高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 6月 5日(木)
 晴
 京都:晴・最低14.0℃最高27.2℃。

 現在、全共闘運動は曲り角にきていると言われる。
 「わが立命大闘争は最早行き詰ってしまった。何故行き詰ったのか?」「ここらで一発、今迄の闘争における組織、運動形態などをひっくるめて見直す必要があるのではないだろうか?」」(『波紋』「立命館学園新聞昭和44年6月2日(立命館大学新聞社、1969年))。

 立命においても十二月の新聞社事件以来、
 新聞社事件とは1968年12月12日(木)、「立命館学園新聞」を編集・発行する立命館大学新聞社に対して、紙面で批判を受けていた立命館大学学友会(民青系)の学園振興委員長ほか8人の学生が“報道を是正する必要がある”として入社申し込みをしたことに端を発する事件である。
 立命館大学新聞社側は新聞社主幹が「原稿整理の忙しい時期であり、個々人との具体的な話合いを16日以降に継続することを申し渡した」(「立命館学園新聞号外昭和43年12月16日」(立命館大学新聞社、1968年))が、これを不満とする入社申込学生との間で話し合いがつかず紛糾。
 新聞社メンバーを入社申込学生が取り囲み、さらにそれを支援する民青系の学生が広小路キャンパス・存心館内にあった新聞社一室の周辺に陣取る状態が続いたが、13日早朝、新聞社側を支援するヘルメット姿を含む学生約100人によって、小競り合いの末、新聞社メンバー全員が一室をあとにした。
 この事件をめぐる対立が立命館大学における紛争の直接のきっかけとなった。
 同じ13日には、「全立命の学友諸君!!一昨日以来、我々が闘ってきた、新聞社不当暴力選挙解除!存16武装占拠解除!は300名の革命的武装部隊と1000名の学友を結集し、全学的な闘いへ発展したが、我々はその過程で、全学共闘会議(準)を圧倒的学友の手によって結成したことをここに報告したいと考える」(「全共闘準備会結成」ビラ(立命館大学全学共闘会議準備委員会、1968年12月14日))として、立命館大学全学共闘会議準備会が結成されている。
 ※ 1969年1月17日の項の「おことわり」参考
☞二十歳の原点序章1968年12月18日「キャンパスは、新聞社入社問題で騒々しかった」

 現在「立命館大学新聞」を発行する同名の団体は後に民青系で設立されたのが沿革で、当時の立命館大学新聞社と直接の関係はない。

 寮闘争、試験闘争、入試闘争、レポートボイコット闘争を経る中で、
 寮闘争☞1969年1月17日
 試験闘争☞1969年2月1日
 入試闘争☞1969年2月15日
 レポートボイコット闘争☞1969年3月11日

1969年 6月 7日(土)
 中村さんとは、とうに訣別したはずなのに、その幻影につきまとわれている。
☞1969年5月4日「恋愛の幻想からの訣別!」
☞1969年6月2日「とにかく訣別だ」
☞1969年6月3日「きっぱり訣別しよう」

 買ってきた八四〇円ナリのホワイトを飲んで酔っぱらって、そのまま寝てしまいたい。
サントリーホワイト広告  ホワイトは、ウイスキーのサントリーホワイトである。当時840円。ウイスキーを買ったのは、アルバイトの給料を受け取ったからである。
☞1969年4月15日「しかしまた今日、ホワイトを四、五杯のんで眠ろう」

 前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、
☞二十歳の原点序章1967年11月18日「今までの洋服をみると、エレガンス+スポーティ、あるいはエレガンス+キュートであった」
☞1969年3月29日「パーマ屋に行ってさらにPrettyになり」

1969年 6月 9日(月)
 九日 アスパック粉砕京都統一行動
 ASPAC(アスパック)=アジア太平洋協議会は、東西冷戦下の中国や北ベトナム(当時)に対抗するために、西側に属するアジア・オセアニア諸国が開いた閣僚会議のことである。日本・韓国・台湾・フィリピン・南ベトナム(当時)・タイ・マレーシア・オーストラリア・ニュージーランドの9か国が参加、経済協力名目の一方でベトナム戦争下の南ベトナム支援の色合いも有していた。
 ASPAC第4回閣僚会議は1969年6月9日から静岡県伊東市で開かれたことから、日本国内で反対運動が強まった。

円山公園音楽堂から京都市役所前 京都では6月10日(火)午後6時から、反安保京都実行委員会(社会党・総評系)の「70安保粉砕・沖縄奪還・アスパック会議反対集会」が円山公園音楽堂で開かれ、労働組合員とヘルメット姿の反戦青年委員会、京大全共闘、立命館大全共闘ら計約1,000人が参加した。
 集会後、京都市役所前までデモ行進を行った。途中、祇園石段下付近でジグザグデモをくり返し、4人が逮捕された。
 京都市役所前広場で総括集会を行い、京大全共闘から「6・13立命館闘争勝利総決起集会、6・14全京都総決起集会の爆発的な成功を勝ち取るために、より一層戦いを強化しよう」というアピールがなされたあと解散した。
☞1969年6月12日「集会とデモにやじ馬的に参加し」

 十三日 立命大闘争報告集会
☞1969年6月14日

 十五日 六・一五御堂筋占拠
 六・一五 御堂筋デモ☞1969年6月15日

 八月の日米経済合同委員会にむけて「マル経」の学習。
 日米貿易経済合同委員会は、60年安保後の日米間の関係強化の一環として、1961年の池田総理大臣とケネディ米大統領の首脳会談で新設が決まった会議である。
 1969年の日米貿易経済合同委員会の会議は7月29日から東京で開かれ、日米の貿易不均衡問題、とくに日本の繊維製品の輸出自主規制が焦点となった。沖縄返還問題との関係が指摘されている。
 「マル経」はマルクス経済学の略。
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