高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 3月15日(土)
 「現代詩手帖」の石原吉郎の文にひかれた。生と死、私はこの事についてもっと考えこみたい。石原吉郎の詩集を早く手にとりたい。
現代詩手帖表紙 現代詩手帖は、思潮社発行の現代詩についての月刊誌。「現代詩手帖1969年2月号」(思潮社、1969年)は、当時200円。
 石原吉郎(1915-1977)は、現代詩の詩人。
 高野悦子が魅かれたのは以下の文章と考えられる。
 「それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。
 こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。
 この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ」
(石原吉郎『確認されない死のなかで─強制収容所における一人の死─』「現代詩手帖1969年2月号」(思潮社、1969年))
 石原吉郎の詩集は、石原吉郎「石原吉郎詩集」(思潮社、1967年)。当時1,000円。
☞1969年5月7日「とうとう買っちゃったんだ」

 「アナーキズムⅠ」を買ってきた。
アナキズムⅠ アナーキズムⅠは、ジョージ・ウドコック著白井厚訳「アナキズムⅠ(思想編)」(紀伊国屋書店、1968年)のことである。当時750円。
 広告では「あらゆる権力の支配を拒絶し、全き個人の自由意志を追求するアナキズム。近代社会の物質主義、画一化に挑戦しつつ、閉塞の時代に不死鳥のごとく甦るこの思想系譜を、本書はプルドン、バクーニン、クロポトキン、トルストイ等の思想の中に探る」。

 「人類社会の究極の理想形態は、といえば、それは疑いもなくアナキズムの社会であろう。プラトンの哲人政治も、サン-シモンのメリトクラシィも、各人の理性に全面的な信頼を置いたアナキズムの理想の前には、色あせた存在である。各人が何らの支配拘束を受けることなく、平等に、しかも各人の自由な合意によって調和を保つような共同社会を、人類は長い間夢想してきた」(白井厚『訳者序言』ジョージ・ウドコック著白井厚訳「アナキズムⅠ(思想編)」(紀伊国屋書店、1968年))

 フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由であることを恐れているのではないか。
☞二十歳の原点序章1968年10月9日「これから読まなくてはならないものは…『自由からの逃走』」

 メイン・ダイニング・ルームに仏人のベルレー(注 映画俳優)に似た人がいた。
 京都国際ホテル☞1969年3月16日
 ルノー・ベルレー(仏、1945-)は、映画「個人教授」(1968年)の主演男優。日本ではアイドルのような扱いになった。
個人教授
 ミシェル・ボワロン監督のフランス映画「個人教授」は、いわゆる青春恋愛モノで、東和映画(現・東宝東和)配給、京都ではパレス劇場で1969年4月26日ロードショウ予定だった。
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