知恵ノート:天理教及びその分派の誤りを破す


所詮天理教は中山みきなる本来は精神病院送りになっている一人の女の妄想上の神を信仰の対象にしているということです。


精神医学では、この中山みきのような神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている天理教など、まともに信ずるに値しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
「万物創造の親神」などというものは、単なる中山みきの妄想の産物です。

天理王命なる神は本来は精神病院行きのキチガイ女である中山みきの妄想上の神であり、現実に地上に現れたことはありません。従って存在いたしません。
曖昧も何もありません。ハッキリしております。
陽気ぐらしをするために神が人間をつくったのが本当であるとして、中山みきが神がかるまでの数百万年の間天理王命は何をしていたのでしょうか。
非常に怠慢でいい加減な神であり、そのような神が人類を救えるはずがありません。


憑依妄想を出発点とする宗教は分裂し害毒をばらまき続ける


新宗教で神がかったとか霊が憑いたという現象は日常生活の中でも特殊な精神状態に至った時に起こりうる出来事であり、それによって神理が説かれるとするならば、世の中には無数の神理が存在します。
天理教は中山みきによって創唱された怨霊・啓示の宗教ですから当然教祖中山に備わる神理を絶対とします。しかし、反面、教団の中には大勢の幹部たちがいて、彼らにも独自の神理があることになります。
このような憑依妄想から出発している教団の宿命は、将来沢山の教祖と神理なるものを産み出し、分裂するということになります。これは邪宗の弊害であり人々に不幸をもたらすことになります。


世界心道教


Q:豊川市に本部がある、世界心道教とはどのような
新興宗教ですか?
お金を寄付するほど、徳を得ると聞いたのですが?
カルト集団ですか?

A:世界心道教とは天理教教師をつとめていた教祖會田ヒデが、1938(昭和13)年3月15日、大阪・西淀川で月読之命、国狭土之命が教祖の体に天下って立教したとされている教団です。
そのようなものは教祖會田の憑依妄想・精神錯乱です。
ですのでまともに信ずるに値しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
月読之命、国狭土之命なる神は會田ヒデが神がかるまで一体どこで何をやってきたのか?
宇宙を創造する以前はどこに存在していたのか?そしてどのように神になることができたのか?
教団では説明できず最初から存在した神として立てています。
物事にはすべからく原因があって結果が存在しています。これを因果の道理といいます。
生じる原因がなく、元々存在していたなどと言うのは根本的に道理に外れていてそのような神は存在いたしません。
教祖の精神錯乱からスタートしている教団は天理教、霊波之光、大本、世界救世教、エホバの証人、天照皇大神宮教、大山ねずの命教団などがありますが、精神病的な妄想が出発点となっている教団が人を救えるはずがありません。
従って世界心道教はインチキ教団です。信じるに値いたしません。1日も早く脱会しましょう。


おみち


宗教法人おみちは天理教脱会者が天理教をモチーフにして創立したインチキエセ教団です。
当然天理教と教義は酷似しています。
「宗教法人おみち本部」(奈良県北葛城郡河合町)
代表・福留修司(お社様と呼ばれている)
昭和23年10月26日、奈良県北葛城郡王子町生まれ
4代に渡る天理教信者
平成2年1月脱会
平成2年3月「お道を慕う会」設立
平成2年8月「お道を慕う会」が公認され「おみち」と改名
12年前に『神の証』を出版。
本部に巨大パルテノン神殿や古代ギリシアの壁画を建立している。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1125974096


ほんみち


ほんみちなる教団は天理教の信仰に行き詰った大西愛治郎なる者が大正2年(1913年)7月15日に精神錯乱を起こして自分が天理教の教祖中山みきの後継者であると主張しだして天理教を追放になった後、大正14年(1925年)に創始した教団です。教義・化儀も多くが天理教と共通しています。
現在、大阪府高石市羽衣3-1-72に本部があります。
ほんみちでは「近い将来に世界的危機が起こる」などと恐怖感を煽って信者を教団内にとどめようとしています。
インチキ教団がよく使う手口です。


モラロジー研究所


モラロジー(最高道徳)とは、財団法人の看板を背負ったインチキ教団です。実践倫理宏正会が社団法人の看板を背負っているのと同じ擬似宗教であります。
その教義は「釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する」というものです。
しかし結局は大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操にどれでもよいと考えており、生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけているだけです。
仏教は造物神は立てません。キリスト教も天理教も仏教の因果の道理や三世の生命は認めていません。
相反する教義なのに、いいところを取って信仰するなんてのがメチャクチャなのです。
道徳は現世での生き方は説きますが、過去(世)の救済方法、未来(世)への功徳の積み重ねについては説いていません。
本来信仰と道徳は別物なのです。
このようなモラロジーなる信仰は二重人格、精神不安定な人を生み出す結果となります。