福島にて・・・6月

2011/06/02〜05

福島に行く。正直多少の不安はあった。放射線もそうだが、この『緊迫した』状態の福島に行って、かえって迷惑をかけるのではなかろうか?と。
 当初の予定では、4日間で岩手、宮城、福島の友人たちを見舞うつもりだった。そんな計画を伝えると、福島の友人たちが、次々とスケジュールを組んでくれた。オリエンタルskの菅野新也さんと、コスキン・エン・ハポン事務局長の齊藤寛幸さんである。今回は滞在を福島に絞り、旧知の飯舘村にも行くことにした。

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初めて伺う避難所。もう三ヶ月近くも、たくさんの人たちの生活の場となっている。どうお邪魔してよいのやら・・・。

梁川町の避難所では、演奏のあと、楽器を中心に人が集まった。楽器の話、ボリビアの話、子どもたちはチャランゴをなかなか手放そうとしない。
「触らせてもらいなよ!」
「バイオリンとチェロしか触ったことないの」

帰りがけ、大鍋ですいとん汁を作っていた。
「これで何人分くらい作れるのですか?」
「60人くらいかな?」
「喰ってっか?味のセンセイが来たからうまいぞー」
味のセンセイは、横に手を振りながら大笑いである。

三春町の避難所は、ボリビアに長年住んでいらっしゃった福原さんがアレンジしてくださった。
演奏のあと、チャランゴに人が集まってきた。「アルマジロが幸運をもたらす」という、アンデス地方の言い伝えを紹介したからだ。
「幸福を持ってきてくれるんだって」
「触らせてもらいなよー」
「かたいねー」

小さな赤ちゃんを抱いたお母さんがいた。
「2月16日に生まれたんですよ」
生まれて一月もたたずに大震災である。きっとたくましい子に育つだろう。

相馬市の避難所の人たちは、ご自分たちのことを話してくれた。集落ごと流された磯辺地区の人たちである。津波のこと、流された家のこと、亡くなった家族のこと・・・。家の建っていた場所で撮った写真をいただいた。
「風呂桶だけが残ったのよ」
「下水の工事をしなくてすんだよー」
「するもしないも、なーんにもなくなってしまったでねえか」
「今なんか、家のあった場所で釣りができっぺ」
にぎやかに笑い声の交じる会話である。

「ここにこうやつて三ヶ月。早かったー」
「それでもね、帰る家がないのは、ほんとに辛いよー」
「私なんかは家だけだからいいさ。この人なんか、ご主人と娘さん持ってかれたんだもんねー」
さっきまで、演奏に合わせて楽しそうに手拍子を打っていた女性が、淋しげに頷いた。

「雲を見ると、いまも波頭だと思ってドキリとする。あれくらいの高さで来たんだよー」
晴れた空に、柔らかな雲が浮かんでいる。
「最初は虹だと思ったさ。雷が這いずり回るような音がして、黒い壁みたいなものが迫ってきて、逃げようにも、足に鉛がついたみたいでなぁ」
「朝がいちばん辛いんだー。やっぱり夢じゃなかったってね」
「ここにいる人たち、みんなボーッとしてるだろう?みんな実感がないのさ。自分が被災者になったことも、避難所で暮らしていることも、未だにみんな信じられないのさ」

「あー、今日はいい日になった。これで今日も生きてゆける。ありがとうね」
「また聞きたいね。もっと早く来てくれたら、もっとたくさんの人たちが聞けたのに・・・」
「16日に、みんな揃って仮設へ引っ越すの」
「もとの場所に戻れるのは、二年かなー、三年かなー?」
「仮設にも来てなー」
仮設に伺うことも、磯辺地区復興の折りには、お祝いコンサートをすることも約束した。

相馬の海岸を見た。大きな船が国道に乗り上げ、コンビナートらしき巨大な鉄板が横たわっている。海水浴場から続く住宅街は、その痕跡すらとどめていない。
「39歳の息子がね。消防団の法被を着ているのは見たんだけどねー」
こんな海岸線が、いわきから八戸まで続いているのか・・・。

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川俣町では、川俣南小学校で演奏した。ここでは、計画的避難区域に指定された山木屋地区の子どもたちが学んでいる。 学校には、現在校長先生が三人。川俣南小・山木屋小・山木屋中、それぞれの校長先生が、ひとつの校長室に同居している。
 この近辺では福島市も含めて、運動場を使えていない。川俣町でも、順次地表を削るのだそうだ。
 そんな制約のある中でも、子どもたちは元気である。大きな椅子を抱えたおチビさんたちが、次々と体育館に入ってくる。
 演奏を始めると、ニコニコした顔が乗り出してくる。手拍子も、掛け声も、歌声も、みんな元気いっぱいである。
 川俣の小学校では、四年生でケーナを習うとのこと。何か一緒に合奏出来たらと、ケーナを持ってきてもらうようお願いしてあった。
 しかしほとんどの子どもが、避難時に持ち出せなかったのだそうだ。齊藤寛幸さんに、ありったけのケーナを持ってきてもらって、何人かの子どもに手渡した。

美しい合奏だった。本当に素晴らしい演奏だった。共演した子どもたち一人ひとりの顔を、今でも忘れない。

川俣南小学校での演奏は、NHKふくしまのニュースで放映された。放送終了直後、リポーターの藤田悦子さんからお電話をいただいた。
「ありがとうございました。子どもたちが本当に楽しそうで・・・。思いっきり元気な子どもたちの様子が流せて良かったと、局の方でも喜んでいました。もう一度、別の時間帯のニュースでも流します」
 その日の夜遅く、福島市内の宿舎の入り口で、スーツ姿の男性に声をかけられた。
「さっきのテレビの人でしょ?ありがとう!」
 翌朝、駅ビルで買い物をしていると、店員のおばさまが、
「テレビに出られていた方ですね。川俣でしたかね。ご苦労さまです。どうもありがとうございました」

 余震が続き、原発の問題が身近な福島では、民放のバラエティー番組を見る人が、極端に少なくなったという。頼りになるのは、地元発信のニュースである。
 それでも毎日憂鬱なニュースが続く。避難生活を余儀なくされている子どもたち、運動場で遊べない子どもたち・・・。彼らにマイクを向ければ、テレビがどういう答えを期待しているか、子どもたちは知っている。
「早く家に帰りたいです」
「早く運動場で遊べるようになりたいです」
それは事実に違いない。みんなそう願っている。しかしそれだけではない。子どもたちは、新しい環境で友達をつくり、元気に遊び、楽しく学んでいるのだ。
 福島の子どもたちの健気な様子とともに、元気いっぱいの様子も、全国に、世界中に、もっともっと発信したい。

齊藤さんが指導する『アミーゴ・デ・川俣』の練習に参加した。小学校二年生から中学生まで、またフォルクローレ愛好会の方々も参加してくださった。
 『アミーゴ・デ川俣』の演奏は、優しく真摯な音がする。齋藤さんのお人柄であろう。カブールに聞かせてやりたい、と思った。ラパスのテレビ局に連れてゆきたい、と思った。
 何曲か一緒に合奏した。今年のコスキン・エン・ハポンでも、合奏できたらいいな、と思う。

練習後、愛好会の方々との懇談は深夜まで続いた。

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廃校を利用して開館したばかりの、町営美術館に連れて行っていただいた。
「川俣町ゆかりの人たちの作品ばかりです」
それほど期待せずに入館した。
「!!!!!!!!」
背筋が冷たくなるほどの衝撃を受けた。素晴らしい作品ばかりである。
 五十嵐健一さんの作品の前で足が止まった。『風のしらせ』『赫き獅子』原発事故後の作品だ。
 渡辺精二さんの作品は、息が苦しくなるほどであった。
「絹で栄えた川俣は、当時最新の西洋文化が入っていたんです」
この美術館は、万人に訪れてほしいと思う。

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保原町では、毎年Yaeさんのコンサートを企画してくれている人たちが集まってくれた。マルベリーの赤間さんご夫妻と、コンサート実行委員会の樋口さん、泉福寺の熊野さんたちのご尽力である。
 演奏には、『夢よ、未来よ、想い出よ、希望よ・・・』で、大町・阿部両君が参加してくれた。

演奏の後のたわいのない話が、無性に愛しい。毎年コンサートの打ち上げをする、イタリア料理のWASABIに移動した。 ほぼ毎年一回、同じ場所で顔を会わせるメンバーである。
「僕らはすでに被爆しているから、近寄らないほうがいいですよ」
樋口さんが笑いながら、離れた席に腰を下ろす。私も一緒に笑い飛ばしたが、あながち冗談ばかりとは思えない。

みなさんこの三ヶ月間に起こったことを、いろいろと話してくれた。樋口さん宅に『避難』している女性は、いわきの自宅を流されたという。
「川沿いに必死で走って逃げました」
「被災した場所は見たくないですね。見ない方がいい」
映像を見ただけで、体が震えてくるそうだ。

赤間さんご夫妻は、桃の花が咲き乱れる風景に感動して、首都圏から移り住んできた。いまは桑の葉や実を使った食品の開発と、販売をしている。
「桑の葉がダメになれば、うちもダメだから・・・」
東京からの注文のなかに、配達ルートを新潟経由指定で、というのがあったそうだ。「???」苦笑いするしかない。

毎年Yaeさんとの演奏会場となる泉福寺には、青森ヒバを使ったりっぱな位牌堂がある。地震ですべてのお位牌が倒れ、上と下がバラバラになったそうだ。
「一生懸命にくっつけて、きれいに並べ直したとたん、1ヶ月後の地震で、またバラバラですわ」

「自分たちはこの土地で生きてゆく。この土地に生きる責任がある」

避難所で、物質があるのにまるっきり配られなかった話、原発事故当初、福島市長がいなくなった話、原発の賛否を問う調査では、福島・宮城両県が除外されている話・・・
「いざというとき、行政はアテにならない」
「市民レベルで声を上げてゆかねばならない。市民レベルで行動してゆかねばならない!」
土壌浄化の方法、バイオ燃料作物のこと、福島を被災特区としたときの経済政策などなど、テーマは尽きることがない。
「これから少なくとも30年、ここに住むためには現状を受け入れるしかない。その中で、この状況をどう凌いで生きてゆけるか?いまはそれを考える時期にきています」
30年・・・セシウムの半減期である。30年を覚悟するのは、並大抵のことではない。

「野菜がダメ、筍がダメ、イワナがダメ、梅がダメ・・・発表されるたびに、やっぱりガックリなんだよなー」
「でも、福島を可哀相だなんて、これっぽっちも思ってほしくない!これがいまの福島の普通なんだって!」
樋口さんはキッパリと言う。

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川俣町から山を越えると、飯舘村である。までいな村、美しい村・・・こんな災難で、こんなに有名になるなんて。

県道12号線の風景は、なんら変わったところはない。森の緑が一番美しい季節だ。鳥のさえずりが聞こえる。災害支援の自衛隊車両が多いのは、この道路が海岸線まで抜けているからだ。
  牧場に牛がいない。田んぼには水が張られていない。レストランは扉を閉ざしている。何も知らない人がやってきたら、単に今日はお休みだと思うだろう。乾いた田んぼの土の上を、ツバメがスーッと飛んでいった。

飯舘村役場は、少し小高いところにある。その周りには、野外競技場や高齢者施設、クリニックなど、村の機能が集まっている。昨年演奏した『までいな家』も、この一角にある。
 役場の前は、さすがにたくさんの車である。中に入ると、大勢の人たちが働いている。明るい庁舎の中、想像していたような緊迫感はない。 村役場の佐藤周一さんが、笑顔で迎えてくれた。
「よく来てくれました。その節はお世話になりました。こちらへどうぞ」
村長室にご案内いただいた。なにやら打ち合せ中の菅野典雄村長は、眼鏡を外すと、相変わらず穏やかな表情だ。村長室の床には、書類や資料の山が、あちらこちらに積まれている。今回新たに募った義援金を手渡すと
「ありがとうございます。助かります」

隣室は、村の災害対策本部になっている。高崎市から贈られたという、大きな達磨さんが飾ってあった。 同心円を描いた地図を広げて、佐藤さんからいろいろなことを教えていただいた。
 原発が爆発した当日、風が飯舘村方向に流れていたこと。飯舘村が標高600mくらいの高台に位置すること。当日は冷え込みが厳しく、村に雪が降ったこと。そうした条件が揃ってしまったがため、放射性物質がたくさん残ってしまったのだという。
  移住していった共通の知人たちの話・・・。みんな後ろ髪を引かれる思いで、村を後にしたのだろう。
「都会では、鍵を渡しただけで引っ越しが終わるかもしれないけれど、こういう場所に生まれ育った私たちには、土地というものがすごく大切で・・・」
「避難するにも、なるべく自分の土地に近いところへと希望するんです」
「どうしてこんな事になってしまったのか・・・」
「土を剥がしても、その土を処分する場所がない」
「飯舘村は分水嶺にあたるので、ここを洗浄すれば下流の相馬市にも迷惑をかけることになる」
「村のなかにも、線量の高いところと低いところがある。それを無視して全村避難とは・・・」

飯舘村には、いつも中央のマスコミが待機している。ちょうど国会は不信任案でごたついていた。
「国の政治家には心がない!」
その日の朝の全国ニュース、菅野村長の一喝である。

友人たちと企画している、支援活動資金を集めるイベントのチラシを出した。福島の食べ物や飲み物を楽しみながら、みんなで未来のことをしゃべりましょう、というイベントである。
「までいなイベントとありますね!」
「飯舘村の理念をお借りしました。しばらくこの土地を離れても、までいな理念は、絶対なくしてはいけません」
「ありがたいですね。その通りです」
「そういう事なら・・・『飯舘』というお酒があるんですけどねー。もう、どこにもないかなー?」
「『飯舘』なら、押口酒店さんから取り寄せて確保しています。でも、なかなか開けられなくて・・・。お酒好きの友人が、飲みたいんだけど、どのタイミングで開けたらいいか、困っているんですよ。全村避難解除が出る日まで待とうって言っているんですけどね」
「それじゃ大変でしょう。9月30日がいいんじゃないですか?飯舘村の村立記念日です」

ボリビアに『エケコ』という神様がいる。1月24日の正午に、この一年間で手に入れたいものをエケコに背負わせ祈祷を受ければ、願いがかなうという。アンデスの『恵比須さん』というところだ。
 一日も早い避難解除を願い、小さなエケコを佐藤さんにお渡しした。

飯舘村のAコープは、今でも普通に営業している。イベントで使う飯舘産トマトジュースを買うために立ち寄った。村役場の佐藤さんが、ひと箱手配しておいて下さった。贈答用の包装である。
 Aコープでは、食料品、生活雑貨、生鮮食品も含め、とりあえず何でも揃う。高齢の男性が、バイクで買い物に来ていた。妙齢の女性がツバメの巣を眺めている。
「ツバメは子どもを大事にすっからね。まぁ人間はお湯をかけたり、ねぇ」

齋藤寛幸さんの運転で、南相馬市原町区にあるお寿司屋さんに連れて行っていただいた。ケーナ教室の生徒さんとそのご両親がやっているこのお店は、今年4月半ばに開店したばかりだ。
 原町区は原発30km圏内『緊急時避難準備区域』である。
「実際の線量は、福島市より低いんですけどね」
「地震直後は、本当に町に何もなくなってしまいました」
ご主人は穏やかな表情で話してくれた。
「子どもさんたちの多くは,県外の学校に移って行ったんです。このあたりは、お年寄りばかりですわ」
今日のランチ『助六すし』に小鉢がいくつも付いている。『刺身の盛り合わせ』もいただいた。
「最近相馬港の競りが始まったんですけどね、全然ダメですわ。箱が五つだけで、その中に入ってる魚も数6匹。うちの魚は仙台のです」
お手製の『イカの塩から』の美味しかったこと!

南相馬市原町地区から、県道12号線で飯舘村を通って川俣に抜けた。確かに道は山に向かって上っている。途中の牧場で、馬が地面に寝転がって、背中をかいていた。どこかでウグイスが鳴いている。

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オリエンタルskの管野さんとは、もう十年来のお付き合いである。一年に一度のペースで、福島県内いろいろな所で、コンサートをつくっていただいている。
保原、飯舘、会津若松・・・双葉町へも伺ったことがある。今回も、私たちのスケジュールを、パッと組んでくださった。

菅野さんのご自宅は、福島市街が一望できる高台にある。近くに古いお寺がある。
「このあたりは昔から人が住んでいたんです。地震にも強いことを知っていたんでしょうね」
ひどい揺れにも、本が落ちたり、棚のものが倒れたりした程度で、大きな被害はなかったとのこと。
「地域によってこれほどまでに違うとは…」

地震当日、ご夫妻でいわき市の小名浜地区に向かっていたんそうだ。
「携帯の地震警報の直後に車がグラグラ揺れ出して、ひっくり返ると思いました。周りを見ると,地面にしゃがみ込む人や,電柱が倒れたり…。これはただ事ではないと、とにかく山に向かって走りました」
「山道には大きな岩がゴロゴロと転がって、はたして福島にたどり着けるだろうかと心配で」
「もうこれで私たちの命も終わるのか」
奥さまはなんども思ったそうだ。

「家族はみんな無事でした。福島市街は真っ暗でしたが、この地区には電気がありましたので、いろいろな情報をえることが出来ました。地震翌日から断水することを知って、風呂桶に水を張って備えたり」
「毎日なるべく外に出ずに、家族いっしょに同じ部屋で過ごしました。お店には何もなくなったので、買い置きしてあったものを食べていました」
「断水が一週間も続くと、さすがに落ち込みますね。いつまで続くのだろうか、と」
奥さまは、なるべく水を使わない料理を考え、盛りつけも大皿ですませたそうだ。
「お米を炊くより、小麦を使った料理の方が水が少なくてすむんですよ。だから大きいパンを焼いたりして」

菅野さんご夫妻は、今回の滞在中、ほとんどの行程をご一緒くださった。滞在最後の夜、沖縄料理の『ぱいなっぷるはうす』へ連れて行って下さった。お店はお客さんでいっぱい、大にぎわいである。
「ここには沖縄の人が食べにくるんですよ」
お店おすすめの泡盛と、料理は菅野さんに選んでいただいて乾杯した。美味しい料理が次々と運ばれてくる。
「やっと週末の賑やかさがもどってきました。先週まではこんなことなかったんです」
女性ばかりの一団や、若者のグループが杯を重ねながら、大きな声で歓談している。
しかし時々聞こえてくる話題は、避難した友人のこと、原発事故のこと,地震のこと…。
暗さはまったくない。美味しい料理とお酒で、これからの福島のことを、みんな話し合っているのだ。

「ときどきライブを企画しているお店に行ってみませんか?とても素敵なお店ですよ」
『Magie Noir(マジー・ノアール)』 は、アンティークなインテリアに、キャンドルの明かりのBarである。カウンターに座って、マスターの五十嵐さんとお話をする。
「ここも地震で多少の被害がありましたが、もうこの通り復活しています。もうこれで差し引きゼロですよ」
 テーブル席もあるが、お客さんはみんなカウンターに座りたがる。五十嵐さんとの会話を楽しみにしているのだ。最後に入ってきたお客さんは、レジの横のスペースで立ち飲みである。いろいろな話に花が咲く。

お店を出た時は、午前2時をまわっていた。

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今回の旅で、いくつか決めていたことがある。『泣かない』こと、『慰問感情は持たない』こと。日を追うごとに、自分が涙もろくなってゆくのが分かるのだ。
福島で、悲しみと喜びと幸せとが混じった『豊かな心』のお裾分けいただいた。 いまの涙は、溢れる涙ではなく、滲み出る涙である。 天災と人災によって降り掛かってきた現状に、悔しくない人は一人もいない。悲しくない人は一人もいない。放射線が怖くない人など一人もいない。
 しかし福島の人たちは言う。
「今回の震災で、本当に人生観が変わりました。そういう人は、とても多いんじゃないですか?」
「死ぬかもしれないと思いながら助かった命です。こんなにたくさんの人たちが亡くなったのに、どうして私たちが助かったのだろうって、助けていただいた命を、どう生きぬいたらいいかって、ずっと考えているんですよ」
「私たちには福島に住む責任がある。千年に一度の大災害と、世界で初めての人災を経験している。これをしっかりと後世に伝えてゆく義務がある」
「福島から世界を変えるんだ!」

もうひとつ確信できたことがある。『音楽の力(ちから)』『フォルクローレの力』である。 フォルクローレは、荒れ地に芽を出させる力を持つ。それはフォルクローレを育んできた人たちの力である。
 「音楽家でよかった・・・」 「フォルクローレでよかった・・・」 と、これほど感じたことはなかった。 「いまここで演奏しないのなら、何のために今まで音楽をやってきたのか・・・」

「音楽家は音楽でしか貢献できない」という音楽家の言葉を、私は信じない。 手足があれば、考えることが出来れば、やる気さえあれば、音楽以外にやれることはいくらでもある。
 音楽家も、音楽家である前にひとりの人間である。ひとりの人間としてできることのひとつに音楽があることを、フォルクローレがあることを、私は本当に幸せに思う。

これから30年・・・少しでも必要があるうちは、「福島に通おう」と思っている。


2011/06/15