高野悦子「二十歳の原点」案内 › 1969年3-4月 ›
1969年 3月29日(土)
肌寒い小雨の日
京都:雨・最低12.9℃最高17.3℃。
パーマ屋に行ってさらにPrettyになり、
パーマ屋は美容院のこと。当時はパーマ屋と呼ぶことが多かった。ヘレナ・ルビンスタイン、'69春のルック“so pretty”。
☞1969年3月31日「このショートカットの頭ボサボサの」
ヘッセときいて「雲」を思いうかべ、
☞二十歳の原点序章1967年6月16日「ヘッセの詩を想いだした」
そして四条大宮からタクシーをフンパツして帰った。
高野悦子は普段、バイト先からの帰宅ルートとして、京都国際ホテル─油小路通・堀川通(徒歩)─四条御池─四条通(徒歩)─阪急・大宮駅─(阪急京都本線)─桂─(阪急嵐山線)─松尾駅(現・松尾大社駅)─(徒歩)─下宿を使っていたとみられる。
四条大宮から阪急・松尾駅(現・松尾大社駅)前まで、道路だと四条通の一本になる。
なお当時は、四条大宮と松尾橋の間に京都市交通局のトロリーバスが走っていた。1968年に竣工した阪急・大宮駅のビル(大宮阪急ビル)の雰囲気は、当時とあまり変わっていない。
ランボーはいった。「私の中に一人の他人がいる」と。
ランボー(1854-1891)は、19世紀のフランスの詩人で、翻訳書は多数ある。
ただ、この記述は雑誌「新視角」所収の以下の論稿を参考にしたと考えられる。
「自らを〝言葉の錬金術師〟と称したランボウは、恩師であり精神の友であったジョルジュ・イザンバール宛の手紙の中で、「…吾れ思うなんていうのはおかしい。人吾れ思うというべきでしょう。わたしというのは一人の他人です」と記している。ランボウにおけるこの≪一人の他人≫とは、自己の懐にありながらもなお≪脱─自≫をめざす自己否定性をそなえた意識であろう」(酒井良雄『告発を超えるもの』「新視角第2号」(新視角ライターズ、1969年))。
☞1969年3月25日「新視角」
今朝思ったことは、やはり昨日のことがチョッピリ恥かしいということ。それに勉強をせねば、というより「やるぞ」ということ。
日記の記述。以下、「私は臆病者であり…」に続いていく。
深夜、どしゃぶりの雨音をききながら、バイト先でワインを飲んだ後、下宿でウィスキーを三杯飲む。
29日午後10時ごろから雨足が強くなり、夜半過ぎには毎時6mmを超える強い雨となった。
1969年 3月30日(日)
プリーズ・ドント・ゴー・アウェイ。
Please Don't Go Awayは、Malcolm Roberts(英、1944-2003)が歌うポピュラー(1969年)。
ショパン『別れの曲』「12の練習曲作品10」の旋律に歌詞を付けた曲である。
私の男性コンプレックスも相当なものだ。
日記の記述。以下、「幻想を描ききれ」に続いていく。
「黒いオルフェの唄」「太陽がいっぱい」「愛の讃歌」これらの歌はよい。
黒いオルフェの唄は、マルセル・カミュ監督の映画「黒いオルフェ」(仏・伯・伊、1959年)の主題歌であるルイス・ボンファ作曲の「カーニバルの朝」である。
ブラジル生まれのボサノバが世界的な注目を集めるきっかけになった曲として知られる。
太陽がいっぱいは、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」(仏・伊、1960年)でニーノ・ロータ作曲の主題曲に歌詞を付けたシャンソン。
なお、映画「太陽がいっぱい」は、TBS=東京放送(現・TBSテレビ)「金曜ロードショー」第1回の目玉として、京都では当時TBS系列の朝日テレビ(現・ABCテレビ)=朝日放送で1969年4月4日(金)午後7時30分から放送が予定されていた。
愛の讃歌は、エディット・ピアフ(仏、1915-1963)が歌うシャンソン(1950年)。
シャンソンを代表する曲の一つである。日本では越路吹雪(1924-1980)による歌が有名。
京都国際ホテル☞1969年3月16日
1969年 3月31日(月)
山本太郎の詩がどうだこうだといったり、すべては階級闘争だといったりするのがこっけいなのだ。
山本太郎(1925-1988)は、現代詩の詩人。
☞1969年4月16日「「かるちえ・じゃぽね」を読み」
すべては階級闘争だ☞1969年3月27日「「すべては階級闘争である」然り」
パゾリーニは「エディプス王の物語」を彼のエディプス・コンプレックスを克服して作ったという。
「パゾリーニが、新聞や雑誌記者に語ったところによると、この映画は彼の自伝でもあるといい、彼自身のもつエディポス・コンプレックスを克服した上で作ったと告白しています」」(田中純一郎『マザー・コンプレックスとアポロンの地獄』(前掲「アポロンの地獄」パンフレット(東宝))。
アポロンの地獄☞1969年3月25日
真実と人間を求めるって?
☞1969年3月27日「「真実と人間」かもしれない」