たくあのページ W







  たくあが生まれたら、私の職場の近くに引越しして 残念だけど優季も転園して・・・
 夫も 近くで新しい職を探す。しばらくは安いアパート暮らしで我慢して 
ゆくゆくは 家でも購入しよう。
 そんな計画のもと 新しい土地での保育園探し、職探し、など足を運んで始めました。

  ところが・・・
 生まれてきたのは 即日入院の心臓病をもつダウン症児でした。
 手術のことを考えると、引越しは出来ない。
 しばらくは 拓和の育児時間がとれたので私も遠い職場へ通いました。
 でも・・・拓和の成長など どうなるかわからない。
 私が仕事を止めても良いように とりあえず 今まで住んでいたテラスハウスから
 ちょっと狭すぎる近くのマンションへと引っ越しました。
 そして カネクイムシの ”夫が愛するマークUツアラーV”を ”ムーヴ”へと変えたのでした。

 
     我が家の未来設計を大幅に変更しなくてはいけなくなりました。




たくあの成長について
 
たっくは生まれてから約半年の間、ICUにいて人工呼吸器を
付けていました。
だから ずっと仰向け状態で寝たきりでした。
普通の子はもちろん ダウン症の子は特に小さいうちにいっぱい
刺激を与えてあげることが大事なのに、薬で眠っていることも
多かったのです。
だから 成長が遅いのはしょうがない・・・。
一度 看護婦さんにぼやいたら 「成長も大事だけれど、
今は病気を治すほうが大事ですよ」と言われてしまった・・・。
そう。わかってはいるのだけど
寝ているだけの彼を見ているとついつい焦ってしまうのでした。
だから 1歳を過ぎても首が据わりませんでした。

抱ける時は なるべく立て抱きにして、可能な時はうつ伏せに
して なるべく首が据わるように勤めました。
退院してしばらくすると だいぶ首もしっかりしました。
寝返りはだいぶ出来るようになっていたので、ベットにいる時
自分でうつ伏せになり 頭をぐーんと上げてはベットの柵ごしに
私達を見ていました。 

言葉は 普通に「あー」とか 「うー」とか言うことは
あまりなく、いつも鼻の奥から唸っているような声を出す
ことが多かったです。これは 耳が聞こえないこと・口蓋裂
などと関係があったかもしれません。

チアノーゼなどを含めて、身体の状態からだと思いますが
離乳食は 根治手術が終わってから…と言われて
もうすぐ2歳になるのに 栄養はミルクのみでした。
でも 退院していた3ヶ月間は特に 良く体重が増えました。
身体は(精神も)栄養だけでなく、愛情でも成長していくんだなあ 
と思ったりしました。

いつもカニューラで 鼻から酸素を送っていました。
酸素を付けても 普通の人の70%前後くらいしか 身体に酸素を
取り入れることが出来ませんでした。
体調が悪くなればもっと低くなり 泣けば60%以下になって
しまうこともしばしば、チアノーゼはとてもひどかったです。
だから 身体障害者1級でした。
でも 根っから明るいのか 「そんなことは関係無いね」とでも
言うかのように、とても元気で うれしいと手足をバタバタさせ
ベットを揺らし 病気をあまり感じさせないくらいでした。
寝返りも完璧には出来てはいなかったのに、畳におろして
布団に寝かせておくと いつのまにか離れている私のもとに
来ていました。

いろんなことを 教えようと試みましたが、自分が好きなことは
勝手にやれる様になるのに 教えたことは何ひとつ覚えません
でした。ただひとつだけ 教えたことで彼が気に入ったことが
ありました。それは”だっこ”。
だっこして欲しい時は両手を出す。これはとても気に入り
1回から2回くらいで覚えてしまいました。
両手が出たら 手を引っ張って起こせれば良いのですが、
首も危なっかしいし 腕も頼りなく引っ張ると抜けてしまうよう
な感じなので 出た彼の両手を合わせ 片手で彼の手を引っ張り
片手は首のあたりを支えて起こしました。
そのせいで ”拓和だっこ”は、両手を合わせ伸びてきました。
一度味をしめると もうそればっかり・・・
用事で拓和に手を伸ばすと 彼の手が必ず絡まってきて
手をとってあげると もう片方の手が伸びてきて
”拓和だっこ”になるのでした。
                 
                 
ゆっくりだけど 彼なりのペースで彼なりのやり方で
ちゃんと成長していました。


 いたずらっ子 たくあ


  たっくは 手先も器用ではありませんでした。
 呼吸器をつけている時は 手を縛られていてあまり自由にならなかったので
 そんなことも関係あるのかもしれません。
 左手は比較的動きましたが、右手は肩のあたりに力が入ってしまい 腕があまり伸びませ
 んでした。
 「のーびのーび」と言いながら あそびで腕をさすって伸ばしたりまげたりしました。
 段々 腕も伸びるようになり 指しゃぶりも上手に出来るようになりました。
 指しゃぶりは ないといられないような感じで、吸っている手をはずすと即もう片方の手
 の指が入っていました。ゆっくりペースの彼ですが これは例外で素早かったです。

  それから 普通は はじめ手全体で物を掴むのに、何だか解かりませんが
 たっくは 小指・薬指・中指と手のひらを使って物を持っていました。
 だから すぐに落ちてしまう・・・。
 少し上手になり 握力も少しだけつくと、おもちゃを口に持っていっては 
 「ぶうー」と吹いていました。
 吹かない時は 持っていって 見ていたと思ったら、手を離してしまい顔の上におもちゃ
 が落ちて 大泣き…。
 何度やっても また同じ事をしていました。
  
  おもちゃを両手で持たせようと思っても ちっとも覚えず進歩がありませんでした。
 でも唯一、メリーゴーランドのくまちゃんを捕まえて口に持っていき「ぶうー」と吹くの
 が大好きなのですが その時ゆらゆらと動いてしまって捕まえられないともう片方の手が
 自然に伸びてきて 押さえていました。



 でも、おもちゃを持つのは下手でしたが「管を持たせたら 病院で数本の指に入る?!」
 と思えるくらい とてもすばやく掴んでいました。
 
 吸引しようと思えば さっと管を掴んで邪魔したり、聴診器で胸の音を聞いていたら
 変な音が…。たっくが掴んでいたずらしていました。
 
 ミルク注入の準備をしていると うれしいのか とっても良く見ていました。
 そして 注入中・・・やっぱり管を掴み、しかもそれを振ると壁などにぶつかり面白い
 ということを覚え 気が付くと振って遊んでいました。

 鼻からミルクなどを入れるマーゲンチューブを胃まで入れていたのですが、
 退院した頃から良くわかるようになったせいか 一日に何回も何回も抜いてしまいました。
 抜かれない様に鼻のすぐ脇からテープを貼るのですが、ちょっとの隙間に親指を入れ
 サッと一気に抜いてしまいます。これだけは参りました。
 
 酸素の管もよく取りました。
 鼻から取っては 口に持っていき「ぶうー」と吹くのが好きでした。
 テープをしっかり貼っても 力が付いた為 力ずくで引っ張って取ってしまいます。
 お陰で 顔はいつも無理にテープを取ったための怪我が耐えませんでした。
 それから、口に持っていくと すぐ元に戻されるのが解かるらしく
 手で管を押さえて「ぶうー」と吹き、まるで取られないようにしたり隠したりしている
 かの様でした。
 


 そんな管好きのたっくは とてもコッケイで よく看護婦さんたちと笑ったものです。
 冗談で 「たくあの将来の職業、”ひも”にならないといいけど」なんて言ってました。
           
                                   


  
 

大好きな管を掴み口に持っていき ぶうーをしようとしている拓和





     耳のこと
  新生児の病棟にいた頃は 音に反応する様子が見られたように思っていましたが、
 ICUで目を覚ますようになってから なんだか聞こえていないような気がして 
 気になっていました。

  一般病棟に移り 状態が落ち着いた頃調べてもらいました。
 やはり結果は思っていた通りでした。
 90デシベルでやっと反応するくらいしか聞こえていませんでした。
 90デシベルと言ったら、大声コンテストで叫ぶくらいの声です。

  先生のお話だと、ダウン症の子は 成長が遅くて聞こえなくなっていることもあり、
 その場合は3歳くらいまでには聞こえるようになることもある・・・ということで 
 全く可能性がない訳ではない事が判りました。

  ”目は見ようとする事で見えるようになる”という話を聞いた事があり、耳だって
 きっとそうだろうと たっくが聞こうとする体制を作ることにしました。
 具体的には、100円ショップでメガホンを買ってきて たっくにそれを使って話しかけると
 いうことです。
 全く聞こえないわけではなく、90デシベルは聞こえているのだから聞こえる大きさで話し
 かけることで 本人が聞こえることがわかり 聞こうとしてくれれば、
 耳の成長が促されるのではないかと思ったわけです。

 メガホンで話しかけてみたら 思ったとおりちゃんと反応を示してくれました。
 私たちの期待が その通りになり、日に日にたっくの反応が良くなって行きました。
 そのうち 自然とメガホンは使わなくなっていました。

  ところが、退院のため約半年後 再検査をしたところ
 私達は 良くなっているものと思っていたのに 出てきた結果は”反応は全く無し”
 でした。
 納得いかない私達は 珍しく担当の先生に反論していました。
 先生もそれをちゃんと受け止めてくださり、即 耳鼻科の先生に話をしてくれ 
 もう一度直接耳鼻科の先生とお話する機会を作ってくれました。
 そして お話の日、たっくの耳の中を見て 水がたまっていることがわかりました。
 水の溜まっていたせいで 反応が出なかった可能性もある・・・といわれ 
 ちょっとホッとしました。
 
 その後 となりのベットの子がおもちゃを床に落とし、そのときその音にたっくが反応した
 のをちょうど看護婦さんが見ていて 思わず「アッ 聞こえてる!!」と言いました。
 私達は内心「ほらね〜」とニヤニヤしていました。

 退院後は ますます聞こえるようになり、人形のおなかを押すとうるさい笛のような音が
 でるのですが それを鳴らしたら
 びっくりして泣き出してしまいました。
 「たっく〜!!」と呼ぶと うれしそうに笑ったりもしました。

 最後は 筋弛緩剤が入っていたため目は見えませんでしたが 耳は聞こえていた様で
 声をかけると唇をピクピクッと動かしてくれました。

 耳が聞こえるようになっていてほんとに良かった・・・。


                                                        
   口蓋裂のことなど


  たっくの上顎は 滑らかなアーチ型ではなく、なんか割れているような感じでした。
 それが 口蓋裂かどうかは判りませんが、その奥に小さな穴があいていて鼻とつながって
 いました。
  割れたような上顎の為 哺乳ビンの乳首が上手くつぶれなくて飲めないこともあるので
 上顎に付けるプレートを作ってもらいました。総入れ歯の歯の無いような感じです。
 はじめは付けていても 何も嫌がったりしませんでしたが、段々慣れてくると
 プレートを口から出す方法を覚え、出しては遊んでいました。
 そのたびにまた入れられるので 段々嫌になってきた様で 入れたとたんに出したりして
 ました。「だめよ〜」「いれといてね〜」と言葉かけをしながら 気長にやっていたら
 また出さなくなりました。でも 入院したらまた出すようになりましたが 身体の状態も
 あったので 歯科の先生から手術が終わったらまたやりましょうとおっしゃって頂き
 使わなくなりました。
                                           
  ミルクを口から試した時期もありました。             
 口蓋裂用の乳首も使ってみましたが うまくいきませんでした。
 先生にお話を聞いたところ、上を向いてコップの水を入れられてゴクンと上手に飲めますか
 と聞かれ 実際体験してみるととても飲みにくいことがわかりました。
 口蓋裂用の乳首は 上手く吸えない子の為にちょっと吸っただけでたくさんミルクが出て
 くる仕組みになっていたのでした。
  そこでいろんなメーカーの いろんな種類の乳首を購入し、試してみました。
 はじめはチュチュの穴がクロスになっているのが良くちょっと飲みました。
 ヌークのかたちは 口の中で安定してのみやすかったようで 小さい子用の物で飲ませたら
 少し飲むようになり 最高で50cc飲めました。その後は体調を壊し 一事ストップしたら
 飲まなくなり 逆にぶうーっと吹いて遊んでしまいました。

  果汁・スープ類も少しならと許可が出て スプーンであげましたが、ダラ〜ッと横から
 出てしまいました。
 お友達に ”とろみアップ”というのを教えてもらい 早速取り寄せ使ってみました。
 やはり 舌の使い方など下手で たまにゴックンと飲みましたが ほとんどは出てしまい
 ました。果汁の時はおいしかったらしく一生懸命飲もうとしているのはわかりましたが
 ほとんど出てしまっては また口をあけていました。

  結局 あまり口から飲まなかったことなどから あごの発達は遅く 口蓋裂の穴も
 自然にはふさがりそうも無く 心臓のほうが落着いたら検査して手術して 指導を
 受けたほうがいいと言われました。


   発達の遅いあごでしたが 1歳半ごろ 奥に2本(片側一本ずつ)歯が生え始めました。
 再入院して もう一本奥に生えてきているのを見つけました。




                                                       

根治手術と感染と・・・

11月12日 完全型心内膜床欠損症の根治手術が行われました。
心臓内の弁がひとつしかないのでそれを二つに分けること、
壁が無いので 人工物を使って壁を作ること、肺動脈の右側が
細くなっているので 人工物を使って広くすること、心臓内の
筋肉が厚くなってしまったところがあるので 
それを削ること・・・etc.

心臓手術の中では 重いほうの手術だと告げられました。

当日 9時少し前にICUを出ました。
11月1日にカテーテル検査をして 人工呼吸器などそのまま
抜かずにいたので 手術室に入ってからの準備は普通よりは
早く終わるということでした。

長い一日でした。
           
夜7時頃 執刀医の先生が待機室で待っていた私達のもとに来て
くれました。手術は終わったが 2箇所出血が止まらないところ
があり 様子を見ているところだということでした。
骨やおなかも閉めようかそのままにしようか考えているとのこと
でした。

そのあと 3時間ほどして出血も止まり骨もおなかも閉じてICUの
部屋に拓和が戻ってきました。
一度外した人工心肺をもう一度動かし、裂けてしまった心臓の傷に
あてものをして縫い出血を止めたということでした。

ちょっと面会できましたが、胸水が出ている為 脇の下のところを
切って それを出す為のドレーンを入れるというので 
私達は また待機室へ…
結局 ちゃんと会えたのは12時をまわっていたと思います。

拓和に会って まず驚いたのは 肌の色!!

指の先まで とてもきれいなピンク色。
今まで 汚い紫色だったのが嘘の様でした。

「明日 明後日がたいへんだから」と説明を受けましたが、
次の日 あまり浮腫みも無く 熱も無く 数値も安定していて、
先生達が冗談できもちわるいね などと言っていました。
私も冗談で「ゆっくりな子だから反応も遅く明日あたり悪くなる
のでは…」と言っていたら…本当にそうなってしまいました。

でも先生達のお話では 「予想内の悪さだから大丈夫です。
手術後完全装備で出てきているから何があってもすぐ対処できる
様になっています」と言うことで 私達も安心していました。

その後も とても順調に快復し、胸水は相変わらず出ていたものの
人工呼吸器をはずす様に 回数も徐々に減らしていきました。

ちょっと感染値が上がったりもしましたが たいしたことも無く
順調でした。 11月30日までは・・・。

12月1日 呼吸器の回数が1分間に2回あとは自分の自発呼吸という
ところまできました。
この日は 面会に行ってみるとなんだか苦しそう。
呼吸器の関係だと思っていました。ところが夕方になり 熱が
どんどん上がりだしました。
眠っていても 辛くてうなされて、すぐ目を覚まします。
”感染”という言葉が頭をかすめ 辛そうに訴える目で 私の姿
を追う拓和を見て 涙が止まりませんでした。

心配した通り 感染でした。
敗血症といって血液の中に菌が入り 身体中を暴れまわります。
拓和の身体は 浮腫みおなかはぽんぽんでした。
ある時ウエストを測ってもらったら 60cmほどありました。

MRSAという菌が見つかりその菌に効く抗生剤の投与が始まりました。
その後 血液の中からは MRSAは発見されませんでした。但し、
抗生剤の投与が続いていたので 表に出てこないだけでいなくな
ったと断言はできないということでした。
手術した心臓、特に人工物に菌がついてしまうと なかなか治らず
再手術で人工物を取り替えなくてはならないそうなのですが
拓和の場合 人工物は3箇所も使っていて、身体の状態からみても
再手術は不可能だと言われました。

少し状態も良くなり 筋弛緩剤の投与を止めることになりましたが、
夜中に目を覚まし 血圧がまた下がり安定しなくなったためまた
すぐに筋弛緩剤が投与されました。
そして 急性腎不全になり、おしっこが出なくなりました。
腹膜透析もしていただきましたが、おしっこは出たり出なかったり
なかなかスッキリとはしてくれませんでした。
その後は 感染値は少し良くなったかと思うとまたあがり、
下がったかと思うと あがり・・・ひどい時はCRP30・白血球4万代
ということもあり もう驚きを通り越していました。
それでも 治療を丁寧にしていただき また少し良くなったりしまし
たが どうしてもCRPが10あたりから下がりませんでした。
この時暴れていたのは ザントモナスという菌でした。
血圧が下がり その為の輸血や薬は入れても入れても血管内から
出てしまい浮腫みもどんどんひどくなっていきました。
頭はまるで小学生かと思うくらい大きくなっていました。

でも 私達は信じていました。 
絶対に治る 絶対拓和は死なないと…。

手術して元気になった心臓が 拓和の命をつないでいてくれました。
1/7前日 先生から「例えここで菌が100%いなくなっても 
身体が快復する 可能性は無いに等しいです」と言われた時も 
拓和の心臓はがんばって動いていました。
まるで「おかあさん ぼくまだがんばってるよ」と拓和が言って
いるように聞こえました。
だから 先生方から見たら無駄なことだったのでしょうが、あえて
治療を続けることをお願いしました。
拓和が頑張っている以上あきらめたりなんか出来ない、頑張るだけ
頑張らせてあげたい そう思いました。
そう決心し、そのあと検査の結果が出た時 今まで下がらなかった
CRPが急に半分に下がったと聞き この選択は間違っていないと
思いました。
先生は思わず嘘だと叫び 再検査をしましたが夕方出た結果は
また下がっていました。
1/8次の日もまた下がり、CRP2代。ほとんど普通に近かったです。
やっぱり拓和は頑張りました。
あんな状態で CRPを下げたのですから…本当に偉いと思いました。
(但し、血液中の菌が減っただけで 菌の巣は退治できませんでした)

その日の夕方くらいから、やはり疲れてしまったのでしょう血圧が
どんどん下がっていき、頑張っていた心拍数も段々下がっていきま
した。
ゆっくりだけど 確実に下がっていく心拍数を見た時、
拓和が「もう頑張れないよ」と言っているのが聞こえたような気が
しました。夫に 優季や祖父母など呼んだほうがいいとはなし、
そのあとはもうあまり記憶にありません。
いつ日が沈んだのか、いつみんなが来たのか・・・。

優季が泣いてかわいそうなのでジュースを買いに行かせました。
いつも楽しみにしていたポケモンのりんごジュースです。
拓和の分も買ってきてもらい、綿棒で口に含ませてあげました。
夫も優季もあげました。
もうこの位でいいねとやめた頃 急に90ほどあった心拍数が
30代に落ち機械がまた読まなくなったのかと思った瞬間 0 に
なってしまいました。
びっくりして 先生を見ると静かに首を振りました。
「優季 たっくんにさよならだよ」と告げ優季が「さよなら」と
言うと 先生や看護婦さんが集まってこられ、拓和に付いている
呼吸器や管を抜いてくれるというので ひとまず私達は待機室へ
行きました。

それから 先生から話があった解剖についてみんなで話し合い
ました。
これ以上いたい思いをさせたらかわいそう・・・祖父母の意見。
夫もはじめこの気持ちでした。
私もこの気持ちはもちろんあるので、反対があるのならそれでいい
と思いました。でも拓和の死因を調べるということはどうでもよく
解剖することによって何かひとつでもお役に立てたら…
一人でもいいから命を救うことができたら 
きっと拓和の生きた意味がまたひとつできると思いました。
拓和の生きた証になる・・・と。
夫も私の意見に賛成してくれました。他のみんなももちろん賛成
してくれました。
拓和もきっと「いいよ」って賛成してくれているような気が
しました。
(もしかしたら 親の身勝手かもしれませんが・・・)

しばらくして 看護婦さんが呼びに来てくれました。
久しぶりに 拓和をおふろにいれました。

解剖があるため その日はもう一晩病院にお泊まりした拓和でした。
1/9次の日 小学生用の大きな服と、帽子と、靴下を持って拓和を
迎えに行きました。少し穏やかな顔になっていました。
解剖という大役を無事に成し遂げ誇らしげに見えました。
「拓和ごくろうさま」と声をかけてあげました。
お世話になった 病院の先生方、看護婦(士)さん方・・・
皆さんが 病院の霊安室で御焼香をしてくださいました。
そしてお忙しい中、退院する拓和を見送ってくれました。
その夜は自分のベットでおもちゃに囲まれて眠りました。
私も一晩中 手を握り 時々ほおずりをして過ごしました。

1/10午後、お別れの時が来てしまいました。
保育園関係の人達、病院で知り合ったお友達、夫の会社の皆さん
大勢の人が拓和にお別れに来てくれました。
数人にしか連絡しなかったので こんなに来てくれると思って
いなかったため斎場についたときにはとてもびっくりしました。
そして とてもうれしかったです。

拓和良かったね! いっぱいみんなが来てくれたよ!!って棺の中
の拓和に教えてあげました。

家族に愛され みんなにかわいがってもらい 
会った事がない方々からも 拓和を心配していただきました。
遠くから皆さんが元気になる様にと祈ってくれました。
亡くなってからは 拓和に話しかけてくださっているという 
うれしいお手紙などやきれいなお花をたくさんいただきました。
幸せなことです。

解剖の結果、膀胱に膿があったそうです。
内臓もかなりうっ血状態だったそうです。
門脈下大静脈が普通なら上下で交差しているのに 拓和はくっついて
交わっていたそうです。

それから
心臓の人工物には 菌は付いていなかったそうです。

          





   


   いつのまにか 近くの公園や保育園の庭にある梅がきれいに咲いていました。
  今まで 全然気づかずにいました。
  先日気づき 春が来ていることを知り びっくりしました。

  私の心の中は ずっと あの寒い1月8日で止まっていた様です。

  拓和がいなくなっても 彼を除く全てのものは今までと変わりなく時を進めていました。
  娘の優季もその一人です。
  彼女の中では ちゃんと拓和の死を受け止め、そのうえでしっかりと先へ進んでいます。
  骨になってしまった拓和に向かって 生前と変わりなく笑顔で話しかけています。

  拓和と一緒に止まっていたのは 私の心だけ・・・。
  彼の死を受け入れられず 拒否し続けているのは私たち親だけなのでしょうね。



  「受け入れられること」は もしかしたら一生無いのかもしれません。
  でも・・・また 歩き出さなくっちゃ。
  私は 生きているのだから・・・。
  生きたくて 一生懸命頑張っている人がたくさんいる。
  生きたくても生きられなかった人もたくさんいる。

  命を粗末に扱ったニュースを耳にするたび
  「その命 拓和にちょうだいよ!!」っていつも思っていました。





  止まったままの状態では 生きているとは言えませんよね。
  だいじな 『命』
  だいじに生きよう!! と思えるようになってきました。

  私にとって このホームページ作りは辛い事でもありました。
   認めたくない拓和の死と 面と向かっていかなくてはならないから・・・。
  でも それがわかっていて あえて作る事を再開したのは
  きっと 私の身体のすみっこで 私の命が
   「歩きだしてよ」と叫んでいたからなのでしょう。
  
  ちょっぴりだけど 私 歩き始めました。




     
拓和誕生により我が家の未来設計を大幅に変更し
拓和を中心とした設計に作り変えました。
そして
拓和がいなくなり

また
    我が家の未来設計を変更しなくてはいけなくなりました。