2008年 (2)
12月20日(土)浜松「アトリエぬいや」
12月21日(日)静岡「江崎ホール」
木下尊惇フォルクローレ・コンサート
with 菱本幸二 CLAUDIA GOZALVES
アトリエ「ぬいや」のコンサートで、年を締めるようになって、もう何年になるだろう。巷にクリスマスの色が濃くなると、「もうじき浜松だ」と思う。いつの頃からか、焼津でのコンサートもセットになり、毎年暮れの「プチ・ツアー」は、今や恒例のイベントである。
コンサートの後、アトリエ「ぬいや」の会場は、そのまま「鍋の宴」となる。舞台と客席の境が取り払われて、聞き手と演者が一緒になって、同じ鍋をつつくのである。彩り良く大皿に並べられな白菜、人参、茸類、豚肉・・・それだけでもわくわくする。
子供のころの我が家では、冬の食卓によく鍋がのった。何かと訪問客が多かったため、鍋の周りはいつも賑やかであった。中でも好きだったのが、「ハリハリ鍋」である。「コロ」という鯨の脂肪の乾物と、水菜を一緒に煮るのだが、今はもう食べられなくなってしまった。
思い出は、こうして作られて行くものだろう。時間の堆積と共に、思い出も層を成し、その断面が、やがて伝統の形成を促してゆくのかもしれない。
「ぬいや鍋」は、毎年すこぶる美味である。演奏よりも、こちらを楽しみにしている人もいるに違いない。
毎年少しずつ求める、日常使いの民藝品も、大きな楽しみのひとつである。
09/02/12
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11月24日(月・祝) 京都・美山「梅棹邸」
木下尊惇・菱本幸二 フォルクローレ・コンサート
かつての農村では、「結(ゆい)」という互助関係が強力であった。日頃の農作業や冠婚葬祭、中でも屋根の葺き替えには、絶対に欠かせないものであったという。
茅葺きの館「ゆるり」には、実にたくさんの人たちが集まってくる。美山町内から、県外から、そして海外から・・・さまざまな人々が集い、思い思いに時を過ごし、それぞれに何らかの役に立っている。館の主(あるじ)である梅棹さんご夫妻の魅力が大であるが、茅葺きの力もあるに違いない。
間もなく結婚式を挙げるレオくんの引出物を、そのお嫁さんと一緒に、みんなで箱に詰め包装した。茅葺きに集う、現代版「結」の姿がそこにあった。
今も昔も、大きな屋根の下では、人の心が寄り添うのだろうか?こういうための大きな屋根を、人々の生活から失してはならない。文化財の保全は、決して外見だけのものではない。
09/02/12
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11月22日(土) 和歌山「和歌の浦 アートキューブ」
木下尊惇・フォルクローレ・コンサート
「パチャママの大地」
with Yae 菱本幸二
ちょうど一年くらい前のこと。下北沢の改札口で、坂上夫人とばったり会った。坂上さんご夫妻は、5年前から和歌浦でのコンサートを主催して下さっている。
この日私は尺八のコンサートに誘われ、レコード会社のプロデューサーと、下北沢駅の改札口で待ち合わせていた。小田急線と井の頭線が交差する下北沢は、いつも人でごった返しているが、この北口は閑散とした雰囲気である。下北沢に来ることがあっても、こちらの改札口を通ることは、まずない。
そこで和歌山の坂上夫人とバッタリである。目の前の状況を把握するのに、しばらく時間がかかったほどである。 坂上さんも、都内に暮らす娘さんを訪ねる途中で、あまりに荷物が重いため、タクシーに乗り換えようと、下りたことのない下北沢で下車し、当てずっぽうにこの改札口へ出て来たとのこと。
坂上さんが、私のコンサートを主催していなかったとしても、この日、この場で、私は坂上さんと遭遇しただろうか?見知らぬ他人の一人として、そのままやり過ごしていたであろうか?
縁とは不思議なものである。時間と空間の立体を、編目のように繋いでいる。思いもかけぬ出来事が、無作為に、この網目に電流を通してゆくのだ。我々凡夫には、到底予期することのできない法則に従って・・・。
今年はYaeさん、菱本さんとのトリオで演奏した。予期せぬ場所での予期せぬ「遭遇」の可能性が、また少し広がった。
09/02/12
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11月16日(日)東京「カフェ・ブランサヤ」
木下尊惇・フォルクローレギター・コンサート
太陽の輝きに比べ、月の光は慎み深い。
月の光を思うとき、ルオーの画の月明かりを思い出す。香月泰男の月を思い出す。
故郷の夜の海辺で、静かな波に姿を揺らしながら輝く月の光を思い出す。
電気の通らぬアンデスの村では、月明かりが、夜道を照らす灯明である。
静まり返った夜の暗さの中では、細微も照らす光源である。
月の光に、多くの芸術家が心惹かれた。多くの思想家が思いを託した。
月は、どこまでも静寂である。果てしなく清廉である。
「ブランサヤ/私の月」とても良い響きである。
09/02/12
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11月8日(土)八ヶ岳「ペンション 悠遊塾 ふぁみりい」
木下尊惇 八ヶ岳 フォルクローレ コンサート
with 菱本幸二 CLAUDIA GOZALVEZ
部屋の窓から、落葉松(カラマツ)林が見える。その名のとおり、秋色に紅葉した細かい葉っぱが、木立の地面を埋めつくしている。寒い国のメルヘンへと吸い込まれてゆきそうだ。
八ヶ岳は、もう冬の入り口にある。静かに、冬の装いへと変わりゆく。ヒトには、冷たく寒い季節である。 寒い季節は、楽天的ではない。風に震えながら、氷雪に耐えなければならない。
しかし決して悲劇的ではない。美しく、清らかな世界である。慎み深く、謙虚な季節である。
10年目の八ヶ岳コンサート、演奏会場が変わっても、温かさは変わらない。同じ八ヶ岳の懐である。 大地に落ちた種子から、やがて芽が出て花が咲き、その実から生まれた種子たちは、音によって飛び散っていった。新たな花を咲かせるために。次なる種子を育むために。
09/02/12
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10月26日(日)埼玉・深谷「きんぎん花」
木下尊惇・菱本幸二 フォルクローレ・コンサート
きんぎん花から、二筋歩くと旧中仙道である。かつての宿場町の趣が、少しだけ、今の深谷の町並みにも残っている。
高い煙突がそびえ立つ、大きな造り酒屋の瓦屋根が目を引いた。今の瓦屋根に一般的な平葺きの両端が、左右二列ずつだけ本葺きなのだ。本葺きの屋根は、お寺や旧家に残るだけで、なかなか普通には使われていない。ましてや、ふたつの葺き方が混在した屋根に意識が向いたのは、初めてである。
注意してもう少し歩いてみると、街道沿いの少し大きめの屋敷の屋根は、ほとんどがこの「二種混合葺き」である。
「深谷の屋根は、伝統的にこの葺き方ですか?」と、深谷の人たちに聞いてみたが、周りに詳しい人はいなかった。
コンサートの前、深谷の郷土料理「煮ぼうとう」を食べに連れていっていただいた時の、小さな出来事であった。
09/02/12
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10月12日(土)埼玉「飯能市民会館小ホール」
「エクアドルふれあいコンサート/木下尊惇&上松美香」
ペペが不在のsaneコンサートは、初めてである。今年からは、「エクアドルふれあいコンサート」となった。
もともとエクアドルとは、何の接点も持たなかった人たちが、ひとりのエクアドル人によって、その人が奏でる音楽によって繋がった。
エクアドルに、「学校で勉強したい」と願う子供たちがいて、日本に、「子供たちに学んでほしい」と願う人たちがいる。そのふたつの願いの端と端を、音楽で結ぶことができれば、音楽の存在も、決して棄てたものではない。みんなの願いが、音楽を介してかなうのだ。
もちろんそれは、音楽家の神通力などであるはずがない。その願いを持ち続ける人たちの行動が力となり、願いを成就させるのである。誰が誰のためにしてあげるわけではなく、みんなの力で、みんなの願いが叶うのだ。
音楽に、そうした力が備わっていることを、音楽に携わる者たちは、もっと自覚すべきである。音楽の存在意義は、「より良い世の中の実現」以外、到底考えられない。
08/11/15
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「Yae&木下尊惇 福島コンサート・ツアー08」
08/10/04 保原町「泉福寺」
08/10/05会津若松「末廣酒造・嘉永蔵」
保原の会場は、毎年、真言宗泉福寺の本堂である。本堂を横に使い、お客さんは、並べられた座布団に座る。
今年は副住職にお願いして、納骨堂に入れていただいた。床から壁、天井、すべてに青森ヒバ材が使われていて、とても良い香りがする。ほのかにこもった香(こう)の薫りが、ヒバの香りを、さらに引き立てているようだ。
コンサートのスタッフが、毎年、工夫を凝らした手料理で、もてなしてくれる。「Teratoria」と称する、年に一度きりのレストランだそうだ。地元で採れた季節の食材を、最良の状態で食べさせてくださる。
今年の「川俣軍鶏のスイトン」と「新米おむすび」も、とても美味しくいただいた。
会津若松では、末廣酒造の嘉永蔵が会場である。大正時代の木造屋は、その存在感だけでも抜群である。
蔵に一番近い床付きの間が、演奏家の控室「楽屋」となる。畳に座ってギターを取り出すと、不思議と落ち着く場所である。
会津木綿の織屋さんに行った。さまざまな柄の反物が、うず高く重ねられている。もともと仕事着の生地として織られていたもので、その風合いは実直で、優しく、温かい。休みの日であるのにもかかわらず、快く招いてくださったご亭主も、まさに会津木綿のような方だった。
コンサートのあと、末廣酒造の社長さんご夫妻が、決まって連れていってくれるお蕎麦屋さんがある。「夜の街」の「ネオンビル」の三階では、勝手を知らなければ、まず行き着ける店ではない。
女将の出してくれる料理は、どれもこれも、すこぶる美味である。毎回趣向を凝らして、コンサートの余韻を楽しませてくれる。
箸休めの、「叩ききゅうりの浅漬け(?)」は、安堵の味覚である。「懐かしい」とは、まさにこういうことであろう。
コンサートに繋がるすべての事象は、すべてが音に通ずる。演奏が始まるずっと前から、コンサートは始まっているのだ。会場が閉まった後にも、コンサートは続いている。「余韻」とは、そうしたものであるはずだ。
08/11/15
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「木下尊惇・橋本 仁 フォルクローレ・コンサート」
08/09/25 烏山「クローバー・ステーキハウス」
雨ざらしにされた鋼鉄の錆は、とても美しい。雨霜の水分を浴びて、風に吹かれ、夏冬の暑さ寒さにに身を晒し続けて、初めて浮き上がってくる色である。複雑に混じり合った色彩や、表面から噴き出して付着したマチエール。美しく変化した錆は、手を触れるのも躊躇する。
クローバー・ステーキハウスで、年に一度のコンサートを企画していただくようになって、7年になる。店長の佐々木さんの力作なる鉄のオブジェも、いい具合に錆びてきた。手作りステージも、所々に軋みが生じ、時折面白い音を立てる。
錆の姿は、日々それが新しい。ステージの軋みは、それを調整すべく手を入れたら、それがまた新しい。すべての物事は、新しさを更新しながら風化して、やがてその姿を消して行く。水に融け、風に吹かれて、大地に還って行く。そしてそれは新たな誕生でもあるのだ。
今年も美味しいディナーをいただいた。ひと口ずつ、新しい味覚の喜びが生まれてくる料理である。
聴覚と味覚の違いこそあれども、知覚したその後には形が残らないというところが、音楽と料理は実に良く似ている。
08/11/15
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「木下尊惇・笹久保伸ギター・コンサート」
08/09/19 横浜「エンクエントロ」
音楽の動機は、極めて個人的なものである。人(ヒト)は、自分のために歌い、自分のために楽器を手にする。
やがてその歌を、その演奏を、身近な誰かに聞いてもらいたくなるものだ。それは明らかに、個人的な衝動であるはずだ。
現代の経済主導社会において、音楽を含めた芸術(arte)が、それに携わる人たちの、集金手段と化してしまった。本来自由であるはずの(制)作家たちは、その多くが、システムに埋没し、迎合し、自らがそのシステムの牽引を担っているかのように錯乱する、勘違い甚だしい者たちが、マスコミでちやほやされる。
偽の芸術は、文化の質を著しく低下させる。文化の土台が、どんどん蝕まれてゆくのだ。
文化を、滅びるに任すわけにはゆかない。文化の滅亡は、人間社会の崩壊を意味する。
音楽は、芸術は、今こそ原点に立ち返るべきである。個人的衝動に、取り戻されるべきである。聞いてほしい人がいて、聞きたい人がいる。できれば、お互いの顔が見えたほうが良い。
音楽が、芸術が、人(ヒト)の暮らしにとって必要な所以は、間違いなくそこにある。
08/11/14
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「木下尊惇ソロ・コンサート」
08/09/10 福山「MOCO & SONG」
福山の街には、落ち着いた雰囲気がある。駅前通りの南から眺めると、駅舎のすぐ後ろに福山城が美しく聳えている。アーケードが延びた商店街にも、小洒落たお店が軒を連ねる。
コンサートで「福山は上品なところですね。」と言うと、「えッー!?」という返事が返ってきた。自分の住む町に対しては、徹底的に良いところと、とてもイヤなところの両方が見えてくる。その両方を受け入れることが、その町の「住人」になるための、最大の条件だと思う。鞆の浦にしても、尾道にしても、ここ福山にしても、広島県の東部には、魅力的な町が並んでいる。
3年目となるMoco & Songは、音楽好きの方々が集うお店である。今回も昼夜ともに、たくさんのお客さまを集めてくださった。私にとって、不思議とリラックスして弾けるスペースである。約90分休憩をはさまないソロ・コンサートで、プログラムも流動的に、その時の雰囲気で差し替えてゆく。
Moco & Songの三宅さんにご紹介いただくお店は、どこも食べ物が美味しい。お昼の讃岐うどんも、夜のチヂミも、共に絶品であった。
08/09/16
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木下尊惇 24年シリーズコンサート第八回
「重陽の節句」 ゲスト・森川浩恵(箏・十七弦)
08/09/09 倉敷「夢空間 はしまや」
柳宗悦は、美の本質を見極める力を「直感」と言った。
森川浩恵さんの演奏を聞いたのは、もう5、6年も前、上松美香さんとのツアーで、森川さんが共演した企画コンサート中の数曲だけ。しかしその演奏は、私の記憶の中に、ほのかな輪郭をずっと留めていた。「重陽の節句」を考えたとき、直感的に、彼女の奏でる箏の響きが、そのイメージとピッタリ重なった。
8月のある日、リハーサルのためにお宅へ伺った。雑談をしながら、音を合わせてみる。私の「直感」は、直ちに「確信」によって裏打ちされたのだ。彼女の出す・・・出そうとする「音」に対して、何の疑いも生じない。それは、具体的な要求は何もしない、という事に繋がる。そしてそれは、良否を越えたところにのみ存在し得る、絶対的な音楽的信頼関係である。
一般的な「音合わせ」の必要を感じなくなってからは、もっぱら雑談に専念した。
倉敷への道すがら、龍野にある森川さんのご実家に立ち寄った。今回は、より具体的なリハーサルである。合奏のレパートリーを、ざっと一通り。確認を要するところだけもう一度。
お母さまの美味しい手料理で、晩ご飯をごちそうになった。
玄関口の山野草、お稽古場の書院風床の花入れや、洋間に架けられた一幅の軸に添えられた草花を見たときに、森川さんの「音」を支える柱のひとつを知った気がした。
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同じ場所で毎年コンサートをする場合、「慣れ」と「誇張」は禁物だ。共に「新しさ」を妨げる。しかし目先の効果に気を取られて一貫性を欠けば、支離滅裂、すべてがバラバラになってしまう。
「常に新しい」という事が、「真の新しさ」である。「新しい」という事は、「生まれたて」という事である。常に生まれ続ける新しさによってのみ、伝統は後世に引き継がれて、呼吸し続ける。
「真の新しさ」によって、伝統の中心に触れる。ここに苦心のし甲斐があるのだ。形などの問題ではない。
今回のコンサートでは、別室にて、父と妻の「ボリビア二人展」も開催した。祖父と孫娘ほども歳の離れた二人の、それぞれの「ボリビア」である。作品の出来などというものより、「ボリビアの人たちの生活」を中心に、「制作」という行為が繋がって、それが「コンサート」という場で、「音楽」とともに「振動」したことに、大きな意義を感ずるのである。
はしまやコンサートは、自分たちの活動に対しての戒めでもある。コンサートを実現するために、たくさんの人たちの力が必要であることはもちろん、それぞれの力が、機能的に分業化して集合しただけでは、最後の点火には至らないことを知らされる。優しく、しかしキッパリと。
築140年を経た建物は、私たちよりも、遥かにたくさんの事を知っている。そして思慮深く、慈しみ深い。その路地に、柱に、格子戸に、壁に、梁に、天井に耳を澄まし、目を凝らし、香りを感じることが、明日からの日常に「動き」をもたらすのだ。その「動き」は、伝統を練り直す力を持つ。たとえ微力であっても。
「直感」は、閃光のごとく、一瞬のうちに顕れ、即座に消え入るものである。その一瞬をやり過ごしてしまわないために、常時の「新しさ」が大切なのだ。
08/09/16
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「菱本幸二・木下尊惇・クラウディア・コンサート」
08/08/30 北軽井沢「パンカーラ」
軽井沢駅から車で30分ほど、草津に抜ける街道沿いだとはいえ不便なところである。二組のご夫婦がこのレストランを始められ、数年が経つという。宿泊施設もないレストランのみの通年営業で、「たいしたものですね!」と感想を言うと、「たいしたものですよ!」という笑顔が返ってきた。
レストランはほぼ満席のお客様、その多くが「パンカーラ・ファン」なのであろう。雨天のせいか、高原にしては非常に蒸し暑い。菱本ご夫妻とのトリオは、ほぼ1年ぶりである。
第一部は、菱本さんの作品と、ボリビア各地の音楽を交互に演奏する。暑さで汗がしたたり落ちてくる。
第二部は、私のソロから始まって、ふたたびお二人を招き入れての合奏である。音響装置を使わないということで、閉めてあった窓を、第二部には開けていただいた。外の、湿ったひんやりとした空気が気持ちよい。時折外を通る車の音も、全く気にならない。それどころか、絶妙に合いの手を入れてくれる虫の音が、澄んだ空間を演出してくれる。
美味しい高原野菜の夕食をご馳走になった。菱本夫妻に合わせて、ほぼベジタリアンである。
「演奏はいつやっても、なかなか思うようにはゆきませんね。」私が言うと、「そんなことはないでしょう!」と返される。毎回毎回「今度はもう少しうまく弾きたい」と思うのだが、それがなかなか難しい。「うまく=上手に」であれば、それも出来ることがあるのだが、「なかなか思うようにゆかない」というのが本当のところである。菱本さんは「でも、やっぱり、そういうもんですよね。」と、にこやかに応えてくれた。
翌朝は、高原らしい乾いた空気に目が覚めた。特製サルテーニャと高原野菜の朝食のあと、軽井沢駅まで送っていただいた。夏の終わりの旧軽井沢の喧噪が、今回は特に空しく感じられた。
08/09/16
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「“名もなき音の聲”木下尊惇ソロ・コンサート」
08/07/25 東京/初台「近江楽堂」
多くの言葉が、本来の意味から隔離され、異なるイメージの衣をまといながら、人々の生活の中を浮遊している。「民」という一文字が導く言葉の数々も、人々の思惑が錯綜する中で、さまざまな色を以て語られてきた。
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かつて私は、私のやっている音楽が、「民謡」という括りで語られるのを、快く思っていなかった。自分の音楽は、もっと特別な価値を持つものだと・・・。
かつて私は、「民衆」という言葉を使うことに、抵抗を感じていた。それはコムニスタのリーダーたちが、政治集会で、声高らかに叫ぶものだと・・・。
かつて私は、フォルクローレを「民芸(藝)」から、救い出したいと思っていた。芸術音楽に発展させることが、フォルクローレのためになるのだと・・・。
そのくせ「民族」という言葉には、何の疑問を抱くこともなく、さまざまな場面で使っていた。あたかもフォルクローレを代弁する言葉であるがごとく、特定文化を形成したのは、特定固有民族であると・・・。
それぞれの言葉の持つ真意と、その言葉の歩んできた痕跡を、時空間において立体的に理解すれば、自らの無知と無明に恥じ入るばかりである。
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「民藝(民衆工藝)」という言葉は、柳宗悦の「美」を探求する行為と思想から生まれた。「民藝」を「民衆藝能」とすれば、まさにフォルクローレの性質そのものではないか。
私は、フォルクローレを「生きた民の音」と訳してみた。フォルクローレは「民の生活」そのものなのだ。
今私は「民謡」を作りたいと思う。・・・時と共に、作者の名など朽ち果てて、やがて曲自体も風化して、土に還ってゆくような音楽が理想である。土に還った音楽は、その土に生きる「民衆」に還元される。それは、新たなる「生活」の誕生を意味するのだ。
実態のない「民族意識」なるものに惑わされてはならない。為政者たちが、自らの争いに「民衆」を巻き込むために設定した、偽りの枠組みにごまかされてはいけない。文化は、人々の生きた轍の痕跡にのみ芽生えるのだ。
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「名もなき音の聲」に、耳を澄ます日々が続く。そしてそれは「美しき日常」においてのみ、実践可能となる。「美しき日常」は、「民」の生きる道である。「美しき日常」なくしては、「美しき音楽」はありえない。
08/08/02
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ご意見・お問い合せはtaka
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