Spring has come

 晴れた日の午後、菜の花を摘んだ。
 春らしい陽気が心地良く、行き先も決めないままにふらふらと歩き回り、空き地の隅で群れになって咲いている黄色い花を見つけ、つい手が伸びてしまった結果だ。
 思いのほか菜の花は折れにくかった。茎を曲げたところで簡単には切れず、捻りながら無理やり引っ張ったものだから、切り口は無残な形をしていたが、ほんのりと青臭くも良い匂いがした。アブラナの花なのだから野菜の香りだろうと納得して、五本ばかりを持ち帰り、水を満たしたビールジョッキに挿した。
 菜の花はあっという間に部屋のテーブルを汚した。とにかく花びらは簡単に落ちてしまうし、黄色い花粉が次から次へと埃のように降り積もる。
 さほど美しくもない、おおざっぱな花だと思ったが、考えてみれば屋外で群れになって咲いているからこそ、可愛らしいのかもしれなかった。
 うっすらと暗い部屋の中で陰鬱に毎日を過ごし、季節の移り変わりを暖房器具の有無でとらえるような暮らし方をしている人間の傍では、自然の息吹も色あせてしまって当たり前ということだ。
 菜の花は五日間ほど、ビールジョッキの中で温和しくしていた。パソコンのモニターとにらめっこをしながら仕事をしている間も、料理を作りながらMatchbox20のTiredを口ずさんでいる間も、テレビを見ながら機械的に食べ物を口に運んでいる間も、ただ静かに黄色みがかった緑色の葉が飛び出す茎の先で、小さな黄色い花弁を広げていた。
「似合わねえな、この部屋にはさ」
 テーブルに頬杖を突いて、ビールジョッキを眺めていた彼がいった。二週間ぶりに部屋を訪ねてきたというのに、髪を短く切って色まで変えた私に気づきもしないで、どうでもいい花のことを口にする。
「じゃあ、どんな花なら似合うっていうのよ」
 いい返して、苛立ちが募った。私にとって彼は唯一の外界といっていい。
 仕事の打ち合わせはEメールや電話、ファックスで事足りるし、近所付き合いもなければ、親しく会って会話をする友人もいない。私はこの狭いマンションの一室で、図らずも孤独を友に暮らしている。
 虫のようにじっと動かず、鳥のように食べ物をついばみ、流れゆく時間の中を泳ぎ疲れたら、全ての生物がそうであるように眠る。そんな毎日を過ごし、老いていく私の言葉を聞き、答えてくれる貴重な人間は、残念ながら彼をおいて他にいない。
 情けなくも追いすがる視線を向けてしまったであろう私に、「さあな」と、彼は菜の花を見つめたまま無愛想にいい放った。
「思いつかねえよ」と付け加えた彼がテーブルを離れ、シャワーを浴びている間、私は水に浸かっていた菜の花を鷲掴みにして、外へと飛び出した。
 早足で夜道を歩き、街灯の明かりだけでは覚束ないほどの暗がりで、菜の花の一群が咲き誇る空き地にたどり着いた。
 ――春が来たなんて、浮かれていた私がバカだった。
 握り締めていた、ぬかるむ花の束を勢いよく遠くへ投げ飛ばす。茎を伝って飛び散る水飛沫を顔に浴びながら、菜の花が仲間に抱き留められる、ばさりという小さな音を聞いた。
 どうしようもない惨めさに襲われた私はその場でしゃがみ込み、ひとしきり泣いたのち、何事も無かったように元来た道を戻った。
「どこ行ってたんだよ」
 マンションのすぐ近くで彼に声をかけられた。突然姿を消した私を心配して探しに来てくれたのかもしれないという淡い期待は、彼が右手にぶら下げているコンビニのビニール袋を目にすることで、もろくも砕け散った。
「チョコレートクランチ」
 彼が買ったであろうアイスクリームの名前をいい当て、「子供みたい。風呂上がりにアイスを食べるなんて」と毒づいた私に、「ほら」と彼は袋の中からドロップの缶を取り出した。
「サクラドロップス」
 呆然と手を出して受け取る私に、「生きている花をビールジョッキに押し込める、お前の気が知れない」と、彼はため息混じりにいった。
「俺はそういうの、嫌いだ」
「あ、そう」
 彼と並んでエレベーターに乗り込み、私は持っていたドロップの缶を振った。
「ねえ……だからって、これが花の替わりだというんじゃないでしょうね」
 顔をしかめてみせたが、彼が動じることはなかった。
「もういい加減に機嫌を直せよ。三月は年度末で仕事が忙しいから、どうやったって会えないと何度もいっただろ?」
 それが我慢できないなら、と私が手にしていた缶を横から奪い取り、彼は一息にいった。
「いっそのこと、一緒に暮らすか?」
 エレベーターが目的の階にたどり着き、私は無言のまま部屋へ向かった。そして彼からドロップを奪い返すと、台所にあったスプーンの柄でフタを開けて缶をひっくり返し、ガラガラという音と共にこぼれ落ちてきたピンク色の粒を、口に放り込んだ。
「……甘い。甘過ぎる」
「そういう飴玉には目がないクセに。お前だって、子供みたいだよ」
 減らず口を叩く私に、袋をばりばりと開けてチョコレートクランチの棒アイスをくわえながら、彼も応えた。
「その髪型も子供っぽいしさ……でもまあ、似合ってるから、許してやるか」と、小声でいい添える。
 季節感の無い私には所詮、春が来たといっても、こんなところなのだろう。胸の奥底で摘んできてしまった菜の花に頭を下げながら再び私は缶を振り、こぼれ落ちた黄色いドロップを口に含んだ。