音楽コラム 7.

no.039

「音楽」を考える(序)

この音楽コラムを最後にアップしてから、2年近くの時が経とうとしています。「光陰矢の如し」という事を、最近頓に感じるのは、歳のせいでしょうか。

この間、ルス・デル・アンデと2度のボリビア・ツアーがあり、カブールとの日本ツアーを企画して、アルバムも「エルネスト・カブール」「私は私の色のまま」の2枚を発表しました。その他にも、たくさんのコンサートやライブで、大勢の方々と音を共有し、また生徒さん達との日々の交わりの中でも、多くのことを学ばせていただいた2年間です。また、私的にも、さまざまな生活環境が変わりました。住処が少し都心から離れたことによって、落ち着いた時間と空間を持てるようになった事を実感しています。

今までの音楽生活に、この2年間を加えた月日の中で、私なりに咀嚼したこれまでの経験を、このコラムの中でふたたび展開してゆこうと思います。「音楽」「音」によって結ばれた縁が、未来に向けて大きな力となりうることを信じて、少しずつ書き進めてゆきますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。皆さまのご教示・ご鞭撻を、謹んでお待ちいたしております。

2008.01.17

no.040

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(1)

「音楽」とは何でしょうか?「書いて字のごとく、音を楽しむことだ」という説を、よく耳にします。「楽しくなければ、音楽ではない」と豪語する人もいます。私は、それらの意見に対して、真っ向から反対するわけではありません。しかし「音を楽しむ」だけの「音楽」では、その存在意義の対象が、極めて狭い範囲に限られてしまうのではないか?と思うのです。

「楽しい」という感情は、とても個人的なもので、「聞いて楽しい」「奏でて楽しい」反面、その隣には、「楽しくない人」「楽しめない人」がいるかもしれないのです。「そういう人は、聞かなければよいではないか」という声が聞こえて来そうです。しかし今の世の中、そうも行きません。お店に入っても、レストランに入っても、駅のプラットホームでですら、勝手に耳に入ってくる「音楽」から逃れる事は出来ないのです。

ある野外のイベントで、本番直前に、楽屋からステージまで、車で送っていただいたことがあります(それほど離れていたのです)。座り心地の良い某高級欧州車には、上品な香りが漂い、甘い雰囲気のサックスが流れていました。おもてなし下さる気持ちからなのでしょう。しかし、今まさに舞台に臨まんと緊張感を高めている時には、それらすべてが「悪魔の囁き」にすら聞こえるのです。(「悪いな」と思いながらも、BGMは切っていただきました。)

コンサート後の余興にも、ある程度の配慮が必要だと思います。歓迎の気持ちを込めて、賑やかな演奏をご披露下さる事もあります。それはそれで楽しいイベントなのですが、それが延々続くとなると、かなり辛くなってきます。演奏者も、その日の演奏の余韻の中に、しばらく浸っていたいのです。そして、演奏を聴いて下さった方々と、しばし語らいたいのです。

演奏することは、とても楽しい事です。そして自分の演奏で楽しい気持ちになって下されば、それはとても嬉しい事です。しかし音楽には、「音を楽しむ」という意の他に、もっと大きな力が内在しているはずだと、私は固く信じています。

2008.01.22

no.041

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(2)

「音楽とは何か?」これは私が常に考えてきた問題です。音楽に携わる者として、また音楽を愛好する者として、自らの姿勢を決定する、最も根源的で重大な要素だと考えるからです。とは言うものの、これまでは抽象的に漠然と気に留めていた程度で、折に触れて自らが納得したり、また別の機会には、生徒さんを指導するときの、例え話に使ったりするところで、立ち止まっていたのが実情です。

ところが、一昨年、昨年のボリビア滞在で目の当たりにした、現地における現在の音楽事情を考えると、一刻も早く、何らかの具体的な答えを出さなければ・・・との想いに駆られようになりました。「このままでは、音楽が音楽ではなくなってしまう」という、危機感からです。いわゆる「先進国」のみならず、音楽的に豊かなはずの場所でさえ、生活環境が劇的に・・・暴力的に変わることによって、文化そのものが変質・・・形骸化してしまう、そしてそれに慣れてしまうのです。「音楽が音楽ではなくなる」ということは、環境破壊のひとつの姿として、音楽が滅びることに他なりません。

私は「音楽」という言葉を「音によりて楽(らく)を受く」と訳してみました。私の、これまでの音楽体験を振り返り、じっくりと考えてみたとき、現時点では、これが一番落ち着きます。ここで言う「楽」とは、「苦」に対しての「楽」ということ。苦しみから解放された、安らかで、穏やかな状態ですね。

この「音によりて楽を受く」からはっきりとしてきた事を、これから書き進めて行こうと思います。

もちろん「音楽とは何か?」という自問自答は続きます。「音楽が音楽であり続ける」ための模索です。どうぞ、みなさんのご意見もお聞かせ下さい。

2008.02.04

no.042

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(3)

「音によって楽を受く」という言葉は、そのままで音楽そのものの普遍的存在意義にもなります。つまり「音楽とは、楽を受けるための音である」ということです。

私たちは絶え間なく、自然の恩恵を受けて生きています。逆に言えば、人間が生きて行くためには、自然の力が絶対に必要だということです。そもそも人間の生命そのものが、自然の働きそのものなのですから。

それでは音楽はどうでしょう?「音楽がなければ生きて行けない」「音楽なんてなくても生きて行ける」という、ふたつの意見が存在します。

「生命を維持する」という点において、酸素や水、栄養素となどと同等に、音楽が必要か?と問われれば、その答えは否でしょう。しかし、人が人として存在するのは、生物として「生命を維持する」ためだけなのでしょうか?澄んだ空気を「気持ち良い」と感じ、新鮮な食べ物を「美味しい」と感じるのは、なぜでしょうか?植物が、結実の前に美しい花を咲かせ、鳥たちが、美しい声でさえずるのはなぜでしょうか?

自然の力は、私たちに、・・・もっと言えば、自然自らに、「機能的な生命の維持」以上の何ものかを与えてくれています。自然の力によって、私たちは生まれ、そして生かされているのです。私たちが生かされている日常の中で私たちは、音楽(・・・もしくは音)に、「機能的な生命の維持」を越えた恩恵を受けています。そう、「音楽」は、まさに自然の力そのものなのです。

自然の存在は、すべての自然に対して平等です。ですから、自然の力そのものである音楽も、すべての自然に対して(・・・もちろんすべての人達に対しても)平等、すなわち普遍的でなくてはならないのです。誰の所有物でも、特定の誰のためでもない音楽が、自然の力たる、本来の音楽の姿だと私は思います。

「音によって楽を受く」を、一般的な音楽現場のケースでいえば、演奏者は演奏することによって楽を受け、聴衆は聴くことによって楽を受けている、ということになります。

ここで大切なのは、演奏者も聴衆も音によって「楽を受ける」のであって、(現段階では)どちらかがどちらかに「楽を与える」のではない、という点です。楽を与えることのできるのは「音」だけなのです。たとえば、演奏者が聴衆に「楽を与えよう」と意識した途端に、音楽は普遍性を失ってしまいます。「楽」を与えることのできる「音」は、どこにもひっかかりのない、どこまでも自由な自然界の「音」でなくてはならないのです。

2008.02.24

no.043

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(4)

前回の更新から一ヶ月半が過ぎました。音楽が「音によって楽を受く」という意味であり、それが「音楽は自然そのものである」から可能になるというところを、よく吟味いただけたでしょうか?

昨年より、東京から秦野に住まいを移して、「自然」を感じる事がとても多くなりました。毎朝、我が家の階段の上がりにある、北西を向いた小窓を開け、その日の丹沢を眺めるのが楽しみです。晴れた日も、雨の日も、それぞれに美しい山の姿です。暑い夏から寒い冬へと季節は動き、目に映る景色も、耳に聞こえる音も、劇的に変化します。丹沢の山々は装いを変え、辺りに鳥たちの歌が響きます。

我が家の周辺を少し歩けば、どこの畑の縁にも、どこの家の庭先にも、季節の移ろいを感じる花々が、植えられています。例えば「春」であれば、早春から爛漫に至るまでが、実にうまく表現されています。そしてそれは、次の季節「初夏」へと繋がってゆくのです。

それまで住んでいた、目白台、雑司が谷周辺も、決して「緑」が少ないところではありません。護国寺、法明寺、大鳥神社などなど、神社仏閣は数多く、その周辺には大きな森が残されています。春になれば、神田川沿いに、椿山荘を経て江戸川公園まで続く桜並木は、それこそ豪華絢爛を絵に描いたような美しさです。季節の変化も、十分に感じる事が出来ました。

それでも、都会の外の環境に、常に飢餓状態でした。演奏旅行先で豊かな自然に囲まれると、帰宅する足取りは重く、まさに後ろ髪を引かれるような思いだったのです。

秦野と雑司が谷の、何が違ったのでしょうか?自然の絶対量でしょうか?

確かに「空気」と「騒音」の問題は見逃せません。幹線道路に囲まれた都内の空気より、丹沢から下りてくる森の空気は、瑞々しくて気持ちがよい。護国寺の朝課に出ていた頃、勤行を終えて本堂を出ると、夜が明けたばかりの清々しい空気の中での、「静寂」を感じたものですが、物理的にもっと静かな秦野から行くと、どんなに遅い時間でも早い時間でも、絶え間なく行き交う首都高の車の音が、耳の底から離れません。しかし今でも、本堂に入る前と出てからの、耳の感覚は同じではありません。本堂を出てからの方が、明らかに静かなのです・・・。

雑司が谷に住んでいた時と、秦野に住んでいる時の違いを考えると、「無意識」の自分が大きく変わっているように感じます。自然と自分との関わり方が、自然に近づく事で変わってきたのでしょうか?

現在は月の半分くらいを東京に通っていますが、今、雑司が谷周辺を散策する時、そこにある「自然」に対する意識が、以前とは違っている事に気づきます。より親しく(仲良く)なれているような・・・そんな感じです。

「音楽は自然そのものである」・・・気がついてみれば、「音楽」に対する感じ方も変化してきました。単なる嗜好の問題ではなく、根本的なものが聞こえ・・・見えはじめたような感覚です。

2008.04.09

no.044

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(5)

「音楽」考えるために、「音」について、もう少し考えてみましょう。


「音」は空気の振動によって、私たちの耳に伝わります。振動の波の大きさや長さ、形によって、どんな種類の音なのかが決まってきます。

自然界には、人間の耳に知覚されないものも含めて、さまざまな空気の波が「音」として存在しています。「音」があるということは、空気があるということ、逆に言えば、空気があるということは、音が存在するということになります。

空気の動きといえば「風」があります。こちらは「振動」ではなく「流れ」ですね。「風」にまつわる面白い話が、道元の著わした正法眼蔵の現成公案に出てきます。中村宗一氏の訳を借りて、少しだけご紹介しましょう。

−ある暑い日、中国麻谷山(マヨクザン)の法徹禅師が扇を使っていると、僧が来て「風の本質は変わらず、どこにも行きわたらないところはないのに、どうしてあなたは扇をつかっておられるのですか?」と尋ねます。禅師が「おまえは風の本質が変わらないことは知っているが、それがゆきわたらないところはないという言葉のほんとうの意味を知らないようだ。」弟子は「いかならんかこれ無処不周底(ムショフシュウチ)の道理。(それならばそれはどういうことですか?)」と聞きます。師は黙って扇を使うばかり、弟子は深く礼拝した・・・。

ここでいう風とは、まずは空気の存在です。それを扇ぐことによって、私たちに感じる風が生まれる。風(空気)は、もうすでにそこにあり、それを動かしてやること(因)によって、風は流れとなって、別のところまで到達する(果)という事を教えているわけです。本来は、真理を悟るということと、それを実践するということの例えとして用いられる話ですが、今回私たちは、「風」を「音」に置き換えてみましょう。

「空気」の存在は、既に「音」の存在を意味します。何かの「因」で・・・たとえば魚が跳ねたことによって、空気に波動が生まれ、「果」としての「音」が私たちの耳に伝わるわけです。

風の始まりが「凪」であるように、音の始まりは「黙」なのです。私たちの実生活の中で、完全なる「黙」は、まずあり得ません。しかし都会から山里に移り住んで、自分の耳の音の基準が、「黙」に近づいたという事は言えるでしょう。

私たち音楽に携わる者は、まずこの「黙」を重要視しないわけにはゆきません。

2008.05.26

no.045

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(6)

多くの作曲家たちは、真正面から「黙」と向き合ってきました。ジョン・ケージの「サイレント」、武満徹の「沈黙とはかりあえるほどに」、高橋悠治の「音の静寂、静寂の音」などは、それぞれ大変印象的な文章で、作曲家たちの音に対する姿勢を象徴するものでもあります。また「サウンドスケープ(音の風景)」の創始者マリー・シェーファーも、その宣言書的著述「世界の調律」の最終章を「沈黙」として、すべての「音」を締めくくっています。

「黙」というのは、どんな状態なのでしょうか?たとえば、この文字から「黙祷」を連想します。「黙祷」を捧げる1分間は、私にはとても長く感じます。身の回りの空間が、急に開けて感じます。遮るものが消滅して、遥か彼方まで見通せるようになった感覚です。「この世はこんなに広いんだ」という実感を、沈黙は与えてくれます。

私たちの実生活の中で、「完全なる無音」はあり得ません。たとえ鼓膜には聞こえなくとも・・・聴覚として認識しなくとも、体のどこかで、空気の振動を感知しているでしょうし、振動すべき空気がなくとも、私たちの細胞は、常に流動、成長、退化しており、それらの動きによって生じる「音」は、私たちの感覚のどこかで察知されているはずなのです。

このように考えれば、すべての物質は、それぞれ特有の「音」を発している。私たちが聴覚として認知できる「音」が限られているに過ぎません。「黙」とは、決して「無音」ではないのです。

絵を画く際に、画家はまず「素地」を選びます。描くもの、目的、画材等々、さまざまな事を考慮して、画面となる「地」を探すのです。それがキャンバスであれ紙であれ、その外の素材であれ、無数にある種類の中から自分の求めるものを、慎重に、または無造作に選びます。選んだ「地」を「素地」として、その上に自分の「地」を作る人もいます。製作の過程で、その「地」は、絵の具の下に埋もれてしまうかもしれません。削られてしまうかも知れません。しかし、絵描きの多くは、「地」にこだわるのです。

音楽における「黙」は、この「地」に類似するものだと思います。ちなみに、M.シェーファーは、「地と図」という構図を軸に、「サウンドスケープ」を展開しています。この場合の「地」は、環境における音の「素地」・・・その場に常に存在する音・・・たとえば海の上にいるのであれば、波の音・風の音などは「地」であり、船の汽笛や人の声は「図」であるということ・・・であり、「黙」であるとは限りません。すでに音のマチエールがあるわけですから、こちらの方が、絵画的「地」に近いともいえるでしょう。

しかし前項で述べたように、この世のなかに物理的「無音」という事はありえないわけですから、現存するすべての「黙」には、何らかのマチエールが伴っていると認識すべきでしょう。

2008.06.28

no.046

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(7)

高校時代、やたら精神修養を標榜する体育の教官がいて、その授業の始まり数分間、正座をして教官を待つことをさせられました。定期試験のあとの恒例行事「私語禁止の草取り」も、今となっては笑い話にしかならない思い出です。

その教官の「精神修養」が、本物であったか否か、知る由もありませんが、大学受験のための高校生活という、目先の事だけに尻を叩かれる、謂わば歪んだ毎日の中で、正座と草取りに精神修養をうたわれても、多感な若者たちには、虚偽的なポーズにしか映らなかったでしょう。

そんな愚痴はともかくとして、体育教官は正座の必要性について「動である体育の前に、静である正座をする事で、心身のバランスを養う」と説明しておりました。当時高校生の私には「静と動の対比」としか理解できませんでした。

しかし教官の真意が「静から出(い)でる動」であれば、そのまま看過することはできません。体育の授業や定期試験と組み合わせる意義があったかどうかはともかくとして、当時は教官の嫌がらせとしか感じられなかった「正座」や「草取り」が、より深い意義を持って来るのです。

言いかえれば、すべての動作は静寂から発生する。動は静の一部であり、よって動と静は同根である、という事になります。ここで大切なのは、「動は静からから生ずる」というところです。

一般的にもよく知られている大乗教典「般若心経」の中に「色即是空・空即是色」というのがあります。これは仏教的立場から、この世の存在を、明確に、直接的に表現したものです。ここでも色と空が同義である(空即是色)ことを述べています。そして「色即是空」は、色が空に大きく包まれている、と理解できます。

「空」を「黙」に、「色」を「(物理的に聞こえる)音」に置き換えてみましょう。「音即是黙・黙即是音」となります。・・・音は黙と同義であり、音は黙の一部だということを、教典からも読み解く事ができるのです。

「静」と「動」を、私たちの実生活の中に投影してみましょう。私たちの生活は、日頃の何でもない行為・行動の積み重ねから成り立っています。食べることも、眠ることも、それぞれの仕事をすることも、すべては「生きるため」の行動です。

庭に植えたなすの葉に付いた虫をみても、熟した果実をついばみに来る鳥たちをみても、「生きるため」の行動という点からいえば、私たち人間も、彼らと何ら変わるところはありません。これを「日常」といいます。

この日常は、私たちそれぞれの「種(しゅ)」に与えられた「本能」によって、組み立てられています。「本能」とは、「本来能力」として、「種」が生命を維持し、その存続を支えるための「自然な」力です。この「日常」が正常に機能してこそ、すべての存在が自然の力に帰納する事が出来るのです。

私はこれを「美しき日常」と名付けました。「美しき日常」とは、「本来能力」に準じた日々の暮らしです。

私たちは実生活の中で、さまざまな「特別な日」や「イベント」を楽しみます。それらは「日常」と違う行動によって、大いに楽しんだり、気分転換をしたり、「日常」を続けるエネルギーを養ったりしています。

しかし「日常」あっての「イベント」です。「イベント」中心となった生活からは「美しき日常」は生まれてこないのです。「美しき日常」は「静寂」です。「静寂」は天地いっぱいに充ち満ちています。その「静寂」から生まれる「音」たちは、天地を振るわせる「真の音」といえるでしょう。「美しき日常」なしには、「美しき音楽」はあり得ないのです。

2008.08.04

no.047

「音楽」を考える・・・「音楽とは何か?」(8)

これまで「音楽」を考える過程で、「静寂・黙」の「存在」について私見を述べてきました。今回は「感動」について考えてみたいと思います。

北京五輪の最終日、つけたテレビで閉会式をやっていました。閉会セレモニーと、大仕掛けの演出、著名人の登場と、次々と演奏される音楽・・・各シーンごとに、会場を埋めた観客は歓声をあげ、テレビのキャスターは興奮気味に実況する・・・「感動的ですね!」・・・。

はたしてこれは「感動」なのでしょうか?

ずいぶん前のことになりますが、ある和太鼓演奏のコンサートに出かけました。名実ともにトップクラスの、世界中で活躍をしている集団です。太鼓の演奏も舞台演出も見事で、素晴らしいパフォーマンスを堪能しました。しかし、終演近くになって、周りの人たちと私の「温度差」が、妙に気になって来ました。彼らの顔は紅潮し、最後は立ち上がって飛び跳ねる・・・。

はたしてこれは「感動」なのでしょうか?

岩波の国語辞典を引くと、「感動」=「ものに深く感じて、心を動かすこと」とあります。また「心」の項を引くと、「心」=「体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると観られているもの」と書いてあります。

人の心は敏感です。その中でも特に、感情は常に揺れ動き、一定のところに止まりません。

人は、ちょっとした親切でうれしくなり、わずかな仲違いで不愉快になります。辛い出来事に遭遇した時には、温かい言葉に「感動」し、悲しみいっぱいの時には、優しい行為に「感動」します。

人々の感情は、それほど動きやすいものです。それぞれの心の状態に、さまざまな刺激を受けることによって、「感情」の起伏は左右されるものなのです。そこには、何らかの「原因」があり、そこに「外因」が与えられることによって、「感情」が動く(例えば「喜怒哀楽」のように)のです。

ゆえに「感情」は利用されやすい。方法によっては、故意に相手の「感情」を逆撫でしたり、ある特定の対象に敵意を植え付けたりすることもできてしまいます。例えば「戦争」「紛争」などの争いは、人々の「感情」を指導者たちが悪用した、最も卑劣な例だと言えるでしょう。

また、人はある興奮状態に導かれると、自己統制力を失います。その興奮状態は、「感情」の高まりを誘発して、「感動」した時とよく似た身体的変化をもたらします。「気持ちが高ぶる・高揚する」といった状態です。

人の本能の中には、興奮状態を導くための要素が、数多く備えられています。ある「外因」によって、その要素が刺激され、気持ちが高ぶってくる。その興奮状態は、多くの場合「感動的要素」を含んではいると思いますが、反面「冷静さ」を失った、ある種「異常」な状態であることも忘れてはなりません。

ゆえに、この「興奮」も利用されやすい。例えば、バーゲンセールでの買いすぎや、プレミア商品の異常な値上がりなどの日常的なものから、信仰集団による「集団自殺」や、戦争時の「集団虐殺」などの特殊な例も、「興奮」を利用された悲しい出来事です。

「感情」の高ぶりは、時として大きな悲劇を引き起こします。しかしそれがプラス方向に働いた場合、「高揚・興奮」がそのまま「感動」という言葉にすり替えられてしまうのです。

今の世の中、「感動」を売り物にした「商品」が、あまりにも氾濫しています。また人々の「感動」をターゲットにした商法も、実に盛んです。一見美しく見える「感動」という言葉を「無難」に使用した言動が、とても多く感じられます。裏を返せば、今の時代の中で、人々が「感動」に飢えていることを、如実に現しているとも言えるでしょう。

しかしそれが、本当の「感動」であるか否か、よくよく吟味しなければなりません。「感動」は、ある種の快感です。「感動」によって恍惚にすらなれるのです。ですから「感動」することに、悪い気はしない。「感動」は、疲れた日常から救ってくれる、特効薬であるかも知れません。

しかし、それが「本物の感動」でなければ、その先に、さらなる「空虚」が待ちかまえている可能性もあるのです。

「感動」という言葉を「感じて動く」と捉えてみたらどうでしょう。「感じて動く」ものが「心」であれば、「心」によって動くものもたくさんあります。「感動」によって「価値観」や「人生観」が動くことも、多くの方々が体験しておられるでしょう。もちろん「心」の働きのひとつである「感情」も動きます。

私は「感情」の動きを大切に思っています。一喜一憂は、愛すべき人間の性(さが)だと思います。しかし、感情の動きのみに「感動」の快楽を委ねないことも大切だと思います。

「本物の感動」は、特別なものではありません。演出も、誇張もいりません。また理由も、原因もありません。人としての「本能」が「感じて動く」のです。「心の中の、本能的部分が動く」と言った方がよいかも知れません。そして「本物の感動」は、個人の生活を動かし、人生を動かし、さらには、世の中を動かす力をも持っているのです。

「本物の感動」は、誰かから与えられるものではありません。自分で感じて動くものです。そして「本物の感動」は、「美しき日常」の、いたるところに存在しています。日々の生活の中での「心の動き」こそが、「本物の感動」に繋がるのです。

「本物の感動」のためにも、「美しき日常」の積み重ねの必要性を、今とても強く感じます。

2008.09.23