音楽コラム 3.no.017 演奏における陽と陰 音楽においてのみならず、この世の中の現象、事柄は「陽・陰」という分け方が可能です。それは、俗に言う「明るい・暗い」という意味ではありません。また、論理的に対称関係にあるもののみを、比較するのではありません。たとえば、磁力の「プラス・マイナス」のように、お互いに引き合う力、この力関係の性質を、私は「陽・陰」だと理解しています。人の性質にも、明らかに「陽・陰」関係はあります。性格的には「陽」に振る舞ってはいても、「陰」の性質を強く持っている場合もありますし、だいたい人…のみならず、すべての物事は「陽・陰」両方を併せ持っているものだと思います。 音楽においても「陽・陰」の力関係は、大切な要素です。私が98年に発表した組曲「生きとしいけるものへのために」は「陽・陰」関係の対比を、ひとつの大きなモチーフとして扱っています。ちなみに、多くの民族音楽には、この「陽・陰」的要素が、必ず背中合わせに共存しているかのように感じます。それは、そういった性質の音楽を研究、理解する上で、大変に重要な切り口ではあると思います。 演奏における「陽・陰」は、その演奏者の性質によるところが大きいかと思われます。陽性の演奏家は、音楽を聴衆に振る舞う事ができます。聴いている人たちの中に入り、一人ひとりに声をかけ、音楽を勧めるのです。陰性の演奏家は、音楽によって聴衆を引き寄せる事ができます。聴いている人たちの気持ちを吸引し、自らのテリトリーの中へと引き込むのです。ステージの上においても、「陽」と「陰」はお互いに引き合い、混じり合い、そして対話をしながら、音楽を創ってゆきます。しかしそれぞれが、それぞれの真似をしたり、自らのモチベーションを見失ったりすると、決して良い結果は生まれません。 コンサートやライブで、なかなか自分の間合いが取れないときは、この自分の性質を見失っていることが多いようです。自分の本性をさらけ出せているときには、どんな大きさの会場でも、自分の手が届くところに、お客さんがいてくれるものです。これも、音楽の自然との一体化のひとつだと思います。 2003.8.9 no.016 作曲するという事(3)インスピレーション コンセプトが決まり、モチーフが浮かび上がってきたら、今度はインスピレーションです。ここでようやくメロディーをあてはめるのです。型が出来上がっているところに、素材を流すのですから、非常に楽しい作業です。メロディーをさまざまな形に加工して、曲を組み立ててゆくのです。反復させてみたり、反転させてみたり、延ばしてみたり、縮めてみたり、また、呼応させてみたり、対立させてみたり、調子に乗れば、どんどん作業は進んでゆきます。 もちろん、まず最初にメロディーが存在する場合もあります。自然な形で溢れ出た、もしくは発見したメロディーを、そのインスピレーションのモチーフを壊さないように、ひとつの曲を仕上げてゆくというのも、重要な方法のひとつです。 私は近年、伝統的なボリビアの名曲や、他の音楽家の作品を、大きくアレンジしてコンサートで取り上げたりしていますが、それはまさに、上記の方法の延長です。ある楽曲を、メロディーとして、素材として見つめ直し、そこから得られたインスピレーションをもとに、自分のスタイルで作品へともって行くのです。これは、他人のメロディーを借りた『作曲』だと、自分は解釈しています。 2002.10.4 no.015 視覚的、質感的感覚 私はコンセプトを考え、モチーフを探す場合に、よく図面とか絵を使います。頭の中でも渾沌としている何ものかを明瞭にしてゆくためには、言葉よりもなによりも、私の場合には、視覚に頼る事が多いようです。 ラ・パスに住んでいた頃、どうしても曲想が湧いて来なかった時などは、よく窓の外をスケッチしたものでした。その場合は、ある対象物に集中する事によって、目に見えている以外のものが、なんとなく見えてきたりもするのです。また、組曲『生きとし生けるものへのために』を創る時は、何枚もの図を描きながら、自分の中でコンセプトとモチーフを立体的に組み立てて、そして、その図面を見ながら作曲を進めました。先日、六本木のスイート・ベイジルで聴いていただいた『宴-fiesta』の出演者も、それぞれの楽器の音楽的配置を、図に描きながら、そして重なる音を想像しながら、出演者を決定してゆきました。 視覚的、質感的に自分の感覚を頼るというのは、演奏時にもそうしているようです。たとえば、最近特に多い上松美香さんのアルパと共演する場合、彼女のアルパの音の位置を立体的に感じ取って、そしてベスト・ポジションに、自分のギターの音を配置する……これを、毎回のリハーサルでするわけです。また、どんな形の音が、どんな関係を持って鳴っているか……丸いとか、角があるとか、細いとか、重いとか……そしてそこに、自分の音を、どのようなフォルムで重ねてゆくのか……。まさにこれらは、すべて視覚的、質感的感覚です。 ホールによって、自分のイメージがうまく音に出せない事や、また重ねた音が、イメージとは違う方向に向かってしまったりと、なかなか思うようにはいきません。そこで私が頼りにできるのは、やはりコンサートのコンセプトであり、自分の役割『モチベーション』なのです。 2002.9.25 no.014 音楽における必然性ということ コンサートを作る場合、まず最初に制約が提示され、そこに『必然性』を探す……という作業をする事もあります。たとえば、出演者のメンバーが決まっている……そうしたら、そのメンバーが集まって合奏する、必然性を見つけるのです。その必然性が、コンサートのテーマとなり、モチーフとなる事も、多々あります。 何かのきっかけで、メンバーが集まったり、何かの縁で、演奏会場が決まったり、それが決して単なる『偶然』ではない事を、音楽を作る上で明確にしたいのです。作曲にしても演奏にしても、音を使って表現をするという行為が、この世の中でしっかりと存在するためには、この必然性が絶対不可欠であると、私は考えます。 自然界に存在する音には、その存在理由が明確です。それが、人間にはわからない理由であっても、自然の摂理の中では、必ず必然の生み出す音なのです。人間の作り出す音を『音楽』だとするのならば、音楽にも間違いなく必然性が必要なのです。 ここで、誤解のないように確認しておきたいのは、ここでいう『必然性』というのは、『人間の意志』ではない……ということです。もちろん人間の意志が、必然性を生み出す事もあるでしょうが、『必然性』イコール『人間の意志』ではない……というのが、私の意見です。 2002.9.9 no.013 コンセプトとモチーフ 今回は、『作曲』という行為も含めた、私の創作の方法のいくつかを、紹介してみたいと思います。私が曲を『作品』として創る時には、まず『コンセプト』を明確にします。今から創るものの性格を、自分に分かりやすく、納得できるように整理するのです。自分が何を表現したいのかを、頭の中でじっくりと考えながら、次第にはっきりとさせるのです。これは、作曲の時のみならず、コンサートを創る時にも、必ず行うプロセスです。どんな性格のコンサートにするのか、自分の中での、コンサートのテーマを決めるのです。 それから、それを表現する方法を考えます。コンサートの標題……いわゆる『モチーフ』を決めるのです。また、どんな会場で、誰と、どうやって演奏、またはパフォーマンスをするのが良いのか? もちろん、いつもすべての要素をこちらで選択出来るわけではありません。演奏会場が決まっている場合、演奏メンバーが決まっている場合、テーマが決まっている場合など、必ず事前に制約がついてくる事がほとんどです。 作曲の場合の『モチーフ』は、より自由に考え、選ぶ事が出来ます。素材の選定から始まり、どんな形式で、どんな楽器で、どのくらいの規模のものを創るのか? しかし私はどんな場合にも、自分の中にいくつかの制約を作ります。ある制約のもとで、あるルールにしたがって、ものを創り上げてゆく事で、私の場合は、最初に掲げたコンセプトを、よりタイトに出来るのです。 2002.8.29 no.012 音楽の良し悪し ずいぶん前の話ですが、ラ・パスのライブハウスの控え室で、何人かの音楽家たちと、音楽議論になった事がありました。議論とはいっても、難しい話はぬきに、フォルクローレからロック、また伝統音楽から前衛音楽の事まで、お酒をのみ交わしながら、それぞれの感じ方、意見、言い分をざっくばらんに語らっていました。「いろいろな音楽があるけれど、本来ジャンルなんてどうでもよいもので、要は、良い音楽と、悪い音楽に分けられるだけだ。」と、誰かが言った時、カブールが、それに猛然と反対しました。「それを作った人がいる以上、その人にとっては良い音楽であるはずだ。他のすべての人たちが否定しても、最低ひとりは、その曲についての理解者がいるはずだ。だからこの世の中には、悪い音楽などありえない。」 曲の良し悪しというのは、好き嫌いとは、また別の尺度であると、私は考えます。好きである理由、嫌いである理由というのは、とても説明がしにくいものですが、ある作品に対して、良いとか、悪いとかの判断をくだした場合には、その理由が明確でなければ、ただの好き嫌いと同じになってしまいます。 前述の『音楽議論』が、好き嫌いを基準としていたのか、それとも良し悪しを議論していたのか、思い出す事ができませんが、カブールのその時の一言は、今でも私の頭に強烈に残っています。 2002.8.11 no.011 作曲するという事 (2) フォルクローレ演奏家の場合、自分で作った曲を自分で演奏するという、いわゆる『自作自演』という事が、とても多く行われます。楽曲に、詩に、演奏家のメッセージが込められており、それぞれのスタイルで演奏しやすいように、表現しやすいように作られているわけです。今でこそ、作曲と演奏の分業がはっきりとしているクラシックでも、永年演奏家が、自分のコンサートのために作曲をしてきたのです。 先述しましたが、作曲という行為の原点は『自分に対しての、気持ちの良さを追い求める』という事だと思います。メロディーを作る……これは、誰にでも簡単に出来る事ですし、その時の自分の気持ちが、一番直接的に表現される方法でもあります。しかし、それがそのままの状態ですと、決して永久的、普遍的ではない事も多いようです。感情は常に変化して、心はうつろいやすく、その場のシチュエーションによって、どのようにでも変わってゆくからでしょう。また、浮かんで来たメロディーは、時間とともに経過して、後戻りした時には、別のものに変化してしまっている事もあります。 それでも、これが曲を作る上での、最も重要なインスピレーションのひとつである事は、まぎれもない事実です。作曲をするための素材が、メロディーなのです。どんなメロディーでもかまいません。まず、メロディーを作る事が、作曲の出発点なのです。 2002.7.19 no.010 作曲するという事(1) 私は作曲する事が大好きです。『演奏』という方法を覚えるより前に、私の中では『作曲』が先にあったような気すらします。ケーナを吹き始めた12歳の頃、自分に浮かんだメロディーを、作曲したというのも気恥ずかしく、それでも何曲かは人に聞かせたりもしていました。 この頃の私にとって『作曲』とは、ただ『新しいメロディーを作り出す』という事でした。音楽形式も何もわからず、当然理論的な事なども全くの無知……メロディーを生み出すより、他に方法がなかったのです。『自分にとって快い音の羅列を探す……』この行為は、メロディーを見つける上では、今でも基本的に変わっていません。しかし、ただメロディーを横並びにするだけでは、ひとつの作品としての曲・・・普遍性を持ったメッセージとしては、説得力に欠ける場合も、多々出て来ます。 作曲とは何か……? この問いに対しては、音楽のジャンルが異なれば、大きく変わって来ます。また作曲家、編曲家と演奏家、それぞれの立場によっても違うでしょう。ここでは、私にとっての『作曲』を、少しずつまとめてみたいと思います。
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