シウバの詩
シウバの詩
そんなものを食べたのか、好きなのか?
何時に食べたんだ?
意外な味のアロエ・キッス
女の唇は押し付け気味で、おれはただ圧倒されるだけだった
ながい『アラビアのロレンス』の中だるみのところだから
女がいらいらするのも仕方がなかった
「文化センターで観た女剣劇の方が余程おもしろかったわ」
いいわけの通用しないタイプ、これ相当に
女の身体は木造家屋のように小さく火がつき回りはじめ
いまや取り返しがつかないくらいに燃え盛っている
やがて、その火はおれの身体までも燃え尽くすだろう
そして、おれはただの灰になり
女はベッドの上で、立派な消防署のように輝いて、堂々と眠るだろう
情事の後、おれは泊まらずに女の部屋を出た
女は寝ていて、気づかれなかった
このまま別れることができれば、おれは英雄でアニメ化も間近だ
しかし、そうもいかぬのが世の常
おれは女のためなら足の裏でも平気で舐める丹念でマメな男
たった一つの取り柄を、潰してしまうことなどできないっす
臆病で優柔不断で気が弱く阿呆
だらしなくてちっぽけで薄汚く希望もない
夜明け前の薄い闇がまばらに辺りを染め廃墟の気分を醸す街を
空虚な自分の心と調和させながらあてもなくとぼとぼと歩いていく
妙に真面目なことを考えたくなって
おれはある女のことを思い出していた
その昔、十九の時に知り合った三十路の女が、おれに優しくしてくれた
若く何も知らないおれを、神のように崇めて褒め称えて、
深い信仰を捧げてくれた
あの女の言っていたことは全部嘘だ
不器用な性格で何かを伝えようとすると表現が極端になるだけだ
敵の多い女で、笑顔がいつもびくびくと強張っていた
しかし、おれにとっては彼女こそが清らかな天使だった
ある日、彼女は事故で顔面に大きな怪我を負い、おれと会うことを拒んだ
週に一度ほど、ぼそぼそとした声で電話を寄こしたが、
決して居場所を教えてはくれなかった
電話だけで愛し合う恋人になったが、やはり先が見えていた
春の終わりのように、瑞々しく華やかな思い出もやがて日常に埋没していく
愛とはそれだけのことなのだろうか?
「ぐだぐだ言ってんじゃねぇよ、馬鹿野郎!」
地が響くような大声がして、おれはすっころんでしまった
闇の中から派手なテーマ曲にのって、一人の大男が廃墟の街に入場してきた
どこかで見たことのある顔
そう、彼はPRIDEのチャンピオン、ヴァンダレイ・シウバだった
シウバはゆっくりとおれの元へ歩み寄ってくる
途中立ち止まって、チャンピオンベルトを元気よく誇示し、また歩きはじめた
1メートル前方で足を止めて、おれを睨みつける
おれは地面に倒れながら、
後光の射すようなオーラに包まれた、
ヴァンダレイ・シウバの姿を見上げていた
「最後におまえとやってやる。ぶちのめしてやる」
おまえとは紛れもなくおれだ、シウバはおれとやる気なのだ。
ロウキック一発でおれは死ぬだろう 。いや、あの荒い鼻息がかかるだけで、ぶっ倒れてしまうだろう。
「なんでおれやねん、なんでおれがあんたと闘わなあかんねん」
「女のことばかり考えてる奴はな、あらゆる意味でケンカが強いんだよ、おれのいたスラムにもそういう奴がいたぜ、ぶちのめしてやる」
完全な言いがかりだったが、やる気になっているシウバを誰が止められよう? 警察や自衛隊に電話する暇もなく、シウバは襲いかかってきた。斧のような腕が躊躇なくおれの頭上に振り下ろされる。おれは本能で身をかわした。弱者特有の研ぎ澄まされた防衛本能だ。シウバは拳をアスファルトに打ちつけ、悲鳴をあげる。見ると、拳からどくどくと血が溢れ出している。昇る陽のような鮮やかな赤だ。おれは、シウバに、ダメージを与えたのだ。シウバの言うことが本当ならば、おれは強いのだろうか。いつもぐじぐじと悩んでばかりいる意気地なしのおれが、ヴァンダレイ・シウバに勝てるとでもいうのか?
「なかなかやるじゃねぇか、ぶちのめしてやる」
シウバは拳を振り払って痛みを紛らせながら、再びおれの元へと近づいてくる。時間がない。ケンカなんてものはものの一分あれば終了する。おれはシウバの言葉を信じて、とにかく女のことを考えることにした。それしかなす術がないのだ、女、女、女…。すると、脳裏に、ある言葉が思い浮かんだ、寝技。そう、おれの武器は、十九の時、三十路女に鍛えられた寝技だったのだ。たしかに、寝技に持ち込めばシウバのあの強烈なパンチも威力を失うだろう。パンチを恐れて逃げていてはいつかやられる。くっつくことが最大の防御であり攻撃なのだ。熱くなってはいけない。火の出るようなパンチを数発喰らうかもしれないが、それで退いていては駄目だ。冷静にシウバの動きを見て、タックルを決めて、マウントに持ち込まなくてはならない。そこから先はわからない。本当の寝技などおれは知らないからだ。しかし、女を扱うようにすれば奇跡が起きるに違いない…。
シウバの膝がおれの胃袋を収縮させる
シウバのアッパーがおれの歯を矯正する
シウバの左フックがおれの顔面を整形する
シウバのエルボーがおれの背中に入墨をいれる
シウバのフロントチョークがおれの首をバネみたいにびよびよにする
まだまだ
まだまだだ
おれの手はシウバの身体に一切触れることができていない
おれはまったく諦めていなかったが
「ギブです、アップです」
と無意識のうちに喋っていた
シウバは今まで闘った中で最強の敵だった、彼は偉大なチャンピオンだ
いや、そんなことよりも、
やっぱり女のこと考えとったら、ケンカに勝たれへんやんかぁ…
おれは地面に鼻血や涙やはじめて見る変な液をこすりつけながら
去っていくシウバの後ろ姿を見ていた
彼はダッフルコートを着ていた
ポケットに手を突っ込んで、そこら辺にいる普通の学生のようにも見えた
おれの中の何かが、おれをヴァンダレイ・シウバと闘わせていたのかもしれない
翌日、ぼろぼろの身体で女の部屋に戻ると、
おれの女は丸刈りの筋肉質の男と寝ていた
女はおれに気付いても、無頓着に快楽の中に身をゆだねていた
恍惚とした表情をして、きっと、
降りられないジェットコースターに乗っているのだろう
女を抱く彼は後頭部の皺がペニスのような形になっている
ちらっと顔を覗き込むと
やはり女好きそうな顔をしていた
なるほど、シウバの言っていたことは正しかったのかもしれない
おれは男の後頭部のペニスに向かって、一言、ありがとう、と囁いた
これで、あの女とも別れることができるのだ
おれはゆっくりとドアを閉じて
誰かが言っていた言葉を思い出した
さよならだけが人生さ、と。