インチキ教団天理教の誤りを糺す
天理教の成立
天理教は、中山みきによって幕末に創立された、新興宗教の草分け的な教団です。
みきが41歳の時、みき夫婦と長男の病気平癒の祈祷を修験者に依頼しましたが、祈祷の加持台(かじだい=神が降りる中継人)の代理になったみきが神がかりとなり、「この世のすべての人を救うため、神の住む社としてみきを差し出せ」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまうぞ」と夫・善兵衛を脅しました。
結局これに善兵衛が応じ、みきを社として差し出しました。こうしてみきが「神のやしろ」と定まった天保9年(1838年)10月26日を、天理教では立教の日としています。
嘉永7年(1854年)、みきの祈祷によって三女が無事に出産したことが評判となり、近隣の妊婦にも祈祷をして「をびや神様」と呼ばれるようになり、この「をびや許し」と病気治しで、次第に信者が増えていきました。
教義の内容
教団では信仰の対象を「目標(めど)」と称し、
(1)「ぢば」・・・親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所。現教団本部の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」が置かれている。
(2)「親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)」・・・人間をはじめ、世界を創造した根元の神。教祖みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人々を一切の苦から解放して、喜びずくめの生活(陽気暮らし)へと導き、すべての人々を守護する。
(3)教祖・中山みき・・・死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在していて、親神による人類救済はこのぢばを中心に行われているとする。
の3つを挙げています。なお、教会では天理王命の象徴として神鏡(しんきょう)を、教祖の象徴として御幣(ごへい)を祀(まつ)っています。また信者の家では「神実(かんざね)」という小さな神鏡を祀ります。
また教典としては、
(1)『おふでさき』・・・みきが親神の教えを歌形式で記したもの。
(2)『みかぐらうた』・・・みきが作った数え歌。人間が陽気暮らしを実現するための方法を示しているとする。
(3)『おさしづ』・・・教祖みきや本席・飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を筆記したもの(ほとんどは伊蔵によるもの)。
の3つがあり、これら3原典に基づいて昭和24年に編集されたものが「天理教教典」です。
天理教の誤りについて
①教祖中山みきの憑依妄想・精神錯乱から始まっている教団
精神医学では、この中山みきのような神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている天理教など、まともに信ずるに値しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
「万物創造の親神」などというものは、単なる中山みきの妄想の産物です。
天理王命なる神は本来は精神病院行きのキチガイ女である中山みきの妄想上の神であり、現実に地上に現れたことはありません。従って存在いたしません。
曖昧も何もありません。ハッキリしております。
陽気ぐらしをするために神が人間をつくったのが本当であるとして、中山みきが神がかるまでの数百万年の間天理王命は何をしていたのでしょうか。
非常に怠慢でいい加減な神であり、そのような神が人類を救えるはずがありません。
太陽も地球も46億年前に誕生したことが科学的にも証明されています。元より存在しているものではありません。宇宙然りです。
天理王命は宇宙や天地が存在する前はどこにいたのでしょうか?
宇宙天地か存在しないと、天理王命が存在する素地すら存在しません。
また人間は神になれないということは、絶対的な差別を説いている教えということになります。
神は造った側、人間は造られた側です。その差別は埋められません。
仏教は徹底した原因があって結果があるという因果の道理を説いています。
釈尊も日蓮大聖人も両親があって生まれ、修業することで仏になったのです。
同じ原因をつくれば誰でも仏になれます。
本来は精神病院送りになっている一人の女の妄想上の神を信仰の対象にして、絶対的な差別を説いている天理教と、絶対平等を説いている仏教とどちらが高く、正しく、勝った教えかは仏教であることは一目瞭然です。
②「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」
これは昔、世間の人々が天理教を揶揄したものです。
人は、「生活に最低限必要な金銭・財産は確保したい」と思うのが当たり前です。そうでなければ、当たり前の社会生活に破綻をきたすからです。
ところが天理教では「貧に落ちきれ」と言い、「どんな境遇でも心の持ち方一つで陽気暮らしができる」などと無責任な人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。
あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を壊滅に追い込みかねないことまで言っています。
これでは、信者は単なる「教団の奴隷」でしかありません。
こうして信者から集めた莫大な金で、真柱以下の教団幹部がどのような暮らしをしているのか、彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。
③実行不可能なことを教義として弄ぶ矛盾
天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。
では、天理教で懸命に天理王命を信じて、「はらだち(怒)」が消えてなくなった人はいるでしょうか。いるはずがありません。
すべての欲がなくなった人がいるでしょうか。いるはずがありません。「病気を治したい」と願うことも欲です。
まったく怒りがない人間などいません。
このように実行不可能なことを教義として弄びますと精神不安定となるか二重人格となるかのいずれかです。
人間本来の姿を無視して、しかもそれがすべての不幸の原因であるなどとは、因果の道理を無視した妄説でしかありません。
「五欲を離れず」、「煩悩を即ち悟りに転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い、低級信仰と呼ばざるを得ません。
④ 荒唐無稽な珍説
天理教では『泥海古記(どろうみこうき)』なる神話に、「どじょうが人間のたねであった」などと、荒唐無稽な珍説を並べています。
寝言は寝ているときに言うべきです。
こんな非科学的な、馬鹿げた話が元になった宗教を信じてしまったら、みんな馬鹿になってしまいます。
こんな非科学的な、馬鹿げた話が元になった宗教など信じるに値しません。
真実の宗教とは、科学と反するものではありません。むしろもっと広く深い立場から、現代科学をもその体内に包みこむものです。
天理教のような当たり前の道理を無視した教団が、まともな宗教であるはずがありません。
邪宗天理教から1日も早く脱会しましょう。
インチキ教団の信者は「神は証明不可能なものだからありがたいものなのだ」
などと言いますが、神の存在を証明できずしてどうして信じることなどできるのでしょうか。
そんなものは単なる盲信に過ぎません。
参考資料:内外相対
諸宗教破折 天理教 平成23年5月16日大白法
もはや、理解不能 道理に反する「神さま」
天理教では、人類の創造主を親神と呼び、それが天理王命なのだと言う。
その教祖は、江戸時代末期の「中山みき」という神憑りの女性で、自らの寿命を115歳と予言していたが90歳で亡くなった。
教祖が今も存命中?
理解できないのは、教祖が明治20年に亡くなったとする一方で、今なお「ご存命のままにお働きくださる」(教団のHP)と述べることだ。そして。この支離滅裂な主張を「教祖存命の理」などという教理に仕立てている。
これに基づき、彼らが人類発祥の地だと言い、「ぢば」と呼ぶ教団本部の中心地では、教祖のために、毎日3度の食事や風呂が用意され、テレビまで置かれているという。
江戸時代の人である「教祖さま」は、果たしていかなる番組を御覧になるのだろう?
江戸時代生まれの人間が、この平成の世に生き長らえていると言い張ること自体、生物学的にも、道理の上からも、全く滅茶苦茶な話である。
人間の起源はドジョウ!?
また、天理教では、親神が人間を創造した理由を、
「親神様は陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと思召して人間を創造された(教団のHP)としている。要するに、人間が陽気に暮らす姿を見て共に楽しみたいからだというのである。何といい加減な理屈だろうか。
さらには、
「泥海中のどぢよを皆食べて、これを人間の種とし云云」(教団のHP)と、人の種はドジョウであり、それから虫、鳥など、様々な動物に生まれ変わる段階を経て、人間が誕生したとする。
「進化論」を説いたダーウィンもビックリの持論に、普通は誰もが首をかしげる。これほどまでに、因果の理法や道理を無視した教えは、そう易々と見当たらない。
極貧で陽気に暮らせ?
天理教には「貧に落ちきれ」という教えがある。これは、教祖が全財産を貧しい人々に施した話に由来するそうだ。
本当に貧に落ち切れば、現代社会において陽気に暮らすことなどできまい。そのくせ、教団は多額の寄付金等を元手に、病院や学校、図書館などを運営し、営利企業顔負けの宗教ビジネスを展開している。信徒には「貧」を説きつつ、教団は「富」を追い求めているのである。
そういえば、かつて天理教は「搾取の宗教」と批判されるほど、献金集めに奔走して歴史がある。今でこそ、世間の風当たりを気にして八方美人に振舞っているが、右手で世の人を援助する姿を見せつつ、左手では信徒から多額の寄付を搾取していることに変わりはない。
純粋な信徒が、健気に貧に落ち切っても、謗施のゆえに、決して報われることはない。より大きな罪過を重ねて苦悩に陥り、教団からはさらなる貧が求められるのである。
まさに貧の連鎖。「貧に落ちきれ」教団には都合のよい教えである。
三証整足の正しい教えとは
道理を違える宗教が正しいはずはない。人の幸不幸を左右する信仰の次元では、いくら無理を通しても、道理が曲がることは絶対にないのだ。
ゆえに日蓮大聖人は「四条金吾殿御返事」に「仏法と申すは道理なり」(日蓮大聖人御書1179頁)と、正しい宗教は、まず道理に適っていると御教示されている。
さらに「三三蔵折雨事」には「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文にはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(日蓮大聖人御書874頁)とも御教示されている。
日蓮正宗の僧俗が、現実に広大な功徳を得て、明るく楽しく仏道修行に邁進している現実の姿こそ、大聖人の仏法が唯一、真実の教えである証左に他ならない。
常識的にも、全く道理からかけ離れた邪論に翻弄される人々を救うのは、我等の実践行動以外にないのである。