高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 3月27日(木)
 それがパゾリーニのいったように「真実と人間」かもしれない。
 「パゾリーニが“私にとって映画の役割は真実と人間を発見することだ”と語っている記事を読んだことがあるが、人間キリストの発見に、「奇跡の丘」の素晴らしい創造があったといえる」(大黒東洋士『パゾリーニの偉大さと「アポロンの地獄」の感動』「アポロンの地獄」パンフレット(東宝、1969年))。
 アポロンの地獄☞1969年3月25日
☞1969年3月26日「パゾリーニは徹底したリアリズムで人間の存在を映画で描いた」

 「すべては階級闘争である」然り。
 「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」(マルクス、エンゲルス『ブルジョワとプロレタリア』「共産党宣言第1章」(1848年))。

 人生は演技なのだっけ。
 日記の記述は「人生は演技なんだったんだっけ。」。
☞1969年3月26日「バイト先では常に演技者であります」

 家から自転車が届いた。早速サイクリング。大沢、広沢の池まで。
大沢池・広沢池地図

大沢池(大覚寺)

大沢池写真 大沢池は、京都市右京区嵯峨大沢町の大覚寺にある池(上記地図参照)。
 現在も当時とあまり変わっていない。周辺は京都らしい風景を維持しており、映画やテレビドラマの撮影によく使われることで知られる。


 大覚寺は「貞観18年(876)恒寂法親王を開基として寺に改められてから、御室と同様に、皇室とゆかりふかい門跡寺院となった。鎌倉時代の末には、その名も大覚寺統とよばれた歴代の御所となり、ここで南北両朝の講和も行われたというゆかりをもっている。寺のかたわらには、広沢池と並んで有名な大沢池が、嵯峨院の苑池をそのままに、古い面影をとどめている」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))

 「よく散歩をしました。フラリと自転車で出かけますが、いつも大覚寺の大沢の池でした。よほどあの池が好きだったのでしょう」手紙(立命大。高野家宛)(『高野悦子さんを囲んで』「那須文学第10号」(那須文学社、1971年))。
☞二十歳の原点序章1968年11月10日「大沢の池から広沢の池に行く道がとてもよい」

広沢池

広沢池写真 広沢池は、京都市右京区嵯峨広沢西裏町にある周囲約1.3㎞の池(上記地図参照)。
 現在も当時とあまり変わっていない。池の北から西にかけて電柱や看板がなく、時代劇の撮影に使われることで知られる。


 「広沢池までくると、愛宕山の秀峰がいっそう近づき、嵯峨野の気配がつよく感ぜられてくる。池の水面に影をやどす山を遍照寺山というが、このあたりは御室の主であった宇多天皇の孫、寛朝僧正が遍照寺という寺を建てたところで、この池もそのほかに洞庭西湖に模してきずかれたものという。たしかに王朝の林泉としての風格がある」(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))
 現在付近で東西の主要道となっている丸太町通(いわゆる新丸太町通)は、1969年当時はまだ延伸が完成していない。

 生暖かい春の風。
 27日は最高気温が23.9℃まで上る陽気となった。
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