町人のアサガオ、アヤメ、ハナショウブ、サクラソウ、フクジュソウなど、の品種改良はこの方法だった。 西洋では20世紀になるまで、メンデルの法則が広く認められるまでこの方法が唯一の品種改良方法であった。
 花ならば種を播き、目標とするものに近いものを選び、その種を播く。こうしたことを繰り返す内に、花にばらつきが少なくなり、品種が固定されてくる。「在来種」とか「固定種」と呼ばれる品種で、「京野菜」は長い間かかって京都の気候・風土と京都の人々の好みに合ったものに改良されてきた。加茂なす、壬生菜、九条ねぎ、練馬だいこん、三浦だいこん、小松菜など全国各地にそこの風土・気候・土地の人の好みに合ったのもが栽培されている。固定種になっても長い時間の間には選抜育種が行われ、必ずしも昔の味ではない。 時代と共に人々の好みが変われば、それに併せて在来種も品種改良されていくので、昔の姿そのものではない。従って「在来種を守ろう」とは「昔の味そのもの、現代人の舌に合わないものを守ろう」なのか「昔からの品種を絶やさないように、現代人の好みに合わせて守っていこう」かで守る姿勢も変わってくる。
<交雑育種法> 1865(安政3)年、チェコの修道院のヨハン・メンデル牧師が43才のとき、7年間にわたって修道院の庭で続けていたエンドウマメの交配実験をまとめて、「植物の遺伝の研究」の論文を発表するまでは、選抜育種法が唯一の品種改良方法であった。 しかしこのメンデルの業績、当時の学者には注目されることもなく、彼は失意のうちに1884年、64才でこの世を去った。没後16年、1900年にフランスのド・フリースら生物の突然変異の研究者たちが、メンデルの研究業績に気づき、高く評価して、人々の知るところとなった。 メンデルの遺伝の法則が知られるようになって、作物に品種改良には遺伝的に優れた因子を持つ植物が重要であるとの認識が広がった。品種改良の成功は、どれだけ変異の幅を広げ、交雑によっていかに多くの因子を取り込めるかにかかっていると研究者は考えた。そのため、国の内外から素材となる野生種などを集め、それらを適宜交配して、その子孫から良い個体を選抜する「交雑育種法」が品種改良の中心になった。そしてこの品種改良方法は現代でも中心になっている。
 日本のコメの品種改良はこの方法によっている。1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配、それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。1956(昭和31)年に登録されるまで多くの人の手によって、度重なる幸運な偶然によってコシヒカリは生まれてきた。ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397なども交雑育種法によって育成されてきた。
※                     ※                      ※
<コシヒカリの交配> 選抜育種法では交配すべき品種選びから始まる。コシヒカリでは晩稲(おくて)種の「農林22号」を母とし、早生(わせ)種の「農林1号」を父とする組合せだった。1944(昭和19)年7月末、新潟県農事試験場の水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配どのような苦労があったか、「コシヒカリ物語」から引用しよう。
 当時国内の資源はほとんどが戦争のために徴発され、人手も物資も極端な欠乏状態に見舞われていた。新潟県農試でも、働き盛りの青壮年の職員はほとんど戦争に駆り出されてしまっていた。つい4カ月前にも、高橋が片腕と思って頼りにしていた同試験地技手の池隆肆(いけたかし)が出征してしまい、30歳代で残っていたのは、高橋ぐらいまものだった。高橋は1935年九州帝大農学部を卒業、農林省農事試験場鴻巣試験地に入ったが、徴兵検査の3カ月前、同試験地のスポーツ大会で腹部を蹴られて膵臓が破裂する事故に遭い、その手術の経過が思わしくなく、「兵に向かず」として「丁種」になったため兵役を免れ、 戦時下にもかかわらず念願の育種の仕事を続けることがでくたのだった。
 しかし、屈強な青年職員が応召されてしまった後、事実上、高橋独りで水稲新品種育成の仕事を引き受けていくのは、まさに大変なことだった。同試験地の試験田は2ヘクタールと広く、育成中の稲は、栽植本数にして約20万本に達していた。水稲育種の仕事というのは、それを一本一本丁寧に見て回り、草丈や穂数はどのくらいか、茎は丈夫か、病害虫の被害はないか、出穂期はいつかなど、いろいろな形質を調べ、優秀な系統を選抜するという作業である。
 しかも9、当時はトラクターも除草用農薬もない人力中心の米づくり時代。雑草を抜き取る作業一つ取り上げても、田んぼを中腰になってはいずり回るという重労働を強いられた。そして、2ヘクタールの試験田を全部見回ると約10キロも歩く計算になり、一人で管理するのはまさに超人的な努力を要したのであった。
 一応、田植え作業は県農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に勤労奉仕を頼み込み、女学生に作業を手伝ってもらったりして、ようようの思いでこの日の交配作業にたどりついたのであった。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山練太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、きょうもまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 確かに、無類の頑張り屋の高橋であって初めて戦時下の困苦欠乏期に2ヘクタールの試験田を管理し、新たな人工交配作業に取り組むことができたのであろう。高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。 今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
 さて、44年7月末、高橋が取り組んだ人工交配は、晩生種の「農林22号」を母とし、早生種の「農林1号」を父とする組合せだった。高橋にとって手慣れた作業とはいえ、決して簡単な作業ではなかった。
 まず、この晩生種と早生種では開花時期が大きく異なるため、普通に栽培していたのでは交配は不可能。従って晩生種を暗室に入れるなど、人為的に日長時間を調節する「短日処理」を施し、早生種の開花時期とぴったり一致させるよう、準備作業をしておく必要があった。
 さらに、稲の交配作業で厄介なのは、稲は自家受粉植物であるという点である。稲の開花といっても、いわゆるモミ(専門的には頴果(えいか)と呼ぶ)の殻がわずかに開き、6本の雄しべがほんの少し顔をのぞかせる程度。しかも、開花し始めるやいなや、花粉を包んでいた雄しべの袋が破れて中央の雌しべに花粉が降りかかり、簡単に受精を完了してしまう。つまり、稲の雌しべは自分の花粉以外は受け付けない構造になっているわけである。
 このため、別の稲との交配を成功させるためには、受精前の母本となる稲の雄しべをすべて殺し、雌しべだけは生かしておくという芸当が必要になる。この雄しべ除去作業は、昭和初期までは開花前のモミの先端をはさみで切ってモミに穴を開け、中の雄しべを一本一本除去するという、手間のかかる仕事だった。しかし、その後、雌しべと雄しべでは温度に対する抵抗力に差のあることが判明した。穂を43度のお湯に入れると雄しべはすべて死滅するが、雌しべは丈夫で受精能力も健在であることから「温湯除雄法(おんとうじょゆうほう)」が開発され、人工交配作業は非常に容易になる。高橋もこの方式を実施したのだった。
 ただ、この「温湯除雄法」の際、もう一つ重要な作業をこなす必要があった。それは、この日開花するモミだけを残し、その他すべて除去すつという作業である。湯に入れたとき、かすかに殻を開くのがこの日開花するモミで、このような受精可能なモミだけが大切なわけである。その他の固く殻を閉じているようなモミは、この日より前に開花し、すでに自家受粉を済ませてしまった早熟のモミか、あるいはこの日より後に開花する未熟モミで、これらはすべて邪魔ものだった。もしもこのようなモミが残っていたりすると、人工交配によって実った種子に自家受精の種子が混入することになり、交配作業は失敗に終わってしまうからである。
 稲の開花は朝9時ごろから始まり、交配作業は昼ごろまでが勝負である。高橋はこの日、まず父本となる「農林1号」の植わっている試験田から、間もなく開花しそうな健康な穂を抜き取って交配室に持ち帰り、しばらくの間、切り口をぬるま湯につけ、花粉の出が良くなるよう温めた。そして、「温湯除雄法」処理によって雄しべは死に、雌しべだけが健在な「農林22号」が十分に開花するのを待って、「1号」の穂を「22号」の花の上にかざし、何回となく指先で穂を弾いた。すると、「1号」の雄しべから花粉が霧のように「22号」に降りかかり、やがて「22号」は殻を静かに閉じていった。これで交配作業は無事に終了。この稲穂が黄金色に色づき、種モミとして収穫されたのは、9月下旬であった。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一     誠文堂新光社  2001. 6.15
続 図解・米の品種            日本穀物検定協会             1999. 6.30
図解・米の品種              日本穀物検定協会             1999. 9.20
植物の育種学               日向康吉         朝倉書店    1997. 3. 1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生  酒井義昭著        中公新書    1997. 5.15
( 2003年11月10日 TANAKA1942b )
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(13)在来種への思い入れ
消費者に気に入られる野菜とは
<日本における品種改良の伝統> 明治以前には品種改良のための公共の機関はなかった。すべて民間の人たちの手で――文字通り「手」で推進されてきた。その民間の意味だが、植物の栽培も動物の飼育も、2つのまったく別個の流れがあった。1つはいうまでもなく、農村で営まれた農業、もう1つは都会の趣味として発達した。観賞用および愛玩用の生物の栽培と飼育であった。江戸時代にはそれぞれの流れから、多くの研究書が生まれた。農村と都会では扱われる植物と動物の種類がまったく違っていた。しかし品種への関心はどちらも高く、それぞれたくさんの品種が作りだされていた。
 江戸時代都市の近郊で、その土地にあった野菜が栽培された。近郊農村の名前がそのまま品種名になった例が多い。江戸だと、滝野川、三河島、練馬など。京都だと、聖護院や鹿ヶ谷。野菜は新鮮さが必要で、昔は長距離輸送が難しかった。そこで大きな消費地である都会のすぐ近くに、栽培の中心地があったわけで、そういう土地ごとに特色をもった品種が成立した。これに対して工芸作物は、加工によって長期保存がなされ、遠く離れた場所へ運ぶことができた。このためどこか1カ所または数カ所に、全国を対象にした特産地、名産地が成立した。 山形のベニバナ、岡山のイ草、徳島のアイ、国分のタバコなどで、それぞれを代表する有名品種があった。
 これらの品種は、どのようにして作り出されたのか?育種方法についてはほとんど記録がない。しかしイネについて1つ、注目すべき書物がある。江戸時代半ばを過ぎた寛政年間(18世紀末)に、羽後国(秋田県)南部で書かれた「羽陽秋北水土録(うようしゅうほくすいどろく)」で著者は釈浄因(しゃくじょういん)という僧侶だった。 この本は農書ではなく、地元を中心に周辺地域一帯の自然から民間習俗まで、きわめて幅広い内容を扱った本で、その一部として農業を論じて、イネの品種について相当詳しく書き残している。この中で、品種に変異性があること、環境が変わると異変が生じること、突然変異に当たる事態を知っていたこと、管理をしないと品種が劣悪になること、などが実際に指摘されている。
 こういう事実と、のちに明治初めごろの民間育種の記事などから類推して、次のように推定される。まず作物の品種は、ときどきひとりでに変化すると信じられていた。いまからみると、イネなどは突然変異、野菜では自然交配が原因として多かったと考えられる。熱心な農民がこれを見いだし、その子孫を分離して大切にそだてた。こうやって新品種が作りだされた。もちろんそれは非常に根気のいる作業であった。 しかし多くの品種が実際に存在していた史実は、根気づよく忍耐づよい農民が、各地に少なからずいたことを証明していよう。
 農民たちは、伊勢参り、善光寺参り、金比羅参りなどの名目で旅をした。神社仏閣への参詣もさることながら、それはめったにみられない他国の農業の様子を、現地で見聞し勉強するまたとない機会でもあった。その途中で良さそうな品種を見かけると、たねをこっそり手に入れて──多くは密かに盗んで──持ち帰ったという。特定の藩の産物を、無断で他領へ運び出すのは、どんな小さな物であれ、禁止されていた。それをあえて破ったのである。品種の伝播も、極端にいえば生命がけであった。だが実際そうやって、品種が普及していったことが、これも各地の伝承などからわかっている。 (日本人が作りだした動植物」品種改良物語 から)
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<在来種> もともとその値域に土着していた生物種のことを言う。この定義は必ずしも明確ではなく、一般に歴史時代に入ってから、人類が外地から持ち込んだ生物種を導入種とか帰化生物といい、それ以前に土着した生物種を在来種という。しかし、近年では、たとえば新種の雑草が持ち込まれた場合に、それ以前に土着していた雑草を在来種という。 (平凡社「大百科事典」)
 「在来種」をキーワードに検索すると、馬・ミツバチ・川魚・草花・雑草・昆虫などがヒットする。そして「在来種」の反対語として、「外来種」が対応する。しかしここでは「野菜の在来種」を対象に、「品種改良」と「在来種」とを対峙した言葉として扱う。
京野菜 昔から守られてきた野菜・「在来種」というと、「京野菜」がまず頭に浮かぶ。どのような野菜があるか列挙してみよう。
聖護院ダイコン・辛味ダイコン・青味ダイコン・茎(中堂寺)ダイコン・桃山(大亀谷)ダイコン・時無し(藤七)ダイコン・佐波賀ダイコン・鶯菜・聖護院カブ・スグキ菜・松ヶ崎浮菜(八頭)カブ ・佐波賀(天神)カブ ・大内カブ・舞鶴カブ ・ミズナ・ミブナ・畑菜・もぎナス・賀茂なす・山科なす・鹿ケ谷カボチャ・ 伏見トウガラシ・田中とうがらし・桂ウリ・聖護院キュウリ・柊野(3尺)ささげ・エビイモ・タケノコ・堀川ゴボウ・京うど・九条葱・京セリ・京ミョウガ・クワイ・じゅんさい・花菜(準)・万願寺トウガラシ(準)・鷹峯トウガラシ(準)・・絶滅 ・・郡(コオリ)ダイコン・東寺カブ(カブ)・・ブランド京野菜・・紫ずきん(エダマメ)・金時ニンジン ・ヤマノイモ・
聖護院ダイコン 京野菜の一つ「聖護院ダイコン」がどのようなものか、ネットから引用しよう。
淀ダイコンは、正式には聖護院ダイコンといい、大きさ直径15〜20センチ、重さ1〜2.5キロの丸ダイコンです。 淀ダイコンのルーツは古く、今から170〜180年前の文政年間に尾張の国から黒谷(京都市左京区)の金戒光明寺に奉納された長ダイコンをもらい受け、栽培を続けているうちに形の丸い、味の良い淀ダイコンが生まれたといわれています。 もともと聖護院一帯が主産地でしたが、大正末期頃から久御山町でも栽培されるようになりました。最初は、丸い形ができませんでしたが農家の努力と品種改良などによって現在では、久御山町の東一口一帯が大きくて丸い淀ダイコンの主産地となっています。 淀ダイコンは、早場米を収穫した後の8月末から9月上旬に種が撒かれ、寒さが厳しくなる12月から1月にかけ収穫されます。 淀ダイコンの特徴は、甘くて苦みが少ないため豊潤で、その上きめがこまかく煮くずれがないためおでんや煮物に最適です。
練馬大根 大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬大根は、元禄の江戸時代から栽培されるようになりました。当時すでに人口百万をこえる江戸の需要にこたえる野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。よい大根を作るための肥料は、江戸の下肥(人糞)が用いられ、野菜を納める代わりに受け取る貴重なものでした。 明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。 その練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷しました。また、干し大根としても販売され、一般家庭ではたくあん漬けが作られました。 その後、昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けますが、 昭和8年の大干ばつや、何回かのモザイク病の大発生によって大きな痛手を受けました。その後も、食生活の洋風化・急激な都市化による農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退し、練馬大根が出回ることがほとんどなくなってしまいました。 練馬大根の栽培が激減していくなかで、キャベツ栽培が主になり、現在の主要生産物はキャベツになっています。 (東京豊島区のホームページから)
大根の種類 大根はアブラナ科のキャベツなどと共に遠く地中海沿岸からシルクロード経由で日本に渡来してきた外来植物であった。それはコーカサスからパレスチナにかけての地域が原産とされ、1200年以上も前に、インド、中国、朝鮮を経て日本に入ってきたといわれている。そんな外来種であったが、日本人の嗜好に合わせ、日本の気候に合わせて交配を繰り返しているうちに、世界でも類のない変貌を遂げて、太さ、丸さ、長さ、大きさにびっくりするほどの変化を見せ、色や味、蒔きつけ収穫の時期にもそれぞれの特徴を見せるような豊富な変化をその地方地方に残してきている。いわゆる「地大根」として、各地に特産の味をもたらして来たのであった。 どのような品種があるのか、名前を列挙してみよう。ねずみ大根、戸隠地大根、灰原辛味大根、親田辛味大根、信州地大根、上平大根、小林系地大根、大田原地大根、大門大根、辛丸、練馬大根、聖護院大根、辛味大根、時無大根、三河島大根、宮重大根、守口大根、穎割れ大根、桜島大根、砂糖大根、二十日大根、山葵大根。源助だいこん。
 沢山の品種があるダイコン、現在では青首があまりにも普及してしまっているので、青首以外を地大根と呼ぶようになっている。
奈須比 なすの原産地はインド東部で、有史以前に作物化されたといわれている。中国へは5世紀以前に伝わり、広い範囲で栽培され、品種が分化した。日本へは8世紀頃までに伝わっていたとされている。奈良時代の正倉院の古文書にも記述があり、すでに1000年以上にわたって親しまれてきた。もともと熱帯性の野菜だったにもかかわらず、よほど日本人の嗜好に合ったのか、品種や栽培の改良により、北の地域でも作られるようになった。 ヨーロッパへは13世紀頃に、北アメリカへは16世紀頃に伝わったといわれている。なお、「なす」というよび名は宮中の女房言葉からきたもので、初めは「奈須比」とよばれていた。
 なすは沢山の種類があって、
長卵形なす、卵形なす、丸なす、長なす、大長なす、米なす、小丸なす などに分類できる。品種を列挙してみよう。 青なす(涼風なす)、賀茂なす、民田なす、窪田なす、真黒なす、津田長なす、博多長なす、久留米長なす、仙台長なす、南部長、川辺長なす、ヘタ紫なす、千両なす、白なす、小布施なす、もぎなす、 このように多くの品種が栽培されていたが、最近では栽培が容易で色がよい長卵形の一代雑種が全国的に広く栽培され、地方色豊かないろいろな形のなすはしだいに姿を消している。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<在来種への思い入れ> 日本のお百姓さんが大切に育ててきた野菜、選抜育種法で、その地方、その時代、消費者の好みに合わせて品種改良してきた。交雑育種法とか一代雑種法に比べれば短期間で劇的な改良が行われたわけではないが、ゆっくりと変化してきた。 食べる人たちの好みに合わせて変化してきた。その変化に合わない品種は「選抜」されてきた。劣性遺伝子のホモ接合体は子孫を残せず消え去って行くように、時代が変わることによって食べる人の好みが変わる、その変化についていけない品種は消えていった。 遠く、地中海やインドからはるばる日本にやってきた野菜が、日本の気候・風土・日本人の好みに合うように品種改良されて「在来種」として生き延びてきた。 その変化が大きくなってきた。一代雑種の普及がその要因になっている。こうした傾向に対して「在来種を守ろう」の動きも出てきた。その主張にも耳を傾けてみよう。
野菜は近くで獲れたものを食べる 人間が食べてきたものは、長い間、自分が生きているその地域に存在していたものに限られていた。生理機構はその食べものに合わされているから、食の基本は自分の身のまわりで獲れたものを食べるということである。 そこに住んでいる人間はそこにあるものを食べてきて、体質・嗜好もそれに合わされきた。日本人が日本にあるものを、もっと限定すれば、一日歩いて往復できるくらいの範囲の中のものを食べて生きるというのが原則である。 地球の彼方のどこからか食べものをもってくるなど、流通コストがかかるからというものではなく、もともとは考えられもしなかったことだ。よそにあるものを持ってきて食べるというとき、それを珍しがって食べてみる程度であれば問題はないが、もともと自分のまわりで獲れたのでないものを食べつづけるのは非常に危険な場合がある。その人の生理機構に合わない場合が起こりうる。
そんなにいい野菜なのに消えていく 固定種・原種の野菜栽培は手間がかかるのと、出荷が一定しない(旬のみですから)、形が不格好であまり売れない(有名なブランドものは別)、農業人の高齢化問題、など、前途多難なのです。
当然、出荷量はあまり多くないのでスーパーには出ない。あっても高額(笑)
となりの畑でF1品種の作物がどんどん成長して大きな実をつけていて、自分の畑では成長がまばら。で、農協の買い入れでも大きな差が出る。(とにかく見栄えが優先されていますから)
それでも、固定種・原種を作り続けていくことができますか?
さらに「F1品種」の章で、ほんとうの固定種・原種を育てていくには、半径20K圏内に他の同品種が栽培されていないことが条件と書きました。
となりの畑で、同じ品種のF1種を栽培していると、風や虫たちでF1種と固定種が交配してしまうんです・・・。
・・・そうして固定種・原種の種がなくなっていくのだろうか・・・
有機農法にピッタリ合うのは、もともと有機農法で栽培していた、固定種・原種なのです。
・・・次の世代に残す種は、バイオテクノロジーで改良された不自然な種しかなくなってしまうのだろうか・・・
そして農薬漬けの野菜しか残らなくなって、地球の生態系、人の体も崩れていくのでしょうか。
見た目と経済追求の、F1種 「僕は、F1種の問題は、交配の方法、目的にあると思うのです。交配自体はすごく古くから行われいるんですよ。でも、昔は美味しいものがたくさん採れればいいな、ということが目的だったんです。その目的には何も悪いことはないし、「美味しい」ということは栄養があるということでしょう。」 「ミネラルが多ければ多いほど美味しい。自分の体に合っていればあっているほど美味しい。そうであれば、その交配の目的は正しい気がします。それなら良いんだけれどもF1種は味よりも、食べる人の健康よりも、とにかく見た目と経済追求。店頭で萎びないとか、サイズが揃うとか。そして、いかに毎年種をかってもらうかといった売る側のメリットばかりを考えて開発されています。」
会津の伝統野菜を守る会 地産地消のうごき・・・地元の農産物を地元で消費していこうという呼びかけで、食品の安全性が問題化する中で注目を集めています。 地元産品や地域資源を住民が再発見することで、地域産業・観光に結び付け、地域経済の活性化に結び付けようとする取り組みです。
 地産地消を促進し、土産土法へ・・・その地域で採れた農産物をその地域独自の調理方法で食べるもので、地域の先人の知恵が凝縮しています。 会津の気候・風土の中で育まれてきた会津伝統野菜を会津ならではの調理方法・味付けでおふくろの味を守ります。 食文化を継承するとともに、新しい商品開発を試み新しい伝統をつくりあげます。
ふるさと野菜生産振興協議会 このような中で、全国的に日本型食生活見直しムードと併せて、こだわりの食材として地域伝統料理の見直しが行われています。更に、京野菜、加賀野菜をはじめとして、全国的に伝統野菜の振興を地域の活性化に結びつけようとの動きがあります。 また、こうした伝統野菜は、オンリーワン産品であり、本県が進めるオンリーワン・ナンバーワン農林水産物の生産・販売振興施策に合致しています。 このため、県内各地で昔から栽培され物語が存在するものや、法事、祭事地域食文化と関係するもの、全国流通している品種とは異なり在来種である野菜を「ふるさと野菜」と位置づけ、掘り起こしを行うとともに、調理方法の把握等も行い、地域の伝統的な野菜に対する県民の皆様の意識を高めるとともに、食材供給や地域食文化の発展を図ろうとするものです。 本年度は、関係者による「ふるさと野菜生産振興協議会」を設立し、「ふるさと野菜」の選定や調理方法の把握を行うとともに、シンポジウムの開催を予定しています。
F1、私は食べたくない F1種は、子供を作れない種です。そう、果実が沢山採れても、その子供が生まれないように操作をされた種なのです。多くは、ホルモン処理がされています。その果実を食べることによる、人への影響はまだはっきりしていないのが現状ですが、どうも少子化やメス化現象と関係がある様です。 F1種の種は、生産性と見栄えが在来種に比べて飛躍的に良くなっています。沢山とれるし、かたちもきれいだからその種を使うって訳です。そして、子供が出来ないから毎年買う訳です。そうです、大きな種子会社の営業戦略です。その裏には、アメリカの国家戦略も垣間見れる様です。例えば、代表的な京都野菜の種が、アメリカで作られていると言う現実がすでにあります。 できれば、私は食べたくないな。 味も違います。本来持っていた味が無くなってしまっています。普通、有機野菜だから美味しいと言いますが、それよりもこのことのほうが味を左右するのです。 試しに、種の袋を見て下さい。F1、一代交配、(タキイ)交配などの種子会社の名前が書いてあるのは、すべてF1種子です。みなさんもぜひ一度見て下さい。ほとんどがそうだから。できれば、在来種、固定種の野菜を食べてみて下さい。
一律化する味 昔から地方に伝わる伝統的な野菜が各地で見直されるようになってきています。 こうした伝統的な野菜は、栽培に手間がかかるとともに、形がそろわないことなどから減少傾向にあります。 一方、全国流通している野菜では栽培が少数の品種に集中し、味も一律化してしまっています。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<野菜作りが産業になる> 一代雑種という消費者の好みに敏感に応えられる品種改良方法が普及して、野菜作りが産業になってきた。今普及している品種と違った味が好まれるなら、種子会社はそうした品種を販売するだろう。「消費者はこのような淡い味ではなく、もっと渋い味を望んでいる」「形や、味はむしろ不揃いの方が消費者に好まれる」と判断したら、種子会社はそのような種子を開発するだろう。 「売れる品種が普及する」ということは「消費者に好まれる物が普及する」ということだ。
 遠く、中南米・地中海・インドで生まれた野菜が日本に入ってきて、品種改良され日本人好みの野菜に変わっていった。お百姓さんは、日本の中でもその地方の気候・風土・消費者の好みに合うように品種改良をかさねてきた。それは食べる人の好みに合わせていくことであった。平和な時代=江戸時代に野菜作りは産業として、その性格を確立していった。現代ではさらに品種改良の技術が進んだので、多様化する消費者の要求に応えられる体制ができている。 そうした現代、「多くの人が好む現代的な味ではなくて、今は消え去ろうとしている野菜を味わいたい」という贅沢が言えるほど日本は豊かになったようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
( 2003年11月17日 TANAKA1942b )
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(14)外来種が定着し在来種となる
野菜の原産地・導入育種法
<植物を作物と変えた人類> 人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 このように文明が発祥した時代、その食糧増産の技術とは、野生の植物を栽培作物と変えたことだった。自給自足の神話
 農耕が始まったころの祖先たちが利用していた原始の作物は、現在の私たちには想像できない、まったく異なる姿・形をしていたと思われます。たとえば、イネの起源になったインド・ベンガル地方の野生イネは、穂がつくと、すぐに実がぽろぽろと地上に落ちる雑草のようなものでしたし、南米・ペルーが原産地のトマトの野生種は、小指の先ほどの大きさにしかならない、ちょっぴり毒を持った緑の果実でした。
 私たちの主食のイネで少し詳しく述べてみましょう。イネの栽培種と祖先種の比較については、遺伝学研究所の岡彦一博士(1962年)の研究が有名です。博士はインドの山奥に祖先種「オリザ・ペレニス」を見出し、その調査から、野生イネは、(1)休眠が深く、発芽や出穂が不揃いであり、(2)穂は貧弱で、種子は小さく、脱粒しやすい、(3)肥料を与えても葉が繁るだけで子実の収穫は上がらない、と記載しています。この事実から、栽培イネが長年月の改良によって、(1)発芽や出穂が均一になり、 (2)食用になる子実や穂が大きく、たわわに実っても実が落ちず、(3)肥料による増収効果もある作物に変身したことがわかります。
 ここに示したイネの例と同じように、他のすべての作物にも祖先種があって、今の栽培種があるのですから、私たちが日頃なにげなく食べている作物はすでに、「人間に都合の良いように改良された」植物の姿なのであり、「自然のままの」植物なのではありません、山野草を除けば、私たちの日常の食材は1万年にわたる人間の手の加わった「奇形」植物なのです。
<作物になって多様になった>  自然の中で生き抜く逞しさが減少した作物は、しかし、人間との係わりを持つことで、べつの能力が引き出されてきました。それは、作物になって多様になったことです。
「人間の手が加わって、植物本来の多様性が失われた」と主張する人もいますが、実際はどうでしょうか。人間の手が加わらない祖先種には、たしかに特定の条件下で生き抜く逞しさがありましたが、多様性は多くありませんでした。彼らは生き残るために姿・形を作りだし、それ以外の性質はそぎ落として生きてきたからです。例えば、地中海原産のアブラナ科植物ケールは、ブロッコリーやキャベツ、カリフラワー、コールラビ、コモチカンラン、ハボタンなどの祖先種ですが、人間とともに、多様な地域に適応したからこそ、これだけ多様な作物になったと言えそうです。
 バビロフ博士の作物の起源中心地を見るとわかるのですが、どの植物も今では世界各地で、人々の好みや風土に応じた品種が誕生し、それぞれの食卓を飾っています。明治政府が「コメを作るのは無理」と考えた北海道が、今では日本一のコメの生産地です。しかも、「ほしのゆめ」などのおいしいコメの品種が誕生しています。人間の手が加わることで作物の多様性は無限に広がっています。
 このような人間の手による作物の適応能力の拡大や多様性は植物にとっては迷惑なことだったのかもしれませんが、作物は人間とともに生きることで繁栄を確保し、環境適応能力の高い植物を作物にしてきたのではないでしょうか。作物は今後とも、それぞれの地域の人々の手によって、ますます多様性を増すことになるでしょう。
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<作物が発祥した8つの地域>  イワン・パビロフ博士は12年にわたって世界中を回り、膨大な数の栽培植物(作物)とその近縁植物を収集し、それを種ごと、属ごとに厳密に分類しました。その結果、それぞれの作物について、性質が異なる多様な栽培種のタイプ(変異)が集中的に発見される特徴的な地域のあることがわかり、彼はその地域をその作物の発祥地だと考えたのです。栽培される過程では、いろいろな性質をもった栽培種が生まれるに違いありませんから、古くから栽培されているところ、つまり、作物の発祥地の近くには、それだけで多くの異変が保存され、蓄積されていると考えたのです。 この作業仮説をもとに、バビロフは、それぞれ独立して発達した8カ所の「作物の起源中心地」を明らかにしました。
 この8地域はちょうど古代文明が栄えた地域とほぼ重なっていました。このことは「農耕」を始めることができた人々が、その後の文明の誕生を可能にしたことを物語っています。それぞれの作物は、この「作物の起源中心地」から世界各地へと伝播し、今では世界の隅々に広がっています。
 このバビロフの「起源中心地」に、わが国は空白のままです。博士は1929年に来日して、温州ミカンと桜島ダイコンに強い印象を持って帰ったと記録されています。ちなみにわが国がルーツの代表的な作物には、クリ、フキ、ワサビなどがあります。
(「食の未来を考える」から)
<バビロフ博士による作物の起源中心地>
中米・メキシコ トウモロコシ、サツマイモ、日本カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ
南米 ジャガイモ、ワタ、トマト、西洋カボチャ、ラッカセイ、イチゴ
中国 ダイズ、ソバ、アズキ、ハクサイ、モモ、ネギ
インド・マレー サトウキビ、イネ、キュウリ、サトイモ、バナナ、ココヤシ、ナス
中央アジア ブドウ、タマネギ、ホウレンソウ、リンゴ
中近東 コムギ、オオムギ、エンドウ、ソラマメ、ニンジン
エチオピア高原 モロコシ、オクラ、コーヒー、ゴマ
地中海 オリーブ、レタス、キャベツ、アスパラガス、サトウダイコン、ダイコン
<導入移植法> 海外などからいろいろな変わりものの系統を集め、その中から、これはと思うものを見つけて品種にするのが導入育種法。コロンブスのアメリカ到着から南北アメリカから多くの野菜がヨーロッパに持ち込まれて、ヨーロッパの気候・土壌に適応するように改良された。それには多くの時間がかかった。それらが中国や東南アジアを経由して日本に持ち込まれた。そして素直に日本の気候・土壌に馴染んでいった。 日本国内でも嵐嘉一の「近世稲作技術史」にあるように、九州の早稲種が東北で晩生種として栽培されたのも、導入移植法と言える。またお百姓さんがお伊勢参りで他藩の稲を持ち帰って自分のところで栽培したのも導入移植法と言える。
 地産地消や身土不二に拘っていると導入移植法は利用されない。野菜が地産地消に拘って地元だけで栽培・消費されていたらこれほど豊かな野菜を楽しむことはできなかった。南アメリカ大陸アンデス山脈の麓で小指ほどの青い実を付けたトマトがひっそりと生息していただろう。トマトにとってもさびしい生き方に違いない。 江戸時代のお百姓さんも旅に出て珍しい品種に出会い、育てる楽しさはどうなっていただろう。好奇心が旺盛な人たちが新しい品種を導入改良し、人々の食卓が明るく、楽しく、豊かになる。現代でも韓国・東南アジアの食材・料理が普及されつつあり、南米ペルーの人たちが見向きもしなかった魚、ペルー近海でとれるウミヘビの一種が日本の回転すしで「アナゴ」として食されている。日本産のコシヒカリがタイで好評なことはこのシリーズのトップで書いた。 好奇心と、物事に拘らない遊び心が日本の食卓を豊かにする。
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<護るべき自然とは石器時代の自然なのか?>  「農業の多面的機能を重視すべきだ」との主張がある。その主張には「農村にこそ護るべき自然が残っている」との思いがあるようだ。 前回<在来種への思い入れ>で取り上げた意見には、「品種改良により、従来の野菜が変わってしまった」「特に、一代雑種は種子会社の利潤追求の道具になっている」「遺伝子組み換えは自然を征服できるとの思い上がりだ」 こうした思いがあるようだ。そこには「自然を破壊するな」との主張がある。「農村にこそ自然が残っている」「都市化が自然を破壊する」「経済効率だけを追求して、農業が自然と共生する面を無視している」こうした主張が叫ばれる。ではその場合の「自然」とは何なのか?どのような状況なのか? 人類の文明が発祥したときから「自然破壊」は始まったのではないのか?だとすると「自然を護れ」との自然とは「石器時代の自然を護れ」ということになる。
 自然とは「天然のままで人為の加わらないさま」であり、哲学用語として「人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態(広辞苑から)」とされる。だとすると、いわゆる原始自然こそ、本来の自然であって、いまや私たちのまわりには、真の「自然」はみるべくもない、となる。 農業問題を扱っていくと次のような論法に出会うことになる。一代雑種⇒種子会社のタネ支配⇒種子会社による農業支配、農業効率化追求⇒農業の多面的機能無視⇒自然環境破壊。「農業は先進国型産業である」というテーマから、さらにもう少し突っ込んで考えて見よう、と思うようになる。次の文は品種改良の歴史を調べようと「文明が育てた植物たち」を読んでいる内に見つけたもの。 視野狭窄にならないように、たっぷりの遊び心で、好奇心を満足させるよう、こうした方向からも考えてみようと思う。
 文明の恩恵を受けたからだろうか、ヒトは考えることに興味を持ち始め、そのうちに、考えることの迷路に立つことに歓びを見いだすようになってきた。すぐには役に立たないことのうちにも面白くて止められないことがいろいろあることを知るようになったのである。言葉で情報を伝達するようになると、知的な蓄積量が増えてくる。知的好奇心を刺激する機会も増えるのは当然である。 アルタミラの洞窟に絵を描いても腹の足しになると誰も期待していない。それでも、最低限の意志を伝達するという実用だけでなく、絵によって美しいものを創造する歓びを知るようになる。
 知的好奇心は、なぜ、どうして、という問にも促される。地球上になぜこんなにさまざまな生物が住んでいるのだろう。どれくらい多様な生物が地球上のは生きているのだろう。あれもこれも、役に立ったり、害になったりと、実用に関わりもあって生物に名前が付けられ、どれのことを言っているのか容易に情報交流ができるように、たくさんの生物をなんらかの規準によって分類整理する試みも始まってくる。 利害関係のあるものを識別し、伝達するための命名、分類をするという実用に促されて始まった行為かもしれないが、ヒトにとってはなんの役にも立たない生物がこんなにも多様に分化しているとすれば、それが生きているのにはなにかの意味があるに違いないと考える人も出てくるだろう。なぜ、という問いかけには、意味を見いだすための観察や、やがては解析も行われるようになる。 しかし、役にも立たないと言われることに全力を尽くすようになったヒトの生き方に、ほかの生物には見られない特性が創られたのである。それこそ、文化であり、科学や芸術の始まりである。新石器時代に入って、ヒトははじめて文化と呼ばれるだけの知的活動を始め、それが動物とはひと味違った知的存在としてのヒトを創りだしたのである。
(「文明が育てた植物たち」から)
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<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 板倉聖宣著「白菜のなぞ」は中学生でもわかるやさしい文章で、白菜が日本で定着する経緯が詳しく書かれている。品種改良に関するおすすめ本の一冊です。
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<主な参考文献・引用文献>
文明が育てた植物たち           岩槻邦男          東京大学出版会   1997. 5.15  
食の未来を考える             大澤勝次・今井裕      岩波書店      2003. 6.27 
白菜のなぞ                板倉聖宣           仮説社       1994.11. 1 
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉       裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一      誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学               日向康吉          朝倉書店      1997. 3. 1
( 2003年11月24日 TANAKA1942b )
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(15)日本人に適した品種改良
好奇心と遊び心
<芥川龍之介「煙草と惡魔」> 煙草は、本來、日本にはなかった植物である。では、何時頃、舶載されたかと云ふと、記録によって、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあったり、或は、天文年間と書いてあったりする。 が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文祿年間になると、「きかぬもの たばこの法度錢法度、玉のみこゑに げんたくの医者」と云ふ落首が出來た程、一般に喫煙が流行するようになった。――
 そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、煙草は、惡魔がどこからか持って來たのだそうである。そうして、その惡魔なるものは、天主教の伴天連がはるばる日本へつれて來たのだそうである。
 このように始まる、芥川龍之介の短編「煙草と惡魔」。原文の味を損なうことを承知のうえで、少し引用しよう。
 天文十八年、惡魔は、フランシス・ザヴィエルに伴(つ)いてゐる伊留滿の一人に化けて、長い海路を恙(つつが)なく、日本へやって來た。所が、日本へ來て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、様子がちがふ。 第一、あの旅行記によると、國中至る處、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。キリシタンの信者も出來てないので、誘惑する相手もいない。さしあたり退屈な時間を、どうして暮らしていいか、わからない。───
 そこで、惡魔は、いろいろ思案した末に、先(まづ)園藝でもやって、暇をつぶさうと考へた。フランシス上人は、それは至極よかろうと、賛成した。惡魔は、早速、鋤鍬(すきくわ)を借りてきて、道ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
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 それから、幾月かたつ中に、惡魔の播いた種は、芽を出し、莖をのばして、その年の夏の末には、幅の廣い緑の葉が、もう殘りなく、畑の土を隠してしまった。が、その植物の名を知っているものは、一人もいない。フランシス上人が、尋ねてさへ、惡魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙ってゐる。
 或日の事(それは、フランシス上人が傳道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出來事である)、一人の牛商人(あきんど)が、一頭の黄牛(あめうし)をひいて、その畑の側を通りかゝった。見ると、紫の花のむらがった畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの廣い帽子をかぶった、南蛮の伊留滿が、しきりに葉へついた蟲をとってゐる。 牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留滿へ声をかけた。
 ──お上人様、その花は何でございます。一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依して居りますのですから。
 ──この名だけは、御氣の毒ですが、人には教へられません。これは私の國の掟で、人に話してはならない事になってゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きっとあたります。あたったら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。 なに今日でなくっても、いゝのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて來ても、かまいません。あたったら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀(ちんだ)の酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利(はらいそてれある)の絵をあげますか。
 牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
 ──では、あたらなかったら、どう致しませう。
 ──あたらなかったら、私があなたに、何かもらひませう。賭です。あたるか、あたらないかの賭です。あたったら、これをみんな、あなたにあげますから。
 ──よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有るものを、差上げませう。
 ──よろしい。よろしい。では、確かに約束しましたね。
 ──確に、御約定致しました。御主エス・キリストの御名にお誓い申しまして。
 ──では、あたらなかったら──あなたの體と魂とを、貰いますよ。
 かう云って、紅毛は、大きく右の手をまはしながら、帽子をぬいだ。もぢやもぢやした髪の毛の中には、山羊のやうな角が二本、はえてゐる。牛商人は、思はず顔の色を変へて、持っていた笠を、地に落とした。日のかげったせゐであらう、畑の花や葉が、一時に、あざやかは光を失った。牛さへ、何におびえたのか、角を低くしながら、地鳴りのやうな聲で、唸ってゐる。………
 ──私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を云へないものを指して、あなたは、誓ったでせう。忘れてはいけません。期限は、三日ですから。では、さやうなら。
 人を莫迦にしたやうな、慇懃な調子で、かう云ひながら、惡魔は、牛商人に丁寧なおじぎをした。
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 牛商人は、うっかり、惡魔の手にのったのを、後悔した。このまゝ行けば、結局、あの「ぢゃぼ」につかまって、體も魂も、「亡ぼることなき猛火」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗旨をすてゝ、波宇寸低茂(はうすちも)をうけた甲斐が、なくなっていまふ。
 牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩に、又あの黄牛をひっぱって、そっと、伊留滿の住んでゐる家の側へ、忍んで行った。 そこで、牛商人は、毘留善麻利耶(びるぜんまりや)の加護を願ひながら、思い切って、豫(あらかじめ)、もくろんで置いた計畫を、実行した。計畫と云ふのは、別でもない。──ひいて來た黄牛の綱を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追い込んでやったのである。
 牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上がりながら、柵を破って、畑をふみ荒らした。角を家の板目(はめ)につきかけた事も、一度や二度ではない。その上、蹄の音と、鳴く聲とは、うすい夜の霧をうごかして、ものものしく、四方(あたり)に響き渡った。すると、窓の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊留満に化けた惡魔には、相違ない。氣のせゐか、頭の角は、夜目ながら、はっきり見えた。
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
 惡魔は、手をふりながら、睡むそうな声で、かう怒鳴った。寝入りばなの邪魔をされたのが、よくよく癪にさわったらしい。
 が、畑の後へかくれて、容子を窺ってゐた牛商人の耳へは、悪魔のこの語が、泥烏須(でうす)の聲のやうに、響いた。………
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
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 それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、圓満に完(をは)ってゐる。即(すなわち)、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてゝ、惡魔に鼻をあかさせた。そうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。
 が、自分は、昔からこの傳説に、より深い意味がありはしないかと思ってゐる。何故と云へば、惡魔は、牛商人の肉體と霊魂とを、自分のものにする事は出來なかったが、その代わりに、煙草は、洽(あまね)く日本全國に、普及させる事が出來た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴ってゐるやうに、惡魔は、ころんでも、たゞは起きない。誘惑に勝ったと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。
 その後の惡魔のなり行きは、豊臣徳川兩氏の外教禁遏(ぐわいけうきんあつ)に會って、始めの中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまいには、完(まった)く日本にゐなくなった。──記録は、大体こゝまでしか、惡魔の消息を語ってゐない。唯、明治以降、再、渡來した彼の動静を知る事が出來ないのは、返すがえすも、遺憾である。………
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<タバコの伝来と普及> 喫煙の習慣が日本へ紹介されたのは天正末年〜文禄年間(1570-1590)ごろで、タバコ種子が伝来し、栽培が始まったのは慶長年間(1596-1615)の初めごろと言われている。当時、どれだけの品種がどのように伝来したかは明らかでないが、鎖国体制が敷かれた寛永16(1639)までは外国船の来航も多く、それらの船によってタバコの種子が伝来したことは確かである。 そして、たばこの喫煙の習慣やタバコの栽培は、再三出されたたばこ禁煙令(禁制令)にもかかわらず、武士、僧侶、あるいは廻国修験者らによって各地に急速に拡散されて、伝来からわずか70年あまりで全国にある程度まとまった多くのタバコ産地が形成されていたことや、江戸時代の末期にはきわめて多くの品種が栽培されていたことは史実として残されている。(「日本人が作りだした動植物」から)
<好奇心があって、お人好しで、知恵のある日本人>
 「煙草と悪魔」に描かれた日本人、牛商人は好奇心があって、伊留滿が何かしていると興味を持って話しかけてくる。お人好しで、伊留滿が提案した賭にのってしまい、悪魔だと気づいても取り消せない。それでもせっぱ詰まると黄牛を使って「煙草」の畑だ、ということを見破る。この「好奇心」「お人よし」「知恵もの」というキーワード、日本人にピッタリだと思う。導入育種にしてもヨーロッパの人たちは警戒心が強かった。 なかなか在来種にしていない。日本人のように「好奇心」があって、「お人よし」で警戒心のあまりない日本人、「知恵もの」ぶりを発揮して、品種改良に取り組めば、好奇心いっぱいで財布の紐の緩い消費者が多い日本、いいものはすぐに普及する。とにかく古いもの、伝統を守ろうと言う人は一握りだから、品種改良は日本人に、そして日本の社会にピッタリだと思う。
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<沙漠緑化に命をかけて=遠山正瑛> このシリーズで取り上げる品種改良は農業関係、コメ、野菜、果物を扱っている。品種改良については、「沙漠緑化に役立つ植物の品種が改良されるといい」と思う。世界各地で日本人が沙漠緑化に取り組んでいる。 遠山正瑛(せいえい)氏の活躍はNHKテレビ「プロジェクトX」(第99回 2002年10月15日放送「運命のゴビ砂漠」〜人生を変えた三百万本のポプラ〜)でも取り上げられた。その遠山正瑛の著書「沙漠緑化に命をかけて」から、「ブドウ近代化モデル園」の計画から一部引用しよう。
 遠山正瑛氏は中国・内モンゴル自治区で砂漠緑化活動を評価され、2003年「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞されました。喜ばしいことです。
 私は中国科学院蘭州沙漠研究所と覚書を交わし、緑化事業に向けて双方の協力を確認しあった。中国側は、この研究所に私たちの拠点を設置してくれた。 私は最初に事業地として沙波頭(サボトウ)実験站(テン)のある騰格里(トングリ)沙漠を選んだ。沙波頭実験站は、中国の沙漠研究の中核を担う存在である。それだけに、ここでの事業に成功すれば、他の実験站に影響を与えるのは必至だ。私はその波及効果を期待したのだ。 その沙波頭実験站の隣接地域に「ブドウ近代化モデル園」を作るのが私の計画であった。ブドウを選んだのは、いわばブドウが中国の停滞した農業を象徴する存在であったからだ。先にも触れたが、紀元前 300年にブドウ栽培が定着し、中国を代表するブドウ生産地である吐魯番にして、その栽培法は古典的としか言いようのないものであった。他の地域のブドウ栽培も私は視察したが、差はないと言えた。 中国のブドウ栽培は2000年来、ほとんど改良されていなかったのだ。
 私はそのブドウ栽培に日本の技術を導入し、立派なブドウ園を作りたかった。私がいくら「日本の技術をもってすれば緑化は簡単だ」と繰り返しても説得力は弱い。何より、実証しなければならない。ブドウ園を成功させることで、その後に控える沙漠の緑化事業に弾みがつこことを私は期待したのだ。 私のブドウ園計画に同意した中国側は、5ヘクタールの土地ならぬ沙漠を提供してくれた。私はこのブドウ園で、品質の高い、すなわち商品価値の高いブドウ栽培を目指した。私の目標は、経済的に自立した農業を作ることにある。今はともかく、いつかは中国のブドウが世界の市場に進出できるまでに成長して欲しいと考えている。そのためには、高品質で商品価値の高いブドウを作る、つまり栽培の近代化が欠かせないのである。
 3年後、農薬は使わず、肥料には家畜の排泄物を施したブドウは見事に実ってくれた。何より私を驚かせたのは、糖度の高さだった。日本のブドウの糖度は18度が最高だが、ここでは23度から30度にもなるブドウが採れたのだ。沙漠特有の昼と夜の温度差が、功を奏したのである。 このモデルブドウ園には海外から多くの研究者が視察に訪れた(ただし、日本からは一人もこない)。中国国内でも注目の的となった。とりあえず、当初の目的である「近代化モデル園」として位置づけは、間違いないものにできたと思っている。 (「沙漠緑化に命をかけて」から)
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<好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?> NHKテレビ「プロジェクトX」で遠山正瑛氏は「とにかくやってみること」を繰り返していた。未知との遭遇にどう対処するか?好奇心を持って向かうか?恐怖心のために逃げ出すか?遠山正瑛氏の態度はとにかく前向き。伊留滿に対して牛商人も状況から逃げ出しはしなかった。 文明が発祥し、野生植物を農作物に変え、自然環境を変えた。森林を切り開き農地を開拓した。こうして自然破壊を始めることになった。自分では自分の食糧を生産しない人が出てきて「自給自足」が神話になった。かつて緑一面の森であったヨーロッパは農地になり、レバノン杉は古代王権の権力争いのために今は見る影もない。 自然界では弱いオスは子孫を残すことができない。劣性のホモ結合体は選抜されていく。しかし人類のヒューマニズムは弱者もその遺伝子を子孫に伝えるようになってきた。
 品種改良とは自然界の秩序を変えることになる。人類が生活しやすいように自然破壊を行う。それを嫌って神の定めた秩序を護ろうとすれば中世ヨーロッパのような暗黒の時代にしなければならない。それは誰も望まないし、バチカンも望んではいないはずだ。 人類が自然を改良したために外部不経済=公害というしっぺ返しを受けている。これに対して恐怖心を露わにして現代風ラダイト運動を起こす人もいる。これに対して好奇心いっぱいの人間は外部不経済を内部経済に取り込み、それを消却する方法を試みる。失敗を重ねながらも「とのかくやってもよう」とチャレンジする。 選抜育種法中心のゆっくりした時の流れの時代から、交雑育種法、一代雑種育種法と技術を進歩させてきた。導入育種法という地産地消に反することも積極的にしてきた。細胞育種法は期待したほどの成果をあげていないが、遺伝子組み換え育種法には期待が集まる。インスリンなど医薬分野で結果を出し、農作物に応用されようとしている。 好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?先進国型産業である農業分野でどのように対処するか、決断が迫られている。
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<主な参考文献・引用文献>
芥川龍之介全集 1 <小説1>                            岩波書店      1954.11. 6
日本人が作りだした動植物           日本人が作りだした動植物企画委員会編  裳華房       1996. 4.25
沙漠緑化に命をかけて             遠山正瑛                TBSブリタニカ  1992. 7.17
沙漠緑化への途                村井資長                早稲田大学出版部  1995. 7.25 
沙漠よ緑に甦れ ジュブティ共和国10年の戦い  高橋悟                 東京農業大学出版会 2000. 5.18
砂漠化防止への挑戦              吉川賢                 中公新書      1998. 4.25
砂漠緑化の最前線               真木太一ほか              新日本出版     1993. 7.25
レバノン杉のたどった道            金子史朗                原書房       1990.12.12
古代文明と環境 文明と環境T         梅原猛・伊東俊太郎監修         思文閣出版     1994. 8. 1
古代文明の隠された真実            竹内均                 同文書院      1997. 3. 8
( 2003年12月1日 TANAKA1942b )
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(16)細胞育種法
ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ
<品種改良の方法を分類すると> 植物の品種改良の関連していろいろな言葉が登場する。このHPでは品種改良の方法を分かりやすくするために、次のように分類して話を進めてきた。 実際はさらに詳しく分類した表示、あるいは別の分類の仕方もあるので、それらをまとめてみた。
「選抜育種法」
メンデル以前の品種改良方法。江戸時代には武士、町人が花の品種改良を道楽としていた。ポイントはいいものをさらに育て、いらないものを捨てていく。この捨てることができず、もったいないと思っていると品種は改良されない。 分離育種法、集団選抜法、循環選抜法などの言葉がこれに関係している。
「交雑育種法」
コメの品種改良はこれ。コシヒカリもこの方法によって生まれた。交配すること、その後の選抜育種がカギになる。突然変異利用、純系選抜法、系統育種法、集団育種法、派生系統育種法、合成品種育種法などの言葉がこれに関係している。
「導入育種法」
ただよそから持って来ただけだ、として育種法として取り上げてない文献もある。南北アメリカからヨーロッパに導入され、それが日本にまで伝えられた作物は多い。白菜のようにまるで日本に古くからあるように馴染んでしまった野菜も多い。アブラナ科の野菜には、露地栽培しているとミツバチなどによって他のアブラナ科の植物と自然交配され、代が進むごとに野生種に近くなり、野菜としての商品価値がなくなるものが多い。
「一代雑種育種法」
F1ハイブリッドという言葉によって全く新しい、アメリカから導入されたハイテクのように思う人もいるかも知れない。しかしメンデルの法則の第1実用化者は日本人、外山亀太郎博士が1915(大正4)年に蚕のハイブリッド品種を実用化し、 そのとき育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く市域された。 野菜の一代雑種は埼玉県農試の柿崎洋一が大正13年に、埼交茄と玉交茄の2品種を育成し、その種子を農家に配布した。これが日本で最初で世界で最初の野菜の一代雑種だった。
 私たちが日頃食べている野菜はアブラナ科の野菜――だいこん、ラディッシュ、かぶ、クレソン、はくさい、キャベツ、芽キャベツ、ケール、こまつな、きょうな、カリフラワー、ブロッコリー ――を始め、そのほとんどがハイブリッドになっている。もしも農家が種子会社に頼らず、消費者に喜ばれる野菜の種を取ろうとしたら、とてつもなく大変な作業で、このためには種子会社と生産農家との分業しか方法がない。「種子会社に支配されるのは良くないので、F1をやめて、在来種などの種子を農家が採るべきだ」などと農家にとって無茶な要求をしないこと。
「細胞育種法」
葯を培養する方法と細胞を培養する方法がある。花よりも野菜に多く利用されている。組織培養技術利用、半数体育種法、胚培養、花粉培養、細胞融合、バイオテクノロジーなどの言葉が関係している。
「遺伝子組み換え育種法」
他の品種からとった遺伝子のDNAを染色体に導入し、その遺伝子を働かせ、品種改良を行う方法。@アグロバクテリウム感染法、Aパーティクルガン法(遺伝子銃法)、Bエレクトロボーレーション法(電気穿孔法)、などの手法がある。
<「ポマト」止まりのバイオテクノロジー> 自然界にある品種を組み合わせて新しい品種を生み出そうとしてきた、そうした試みをして行く内に積極的に突然変異を利用しようと、放射線の平和利用の一環として、ガンマー線の照射や突然変異誘起物質による「突然変異育種法」が行われるようになった。 1964年に誕生した放射線育種場(茨城県大宮町)がその中心になった。ここでは20世紀ナシの黒斑病抵抗性の突然変異品種「ゴールド20世紀」、低アミロースイネ「はやぶさ」や「ミルキークィーン」などが生まれた。人為的な変異誘起は不利な方向への発生も多いため、方向性を明確にできる品種改良方法が求められていた。 そこに登場したのが植物の細胞操作を主体としたバイオテクノロジーであった。ここでは細胞育種法をオールドバイオとニューバイオとに分けて考えてみる。
オールドバイオテクノロジー 動物の細胞は細胞壁を持たない。それに比べ植物は細胞壁があるため扱い難いとされていた。しかし、植物の無菌操作が可能になり、作物の改良に用いられるようになった。
 植物のバイオテクノロジーの第1歩は、トマトの野生種の持つ、病気に強い性質を栽培種に導入しようとした胚培養(1944年、アメリカ)だった。その後、ダリアの成長点培養によるウイルス病の除去技術(1952年、フランス)、ラン(シンビジウム)の大量増殖技術(メリクロン)(960年、フランス)が誕生して、植物の細胞培養技術が大いに注目を集めた。
 1940〜50年代に始まった植物培養技術は、今ではオールドバイオテクノロジーと呼ばれ、ニューバイオテクノロジー(細胞融合や遺伝子組み換え)と区別されている。 この技術は1980年代に入ってから実用的な成果をあげた。現在ジャガイモの95%はウイルスフリー苗で、イチゴも75%がそうなっている。サツマイモやニンニク、山芋などにもウイルスフリー苗の利用が広がっている。橙色のかわいいミニカボチャ「プッチーニ」はペポカボチャと日本カボチャの胚培養によって誕生したものだ。
ニューバイオテクノロジー 品種改良は胚培養によっていくつかの成果をあげた技術をさらに発展させていった。細胞壁を除去した裸の細胞(プロトプラスト)を融合処理すると、植物の種類が違っても細胞は融合する。その融合細胞は分裂をし、うまくいけば、融合細胞起源の新しい植物が誕生する。 こうして1978年にドイツの研究者G・F・メルヒャース等によって「ポマト」が生まれた。これはナス科ナス属のジャガイモとナス科トマト属のトマトを細胞融合によって両方の性質を持つ植物で、地上にはトマトが実り、地下にはジャガイモができた。トマトの実にジャガイモの芽の毒素が溜まることがわかり、食用にはできなかった。 また次世代の種子の獲得は困難だった。植物体はジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状況だった。、双方の葉肉細胞を酵素処理して裸の細胞(プロトプラスト)化し、細胞融合剤・ポリエチレングリコール(PEG)で融合させるものだった。
 ポマトの誕生によって細胞融合技術は世界中から注目された。このため世界中でこの研究に取り組んだ結果、細胞同士の融合は幅広い植物種間で可能だが、その後の細胞の分裂と、雑種植物の再生は、遠縁植物の間ではなかなかうまくいかないことがわかってきた。さらに、再生植物体を得ても、次世代の種子の獲得は困難であった。 ポマトにしても結局種子は得られず、ジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状態だった。20年に及ぶ膨大な実験の結果、細胞融合技術は、縁の遠い組合せの関係を克服する技術には成り得ないことがはっきりした。両者の縁が遠ければ遠いほど、今まで存在しなかった新しい生物が誕生すると期待されたが、そのような「自然の摂理」に反した植物は誕生し得ないことがはっきりした。そしてそのことによって、品種改良の限界もはっきりしてきた。 品種改良で、できること、できないことがはっきりしてきたのだった。
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<バイオテクノロジーによる稲品種改良> コシヒカリをはじめ、イネの品種改良は交雑育種法を中心に進められてきた。その交雑育種法にバイオテクノロジーが応用されるようになった。ここではバイオテクノロジーによるイネの品種改良について調べてみた。
葯培養
葯(やく)とは、おしべの先についている花粉の詰まった袋のことで、花粉から直ちに固定した系統を作り出す育種法。「半数体育種法」とも呼ばれている。 日本では道県の農業試験場を中心に葯培養が行われ、1995(平成7)年の資料では6品種が奨励品種として作付けされている。葯培養で普及に移された第1号は上育394号(1988,昭和63年)であった。しかしその後の育成品種も作付け面積は伸びていない。
 葯培養によって育成された水稲の奨励品種   1995(平成7)現在
品種名育成年育成機関1994(平成6)年作付面積(ha)
上育394号1988(昭和63)北海道上川農試37
吉備の華1989(平成元)岡山県農試2784
ひろひかり1990(平成2)広島県農試536
白雪姫1990(平成2)岐阜県農試185
越の華1991(平成3)富山県農試1660
彩(あや)1992(平成4)北海道上川農試92
  (「続 図説・米の品種」から)
 上にあげた「ひろひかり」、1999年の作付面積は14haまでに減少している。吉備の華は1999年は3,200haで岡山県の稲作面積のわずか7.7%でしかない。品種改良の実績はあがっていない。
組織培養 (1)培養異変
寒天培地上で稲組織を培養するために2,4-D、NAAなどの植物ホルモンを添加する。すると細胞は盛んに分裂してカルスとよばれる白色で不定形の組織をつくる。 これを細かく切って、2,4-D、NAAを添加しない培地に置床し明所で培養すると発芽、発根して植物体が復元する。しかし、復元した個体には原品種とは異なる形質が生じることがある。これを培養異変(ソマクローナルミュテーション)とよぶ。 これを育種に応用するのが組織培養育種法。幾つか種苗登録されているが、普及に移された品種はない。培養異変は交配と採取が容易な稲よりも、栄養繁殖性の強い作物に適した育種法であると言われている。
(2)増殖
栄養繁殖性の作物では増殖にコストがかかる。そのため、組織培養による増殖は定法として実用化されている。成長点を培養し植物に再生させると、ウィルスに汚染した植物からウイルスをもたない(ウイルスフリー)種苗を生産できる。イチゴのウイルスフリー化は1974年に成功し、収穫量の向上に貢献している。
(3)胚培養 遺伝的に遠縁になると交配が困難にばる。種は交雑が可能な個体の集団と捉えることができる。育種を進める上で、種内に目的とする遺伝子がない場合には近縁種源を求めることになる。しかし、あまり遠縁だと種子が結実しない。胚培養はこのような時、交配後の胚珠を培養して雑種植物を直接獲得する方法と言われている。
 胚培養を応用した品種改良としては1957年にハクサイとキャベツとの雑種「ハクラン」(品種名「シャイングリーン」)が生まれている。1967年には試験官内受精により種間、属間雑種が試みられている。種間、属間雑種の多くは不稔を伴うので、穀物での直接利用はできないが、野菜や花など子実を目的とせず、栄養体での増殖が容易な場合には有力な育種法と考えられている。
(4)細胞融合 生殖核は融合して雑種を作る。植物細胞は硬い細胞壁をもつので不可能であったが、1968(昭和43)年にタバコの葉肉細胞の細胞壁を酵素で溶かし、原形質膜で囲まれたプロトプラストを作り、これをポリエチレングリコール、電気刺激などで融合させる方法が開発された。タバコの種間雑種が細胞融合で作られた最初の雑種(1972、昭和47年)であるが、 一般にはポマト(ポテトXトマト、1972年)やオレタチ(オレンジXカラタチ、1978年)の方が知られている。稲ではヒエや近縁属のアシカキ属との細胞雑種が試みられているが、品種改良としての成果は上がっていない。
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<バイオテクノロジーを利用した植物の品種改良の例>  農林水産技術会議のホームページから引用しよう。
技 術 作物名 系統名又は品種名 登録年月 育成者(機関)
組織培養 イチゴ
イチゴ
サトイモ
すいか
トマト
ひまつり
スマイルハート
福頭
天鈴
華ロマン
1995. 8
1998. 7
1992. 7
1992. 9
1998. 3
東海大学
(株)四国総合研究所
佐賀県
タキイ種苗(株)
日華化学(株)
胚培養 小麦
カボチャ
かんきつ
なたね
ユリ
トレニア
もち乙女
プッチィーニ
おおいた早生
はなっこりー
アフロ
サンレニディブ
2000.10
1998. 3
1996. 8
1999. 8
2001. 2
2000. 7
東北農業試験場
(株)サカタのタネ
大分県
山口県
岡山県
サントリー(株)
葯培養 イチゴ
イネ
イネ
イネ
ブロッコリー
アンテール
さわかおり
来夢36
まなむすめ
スティックセニョール
1994.12
1999. 9
2000. 2
2000.12
1994. 3
茨城県
高知県
富山県
宮城県
(株)サカタのタネ
プロトプラスト培養 イネ
イネ
ジャガイモ
ジャガイモ
 
はつあかね
夢ごこち
ジャガキッズパープル90
ホワイトバロン
 
1990.12
1995. 9
1994. 8
1997.12
 
三井東圧化学(株)
三菱化学(株)
三菱商事(株)
麒麟麦酒(株)
ホクレン農業協同組合連合会
細胞融合 カンキツ
カンキツ
ナス
ヒラタケ
オレンジカラタチ中間母本農1号
カンキツ中間母本1,2,3,4号
ナクロス
農林総研P01号
1996. 1
1997. 7
1997.12
1993. 3
果樹試験場、キッコーマン(株)
果樹試験場、キッコーマン(株)
奈良県
森林総合研究所
遺伝子組換え カーネーション
カーネーション
(ムーンダスト)ヴィオ11
ヴィオリン
2000. 6
2000. 6
サントリー(株)
サントリー(株)
 農林水産省生産局種苗課調べ
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<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで   西尾剛・岡崎桂一          誠文堂新光社    2001. 6.15
図説・米の品種               大里節・丸山清明          日本穀物検定協会  1995. 6.30
イネの育種学                蓬原雄三              東京大学出版会   1990. 6.20
日本の野菜 青葉高著作選T         青葉高               八坂書房      2000. 6.30
日本の野菜 産地から食卓へ         大久保増太郎            中公新書      1995. 8.25
( 2003年12月8日 TANAKA1942b )
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(17)自家不和合性と雑種強勢
農業経営組織・制度の品種改良は可能か?
<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。 
(「ふしぎの植物学」から)
 このシリーズのテーマは品種改良。これは日本人が得意とする分野だ。江戸時代には庶民も花の品種改良を楽しんでいた。その方法の1つの「選抜育種法」、このポイントはダメなものは捨てていく、子孫を残さない、自然界の自然淘汰を行うことだ。産業で言えば、「生産性の悪いものは撤退していく」となる。農業が不向きならば他の産業に転職しやすい環境を作ることが必要になる。農業が世襲制である必要はない。転職の資金を農地を売った代金で賄えるならそれもいいのだが、現在は農地の売却はし難い制度になっている。資金の十分ある株式会社は買い手として名乗りをあげられない。
 農業が世襲制であるために、自然界の植物とは違って、自家授粉する傾向にある。交雑育種法は有性生殖を積極的に行うことだ。ここに引用した<近親結婚はしないよ>は、「交配」とか「一代雑種」の基本的な考え方を理解するために引用した。日本の農業が発展して行く過程で品種改良は大きな役割を果たしている。その基本的なことは<近親結婚はしないよ>ということだ。そうでありながら日本の農業経営組織・制度は実質的な近親結婚をしている。外部者の意見に耳を傾けず、外部の資本導入を嫌い、外部の経営組織体の参入を拒む。日本人は農産物の品種改良の多くの分野で立派な貢献をしてきた。 これからはこの経験を生かして、農業経営でも多くのオシベとメシベとの交配で今までの親とは違った性質の後継者を育てて行く必要がある。このシリーズで扱っている「品種改良」は農産物だけではなくて「農業経営組織・制度」にこそ必要なことだと思い、ここに取り上げてみた。
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<自家不和合性 self-incompatibility> 雌雄同花で正常な機能をもつ雌雄両配偶子が同時に形成されるにもかかわらず、受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の花柱への進入不能、花粉管の伸長速度低下または停止などにより、自家受粉が妨げられる現象。この現象は高等植物に広く見いだされ、明らかに他殖性 allogamy を維持、促進する繁殖様式の一つと考えられている。(以下略) (平凡社「大百科事典」から)
アブラナ科の植物には、自家不和合性と呼ばれる性質をもつものがあります。これは、受粉したときに雌しべと花粉のあいだで自己と非自己の認識反応がおきて、自分でない(=非自己の)花粉で受精して種子をつくります。いろいろな植物がこの自家不和合性の性質をもっており、アブラナ科植物や野生のタバコ、野生のペチュニアなどを使って最近に研究が展開されています。(「花粉からのたより」から)
他家受粉では種子が出来るが、自家受粉では種子が出来ない特性。自家不和合性を示す植物は多く、近交弱勢による子孫の生存力低下を防いでいる。(「花の品種改良入門」から)
自家不和合性をもつ植物では、それを利用してF1採種ができる。自家不和合性とは自己と非自己の花粉を識別し、非自己の花粉で受精する性質である。自家不和合性といってもその性質が強いものや弱いもの、条件によって変動する系統もあるので、その性質を充分に吟味しながら使わなければならない。アブラナ科の野菜では、自家不和合性を利用したF1採種がわが国で実用化された。 雌雄異株のものではF1採種が簡単なように考えられるが必ずしもそうではない。植物では、両性花が同一個体に混じることがよくあるから、完全な雌系統を育種必要がある。ホウレンソウでは、雌性系統に雄花をつける条件を見出して自家受精させ、完全雌性系統を育成し、それを母胎として用いることによって成功した。(「植物の育種学」から)
19世紀、アメリカで、セイヨウナシのある品種が2万3000本も植えられた大果樹園がつくられた。ところが、花は咲いたが、不思議なことに、ほとんど実がならなかった。調べてみると、果樹園の一部分にだけ、実がなっているところがあった。そこには、別の品種のセイヨウナシが1本だけ誤って植えられていた。そこで、「同じ品種の花粉では実がならず、別の品種の花粉がつくと実がなるのではないか」と考えられた。 さっそく、別の品種の花粉をメシベにつける試みがなされた。すると、果実が実った。
 この現象は、「自分の花粉が自分のメシベについても、受精が成立せず、種子ができない」という性質を示している。この性質を「自家不和合性」と呼ぶ。自分の花粉を自分のメシベにつけて種子をつくることを避ける工夫である。セイヨウナシだけでなく、多くの果樹や、アブラナ科、キク科、ナス科やマメ科などの植物も、この性質を持っている。 この性質を持つ植物では、メシベに自分の花粉が付着しても、受精が成立しない。しかし、同じ仲間の他の植物体の花粉がついた場合には、受精が成立し、種子ができる。植物たちは、自分の花粉と他の花粉を識別する能力があるのだ。
(「ふしぎの植物学」から)
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<雑種強勢 hybrid vigor> ヘテローシス heterosis ともいう。生物の種間または品種間の交雑を行うと、その一代雑種はしばしば両親のいずれよりも体質が強健で発育がよいという現象がみられる。これを雑種強勢といい、農作物、家畜の品種改良にしばしば利用される。最初トウモロコシで発見され、ついで動物でもモルモットで認められた。
 一方、異なった個体間の受精のよって繁殖することを常態とする他殖性作物(トウモロコシなど)を、強制的に自殖(同一個体内で受精させる)させたり、近親間の交配を繰り返したりすると、子孫(後代)の生育がしだいに劣ってくる例が多い。これを自殖劣勢といい、雑種強勢と逆の関係になる。また、特定の遺伝子的な効果によって雑種第1代の生育がまれに弱勢化することがある。こらは雑種弱勢 hybrid weakness といわれる。 (平凡社「大百科事典」から)
雑種が純系よりも生育が旺盛なこと。両親の組合せによって雑種強勢が強く現れる場合と、そうでない場合があり、種内では一般に、特性が大きく異なる両親間で雑種強勢が顕著である。(「花の品種改良入門」から)
多くの作物の種子は自家受粉によってつくられ、純系と呼ばれる。これに対して父親と母親が別の個体から由来したものは雑種(ハイブリッド)と呼ばれる。かつては農産物を均一にするという観点から純系をつくることが中心に行われてきた。一方、雑種のなかには両親よりはるかに優れた性能を示すものがしばすば見られる。このような現象は昔から雑種強勢と呼ばれている。特にこの現象はトウモロコシで顕著に見られ、純系に比べ背が高く収量がはるかに多くなる。 現在世界で取引されているトウモロコシの種子の大半が雑種である。ダイコン、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、トマトなどその他の多くの作物でも雑種強勢を利用した種子が利用されており、この雑種強勢の性質は両親の関係が遠いほど出やすいという傾向がある。
 イネでは従来この雑種強勢の性質は利用されていなかった。その最も大きな理由は、現在利用されているイネは確実に種をとるために、野生種のもっている他家受粉受粉する性質を捨て自家受粉する性質を強くもっているため、雑種を作りにくいことにある。そして、それゆえ雑種強勢の性質があることは一部で知られていたが、あまり注目されなかった。
(「夢の植物を育てる」から)
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<カブXハクサイ=???> ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ。では同じアブラナ科のハクサイとカブの雑種をつくったらどうなるだろうか?そんな文章があったので引用しよう。
 「ハクサイとカブは簡単に雑種をつくるのか。そしたら、ハクサイとカブの雑種をつくれば、地上部がハクサイになって、地下部がカブになり、一石二鳥ではないか?」と言われるかもしれません。実際に雑種をつくってみると、残念ながら、地上部はカブで地下部がハクサイになってしまいます。葉を巻く性質も、根が太る性質も、劣性の遺伝子が集積してできたもののようで、雑種にするとその性質はすぐには現れてこないようです。
 雑種をつくった、その後代から上手に選べば、葉が巻いて根が太るものもできるかもしれません。しかし、葉の巻く性質に関係する遺伝子群と根が太る遺伝子群の両者を動じに選び、そして同時に品質がよく、それぞれを堪能できるものに仕上げるには、相当の努力と資金が必要でしょう。しかも、葉も根もそれをつくる物質は太陽エネルギーと土中の無機物質が元ですので、葉の大きさも根の収量も半減することになります。こんなことをするよりは、葉が巻いて美味しいものと、 根が太って美味しいものを別々につくって、口の中や胃袋のなかで混ぜた方が利口だという判断があったのかもしれません。
(「菜の花からのたより」から)
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<主な参考文献・引用文献>
ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事      田中修             中公新書      2003. 7.25
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで     西尾剛・岡崎桂一        誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学                  日向康吉            朝倉書店      1997. 3. 1  
夢の植物を育てる                鎌田博・堀秀隆         日本経済評論社   1995. 7. 1
( 2003年12月15日 TANAKA1942b )
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(18)日本人が切り開いたハイブリッド技術
外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス
<蚕で世界初のハイブリッド種を育成> 一代雑種はメンデルの法則によっているので、メンデル以前には行われていない。一般的には1940(昭和15)年ころ、アメリカでのトウモロコシのハイブリッド種が文献ではよく登場する。しかしその10年以上前に日本で実用化されていた。 ただし野菜など農作物ではなく、蚕であった。こうしたことを平凡社「大百科事典」から引用しよう。
 農業に一代雑種を利用するときときは大量の交配種子が必要であるが、自殖性作物では大量に他殖させる工夫が難しい。そこで、他殖性でしかも大量の交配種子のとれる動植物について、この方法がよく利用されてきた。 日本ではカイコ(家蚕)について外山亀太郎が1906年に一代雑種の有利性を提唱、31年には実際の飼育の99.9%が一代雑種となった。作物でもトウモロコシの研究がアメリカで発達した。現在は多くの野菜類で一代雑種が用いられている。交配するときにはそれぞれの野菜の植物学的特性をうまく利用している。 たとえばハクサイ、キャベツ、ダイコンは自家不和合性、キュウリ、すいか、カボチャ、メロンは雌雄異花、タマネギ、ニンジンは雄性不稔を利用している。コムギ、オオムギなどの自殖性作物でも雄性不稔をうまく利用して一代雑種の実用化が図られている。 (平凡社「大百科事典」から)
 遺伝子組み換え食品に関係する話題を追っていくと、政府の後押しを受けてアメリカ企業が攻撃側に立って、日本とヨーロッパ諸国は受け身になっているかのように見える。アメリカではベンチャー企業が開発した技術を大手企業が買い取り、その技術特許を武器に攻めてくる。 その攻め手は大手化学品メーカーだったり種子メーカーだったりする。こうした情勢なので、「F1ハイブリッドや遺伝子組み換え植物で、アメリカ企業が種子を独占する」との非難の声があがる。そうしてあたかも品種改良の先端技術はアメリカ企業が世界制覇を目論んで、開発を進めた結果だ」となる。 この考えには、「品種改良の先端技術はアメリカ企業に握られていて、アメリカ政府はそれを守り、企業が独占利益を上げられるように自由貿易を主張する」との自虐的・敗北的技術観がチラチラ見えるようだ。こうした見方にはいくつか反論したい点があるのだが、ここでは「品種改良の技術、日本はその先端を行っている。自虐的になるのは事実を見ない、視野狭窄なためだ」と主張し、その一例としてF1ハイブリッド=一代雑種など品種改良の先駆者を取り上げた。
外山亀太郎 1915(大正4)年の帝国学士院賞はアメリカで活躍中であった野口英世博士と蚕の品種改良に貢献した外山亀太郎博士に贈られた。絹は戦前、日本の主要な輸出産業であった。それには外山博士の蚕の一代雑種による品種改良の貢献を忘れてはならない。
 1902(明治35)年当時、東京帝国大学助教授であった外山はシャム(タイ)国に出張した。ちょうど、その2年前の1900(明治33)年に、メンデル遺伝法則が再発見されて、世界中の関心が寄せられていた時期である。早速、外山はシャムで実験を行い、この法則が蚕でも当てはまることを明らかにした。帰国後の1906(明治39)年に「家蚕の雑種について、特にメンデル遺伝法則を論ず」と題し、東京帝国大学の学術報告に発表する。 メンデル法則が再発見されて6年目、この法則が動物でも適用されることを世界で初めて立証した歴史的な報告である。彼の名前は世界中に知れわたった。
 もっとも彼の最高の業績はメンデルの法則の追認ではない。この時に白まゆ種と黄まゆ種を交配し、一代雑種が両親より多収になることを認め、これを蚕種製造に応用することを提唱したことである。1911(明治44)には原蚕種製造所(現・蚕糸・昆虫農業技術研究所)が新設されるが、外山は招かれて品種改良の指導に当たる。ここからハイブリッド品種の育成が始まった。
 原蚕種製造所は1914(大正3)に蚕業試験所と改称されるが、この年にハイブリッド品種は普及に移された。外山の仕事ぶりをみた、加賀山辰四郎場長の英断によるものである。ハイブリッド品種はその後急速に普及が進み、昭和のはじめには国内の全蚕種がハイブリッド品種に置き換えられていった。とくに1915(大正4)年に育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く飼育された。 
 農業におけるハイブリッド品種の利用は1940(昭和15)年頃、アメリカで飼育されたトウモロコシのハイブリッド品種が世界で最初であるとよく言われる。その10数年前に、日本では外山がハイブリッド品種を実用化していたえわけだ。外山の功績はもっと高く賞賛されてもよいだろう。
 神奈川県厚木市上古沢、小田急線厚着駅から北へバスで30分あまり、そろそろ丹沢の山にかかろうという辺りが、外山の故郷である。外山家はかつては甲斐武田に仕えたという土地の旧家。小高い丘に鎮座する氏神の諏訪神社を背に、後代な門構えの生家があったという。今では杉が植林され、往時を忍ぶ縁もない。「正五位農学博士外山亀太郎」と記した背の高い墓だけが、杉木立に囲まれて立っていた。
(「農業技術を創った人たち」から)
「絹の文化誌」から 1866年に発表されたメンデルの法則は、当時の遺伝学者には受け入れられなかった。ドフリース、コレンス、チェルマックの3人が、メンデルの実験結果の正しかったことを明らかにしたのが、1900年である。これをメンデルの法則の再発見というが、その6年後1906(明治39)年に、蚕の一代雑種(F1ハイブリッド)の利用が提唱された。 国立原蚕種製造所の外山亀太郎が、日本在来の品種(日本種)と中国大陸に在来する品種(中国種)とを掛け合わせて得られた一代雑種の蚕がそれぞれの親よりも常に強健で、しかも絹の生産量も多いことを見いだし、提唱したのである。
 外山は1902(明治35)年2月から約3年間、シャム国(現在のタイ)に政府顧問として滞在して、蚕糸技術の指導にあたった。彼は、帰国してわずか1年後に一代雑種の利用を提唱したことになるが、実は、このシャム国滞在中に、日本種とシャム種の一代雑種を作り、それがシャム種の2倍の絹を生産するという結果を得ていたようである。シャム国滞在中に、既に一代雑種のすばらしさを確認していたに違いないと思われるのである。
 この蚕の一代雑種の提唱は、メンデルの法則を、生産を目的とした動植物に応用した最初の事例である。アメリカで、トウモロコシやブロイラーの一代雑種が利用されるようになったのは、さらに後のことである。稲で一代雑種を利用したハイブリッド米が話題になったのは、ごく最近のことである。
 一代雑種は、蚕の強健性や絹の量(繭層量)などが原種(親)に比べ優れている。両親の平均よりも優れた形質の発現を示すことを雑種強勢というが、この雑種強勢は、それぞれの原種を交配した1代目(1代交雑種)に最も強く現れ、強健性や絹の量をはじめ多くの形質が、両親のいずれよりも優れていることもしばしばある。一代雑種の蚕が優れているのは、このためである。しかし、この雑種強勢は、2代目、3代目と代を重ねていくと次第に弱化を起こす。 つまり雑種強勢の効力は、1代限りで、いつまでも維持することはできない。一代雑種を利用するには、常に両親原種を維持しておき、それらを交配して毎回雑種を作らなければならないのである。蚕種は、この一代雑種法の導入によって着実に改良され続けてきた。主にこの蚕種改良により、生糸の生産効率は大きく向上し、生糸1俵(60Kg)の生産に要する蚕種量は、明治30年代には92.3箱(184万6千粒)であったが、昭和50年代には9.5箱(19万粒)に減少した。つまり、その生産効率は10倍近くに向上したのである。
 しかし、外山が一代雑種を提唱した明治39年ごろは、まだ交配すべき適当な蚕種もなく、一代雑種の実用化がすぐに進んだわけではない。小学校教師の長谷川五作は、大正2年郷里の埴科郡杭瀬下(くいせげ)村(現・更埴市)で蚕種家を集めて、自身のトウモロコシの遺伝実験例を示して、遺伝学が蚕種家にとって有望なことを説いたが、同席の蚕種家は賛成しなかった。それどころか、必ず遺伝学を必要とする時代がくると断言した長谷川に対し、蚕種家の中には、反感をもつ者さえいたという。 一代雑種の実用化を懸念し、ちゅうちょしていた蚕種家が多かった大正3年に、松本商工会議所会頭をしていた片倉の今井五介は、国立原蚕種製造所で一代雑種の普及を望んでいることを知ると、南安曇、東筑摩の有力蚕種製造家たちと共に、直ちに「大日本一代交配蚕種普及団」を結成し、これを普及奨励しようとした。今井の熱心な態度は注目の的となり、まもなく交雑種万能時代を生み出した。大正8年には全国の蚕種製造高の80%が一代雑種となった。
(「絹の文化誌」から)
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<柿崎洋一のナスが野菜一代雑種の世界初> 近年果実をとる野菜(果菜類)では一代雑種でない、いわゆる固定種はほとんど見られない。一代雑種のさきがけはナスであって、埼玉県農事試験場の柿崎洋一氏が1924(大正13)年に埼交茄(巾着X真黒)と玉交茄(白茄X真黒)の2品種を育成し、その種子を農家に配布した(埼交、玉交茄は最初は試験場のあった地名に因んで浦和交配1号、同2号と呼ばれた)。 これは日本で、というよりは世界で初めての野菜の一代雑種で、この品種は草勢が強くて栽培しやすかった。そして柿崎氏は当時、埼玉県の農家の人たちから「ナス博士」と呼ばれた。
 これが契機となって、その後多くの府県でナスの一代雑種が育成され、またスイカやトマトなど多くの果菜類でも一代雑種時代を迎えた。一代雑種はたいていの場合草勢が強く、品種として優れているばかりでなく、採種業者としては親品種を確保しておけば毎年同様な種子を販売できる利点があり、この点からも一代雑種が多くなったと思われる。
(「日本の野菜」青葉高著作選 T から)
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<「緑の革命」に貢献した日本の「農林10号」> ムギはイネ、トウモロコシ、ジャガイモとともに4大作物の一つであり、世界の多くの国々で栽培されている。数十年前には、日本でも、多くの人々がムギを食べていた。いや、お金持ちに人は食べなかったかも知れない。「貧乏人は、ムギを食え」という、当時の首相の放言が話題になったこともあるのだから。 現在のわが国では、ムギは穀物として忘れかけられている。「緑の革命」とは、1960年代に、イネ、コムギなどの多収穫品種が開発され、インドやパキスタンなどの発展途上国の飢餓を救ったものである。コムギの生産量の飛躍的な増加をもたらす品種を育成した、アメリカのノーマン・ボーローグは、1970年のノーベル平和賞を受賞した。 その収量の増加を陰で支えたのは、日本生まれのムギ、「農林10号」である。この品種は、穂が多く大きい上に質が良いという性質に加えて、背が低く頑丈であった。「背が低く頑丈である」ということは、作物の収量を伸ばすために大切な性質である。たくさんの実をつけても倒れないために、この性質が役立つと考えればよいだろう。
 戦後、日本にきた種子の専門家、アメリカのサーモンが、「農林10号」に目をつけた。背丈はアメリカ小麦の半分近くしかないのに、頑丈で、穂が大きく、多くの実ができる特性に驚いた。そこで、1945年、この種子をアメリカに持ち帰った。以後、「農林10号」は「ノーリン・テン」と呼ばれる。 ノーリン・テンの特性は、アメリカからメキシコへわたる。メキシコ在来の小麦は、背丈が2メートル近くもある。ノーリン・テンの背丈はその半分以下である。ボーローグは、ノーリン・テンの特性をメキシコ在来の小麦に導入した。その結果、ノーリン・テンと背丈が変わらない頑丈で収量の多いメキシコ小麦が次々と生まれた。 この中に、収量を飛躍的に高めて「奇跡の小麦」と言われた「ソノラ」もあった。「奇跡の小麦」の中に、日本生まれの「ノーリン・テン」の性質が生きているのだ。
 「農林10号」が日本で栽培されていたころ、ムギは、イネの裏作として、秋に種子を蒔き、春に収穫された。そのころ、「ムギ踏み」という言葉があった。私たちの生活の中から、ムギが忘れられ、この言葉は死語になりつつある。
(「ふしぎの植物学」から)
<稲塚権次郎の農林10号>
 それでは、この「緑の革命」のきっかけとなった半矮性の遺伝子はどこからきたのだろう。終戦後日本に進駐した連合国軍の総司令部(GHQ)にはアメリカ合衆国農務省天然資源局の小麦専門家(S・C・サーモン)も加わっており、彼は当時京都大学の木原均の案内で、小麦24種をはじめとする作物遺伝資源をアメリカに持ち帰った。この中に「農林10号」という、草丈が低く、穂が大きい系統が含まれていた。 これは日本の育種家稲塚権次郎が、草丈低くずんぐりした草型の日本在来種「達磨」交雑後代から選抜したものである。この農林10号に注目し、積極的に育種に利用したのがワシントン農業試験所のO・ボーゲルで、彼は多くの育種材料を作り出すとともに、画期的多収性品種「ゲインズ」も育成した。このボーゲルの育種素材がボーログに受け継がれ、さらに亜熱帯品種の多様性を加えてCIMMYTのネットワークで世界各地に提供され、 現地での選抜で各環境に対する適応性を獲得して、それぞれの国の多収性品種となった。日本の小麦は、気候条件や作付け体系、それに価格の点で外国産小麦に太刀打ちできず、農林10号も国の経済に直接貢献することもなかったが、日本の育種家が見つけ出し、育種素材にまで育てた農林10号の半矮性遺伝子が、多くの人の手と国際協力を経て、世界的貢献を果たしたわけである。(「自殺する種子」から)
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<ブロッコリー種子のシェア80%> 自家不和合性を利用してハイブリッド品種を育成するには、たくさんの技術的な問題を解決しなければなりませんでした。ひとつは、純系に近い両親の系統をどうやってつくるかということです。純系の種子をつくるには自家受粉しなければならず、ここで自家不和合性がかえって邪魔になります。この問題は、蕾の雌しべには自家不和合性がないという性質を使うことによって解決されました。 ただし、この蕾受粉の方法は大変な労力を伴いなす。 また、両親の系統を同時に開花させなければならない、より強い自家不和合性の系統を選ぶ必要がある、さらに雑種強勢を示しながら高品質で耐病性に富むものを探さなければならない、などなまざまな問題があり、戦時中これらの点についてさかんに検討されました。
 そして、自家不和合性を利用したハイブリッド品種は、キャベツでは1949(昭和24)年に、ハクサイでは1950(昭和25)年に、日本で初めて市販されました。
 その後、これらハイブリッド品種の優良性が認められ、現在のわが国のアブラナ科野菜のほとんどは、ハイブリッド品種として育成・市販されるようになりました。日本の種苗会社の育成したハイブリッド品種が、世界にも多量に輸出されるようになったのです。たとえば、ある会社の育成したブロッコリーは、アメリカで80%のシェアをもっていると言われます。
(「菜の花からのたより」から)
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<甘熟トマト桃太郎> 国内における野菜の品種改良は、世界に先駆けて始められた一代雑種(F1)の開発と普及によって飛躍的な発展を遂げました。トマトにおいても、世界最初のF1品種として福寿が12年に育成され、継いで23年に福寿2号が市販されて以後は、ほとんどF1品種が使われるようになりました。育成された数多くのF1品種も入内の推移に伴って変化してゆくトマトの栽培に大きく寄与しましたが、一方では、それまで作られていた地方品種や固定種が次々と姿を消してしまい、国内での育種素材は、40年代には使いはたしてしまったと思われます。 しかし、このことが積極的に育種素材を野生種や海外から求めるようになり、トマトの耐病性育種や品種育種が進んだ大きな要因として挙げられます。桃太郎の育種素材の一つとして使われた Florida MH-1 も米国で育成され、導入された品種です。 (「歳時記 京の伝統野菜と旬野菜」から「甘熟トマト桃太郎」住田敦・タキイ種苗研究農場長記から引用)
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<主な参考文献・引用文献>
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
農業技術を創った人たち           西尾敏彦              家の光協会     1998. 8. 1  
絹の文化誌                 篠原昭・嶋崎昭典・白倫       信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日本の野菜 青葉高著作選 T        青葉高               八坂書房      2000. 6.30
ふしぎの植物学               田中修               中公新書      2003. 7.25
自殺する種子 遺伝資源は誰のもの?     河野和男              新思索社      2001.12.30
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
京の伝統野菜と旬野菜            高嶋四郎              トンボ出版     2003. 6.10 
( 2003年12月22日 TANAKA1942b )