Creep

 

台所の錆びた缶から、

這い出ようとする無脊椎動物を、

僕はリリアと名付けた


16歳の彼女は現在、スウェーデンで児童買春の奴隷となっている

被虐と抵抗のエントロピー増大が、彼女の魂を具現化し

陽当たりの悪い僕の部屋まで運ばれてきた、というわけ

 

リリアはパイナップルの汁を吸って、身体が膨らんでいる

缶から胴体をのぞかせても、すぐに落っこちてしまう

スウェーデンではマンションの一室に幽閉されていて、

絶望的に身動きがとれないでいる

 

僕はといえば、呑気にのっけご飯をかき込みながら、

観るでもなくTVを眺めている

イスラエル軍のパレスチナ侵攻が繰り返し報道されている

ご飯粒を噛むたびに、死者のカウントが上昇するリズム

茶碗にこびりついた分だけ、生き残るのだろう


桃屋の穂先メンマを追加していたら、

TVはガザ空爆の映像に切り替わった

轟音とともにハマスの施設が炎上し、

リリアはまた缶の底へとひっくり返ってしまった


その時、陽当たりの悪い僕の部屋の中では、

メンマと空爆とリリアの奇妙なシンクロが起こり、 

頭の中のシャッフル機能が、

レディオヘッド「Creep」を再生しはじめた


爆撃のようなエレキギターが鼓膜を震わせ、

苦しみを絞り出すトム・ヨークの歌声が全身を撫でていく

メンマのやつが塩っぱくて、メンマのやつがよ…、

トム・ヨークはメンマを知らないだろう?


   あなたに会いたいよ

   このおれを見てほしいんだ

   茶碗を持って泣いているおれを

   どうして何もかもうまくできないんだろう?

   どうして人が人を傷つけて、

   おれもまた、同じようなことをしてるんだよ

   本当はあれ以来ずっとCreepが爆音でかかってるんだ

   何回も何回も聴いて、もうわけなんかわからないんだよ


「ハンカチならあるよ」

赤い布きれが眼前でひらひら舞っている

顔を上げると、金髪の少女が僕の傍に立っていた


少女は人懐っこい大きな瞳で僕の顔を覗く

左の頬や口の回りが内出血で紫に染まっている

だが、地肌は石鹸そのもののように白く滑らかで、

北欧女性のそれを示している

しなやかな肢体を備えて、リリア本体が出現したのだ


「ありがとう」僕は赤い布きれで涙を拭いた

「レディオヘッド、わたしも好きだよ」リリアは顔を歪めて微笑む

「最近はこればっかりで」

「新しいのも聴いたらいいのに」


リリアは僕の知らない歌を口ずさむ

心なしか、陽当たりの悪い部屋が明るくなった気がする

「あの…、顔大丈夫? 痛そうだけど」

「もう慣れてるから。腫れてる方がいいの、男が嫌がって」リリアは陽気に話す

「ひどいね」

「問題は複雑なのよ、まず貧困があって、子供を育てられない親がいて」

「それで、孤児が連れ去られる…」

「そう、わたしのところに全部しわ寄せがきてるの」


異国の少女の凄惨な状況を耳にし、

僕は赤い布きれを持つ手が恥ずかしくなった

…なんか悪いね、馬鹿みたいなことで泣いて」

「あら、そんなこと言うと、Creepを否定することになるよ」

「でも君の方が大変だろ。監禁されて、自由もなくて…」

すると、リリアは僕の肩にそっと手を置いた

まっすぐに目を見つめてくる


「閉じ込められているのは、あなたよ。わたしはそれを言いにきたの。私の魂はとっくに自由だわ。どこにだっていける。こうしていま、あなたの傍に立ち、肩に触れることもできる。誰もわたしの心までは買えないからね。そもそも、わたしの心配なんてしなくていいのよ。世界の心配も別に毎日しなくていい。あなたは、あなた自身の問題を解決しなければならないの。たとえ、それがどんなに小さなことであっても、ウジ虫みたいな問題であっても、それがあなたの心を囚えている限り、ちっとも自由になんてなれないわ」


「だ、だろうけども…。君は一体、何者なんだい?」

「リリア、16歳の児童買春奴隷よ」


リリアは僕の手を取り、立ち上がらせる

トム・ヨークのファルセットが頭を突き抜け、よろめいてしまった

TVではイスラエル軍のガザ空爆が続いている

無音の映像は空虚な作業のようだ


「何してるの、ほら早くここから出てって」リリアは僕の身体を玄関の方へ向ける

「え、出るの?」

「苦しんでいる人がいるわ。あなたが変わらなければならないの。うまくいかなくてもいいじゃない」

「変わるっていっても、おれはおれだよ」

「違うの。元々あなたは、わたしの部屋にいるウジ虫なのよ。逃がしてあげるわ」


リリアに背中を押されるままに、僕は玄関に向かっていった

何も準備できていないが、赤い布きれだけを握りしめていた

靴を履いていると、リリアが後ろから手を伸ばし、マンションのドアを開けた

「ねえ、パイナップルはもう沢山よ」

振り返ると、部屋の中にも錆びた缶の中にも、リリアの姿はなかった。