CW: 唐 物 茶 碗 |
(C) サロン 竹森
updated on 01/02/2004 23:07:26
2006.11.22.新設 作品計1点掲載。2022.01.14.解説追加。
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茶碗の用とは茶を入れ、湯を注ぎ、攪拌(かくはん)し、飲む器である。 茶の種が日本へ伝来したのは、鎌倉時代、栄西禅師によって 中国の天目山よりもたらされたとされている。 中国の唐時代(618年〜907年)の茶は「緑色」をしており、 その色を引き立たせる為か、当時の茶碗は 越州窯青磁、刑州窯の白磁に人気があったようだ。 この頃の書物では「建茶」と呼び、特権階級や禅僧の修行に欠かせない “薬として飲用されていた” 北宋時代(960年〜1,125年)には「白色」の茶が発明され、 香りも高く「闘茶(とうちゃ)」として、一気に朝廷の中で流行した。 「闘茶」とは、互いに持ち寄った粉末茶、銘水、茶碗を使い、 茶の優劣を決める事であり「良しとする条件を」 |
第一に「お茶が水面に浮く」 |
つまり、茶のひき方が細かく、ふるいの目がより 細かく、湯の温度が適温である事が問われた。 |
第二に「色比べ」 |
鮮やかな白色が勝とされた。審査の基準としては、 「茶と湯の混ざり具合」 つまり、混ざりが悪いと茶の内側に沿って丸い斑紋が 早く現れると負けである。 従って、白色を引き立たせる建窯(けんよう)の 「兔毫さん(とごうさん) 和名(のぎめ天目)」 が、胎の厚みが有り、一旦温まると冷めにくい事と、 黒釉の漆黒(うるしぐろ)が白色を鮮やかにする 両面に勝ることから、当時の文献中にも 「値が高くなかなか手に入りにくい」とあるように、 和名「禾目(のぎめ)天目茶碗」の人気は 絶大であったようである。 |
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さて、日本における好みの推移は、鎌倉時代から室町時代後期にかけて、 この福建省の“建窯天目茶碗”が人気の中心であったが、 村田珠光(しゅこう)による「わび茶」が流行し、龍泉窯の青磁の中では、 下手な茶碗「珠光青磁茶碗」同安窯産。又、胎の厚い「人形手茶碗」 等が珍重された。 その後、古染付(明代末期には)絵見本、型見本等を送り、 好みの茶道具を特注した、この流行も長続きせず、 唐物全盛時代が終焉(しゅうえん)するのである。 桃山時代後期には、朝鮮半島との交流が深まり、 井戸茶碗を始めとする高麗物、 そして、国焼の楽焼(らくやき)、唐津焼、萩焼、美濃焼へと、 茶碗の好みが移行するのである。 さて、日本の平安時代から安土桃山時代に渡る約700年間にも及ぶ期間、 「唐物茶碗」として用の他に、時には「政争の具」とされたり、 珍重され続けた茶碗とは、どんな物なのか。 昨今では、庶民のコレクションとなり得る安価な茶碗を中心に提示して、 その魅力(見所)を再発見し、 古人(いにしえびと)の心に触れてみたいと思う。 |
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くごめいのぎめ 供御銘禾目天目茶碗 CW2112 宋時代 お嫁入 建窯(けんよう)で西暦、1,250年前後に製作された和名では 「禾目天目茶碗」の紹介です。 建盞“ケンサン”(宋時代に福建省建窯で焼かれた天目形黒釉の 茶碗)又は、兎豪盞“トゴウサン”(兎の毛のように見える筋 の模様があるので) とも呼ばれ鎌倉〜室町時代の書院の茶事で 珍重された為に日本に多く渡りました。 20年ほど前 MOA美術館で「供御」銘の天目茶碗 (中国の宋時代に権力者に贈呈した官品)が紹介され、それ以降 おおくのニセモノが日本に出回りました。 寸法:口径11,5〜11,9cm 高5,8〜6cm 高台径4cm |
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唐黒釉弦文茶碗 CW2110 唐時代 伝、河南省出土 東晋時代(4世紀)頃は越州窯で安定した黒釉が焼かれていたが 唐時代貴族階級の要望で唐白磁の隆盛がきわまるとなぜか? 安定した黒釉(白斑文が主流)の焼き物が姿を消してしまう。 提示の弦文碗は唐時代黒釉のモスグリーンに近い発色で、 これは唐黒釉の典型的な発色で珍品中の珍品といえます。 器形を引き締める為に二周ずつ釉薬を削り、器面を飾ります。 白磁の口の広がった器形の茶碗は散見されますが、筒に近い このタイプは初見で高台側からの眺めは優雅な曲線に心がほの ぼのとします、貴族の雅やかな風情が器全体から窺えます。 下写真は見込み目跡3個と引っ付き取跡、口縁の釉ハゲの アップ写真、1,200年の時代経過でやむをえないか? 寸法:口径13,6cm 高台径6,3cm 高7,7〜8,1cm 0252 |
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