高野悦子「二十歳の原点」案内 › 1969年1-2月 ›
1969年 2月20日(木)
十八日夜、存心館が法学部学大に基づいて再封鎖された。
2月18日(火)「午後1時から反日共系の法学部大衆団交実行委の呼びかけで、法学部学生集会が学生約150人を集め、清心館10号教室で開かれた。
集会では〝大衆団交実現要求〟の手段として中川会館北側にある存心館(4階建て)のバリケード封鎖を過半数で決定。
同6時15分ごろ法学部学生ら約200人が存心館の正面入口や西側入口、さらに学友会のボックスがある研心館への地下道をベニヤ板や机、イスなどで内側からバリケード封鎖した」(「京都新聞昭和44年2月19日」(京都新聞社、1969年))。
しかしそれを認めぬ民青が実力排除にのり出した。
これに対し、学友会(代々木系)側は「封鎖解除をはかろうとして、中川会館からかけつけた全共闘側学生と衝突、全共闘側はヘルメット、ゲバ棒姿の約300人で存心館を内側からかため、学友会側も4、500人の黄ヘルメットの学生を動員してぶつかった」(「京都新聞昭和44年2月19日」(京都新聞社、1969年))。
攻防をめぐって火えんびん、投石、放水の混乱があり、負傷者二百余名、危篤一名が出た。
「存心館4階からはイスや石ころが投げつけられ、学友会側も数か所から放水、投石をくりかえした。同8時半ごろには、存心館の地下に投げ込まれた殺虫くん剤の煙が4階にまで広がり、火事さながら。…中略…。
また全共闘側の学生は存心館4階から火炎ビンを数回にわたって投げ、けが人が続出、負傷者は学内診療所へ運び込まれたが、治療が追っつかず、市内の各病院へ分散収容された」
(「京都新聞昭和44年2月19日」(京都新聞社、1969年))。
朝五時頃から全共闘の集会が行われた。
正門のバリケードで二時間の坐りこみの間、何故自分はここに坐っているのか、こんなことどうでもいいことではないかという考えにおそわれた。
「この日の警察側の出動は事前に予知されていたため、全共闘側は午前5時半ごろから、広小路キャンパスの正門前で約300人の学生を集め、集会を開くとともに机、長イスで正門を内側からバリケード封鎖」(「京都新聞昭和44年2月20日(夕刊)」(京都新聞社、1969年))した。
さらに、午前6時ごろから一般の学生とともに正門前に座りこんだ。
「京都府警は、この日午前5時京都御苑に大阪府警機動隊500人の応援を得て、完全武装した機動隊1700人と現場検証隊の100人計1800人が集結、午前6時半から上京区河原町広小路西入の立命館大学の周囲をとりまき、凶器準備集合罪、傷害暴力行為の疑いによる強制捜査の機をうかがった」(『府警、強制捜査に踏み切る─立命大へ』「夕刊京都昭和44年2月20日」(夕刊京都新聞社、1969年))。
「午前6時50分、青ヘルメットにジュラルミンのタテを持った機動隊員1800人が、京都御苑の中から立命館大学広小路学舎西の梨木神社前に姿を見せると、構内にいた学生が西門わきのヘイに飛上がって「ウォー」と叫び声をあげた。
高さ約2メートルのバリケードがつくられた正門のすぐ中で、午前6時ごろから集会を開いていた全共闘など反代々木系学生約300人は、演説をやめ、直ちにすわり込んだままスクラムを組み「インター」をうたいはじめた」(『強制捜査に表情複雑、すわり込む学生たち─立命館大』「朝日新聞(大阪本社)1969年2月20日(夕刊)」(朝日新聞社、1969年))。
八時頃、機動隊が西門から入ってきた。
立命大に機動隊
午前7時「45分、機動隊は中川会館裏の東門と研心館横の西門の二手から学内にはいった。西門からはいった機動隊は構内でいったん整列したあと、指揮者に従ってゆっくりと存心館正面入口へ向った。
機動隊は存心館にはいると、あっという間に地下室と4階までのすべての教室にちらばり、窓から顔を出して校庭内の動きを見守った。
一方、東門からはいった一隊はカギのかかった門を即製の踏段を使って乗越え、封鎖中の中川会館のバリケードを大きなペンチ、ハンマー、電気ノコギリなどで排除にかかった。有刺鉄線できつくしばられていた机やイスは、みるみるうちにはずされ15分後には隊員が中川会館の中にはいった。
8時5分機動隊は、中川会館の正面入口の前の学生をジュラルミンのタテで押しもどす動きに出たため、すわり込んでいた反代々木系の学生のうち、ヘルメットをかぶっていた約20人が、スクラムを組んで中川会館前の機動隊の列に突込んだ。
しかし、たちまち前の2、3人がねじふせられると全員が後退、機動隊は約50メートルにわたって列をつくり、校庭にいた一般学生、反代々木系学生など数百人を校庭の片すみに押しこめた。
学生たちは「機動隊帰れ」と叫んだが、機動隊になぐりかかったり、石を投げるものもほどんどなく、機動隊も、校庭の他の場所で手もちぶたさに待機する余裕ぶりだった」(『強制捜査に表情複雑、すわり込む学生たち─立命館大』「朝日新聞(大阪本社)1969年2月20日(夕刊)」(朝日新聞社、1969年))。
結局、私達は学外に追い出され柵を境に、学内には制服と特製ヘル、盾の機動隊が、学外にはヘルもゲバ棒も持たぬ学生がいるのであった。
「引き続き機動隊は広小路通や河原町通の警戒要員を残しただけで、残り約1200人が学内にはいり、研心館前や存心館、中川会館付近をかためた。
狭いキャンパスはたちまち機動隊のヘルメットで埋まった」。
「午前9時過ぎには存心館前広場にいた学生数百人はすべて学外に排除された」(「京都新聞昭和44年2月20日(夕刊)」(京都新聞社、1969年))。
全共闘(反代々木系)側も学友会(代々木系)系も組織だった抵抗は行わなかったとされている。
西門から入ろうとしたが、機動隊によって守られ(一体何が!)入ることができず、私達は寺町通りと広小路で「機動隊帰れ!」のシュプレヒコールをあげた。
「…ただ学内から排除された学生100人余が午前8時半すぎ、梨木神社前付近でデモ、さらに府立医大前の河原町通でも百数十人がデモをして学生一人が検挙されたていど」
(「京都新聞昭和44年2月20日(夕刊)」(京都新聞社、1969年))だった。
「皆さん機動隊の導入には反対しましょう。学園を私達の手で守りましょう」と学内でアジっている民主化放送局とやらの大方は民青であったのではないでしょうか。
学友会(代々木系)側の学生500人は、研心館の回りに座りこみ「ポリ公帰れ」のシュプレヒコールをくり返していた。
「代々木系の勢力の強い学友会側は、校庭にいる学生に向かってマイクで「戦後20数年、立命館に機動隊がはいったことはなかった。口では大学の改革を叫ぶ全共闘が実際に得たものは、機動隊の導入だけだった。全学友は、全共闘の挑発に乗らないで沈着、冷静に行動しよう」と呼びかけた」
(『強制捜査に表情複雑、すわり込む学生たち─立命館大』「朝日新聞(大阪本社)1969年2月20日(夕刊)」(朝日新聞社、1969年))という。
「午後3時頃捜査がおわると、全共闘の学生は、立命館大学の中に入り、中川会館の前で集会を開くと同時に、中川会館の再封鎖を貫徹しようとしたが、…中略…民青は、ゲバ棒を持った行動隊を先頭に、中川会館から全共闘の学生をおい出し、バリケードを完全に解除した。更に、デモに移った全共闘の学生を、正門からしめ出し」た
(「京都大学新聞昭和44年3月3日」(京都大学新聞社、1969年))。
入試を境にして大学側は硬化している。全共闘の十項目要求に対して大学当局は何ら答えていない。あの流血の事態は避けられなかった。
「末川総長の再三の言明とはうらはらに、機動隊が学内に立入るまで紛争がエスカレートした原因は、代々木、反代々木系のセクト間の争いと、入試実現後、手のひらをかえすように反代々木系の全共闘との対応を変えた大学当局の高姿勢ぶりにある。
入試実力阻止をかかげながら、一般学生の大半が入試実現に動いたため、ついにこれを阻止できなかった全共闘は、一挙に存心館の封鎖拡大戦術に出た。
入試前には全共闘との大衆団交に応じるなど、柔軟な対応を見せていた大学当局が、入試後には「入試の前後では情勢が異る。一部学生との団交には応じない」と姿勢を変え、春休みをひかえ勢力の拡張に苦しむ共闘派のあせりをかきたてた。
一方、中川会館の封鎖実力解除に失敗して以来、学内の支持者を失っていた学友会執行部を中心とする代々木系の勢力も、共闘派の封鎖拡大を機会に巻き返しをはかり、18日深夜から19日朝にかけて重軽傷者250人を出す乱闘となった」
(『紛争処理、より困難に─解説』「朝日新聞(大阪本社)1969年2月20日(夕刊)」(朝日新聞社、1969年))。
存心館の破壊ぶりはものすごい。
「各室とも机などの備品はほとんど姿を消し、全くの廃屋となった」
「壁一面の落書きの「中にはこの日の捜査を予想して書かれたのか「立命は死んだ。府警の手術で再生を求めた大学は我々の手から遠く遠くはなれてしまった」というマジック書きもみられ」た
(「京都新聞昭和44年2月20日(夕刊)」(京都新聞社、1969年))。
機動隊が学内に入ったことについて「立命館学園新聞」は緊急特集号を出している。
『機動隊本学構内に乱入』
京都府警は、20日早朝、凶器準備集合罪、傷害等の現場検証を口実に1800人にもおよぶ機動隊を動員し、本学の学園紛争の強権的圧殺を図らんとした。それは何よりも本学の闘いが、現行大学解体へと突き進む、まさしく個別学園紛争のワクを乗り越え全国学園闘争の中で等しく語られるものであるが故に、それに恐怖した政府ブルジョアジーの直接的な介入としてあったのである。全共闘を中心とした突出した闘いは、今試練に立たされている。〝民主立命を守れ〟なる学園防衛主義に陥いるのか、それとも、徹底した〝拒否〟の思想を貫くのか。
『強権的な収拾策動、中川会館存心館を〝現場検証〟』
無気味に光るジュラルミンの楯、低空を旋回するヘリコプター、放水装甲車、─1969年2月20日早朝、機動隊1800は広小路学舎を襲った。
国家権力の泥靴に踏みにじられたものが、他ならぬ立命館の根底的な変革にむけた「闘い」そのものであり、一切の擬制を拒否して現代社会・現行大学の矛盾と鋭く対決しつつあった多くの学生の「存在」そのものであったことを断腸の思いでわれわれは見た。
凶器準備集合罪の適用による中川会館の強制捜索、存心館・地下道・正面広場の現場検証、国家権力の直接的な介入・弾圧という事態に直面して、立命館の闘争は重大な試練にたたされている。
「教学的見地から機動隊出動にはあくまでも反対、正規の捜索令状にもとずく以上やむをえない」とする大学当局の〝公式見解〟にもかかわらず、この間の一連の大学当局の対応(19日武藤理事は警察当局との交渉でバリケード撤去を確認)、さらに学友会執行部系学生の対応(18日〝正当防衛権〟なる名のもとに存心館の襲撃に出る)をみるならば、この〝強制捜索〟が国家権力・大学当局・学友会事実上三身一体となった闘争圧殺策動の頂点として存在したことは明らかである。
寮闘争のバリケードがつき出した闘いは立命館体制の本質、すなわち四者協議会方式による「学生参加」を謳いつつも基本的には常に理事会─教授会の支配が貫徹し、より近代的な形での学生管理支配機構として存在してきた「立命館民主々義」機構とそのイデオロギーをあますところなく暴露・告発してきた。立命館旧秩序を打破する闘いが、各学部での学部大衆団交、スト体制、全学共闘会議の結成と全学大衆団交(12日)へ全学的な拡大と深化を獲得し、さらに東大・日大の闘争の質をうけつぎ、現在の京大や府立医大の闘争との質的な結合の中で非妥協的な展開が開始されようとした時、国家権力・大学当局・学友会によって、入試強行─闘争圧殺こそは予定されたプログラムであった。
第一には、すでに16日、入試強行実力阻止のデモに対する京都で初の凶器準備集合罪適用、大量逮捕、拘留と弾圧体制を強化しつつあった京都府警は、立命館における闘いの拠点、中川会館を〝強制捜索〟することによって、京大・府立医大と拡大深化しつつある京都の学園闘争の一角を切り崩す狙いをはたした。
第二に、機動隊出動による強制捜索の背景には〝入試強行実施→闘争圧殺〟という基本的な方向での大学当局の一連の動きがあったことを見逃すことはできない。立命館の既存の秩序を根底から否定するものと知りながらも、闘争の全学的拡大・深化の中で大学当局が受けいれざるをえなかった「全学大衆団交」も、その場における末川総長をはじめとする各理事の深刻な〝自己批判〟も、当局にとっては入試強行実施にもつれこむためのセレモニーにすぎなかった。(このことは団交当日の記者会見で武藤理事が語っている)学生がせまっていった立命館の実体的な変革については口をにごし、入試実施を裏づける現実的な教学条件を何ら示すことなしに、「緊急校友集会」、「入試実施説明会」などで立命館ナショナリズムを総動員して入試を強行した大学当局は、入試を完了するや闘争圧殺への全面的な攻勢にでてきた。理事会は一転して全共闘との大衆団交を拒否、さらに法教授会も一部法学部の学生大会決定による学部大衆団交を事実上拒否し、一方では罷免された民青系執行部を暫定執行部として承認するなど、露骨な闘争圧殺の策謀を行なってきている。
そして今回の〝強制捜索〟に関しても、たてまえ上は府警の独自の判断ということであるが、大学当局は府警側と数度の交渉をもち、①中川会館・存心館の封鎖解除を確認していること②機動隊出動の時機、捜索の範囲などについて談合が行なわれた疑いが強い(18日学友会が存心館を襲撃している際の記者会見で武藤理事は「存心館の封鎖が解除された時点で機動隊が入る」と語っている)などから、高度の政治的な判断で、闘争収拾の方向で実質的な機動隊〝導入〟がはかられたと考えるべきであろう。
大衆団交における自らの自己批判の確認もかなぐりすて、闘争収拾に向けジグザグコースのすえに機動隊導入を計った大学側は、もはや教育者としての責任を一切果しえないことを知らなくてはならない
(「立命館学園新聞昭和44年2月22日」(立命館大学新聞社、1969年))。