二十歳の原点序章(昭和42年)
高野悦子「二十歳の原点」案内 › 序章1967年6-12月 ›
1967年 6月15日(木)
きのう長沼さんと山川さんと酒井さんとの四人で大徳寺へ行く。
これはグループデートだった。
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大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」
大徳寺
大徳寺は、京都市北区柴野大徳寺町にある禅宗の寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。敷地内には多くの寺院が立ち並んでいる。立命館大学広小路キャンパスからは、京都市電5号系統で乗り換えなしのルートで、府立病院前電停─(京都市電河原町線)─(京都市電北大路線)─大徳寺前電停
大徳寺は「夢窓と並んで禅林の双璧とされた大燈国師により創立され天下無双の禅苑といわれた」。「京都において臨済禅が圧倒的であったという理由は、曹洞禅の方が祈禱などを伴って宗教性がつよかったのに比して、臨済禅には教養的な文化性がつよく、そのことが京都にうけいれられたからであろう」。「禅寺はそれほど親しみぶかいものではない。しかしそのなかにながれる文化性は、こんにちでも一つの魅力になっているようだ。その文化性の一つの現われが茶であった」
(林屋辰三郎「京都」岩波新書(岩波書店、1962年))。
黄梅院と大仙院をみる。
黄梅院
黄梅院は、大徳寺の敷地内にある寺院である。禅宗の僧、弘忍のゆかりの地である中国・黄梅県破頭山東禅寺に由来して名付けられた。
当時は大徳寺で拝観できる寺院の一つだったが、現在は通常、一般公開されていない。
1562年に織田信長が父信秀の追善に建立した黄梅庵に始まり、1586年に豊臣秀吉が本堂を改修した。本堂前庭の破頭庭(はとうてい)は天正年間の作と伝えられている。
庭石のある直中庭(じきちゅうてい)は千利休66歳の時に作られた枯山水庭園である。当時は書院庭園と呼んでいた。豊臣秀吉の軍旗ひょうたんをかたどった池を手前にし、不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯籠を左に配置している。
日本最古の茶室である昨夢軒は、千利休の茶道の師である武野紹鷗作である。2011年に修理が施された。
大仙院
大仙院は、大徳寺の敷地内にある寺院で、大徳寺内の寺院では最も有名である。
国宝に指定されている本堂は創建当時(1513年)の建物で、内部の玄関と床の間は日本最古とされている。1960年ごろに銅板ぶきになった屋根は、2008年に修復され、創建当時の姿である檜皮(ひかわ)ぶきになっている。
また国の特別名勝に指定されている庭園は枯山水の代表的な庭園の一つで、峡谷を発した水が、大河となって流れていく全景を象徴的に示したものといわれ、室町時代・東山文化を代表する名園として高校日本史の教科書にも登場する。
大仙院の住職に山川さんはすっかり気にいられた。あの坊さんはふざけているのかまじめなのかわからない。何とかかんとかいわれながら、五〇円のまっ茶代をはらわされた。
尾関宗園
高野悦子が会った大仙院の住職は、尾関宗園である。
尾関宗園(1932-)は1965年から大仙院の住職となった。後に讀賣テレビ放送(日本テレビ系列)のワイドショー「2時のワイドショー」の人生相談に出演していたことで有名。“今ここで頑張らずにいつ頑張る”の言葉でも知られる。
2007年に住職を退いたが、今も寺院内に姿を現わして、記念品へのサイン入れを行ったりしている。写真撮影をすると「坊主がポーズ、マヨネーズ」などと口ずさんだりする。
現在の住職の大和良章に、日記の記述についてうかがったところ、「ここに登場する住職は尾関宗園に間違いない。それにしても抹茶代が50円というのは古いなあ」と言う。
山川さんは坊主頭だったために尾関宗園に気に入られた。