奥歯
奥歯
朝から夜へ
肺から街へ
奥歯の痛みを削りとるように
吐き出していく
誰もいないアーケード街の
中央の
孤島のような場所で
糸屑に見える細い煙が立ち昇ってゆき
天井の方でコットンキャンディみたいに絡まって
消えてゆく
悪いけど、ここには人がいるから
普通に歩いていったら無視したことになるね
石畳に頬を冷ましながら
いつしか、夢を見ていた…
…ぼくはボウリング場のレーンの果てにいました。そこは驚くほど静かな場所です。小鳥のさえずりが聞こえてきそうなくらい、張りつめた澄んだ空気が流れています。目の前にはピンが並んでいます。戦争映画で見た軍隊のように、整然と誇らしげにピンが立っています。辺りにはどこか懐かしいオイルの匂いが立ちこめていて、それは夕食の時間を知らせるような、甘やかで優しい香りです。こんなに平和で穏やかな場所を、ぼくは他に知りません。秩序と調和の世界です。一方、レーンの向こう側には、音の固まりのような集団が陣取っています。彼らが騒音の中で、談笑し合い、嬌声を浴びている様子が、レーンの果てから見てとることができます。彼らは毒々しい色をしたアイスを食べ、缶ジュースを投げあいながらも、狡猾な表情でシューズを履き球を選別しています。彼らはあの巨大な球で、ピンを破壊するつもりなのです。ぼくはピンの背後に隠れて、彼らの攻撃に備えました。ぼくは激しく不安でした。ぼくには彼らのような武器や、味方の声援もありません。レーンの果てで、独りで、闘わなくてはならないのです。これが、ぼくの使命だから。一人目が球を抱え、猛烈な勢いで、走り出してきました。腕をしなりあげ、レーンの果てをめがけて、球を転がします。ぼくは腰を屈め、唾を飲み込みました。球は、レーンを呑み込むように唸りをあげて回転し、どんどん大きくなって、こちらに向かってきます。そして、ピンに衝突し、ピンは水飛沫のようにはじけ飛びました。ぼくは胸に多大な衝撃を受けながらも、なんとか、二本のピンを支えることに成功したのです。球を投げた男は、悔しそうに舌を打ち鳴らしました。ぼくの身体は、床から突き上げてくるような鋭い興奮で、ぶるぶると震えていました。しかし、彼らは容赦なく、次々と球を投げ込んできます。ぼくは忙しく、一生懸命ピンを支え続けますが、連続してスペアをとられました。レーンの果てで、独り嘆きました、もうやめろよ、それ以上倒すなよ、困ったなぁ。そうして、四人目は、ボウリングの神様と呼ばれている男でした。レーンの向こう側は、一段と大きな歓声に包まれているようです。神様は、金色のリストバンドをしていて、軽く指を乾かしつつ、入念にフォームを確かめています。ぼくはレーンの果てで息を呑んで、静かに時を待ちます。でも、心臓は熱く昂ぶって、身体が焼けてしまいそうです。熱狂の渦の中、神様が球に指を入れ、不敵な笑みを浮かべてぼくと向かい合いました。その時、ぼくは思いました、ぼくは神と敵対した位置にいるのだな、と。神様は、ゆっくりと滑らかなフォームから球を放ち、それは、流星のような軌道と速度でやってきます。神に畏怖したぼくは無力でした。あっという間にピンの隊列は破壊され、何もできないままに、ストライクをとられてしまいました、ああ、ストライクです。荒れ果てたレーンの果てで、ぼくは茫然と、向こう側の歓喜の世界を眺めていました。雄叫びをあげる神様と、その周りを取り囲む人たちが、圧倒的な存在のように思えました…。
溶けた熱い飴のようなものが
頭の中を流れて
首の付け根に溜まっている
粘着質の瞼をひらくと
まだ薄い陽光に照れされた塵埃が
きらきらと舞って
薄汚れた目覚めを
祝福しているかのようだ
背広の袖口から伸びてくる白い手
無意識にそれをつかみ、上体を起こす
「起きたか、もうすぐゴミの回収車が通るんだ」
男はそう云って腕を引く
「ここから移動してもらえないかな」
身体がブリキの玩具のように
ぎしぎしときしみ
内臓が気持ち悪いというよりも
何か骨がおかしくて
立ち上がることができない
「ちょっと、待ってくれませんか、まだ来てないみたいだし」
「いや、もう来るんだよ、東から来るんだよ」
商店街の閉じたシャッターの前に
ゴミ袋が東から西へかけて
キャベツ畑のように並んでる
風景がゆるやかに拡大したり縮小したりして
距離の感覚があやふやだけど
ゴミ回収車の姿はない
音もしていない
絶対に来ていない
男に何か嫌なものを感じ
そのことも含めて、内臓や骨のこと
全体的にいろいろなことを
考える時間が欲しかった
「ほんの少し、五、六分でいいんですよ、落ち着くまで」
「しょうがねぇな、一分だぞ、一分、絶対に寝るなよ」
…神はおれを敵視している。巨大な力を持つあの神様がおれを憎み怒りを感じている。神に加護を受けたり報いられたり裏切られたり微笑まれたりじらされたりするのは向こう側の世界の人間の話でおれには根本的に無関係だ。おれは神の悪意に満ちた攻撃を受けているからだ。あらゆるレベルの信仰が人に神の存在を与え人はその個人的な神を普遍的な唯一神だと思い込んで神を好き勝手に利用して自分勝手に救済されたり癒されたり励まされたり叱られたり許されたりしているわけだが(浮気なやつはいくつもの神を抱え適材適所に配置しまさにハーレム)神の立場から言い換えれば神は自分に都合のいい従順な人間ばかりを集めてのさばっているに過ぎない御山の大将みたいなせこいやろうだ。だからおれは神など信用しないし糞くらえと思っているがそれだというのに今までに見たことも聞いたこともないようないい加減で危なっかしいよたよたした神が無信仰のおれのところに無断でやってきて幾度振り払ってもしつこくつきまとって精神的な苦痛を与えたり眠たくしたり風呂に入る気力を奪ったり部屋に陽射しが入らないようにしたり内臓や骨をおかしくしたり集中できなくしたりしておれの生活を滅茶苦茶にしている。こういうことは警察や弁護士に相談することもできないしおれは神の為すがままに攻撃を受け続ける一方だ。畜生。できることなら向こう側の人間が崇めたて奉る神というものがどれだけ酷い最低なやつか全世界的に暴露してやりたい。救済の瞬間よりも現にある不幸な状況こそがまさに神の仕業だとな。おれは神の敵という深刻なハンデを背負ってこの世の中をああ生きていかなければならないのか…。
「おいおまえ、やっぱり寝てるだろ、あのなぁ、官憲だよ」
そう云って男は、背広の内ポケットから手帳を取り出し
目の前でちらつかせた
その時
自分のポケットに
ある非合法なものを
隠し持っていることを思い出して
心臓が壊れそうになった
官憲は小さな目をさらに細めて
鋭く、湿った眼光を投げかけている
これでもう、本格的にダメになっちゃうのかなぁ
身体が地面に縛りついていく
一秒ごとに、逃げるタイミングが悪化する
三秒前なら、今よりうまく逃げられただろう
官憲は、ため息ついて、云った
「理由は教えられないけど、この場所使うんだよ、こんな真ん中で寝られると困るんだよ、おまえめちゃめちゃ香ってるぞ、なんか持ってるだろ、でも良かったなぁ、おれまで気分がいいね、今日はそれどころではないんだ、消えろ」
身体が、自然に動いた
何の苦痛もなく、するりと立てた
顔の高さには心地良い涼しい風が
吹いていると知った
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
下を向いて、そう云って
なんとなく、西へ向かった
「おい、走れ、馬鹿」
後ろから、官憲の大きな声がかかり
背中が凍って割れていくような気がした
朝靄の商店街を
ゴミ袋の列の間を
東から西へ
闇から光へ
全速力で駆け抜けていく
殺されもせず
生かされもせず
妙な悪運の強さが
際限なく自分をダメにしていく
あまりにも不憫で、どうしようもなくて
走りながら
知らずのうちに
泣いていた
たまらなく身体が震えて
また今日も
ガタガタと泣いた。