高野悦子「二十歳の原点」案内 › 序章1967年4-5月 ›
1967年 5月 2日(火)
晴
5月2日京都:晴・最低10.7℃最高24.7℃。
きのうの行動のあらましをかいておくと、
九・〇〇AM 登校
立命館大学統一集会
5月1日(月)午前9時30分から広小路キャンパス存心館前で、学生・教職員ら約1,000人が参加して第38回メーデーの立命館大学統一集会が開かれた。
統一集会とは、六者共闘(立命館大学六者共闘会議、一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・生活協同組合・生活協同組合労働組合で構成)によって開かれたためで、前年の民青系と反民青系の〝分裂メーデー〟から、この年は集会が統一された形となった。
統一集会では一部学友会(この時点で執行部は反民青系)書記長、二部学友会(民青系)書記長らがそれぞれ壇上でスピーチした。
このあと一部学友会が主催する反民青系集会と二部学友会等が主催する民青系集会が開かれた。
高野悦子が加わっていたのは、研心館前で開かれた民青系集会の方で、約600人が参加した。
民青☞1967年12月13日
民青系集会では文学部4年生が「本日のメーデー六者共闘の実現は、一つの成果であり、これをステップに全学友は全学連(民青系全学連)の旗の下に団結して闘おう」と訴えた。
一〇・三〇AM 出発
~河原町今出川~同志社前~堀川今出川~二条城
高野悦子が加わっていた民青系集会の参加者はデモ行進に移り、「佐藤(栄作)政府のベトナム侵略加担反対」「ベトナム人民を支援しよう」などのシュプレヒコールをくり返しながら二条城前広場に向った。
(ここで立命館大学全学連はすべて集まり、また防衛隊が組織された)~御池通り~河原町通り~四条河原町~円山公園~散会
ここでいう立命館大学全学連の「全学連」は、3つの全学連のうち民青系全学連のことをさす。さらに京都についても京都府学連(反民青系)と民青系府学連があったため、このグループは民青系全学連の旗の下に集まる民青系府学連支持者グループということになる。二条城前広場では、同志社大学や京都大学などの民青系府学連支持者の学生約700人と合流した。
三つの全学連☞1967年4月22日
「防衛隊」とは、民青系が自らの側で実力行使をする(あるいはその用意がある)組織についての呼び方。防衛隊が組織されたのは、二条城前広場に集った京都府学連(反民青系)のグループが円陣を組んで打ち合わせをはじめたことに対して、警戒したためとみられる。
午後0時すぎ、「二条城前を出発しようとした京都府学連(反日共系)の学生約500人と、日共系の府学連の学生約1,200人が先陣を争い堀川通姉小路付近でもみあいとなり、双方に数人の軽いケガ人をだした」
(「京都新聞昭和42年5月1日夕刊」(京都新聞社、1967年))。
高野悦子が加わっていた民青系府学連支持者グループのデモ隊は、午後1時すぎに円山公園に到着したあと、集会を開き、5月6日・7日の「憲法20周年記念集会」へ参加を訴えたあと、午後1時30分ごろ解散した(本項全体について「立命館学園新聞昭和42年5月11日」(立命館大学新聞社、1967年)参考)。
二・三〇PM
昼食、一たん学校へもどり、荷物をとり帰宅。
再補欠入学反対!…
文学部、理工学部、法学部の3学部が多数の再補欠入学者を出したことに対して、学生側からは教育環境の悪化、再補欠入学者のコンプレックス、大学に対する社会的評価の低下のおそれなどから反発の声が出ていた。
再補欠合格☞1967年4月9日
私達が国際学連の歌や沖縄を返せの歌をうたっているのや、
国際学連の歌(1949年)は、ソ連(現・ロシア)の曲に東大音感合唱団が訳詞を付した歌。戦後の学生運動、とくに国際学連との関係で民青系が中心に歌っていた。歌声喫茶の定番としても有名。
沖縄を返せ☞1967年4月26日
1967年 5月 9日(火)
曇
京都:曇時々雨・最低14.2℃最高21.8℃。午前中は曇っていたが、昼からは雨になった。
新聞をよんで毛沢東の『矛盾論』をよみかえしている。
毛沢東著、松村一人・竹内実訳「実践論・矛盾論」岩波文庫(岩波書店、1957年)。毛沢東によって書かれた論文の日本語訳である。
唯物論と観念論についてのことや、ベトナムの歴史、哲学の講義をきき、認識論をやってみたいと思った。
ベトナムの歴史☞1967年5月2日「ベトナム戦争反対! アメリカはベトナムから出ていけ!」
哲学の講義は、前日の5月8日(月)である。
☞1967年4月17日「哲学の舩山先生」
「知識の本質、その主体、対象、起源、発展、範囲を論ずるものは認識論である。認識論は古代にもあるが、とくに近世哲学の産物である。デカルト、ロックなどに認識論は見られるのであるが、認識論が独自の問題として、そして哲学の中心問題として問題になったのはカントにおいてである。…(中略)…現在は唯物論においては認識論が重んじられているが、実存哲学においては認識論の欠如が、その一特色として指摘されよう」(舩山信一『認識論としての哲学』「哲学概論」(法律文化社、1956年))。
なお舩山信一「観念論から唯物論へ」(大畑書店、1934年)。
ヘッセの本もよんでみたい。
ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、詩と小説で知られるドイツの作家。
☞二十歳の原点ノート1966年1月4日「宮駅でヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』(角川文庫 一二〇円)を買う」
☞1967年6月16日「ヘッセの詩を想いだした」
☞二十歳の原点1969年3月29日「ヘッセときいて「雲」を思いうかべ」