音楽コラム 6.


no.038

「音楽を教えるという事」(21)

---舞台に立つために(4)

我が教室の「第一回 発表会」が終わりました。生徒さんたちにとっては、1回キリしかない舞台ですから、もちろんプレッシャーがかかります。約5ヶ月の準備を経て、緊張した朝を迎え、そして舞台の上では、みんな素晴らしい演奏をしてくれました。演奏上の出来不出来より、もっと素晴らしいものを、舞台の上で表現してくれました。


演奏間近のレッスンで、「急に上手く弾けなくなった」と訴える生徒さんが増えてきました。理由のひとつは緊張のため。そしてもうひとつは、過去の幻想に惑わされているためです。


何事も調子が良い時というのは、その行為に没頭できています。面白いように上手くゆく・・・。例えばギターであれば、左右の指とも軽快で、出てくる音も素晴らしく、ミスもしない。いくら弾き続けていても疲れない。・・・たしかにそういう時はありますね。しかし本当に良い音が出ていたのか、上手くいっていたのか、実際のところはわかりません。


夜中に書いた文章を、明くる朝読んでみて、急いで丸めてゴミ箱に捨てた経験は、誰にでもあるでしょう。「文字」という証拠が残ってなければ、「昨日の夜は、すごいインスピレーションに満ち溢れていた」などと思っているかもしれないのに、です。


音は、生まれてすぐに消える運命にあります。録音という記録手段はありますが、それは生の音とは違います。特に自分で出す音の生命力は、その瞬間に感じなければ、もう二度と取り戻せないものなのです。「あのときは上手く弾けた」という幻影は捨てて、「今から出す音が一番」だという気持ちで、毎回音楽と向き合えることが、一生楽しく音楽とつきあう秘訣なのです。


音楽においては、決して「完成」を求める必要はありません。今の自分にとっての「最善」を尽くすことが、大切なのです。

2006.3.10

 

no.037

「音楽を教えるという事」(20)

---舞台に立つために(3)

 

舞台で「上がらない」ための、もうひとつの方法とは、「決して虚勢を張らない事」です。今の自分を、等身大で見て、聴いてもらえば、それで良いのです。今できる事を精一杯やって、それで十分なのです。・・・それは恥ずかしいですか?そう、「舞台に立つ」という事は、自分にとって、とても恥ずかしい一面を伴う事でもあるのです。自分自身をさらけ出して、音楽を奏でる・・・これが「舞台に立つ」という事なのです。恥ずかしい部分を、少しでも軽くするために、日頃から学び、練習をして、自らを高めてゆくのです。そして、「舞台」という、特別な環境に身を置く事に「覚悟」を決めて演奏する。そういう「舞台」は、いくらでも自分に力を与えてくれます。そんな覚悟は、そうたびたび出来るものではありませんね。

 

「舞台慣れ」という言葉があります。舞台に立つために生ずる、負のプレッシャーが次第に軽くなるという意味での「舞台慣れ」であればまだしも、緊張感が薄れるような「舞台慣れ」は、絶対にすべきではありません。ダレた舞台ほど、見苦しいものはありません。「親しみ」だとか「素朴」などという言葉に置き換えて、ごまかしてはいけないのです。

 

私たち職業音楽家は、「舞台に立つ」ことが仕事のひとつです。たくさんの覚悟をして、そのための準備をして、そして自分の恥部を大勢の前で晒してまで、音楽をやりたいのです。だからこそ、前項に書いたように「世界一を目指さなくてはならない」(No.17)のです。

2006.2.18

no.036

「音楽を教えるという事」(19)

---舞台に立つために(2)

 

「緊張する」事と「上がる」事は、似ていて非なるものです。確かに上がっている時には、緊張しています。私たちはどういう場面で「上がる」のでしょう?そう、自分を自分以上の存在として見せたいと感じたときに、ヒトは必ず「上がり」ます。「今日は誰それが来ているから」とか、「このホールはとても立派だから」とか、いろいろな原因が考えられますが、自分自身によけいなプレッシャーをかけたとき、まず間違いなく上がってしまうのです。手のひらに「人」という字を書いて、それを飲むという「おまじまい」は、こういう時のためにあるのですね。 それでは、この「上がる」という現象について、どう対処したら良いのでしょうか?

 

まずは、「日頃から正しい練習をして、本番には万全の体制で臨む」という事です。より良い演奏が出来るように、努力を怠らないという事ですね。ごく当たり前のようですが、これがなかなか難しいのです。たとえば、自分が演奏しなくてはいけない事に関しては、解らないところを、ほんのこれっぽっちも、残しておかない事です。グループで演奏する場合には、他の人が演奏をしている部分(たとえ自分が音を出していないところであっても)も、きちんと理解しておく。

 

アマチュアの演奏においては、本番におけるミスは「アクシデント」として、ほとんど問題になりません。音楽を楽しんでいる上での「アクシデント」は、誰にも咎められませんし、良い思い出にすらなり得ます。しかし、準備不足のために生ずる「間違い」は、捨て置くべきではありません。「ミスをしないための練習」は、きちんとしておくべきなのです。

 

ハイキングを楽しむときに、周りの景色を楽しみながら歩くのが良いか、転ばないように足下を見ながら前に進むのが良いか、どちらでしょうか?しかし、山歩きをするのに、ハイヒールで来てしまったら、足下を見て歩かざるを得ませんし、場合によっては、入山を拒否される事もあるでしょう。  音楽も全く同じです。しっかり準備をして、思う存分楽しむ・・・これも良い舞台の条件のひとつです。

2006.2.7


no.035

 

「音楽を教えるという事」(18)

---舞台に立つために(1)

音楽を学ぶ人たちの多くには、「いつか舞台に立ちたい」という目標が、ごく自然に湧いてくるものです。もちろん、音楽は自分で楽しむ事だけが目的で、人前で演奏するなどというのは「まっぴらゴメンだ」という方もいらっしゃるでしょうし、理想の音楽のレベルが高いために、なかなか「初舞台」を思い切れない方もいらっしゃるでしょう。しかし、「舞台に立つ」というのは、その前と後では明らかに何かが違ってくる、不思議な力を持った行動なのです。それでは、何でも・・・どんな場面でも、舞台に出てしまった方が良いのでしょうか?いいえ、そうではありません。「舞台に立つ」事によって自分が受ける影響は、プラスにも、マイナスにも、とても強く働いてしまうのです。それでは、どんな舞台がプラスの力を与え、どんな舞台がマイナスに働くのでしょうか?


まず、「舞台に立つ」という事は、自分が日常生活と切り離された、特殊な状況におかれるんだ、ということを自覚しなければなりません。(たいていの場合は)多くの人たちの視線を浴び、期待、もしくは好奇心の集中砲火を受けながら、その中で楽器を奏でたり、歌ったりしなければならないのです。それは、それは、大きなプレッシャーがかかる事なのです。緊張するのは当たり前です。時々「プロのミュージシャンは緊張しないだろう」とおっしゃる方がいますが、それは大きな誤解です。舞台の上で・・・よりも、舞台に上がる前、もしくは緞帳が上がる前は、心臓が口から飛び出そうなくらい、「ドキドキ」するものなのです。実は、良い舞台の第一条件は、この「ドキドキする」という事なのです。ドキドキしない舞台など、舞台である必要がないのです。


自分が「今から舞台に上がる」という現実を、しっかりと「覚悟」させてくれる舞台は、それが大きい舞台であろうと、小さい会場であろうと、力をプラスに転じるための条件を持っている、と判断しても構わないでしょう。

2006.1.28


no.034

 

「音楽を教える」という事(17)

---音楽のプロになるために(3)

音楽のプロになろうとする人たちは、「とりあえず喰えればいい」というような、レベルの低い目標を持ってはいけません。喰えるか喰えないかは、音楽家という職業を選ぶ時点で、興味の外に置いてくるべきなのです。プロの演奏家を目指すために掲げる目標は、「世界一の音楽家になる」でなければなりません。超一流になることに狙いを定めずして、音と真剣に向き合えるわけがないのです。


ここで目標にする「世界一の音楽家」とは、「世界一有名な」でも、「世界一お金持ちな」でもありません。スポーツの世界は大変にシビアで、競争結果に順位がつけられ、それがそのプレイヤーの評価となります。しかし音楽は競争ではありません。コンクールでは必然的に順位がつけられ、将来的にその演奏家の評価においてある程度の判断基準とはなりますが、それはあくまでも経歴であって、現時点での絶対的評価ではありません。努力のための目標として、またひとつの指標としてコンクールを受けるのも、大変に有益ですが、コンクールに受かることだけにあまり執着してしまうと、やがて自分で自分の判断を下せなくなってしまうのです。絶対的な評価基準のない音楽の世界では、自分の実力を自分で判断できなくてはいけません。


音楽を始めるきっかけとして、誰しも「憧れのアーティスト」を持っているものです。「誰々のようになりたい」とか、「誰々のように弾きたい」という目標は、大きな励みともなります。しかし、これもコンクールと同じで、その憧れに対して一途になり過ぎると、自分の本質を見失いかねません。プロになろうと決心した時点で、自分の憧れや嗜好と、普遍的なものをきちんと分類することです。音楽をするという事は、極めて自己中心的な行為です。さらにそこに、狭義的な自己判断・・・たとえば好き嫌い・・・をむやみに持ち込んでしまえば、プロとしての普遍的な音の追求という行為にとって、大きな妨げになってしまうこともあるのです。


「世界一の音楽家」とは、音楽家それぞれが判断すればよいことです。修行によって、世界一の音も変わってゆくでしょう。お気に入りのCDが、急に色あせて聞こえたり、大したことのないと思っていた演奏が、実は世界基準で優れていた事を悟る場合もあるのです。音楽家という仕事は、自分の奏でる音楽に対しては、意識の上で世界レベルであることに責任を持つといった、厳しい自覚の上に成り立っているのです。

2005.10.5


no.033

「音楽を教える」という事(16)

---音楽のプロになるために(2)

実際に「プロの音楽家」になろうとした時に、それでは何をしたら良いのでしょうか?どうしたら、プロたちの集う電車に乗り合わせることが出来るのでしょう?とりあえず、それはとても簡単なことです。自分の音楽環境を、プロフェッショナル音楽家の環境にすることです。良い楽器を手に入れたり、音響機材を揃えたり、周りに「プロ宣言」をしたりするよりも、まず自分が「プロになる」ということを、しっかり自覚することです。そして、音楽家にとっての「プロとは何か?」を深く、ゆっくりと考えながら生活する事です。そう簡単に結論は出ないでしょうし、考えすぎて何も出来なくなってしまっては困ります。しかし、前章で述べたとおり、音楽家という仕事は一般的な「職業」とは、性格が違うのです。また、音楽家それぞれの立場によって、それぞれの答えは違うでしょう。 いろいろな話に耳を傾けながら、いろいろな事を経験しながら、そして常に自分に問いかけながら、真摯に音楽と向き合って、毎日を過ごすことが大切なのです。


以前私は、音楽を学ぶ者が、自分自身でその環境を整備する必要性を述べました。ましては、プロとなろうとする者にとって、そこに妥協は許されません。きちんとした「プロフェッショナル音楽家」の元で、勉強、修行をすることです。人間関係や、これまでの師弟関係、俗世間のお付き合いよりも、あくまで本質を追究することです。自分が学ばなければならない事に対して、あくまでもどん欲になることです。常に問題意識を高く保っていれば、今何をしなければならないか、見えてくるはずです。


ちまたには、自称他称、有名無名を問わず、大勢のプロ音楽家が活動しています。音楽で生活できる人もいれば、そうでない人もたくさんいます。それと同じように、高い志を持ったプロと、残念ながら・・・そうではないプロが存在するのです。音楽家をその二つに分けて、単純に「良い悪い」で評価は出来ませんが、少なくとも後進が修行できる環境としては、志の高さと、音楽に対しての厳しさが最低限の必要事項です。修行者は、それを自分で判断し、自分にあった的確な環境を作れなければ、とてもプロにはなれません。プロを目指す者にとって、音楽環境を整備することは、自分の責任でしなければならない、最初の重要な条件なのです。

2005.9.26


no.032

 

「音楽を教える」という事(15)

---音楽のプロになるために(1)

フォルクローレを志す若い方々から、「プロになるためにはどうしたらよいか?」という質問を受けることがあります。プロのフォルクローレ演奏家として、「立派に」活動できている、と判断していただいた上で、私にお尋ねいただけるのでしょう。しかし、職業のひとつとして、「演奏家」という道を考えるのなら、私は決して賛成しません。経済的には恐ろしく不安定で、つねにさまざまな不安を抱え、悩み、そして「創作」に身を削り、「練習」という精神的肉体労働を毎日何時間も繰り返す「仕事」を、よほど特殊な事情がない限り、手放しで勧められるものではありません。安定した職業を持ち、「趣味」として音楽を続けていった方が、まず幸せに違いないのです。


それでは「プロ」と「アマチュア」の違いとは何でしょうか?一般的な職業では、その仕事でお金を取れるようになれば、「プロ」として認められますが、こと音楽に関して言えば「喰えるか喰えないか」という判断基準に、私は同意できません。別に職業を持っていても、素晴らしい「プロ」の演奏家は少なくないからです。また、「プロはアマチュアより優れている」という意見にも反対です。「プロ」より魅力的な演奏をする「アマチュア」は、たくさんいるのです。


資格のいらない音楽やその他芸術分野では、基本的に誰でも「プロ」になれます。「今日からプロになる」と宣言すれば、職業欄には「音楽家」と書くことが出来ますし、その「プロフェッショナル演奏家」のスケジュール表がどんどん埋まり、ギャラが取れるようになれば、自他共に「プロ」と認められるわけです。少なくとも、一般社会ではそれで「プロ」の演奏家が完成するのです。


しかし、本当の芸術社会はそれほど甘いものではありません。「専門家」の目や耳は、そう簡単にごまかせるものではありません。楽器がある程度上手く弾けることや、演奏活動に忙しいことは、いろいろな条件の中のひとつにしか過ぎないのです。表面に聞こえる音の、さらに向こうから聞こえてくる音の中に、「プロ」と「アマチュア」では、歴然とした違いが認められるのです。前述の通り、私は「プロはアマチュアより優れている」とは思いません。プロより精度の良い音楽を、アマチュアの演奏で聴いたり、プロのものより、メッセージをたくさん含んだアマチュアの手による名作に出会うことも多々あります。しかし両者には歴然とした違いがあるのです。


ひとつひとつを検証していったら、それこそキリがありません。とりあえず分かりやすく説明すれば、「プロ」と「アマチュア」では、「道」が違うのです。「乗る電車」が違うとも言えるでしょう。同じような方角に向かっているように見えても、目的地も、そこに行き着くまでの経由地も違うのです。「アマチュア」がどんなに上手くなっても、「プロ」にはなれません。「アマチュア」から「プロ」に転向しようと思えば、電車を乗り換えなければならないのです。始発とは言わないまでも、乗り換えることの出来る駅まで戻って、「プロ」仕様の電車に乗り換えなければならないのです。


異常なまでの音楽に対する執着心と、そこまでする強い意志と、何が起こっても後悔しない決心があれば、「プロ」の道を選ぶのも悪くありません。もちろん私は応援します。また、「アマチュア」の音楽活動に対しても、私は全面的に応援します。「プロ」は「プロ」なりに、「アマチュア」は「アマチュア」なりに、愛情を持って音楽に接するということに変わりはないのですから。そして、「プロ」は「プロ」の、「アマチュア」は「アマチュア」の自覚を持って、精進することが大切です。

2005.9.13