高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年11月25日(土)
 風の強い日
 京都:曇時々雨・最低6.6℃最高13.4℃。最大瞬間風速11.2m。

 荒神口食堂で飯田さんと話していて、
荒神口食堂
 荒神口食堂は、京都市上京区荒神口通河原町東入ルにあった食堂。
荒神口通地図荒神口食堂跡
 並んでいるおかずをトレー(盆)に取っていき、それにライスとみそ汁、漬物を付けるスタイルの定食店。サバの煮付けや粕汁が人気メニューで、うどんなど麺類や丼物もそろえていた。1967年当時は朝食が80円、昼食と夕食が90円で繁盛していた。
 当時の店の人の話では、作詞家の北山修(1946-)や映画監督の大森一樹(1952-)が京都府立医科大学生の時に出入りしていたほか、寺町通に自宅があった元法務大臣の田中伊三次(1906-1987)も顔を出したことがあるという。かつての荒神口通では立命館大学の学生だけでなく、近くにあった久邇洋裁学校の女子生徒も多く見かけたとのこと。
 建物は現存せず、別のレストランになっている。

 二十歳の原点で登場する宮原さんは、荒神口食堂について「よく利用してた。安いし、いろいろ品数が取れる。ぼくは、決まった定食より、そういうのが好きだった。でも1969年の3月だったかなあ、恒心館のバリケードの時に、普段は中で食事してたけど、バリケードを出て荒神口食堂に入って朝食を注文したら、張り込んでたデカがどっと来て、そのまま中立売署に連れて行かれたことがあった」と話している。
振り切られた・宮原さん

 樺美智子の「徹底的学習と闘争の中でのみプチブル性はなくなっていく」
☞二十歳の原点ノート1966年2月10日「奥クンが理想としていた樺美智子さんの『人しれず微笑まん』も読める」

1967年11月27日(月)
 たんぽぽのうたをうたいます
 「たんぽぽの歌」は、高田敏子作詞・牧野統作曲で、主に小学生向けの合唱曲である。

 いんたあなしょなるもうたいます
 インターナショナル☞二十歳の原点1969年4月29日

 きりのかなたにもすきです
霧のかなたにジャケット 「霧のかなたに」は、なかにし礼作詞・中島安敏作曲で、黛ジュンが歌う曲である。
 同曲シングルは、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)で1967年7月5日発売され、発売後の1967年11月2日から始まったオリコンの集計分では売上1.9万枚、オリコン最高23位。

 黛ジュン☞二十歳の原点1969年5月12日「〝寂しかったから口づけしたの〟じゅんちゃんはうたう」

 ふなきかずおがすきでした
 いしざかこうじもすきでした
 舟木一夫☞二十歳の原点ノート1963年12月28日
 石坂浩二(1941-)は俳優。1960年代からテレビドラマに出演している。

 のうそんぶらくのもんだいはとてもむずかしいです。
 立命館大学の部落研では1967年夏に、京都府福知山市と綾部市の2つの農村地域で「2週間にわたる調査活動に取り組んできました。これは、昨年から京都学生部落研協議会の取り組みとして行われているもので、8つの大学から100名以上が参加し、私たち研究会も、日常的な西三条での地域活動を続けることと、同和教育推進の学内での闘いが重大な時点を迎えているといった困難な状況にもかかわらず、20名近くの会員が参加し」(『農村調査活動報告』「前進44号」(立命館大学一部部落問題研究会、1967年))たと報告されている。
☞1967年8月9日「七月二十~八月一日 農村調査」

1967年11月28日(火)
 雨
 京都:雨・最低9.7℃最高15.3℃。朝からずっと雨だった。

 学校に行ったのが五時半。家に着いたのが十二時、
 五時になると十一月末なのでもう薄暗い。三条大橋を歩いていて生活が乱れているなあとしみじみ思った。
この日の動き夕闇の三条大橋
 京都市の11月28日(火)の日没は午後4時47分。

 食堂で梅沢さんに民青加入を勧められたが、
 梅沢さんは、部落研の部員。
☞1967年7月16日「こくらさんと梅沢さんが明日の合宿のことを話しにきてくれた」
 民青☞1967年12月13日
高野悦子「二十歳の原点」案内