音楽コラム 4.


no.023

「音楽を教える」という事 (6)


前章で「自由な音楽・フォルクローレ」の「良さ・危うさ」、原曲とは異なる性格を楽曲に与える「功・罪」、さらにはそれに対しての「是・非」について触れました。これはフォルクローレに限らず、さまざまなジャンルの音楽で行われていることです。シャンソンの名曲「枯葉」は、いつの間にかジャズのスタンダードですし、原典に忠実なはずのクラシック音楽の名曲の数々も、いろいろなスタイルに編まれ、私たちの耳に入ってきます。およそ、世界の名曲といわれているものは、その名曲がゆえに、多くの演奏家に見いだされ、奏でられ、そして世に出てゆくのです。


「世に出る」という事は、「より多くの聴衆に受け入れられる」という事に他なりません。そのためには、より解りやすく、より魅力的(魅惑的と言った方がよいかもしれません)に仕立て直す必要があるわけです。それでは、どうしてそんな手順を必要とするのか? いろいろなケースが考えられますが、ここではフォルクローレを中心にお話ししましょう。


民族音楽と呼ばれるものは、ある特定の地域で、そこに暮らす人たちの文化の一部分として発展してきました。例えば、ボリビアのフォルクローレは、ボリビアでの地域的、歴史的背景の中で誕生し、そして何らかの刺激をうけつつ、今ある数々のスタイルとして存在するのです。その地域の文化があってこそ、その音楽が存在しうるのであり、究極的に言い放ってしまえば、その文化を共有する人たちの間でしか、本当のところは理解できないのです。


国際的な交流が盛んになり、異なる文化を持つ人たちが、地域限定的であった音楽や美術、工芸に目を向け、それらの素晴らしさを、もっと多くの人たちに知ってもらおうと、いろいろな働きかけをしたとします。しかし、ヨーロッパの人たちから見たアンデス音楽も、日本人から見たアンデス音楽も、それぞれ違った見え方、聞こえ方をしているはずなのです。その完成品(民族音楽・美術・工芸)を受け止める文化的背景がそれぞれ違うわけで、それは当然のことだと言えます。そしてそれらを紹介するときに、無意識的に、もしくは意図的に、いろいろな「演出」を加えた上で発表するのです。文学作品を翻訳で読むのと似ていますね。もしくは、映画を字幕スーパーで見るのとも同じでしょうか。


「自由な音楽・フォルクローレ」は、これらの行為にとても寛容的です。私たちの親しんでいるフォルクローレは、実際にこうして生まれました。原文で海外文学を読むのに越した事はありませんが、良い翻訳で読んでも、その作品の真意は十分に伝わります。しかし、ここでは「良い翻訳で読む」というのが、絶対条件となるのです。音楽についても同じ事が言えます。伝え手にその基を理解する力がなければ、そこから出てくる音は、似ていて非なるものに過ぎません。さらに、民族音楽を教えるとなれば、教える側に、豊富な文化的知識や、正しい認識が必要であることは、言うまでもないことだと思うのです。

2003.11.16



no.022

「音楽を教える」という事 (5)


フォルクローレの中で、世界的に一番有名な曲は「コンドルは飛んでゆく」でしょう。このペルーの作曲家による名曲は、実にさまざまなスタイルで演奏されています。フォルクローレの演奏家のみならず、「サイモン&ガーファンクル」をはじめとしたポップス系の音楽家や、クラシック、邦楽器によるバージョンまで、数限りないほど存在します。


フォルクローレ演奏家の間でも、いろいろな工夫がなされ、いろいろな楽器をフューチャーした、それぞれ個性的な演奏が繰り広げられています。そして自然発生的に「ボリビア・スタイル」だの「ペルー・スタイル」だの、いくつかのバージョンが定番化してきましたが、本来の原曲は、リマの音楽学院に保存されているという、ダニエル・アロミア・ロブレスの書いた譜面に残っているはずです。残念ながら、私はその原典を見たことがありませんが、ペルー・アンデス・フォルクローレの演奏家たち、たとえば、ギターのラウル・ガルシア・サラテや、アルパのフロレンシオ・コロラード、ケーナのペドロ・チャルコ、ルイス・ドゥランらの演奏に、その雰囲気を知ることができると思います。


ペルーのサルスエラのために書かれ、当地でも大ヒットしたという「コンドルは飛んでゆく」は、前出の「サイモン&ガーファンクル」のヒットによって、大きく変貌をなしたと思われます。彼らはポップス的な観点から、この曲の「流れ」を読みとり、そして英語の歌詞をつけて、世界的ヒットを獲得したのです。その結果、私たち日本人を含めた、世界の大多数の人たちが知っている「コンドルは飛んでゆく」は、原作者の意図した「流れ」とは、かなり乖離してしまったとも言えるでしょう。ここが「自由な音楽・フォルクローレ」の良さでもあり、危うさでもあるのです。これは何も「コンドルは飛んでゆく」に限ったことではなく、例えば有名な「コーヒー・ルンバ(コーヒー豆を挽きながら)」や、訴訟問題にまで発展した「泣きながら……/ランバーダ」などを見ても、同じようなことが言えるでしょう。これらの「是・非」「功・罪」については、また別の章で考えてみたいと思います。


ケーナを学ぶ日本人にとって「コンドルは飛んでゆく」が、取っつきやすい曲であるその理由には、印象的なメロディーである事は勿論ですが、それに加え、クラシック音楽の形(西洋音楽の規則)をもとに作曲されたものが、さらにポップな流れによってアレンジされたという事実があるのだと思います。とりあえず「コンドルは飛んでゆく」が演奏できるようになったらば、そのメロディーに潜んでいるはずの「流れ」を探りつつ、この曲の「秘めたる謎」の解明に挑戦しても面白いでしょう。


「コンドルは飛んでゆく」を、一つの楽曲として教えようとすれば、最低限、以上のようなことをも踏まえた上で、生徒さんたちに伝えてゆく必要性を、私は強く感じるのです。

2003.11.9



no.021

「音楽を教える」という事 (4)


何事をするのにも「基本が大切」というのは、よく言われることです。「基本に立ち返る」という言葉も、よく耳にします。それでは音楽において、この「基本」というのは如何なるものなのでしょうか?


音楽を学ぼうとした場合、まず「基礎練習」というのがあります。ロングトーンであったり、スケールであったり、扱う楽器のよって、また習得したい音楽によって、その方法はさまざまですが、楽器を上手に扱えるようになるための練習は、是非とも必要です。「楽器を上手く扱えるようになる」という事は、より良く音楽を表現できるための「技術=テクニック」を身につけるという事です。よってその練習も、音楽的なものでなくてはなりません。ただ機械的に指を動かしたり、むやみやたらに長い息で吹いてみたり、これらの練習に、音楽的な理由がなければ、ただの習慣を身につけるための訓練となってしまいます。「音楽を奏でるための音を作る」という意識を持って、「しっかりとした音が出せること」……これがまず技術的な基本です。ちなみに、指の拡張のための訓練や、腹筋を鍛えるためのトレーニングなど、直接音楽とは関係のないものもありますが、それらはあくまでも訓練であり、ここで言う基礎練習とは、ちょっと性格が違います。


「基礎練習」によって培った「基本テクニック」で音楽を奏でるために、今度は「音楽の基本」が必要です。クラシック音楽の場合は、楽譜を基本として、読譜を徹底的に行います。それは「楽譜にすべてが書いてある」とするクラシック音楽的立場からすれば、まさにそれが音楽の基本なのでしょう。しかし、私たちのやっているフォルクローレでは、ほとんど譜面は使いません。便宜上、アレンジやレッスンでは楽譜を書いたり使ったりもしますが、それは単に「音が記号化されて書かれている紙面」に過ぎず、また西洋音楽にとっての合理的な記譜法では、いろいろな不便も生じます。


それではクラシック音楽とフォルクローレでは、音楽における基本が違うのでしょうか? いえ、そんなことはありません。音楽として考えれば、その基本は同じだと思います。簡単に言ってしまえば「いかにしてその楽曲の意志を音にすることが出来るか」という事だと思うのです。そしてそれは「音楽(音)の流を読む」という事でしょう。楽譜に書いてある音を動かせないクラシック音楽は、そこから音の流を読みとります。さまざまなスタイルにアレンジされたポピュラー音楽では、一度それを素の姿に戻し、そこから音の流を探ります。「音の流を読む」という事は、音楽を楽しむ上でとても大切な事だと思います。そしてそれが理解できれば「当たり前のことを、当たり前に演奏する事」が、音楽の最も重要な基本であることに気がつくでしょう。

2003.10.26



no.020

「音楽を教える」という事 (3)


私のレッスンを受けに来て下さる方々は、実に様々です。年齢も小学生から、各世代にわたっていますし、音楽が好きになったきっかけ、楽器を始めたいと思われた動機、音楽、楽器と向き合うスタンス、また、目的、目標、将来の夢等々、皆さんそれぞれに異なった条件を持っていらっしゃいます。私は、原則として「個人レッスン」主義ですが、条件が異なり、目的、目標が異なった方々を一堂に集め、同じ手順で等しく教えるという技術が、私にはありません。ですから、生徒さん一人ひとりと向き合って、それぞれの目標に近づけるよう、指導して行くしかないのです。


また、ほんの基本的なことはともかくとして、フォルクローレの場合、違った目標を持つ方々に、同じ教材を使うことにおいても、非常に不便を感じます。例えば、「現在所属するグループの中で、より良くギターを弾きたい」と思っている方には、そのグループのレパートリーに則したテクニックを、端的にお教えした方が良いのでしょうし、「ソロ・ギタリストになりたい」との希望をお持ちでしたら、時間をかけてでも、私の考える「フォルクローレの基礎」からやって行かざるを得ません。どんな練習をしてでも、とにかく「うまく弾けるようになりたい」方もいらっしゃれば、なるべく練習時間をとらずに「かっこよく弾けたように見せたい」方もいらっしゃいます。趣味で演奏されるのであれば、どちらが良くて、どちらが悪いとは、私には強要できかねます。(「舞台に立つ者の責任」という問題が、別に出てきますが。)


また、早く楽器の扱い方に慣れる方と、それに慣れるために、しっかりと時間を要する方がいらっしゃいます。一般的に、前者は「上達が早い」、後者は「上達が遅い」と言われますが、それはとりあえず、楽器の扱い方のみの問題であって、その後の音楽的な話になると、「前者の方が良い」という一般論は、ほとんど当てはまらなくなります。一日でケーナの音が出せる方と、一ヶ月かけても、なかなか音が出ない方が、同じカリキュラムで、一緒に習っていれば、後者は「自分には才能がない」と、誤解されかねません。しかし、これからの長い音楽人生を考えた場合、最初の一ヶ月、一年などは、たいした問題ではないと思うのです。そして、そうした誤解によって、せっかく好きになった音楽を、離れたところに置いてしまう方が出ることを、私はとても恐れるのです。


フォルクローレは、それぞれの目的、目標、さらに言えば、生活スタイルや、人生の中で、積極的にも、消極的にも、楽しく、気軽に、もしくは厳しく、真剣に、つき合って行っていただける音楽だと思います。

2003.10.12



no.019

「音楽を教える」という事 (2)


楽器店や大型書店の音楽書コーナーに行くと、様々なジャンルの、いろいろな楽器のための教則本が並んでいます。「あなたにも〜が弾けるようになる」といった、お手軽なものから、何巻にも及ぶ学術的(?)メソッドまで、実にいろいろなものがあります。また最近は、VTRやDVDの普及から、映像で学べる教則ビデオもたくさん出ているようです。音楽教室の門を叩けば、多くの場合、その先生の書いた教則本か、もしくはその先生が学んだメソッドを使うことになるでしょう。独学を望む人は、沢山の教則本の中から、自分でそれを選ぶわけです。


教則本には、何が書いてあるのでしょう?簡単に言ってしまえば「楽器の扱い方」が説明されているのです。音を紙面で表すための「楽譜」の知識から、楽器の持ち方、演奏するときの姿勢、音の出し方、そして練習曲…。ほとんどの教則本は、このような手順で進んでゆきます。それは、独学でやっていても、先生に就いていても順序から言えば、ほぼ同じ事です。


教則本は、標準的な方法で一方的に教えてくれるだけです。手が大きかろうが、小さかろうが基本的には…というスタンスで、その方法を示してくれるだけです。そこで、努力を積み重ねてもうまくできない時、その方法が正しいかどうか、また努力の度合いが適正であるかどうか、教えてくれる先生がいれば、ひとまず安心だと言えます。それでは、単に先生に就いていれば、音楽は奏でられるようになるのでしょうか?


芸大出身の友人に、芸大で学ぶメリットを尋ねたことがあります。「音楽を教えてもらおうと芸大に入っても、自分で学ぼうとしなければ、何も得ることはない。判らなくなった時に、身近に手助けしてくれる先生がいることくらいかな?」と、笑いながら話してくれました。どんなジャンルにおいても、やはり音楽では、学ぶ側に主導権があるようなのです。

2003.10.6



no.018

「音楽を教える」という事 (1)


「音楽を教える」方法には、様々なスタイルがあります。日本に生まれ育った私たちは、どんなに音楽と離れた(ように見える)生活をしていても、義務教育の9年間は、授業の中で音楽を教わってきています。都会などに住んでいれば、あらゆるジャンルの音楽教室が身近にあり、それを教える教師も、教室の数だけいるわけです。そしてその音楽教師それぞれが、それぞれの方法、スタイルで、音楽を教えているのです。


楽器演奏を、ひとつの特殊技能だと理解すれば、その伝達は「出来る人から出来ない人へ」と単純に伝える事が出来ます。たとえば、ケーナの音が出せる人は、ケーナの音が出せない人へ、また、3曲吹ける人は、1曲しか吹けない人へ、それぞれ方法を伝達(教える)事が出来ます。また音楽理論を、ひとつの知識だと考えれば、それも知っている人から、知らない人へと、単純に伝達する事が出来ます。それらの伝達方法も「教える/教えられる」スタイルのひとつだと、私は思います。この方法は、音楽に限らず、多くの教授現場で行われているはずです。


出来なかった事が出来るようになった喜びは、いくつになっても大きなものです。自転車に乗れるようになった時の喜びは、大人になっても覚えています。しかし多くの場合、一度乗れるようになってしまえば、「自転車に乗る」という行為が、「行きたいところへ到達する」ひとつの手段となってしまいます。もちろん、自転車に乗って風を切るのは爽快ですし、サイクリングを楽しむというのは「自転車に乗る」こと自体が、楽しみ、すなわち目的のひとつですから、単なる手段と言い切る訳にはいきません。しかし、「自転車に乗れる」という前提があってのサイクリングであって、「自転車に乗れるなら走るところはどこでも良い」わけではないでしょう。「自転車に乗れるようになった」こと自体が、永久普遍の目的ではあり得ないのです。


楽器の演奏についても、同じような事がいえるのではないでしょうか? ケーナの音が出たときの喜びや、ギターのコードを覚えて、一曲を通せるようになった時のうれしさは、いつまでも忘れないでしょう。しかし、その技術がある程度自分のものになってくると、さらに高度な技術を求めるようになってきます。より複雑な曲へ、より高度なテクニックへと、その欲求は高まってゆきます。そして、その課程を積み重ねてゆく事で、いろいろなテクニックを身につけてゆくのです。


スポーツの世界に「記録への挑戦」という言葉があるように、音楽の世界にも「極限への挑戦」という課題が、目標のひとつとして存在します。誰よりも早く指が動かせるようになりたい、誰にも出せなかったような高音を使いこなしたい…などなど、何らかの目標と、それに到達したい意志がある限り、その挑戦は続くわけです。そしてその課程の中で、それぞれのポジションに適した教師の指導を受ける事が出来れば、有意義に自らの努力に没頭できるわけです。


しかし「楽器を演奏」するという行為に、「音楽を奏でる」という目的を重ね合わせて考えた場合、テクニックだけではどうにもならない事態に直面するはずです。

2003.9.12