霊波之光信者竹田氏の珍論をまとめて破折
したがって、葬儀そのものについては、信仰そのものではありえず、
本来、それを信仰自体に含めているとすれば、霊波之光の教え自体に反するからです。
たとえば、一般にまたは正規の宗教の中にも、
先祖の供養や亡くなった人を供養して願いをかなえてもらう等々の観念を潜在的にもっている場合が多いわけですが、霊波之光の教えによれば、亡くなった人間の霊にそのような力はないものであり、
葬儀葬式、その他の供養行為は、現存する縁者の心を癒そうというもの、
または、現存者が祖先への感謝の気持ちを持ち、自己の寿命をまっとうすると、
自らのために誓う等々精神的作業をするための儀式に過ぎないのであって、
それによって何らかの災難を除こう等のものではない(また、そのような効力というべきものもない)ものです。
破折
1 生命というものは生と死を繰返しながら永遠に続くものであります。
一般的な道理で説明いたしますと現代科学では質量不変の法則というものがあります。
宇宙の中に存在しているものはたとえ形が変わってもそれを構成している分子の数は不変であるということです。
水は分解すると水素と酸素となって空気中に存在しておりますが、それを結合させると再び水となります。
このように形は変わっても分子の数は変わらない、これを質量不変の法則というわけです。
生命だけが死ねば無になるというのは整合性がありません。
また仏法の上から検証しますと亡くなった人のご遺体の上に大苦悩を味わっている場合は地獄の相、
成仏の幸福感を味わっている場合は成仏の相という違いが現れております。
地獄の相はご遺体の目が見開いて、口を大きく開いてしまったり、
あるいは目も口も固く閉じてしまう等の凄まじい形相になってしまう、
遺体が硬直したり、紫の死斑が出たり、全身がどす黒く変色したり腐敗臭が出るなどがあります。
葬儀屋さんはそれをうまくごまかすためにドライアイスや防腐剤、死に化粧を施すわけであります。
成仏の相とは目も口もうっすら開いているほど穏やかな表情で肌の色は色白の艶のよい肌となる、
全身は綿のように柔らかくなり、死後硬直は起こらない、腐敗臭は出ないという特徴があります。
生命は死によって無になるのではなく、死んだ後も継続していて、
死後の生命には全身を焼き尽くされるような大苦悩にあえいでいる地獄の生命もあれば、
成仏の境涯を得て安息している生命もあります。
霊波之光の論理は「死んだ者には用はない」という考え方であり、
それを「人間は生まれ変わらない」という論理を展開していますが、
「霊波之光教会」としての、つまり、法人としての活動に関して何かを不正に購入させ、金員を不正に出資させるための行為は一切ないものと、私自身が可能な限り客観的に霊波之光を観察する限り断言できる、ということです。
つまり、個々の信者間での様々な不正、不誠実、不謹慎、不道徳、不心得、およそ非信仰者の常識にすら劣後する精神的未熟さは、私は全く否定しません。
むしろ、そのような事実があったとして、驚きません。
霊波之光では、自発性が信仰の本質の一つを構成しており、個々人が教えを守ろうということに真剣になるか否かは全ては最終的に当人の心のあり方に期待するほかないわけです。
破折
日蓮正宗では日蓮大聖人を根本の師つまり本師と仰ぎ、第2祖日興上人、第3祖日目上人以来、御歴代の御法主上人方がその時代における大聖人の後継者・代理者であり根本の正師と仰いでおります。
現在は第68代日如上人猊下を本師と仰いでおります。
実際の日常の信仰においては、御法主上人猊下より御僧侶が各寺院に指導教師御住職として派遣されて猊下の御名代として信徒を指導しておられます。
指導教師御住職の立場は本師に対する小師の立場であります。
そして正しい信仰をして行くことになるのであります。
その日蓮正宗で小師と呼ばれる指導教師の立場の人が霊波之光におられますか?ということであります。
教会担当と呼ばれる職員さんたちも現実に疑問や質問にきちんと答えられるかと言うと答えていないのが実情なのではありませんか?
教義が元からないのですから教義に基づいて分かりやすく説明などできるはずがありません。
結局1人信心のようになり班長などの役員達は自分で勝手に解釈したり、勝手に作り出した「教え」なるものを説いているのではありませんか?
そのような者に振り回される一般信者は哀れなものです。
信仰にまじめな者ほど迷い、精神が不安定になり、無間地獄に堕ちて行くのは皮肉なものです。
>個々の信者間での様々な不正、不誠実、不謹慎、不道徳、不心得、およそ非信仰者の常識にすら劣後する精神的未熟さは、私は全く否定しません。
>自発性が信仰の本質の一つを構成しており、個々人が教えを守ろうということに真剣になるか否かは全ては最終的に当人の心のあり方に期待するほかないわけです。
とありますが、きちんとした指導教師がおり、きちんとした教義があれば多くは防げます。
また自発的に教義を守るのは信者として当たり前のことであり、できないのであれば、脱会されることです。
また教義がないのを「自発性」などという言葉でごまかすのは誤りです。
日蓮正宗では日蓮大聖人以来、同じ日蓮正宗の仏法を信じる者同士が互いに悪口を言ったり、
うらんだりすることを厳しく戒めております。
しかもその悪口の内容が事実だろうと事実でなかろうとダメであるとされております。
なぜなら日蓮大聖人は日蓮正宗の正しい本尊を拝む者は既に仏の生命が湧現しているわけですから、
現在の信心修行の功徳が因となり、必ず将来に、立派にその姿が改まってくるという果が顕われるのであります。
仏になったという果よりも、仏になるための確実な因を重んじているのです。
ですからすでに日蓮正宗の正しい本尊を拝む者は仏であるとされており、
その仏をうらみ、悪口を言う者は謗法となり必ず仏罰を被ると仰せられております。
また他人の正法信仰の芽を摘み取ることも固く禁止されております。
御本尊様や御僧侶や他人の悪口を言う行為は、本人が自覚するしないに関係なく、
他の信心が弱い信徒の信仰を破壊し、また世間の人々をいっそう正法につけなくしてしまうことで、
恐るべき大重罪であります。
そこまで霊波之光では長谷義雄教祖はきちんと説いているのでしょうか?
あの薄っぺらい、まともに解説することのできない意味不明の「御書」なる本にはそういうことは書かれていないのでしょうか?
いないでしょうね。
指導する教師もいない、信者間の対応を教えるルールも存在しない。
そういう組織を「糞壷」と申します。
第一に教えを知ること、第二に教えを実行すること、
第三に実行を相当程度(たとえば一年間)に区切って継続すること、
第四に期間経過後、その期間の全てを振り返り、その期間前の人生と、期間内および期間後の人生を比較すること。
期間内および期間後によって確認されたことが結果であり、その結果が教えに整合したものであれば、
その教えは正しく、不整合のものであれば偽りであると半ば機械的に出てくるものであります。
ただ、中でも、特に教えが精神的な心の持ち様に関することであるからこそ、
人間はだれしも、自分に甘いのが通常であるため、それを実行「しきる」ことは、なかなか難しいわけです。
そして、批判派の多くの事例では、第一の部分または第二の部分が、
徹底的になされていないことに、まず大きな原因があるのであり、
これはいわば、医者から必要な治療を指示されたのに、面倒だからといって、
その指示どおりに治療を受けずに、良い結果がでなかったからといって、
その治療および医者に責任を転嫁するかのごとき行為を日々行っているわけです。
話を戻せば、そのような機械的過程の中から、私にとって結果というべきものはいくつか認められ、
それは教えに整合するものであるから、正しいという結論に至ったものです。
これは、神通力の存在についても非科学的、人的能力の範囲外の現象による決定的なものを含みます。
ただ、この神通力の点は、私はあえてこの掲示板上で強調してこなかったのはご覧の通りです。
なぜなら、それを掲示板上で証明できないからです。
破折
まず第一に教えを知ることとありますが、入信した人に教えというものをきちんと教える教師というものが存在しなければならないはずであります。
そして第二の教えを実践させる上でも教師の指導がなければなりません。
学校の勉強にせよ、資格の勉強にせよ、仕事にしたってまず教わらなければ
覚えようもないというのは当然の道理です。
霊波之光で教義を教え、実践させるために指導する教師がおられるのかということです。
信者たる班長や組長は本来は組織内の世話役でありまして、
教義を専門的に教えるのは霊波之光の職員が行なわなければならないはずです。
なぜなら職員は教義について長谷義雄教祖や現教主の長谷敬詞氏について専門的な教育を受けているはずであり、
それをきちんと信者に対して指導するのが本来の役割だからであります。
現実はどうでしょうか?
職員などはまず信者を指導することなどまずありませんし、
班長や組長も勧誘した人も実は教えなるものなどわかっていないのです。
わかっていないというよりも元々教義などなく、抽象的で文証もないものを「教え」にしてしまっているのです。
1人1人解釈も違い、1人1人が勝手に教えなるものを作り出して布教しているというのが
霊波之光の現実であります。
ですから教義についてきちんと入ったばかりの人に説明して実践させることなどできません。
Tさんの論理は前提から崩れているのです。
また第三の「実行を相当程度(たとえば一年間)に区切って継続すること」とありますが、
霊波之光の信仰の目的とは何かということをわかっておられないのではないでしょうか?
おおよそ信心というものはどの宗教でも
一生に渡って継続していかなければならないと説かれているものであります。
1年でやめていいとか病気が治ったらやめていいなどとは説いていないはずであります。
そういうように霊波之光がいっているのでしょうか?
自分の教祖の書いた「御書」なる本で証明されるとよいでしょう。
Tさんの論理は信仰について無智であると断ぜざるを得ません。
また第四ですが、>期間内および期間後によって確認されたことが結果であり、
その結果が教えに整合したものであれば、その教えは正しく、
不整合のものであれば偽りであると半ば機械的に出てくるものであります。―とありますが、
おおよそ正しい宗教の「現証」にはなぜそれが正しいのかということを証明する経典上の証拠つまり文証、
そしてそれが因果の道理に合致しているかどうかという「理証」があって
はじめてその現証によりその宗教は正しいということになります。
そうでない現証は「魔の通力」であります。
魔の通力であるならばどこの宗教にでもあり、何も霊波之光だけが特別なのではありません。
Tさんの論理はどうして霊波之光でなければならないのか?
霊波之光だけがなぜ正しいのか?という根拠が薄弱であります。
正しい教えが2つも3つもあるはずがありません。
>特に教えが精神的な心の持ち様に関することであるからこそ、
人間はだれしも、自分に甘いのが通常であるため、
それを実行「しきる」ことは、なかなか難しいわけです。―とありますが、
教義の指導や教義の実践の指導が指導教師によってきちんと行なわれることが前提であります。
きちんと教義とその実践について霊波之光教団の指導教師は指導しました。
あとは本人のやる気の問題です、心の問題ですというのでしたら間違ってはいないでしょう。
教義が存在せず、指導する教師のいない霊波之光ではどう教義を学び、
実践するのか分からないということとなります。
Tさんの論理は前提からして破綻しております。
しかしこれはTさんの責任ではありません。
霊波之光の教義的な限界であります。
さて最後の
>神通力の存在についても非科学的、人的能力の範囲外の現象による決定的なものを含みます。
ただ、この神通力の点は、私はあえてこの掲示板上で強調してこなかったのはご覧の通りです。
なぜなら、それを掲示板上で証明できないからです。
証明などできるはずがありません。
なぜなら全てがデッチアゲだからです。
下記を御覧下さい。
↓
http://dakkai.org/reihahashaku.html
霊波之光教徒阿呆大将氏曰く
・実証なくして証明等とは、甚だ可笑しな話ですね。
・妄想として片付けられてしまいますよ。
・我々は三次元に在ります。よくそのことを考えてみて下さい。
ということであります。
四次元なる世界が、あろうがなかろうが、教祖が神通力なるもので奇跡なるものを
起こそうが、起こすまいが、霊波之光教団信徒自身には何の関係もないのであります。
つまり信者に取りましては無価値であります。
三次元の不幸は実体の無い四次元の神の力により甦生できるのか、神の霊波で解決するのでしょうか?
まともな頭脳の持ち主であれば分かるでしょう。
このようなデッチアゲに惑わされては、あなたが不幸になり、
「全てが四次元の世界」という妄想に取り付かれ、現実逃避の人生で終わってしまうでしょう。
それでは只の妄想として片付けられてしまいますよ。
何の信仰でも信念を求められるは普通ですが、御守護神様を通じて
「神を信じる」ことの難しさは言語では表せないものだと考えています。
更に、人の信念は他人の言葉により強くも、揺らぎもします。
例えば、病を理由に入信された方が連続して5人も亡くなれば、もう人は神も仏も無いものかと考え始め
感謝の心をも薄め始めるなど、か弱い一面があります。これは当然で、誰もが「神」の言葉は知っていますが
「神」を知らないからです。これは「神の守り」を断たれた両親がら生まれた人間がもつ宿命で
我々は「神」を知る必要があるからです。「神を知る」行為は個々の行為であり周囲に信仰者が何万人居ようが
誰も助けることはできません、唯一導いて頂けるのが御守護神様、二代様と言えましょう。
ところが、二代様が御説きくださるように御守護神様は次第に厳しくなるとの事ですから、次第に厳しく
導いて頂く道をあゆむ途中には苦しい時期も有りましょう、
これは、神に守られる人になるまで続くことですが、そんなときに人は周囲を見て迷います。
そして時には命よりお金等を選択してしまう事も多々見てきました。余命数ヶ月の病人も、元気な人も神は
差別されることなく扱われますから崖っぷちの方はそのまま医者の宣告通りになったりします。
そのようになって欲しくないから神を信じる心が揺らぐような環境からは離れていて欲しかったのだと思います。
今の教会は信仰者や設備が充実して来た事もあり信仰が個人と神の間に有るものだと忘れがちですが・・・
できれば、いらぬ論争に巻き込まれたくないものです。何故なら、人は神では無いのですから全ての疑問に
正しく回答することは不可能だからです。
破折
>何の信仰でも信念を求められるは普通ですが、御守護神様を通じて
「神を信じる」ことの難しさは言語では表せないものだと考えています。
なぜ、その宗教が正しいのか?
それを霊波之光では教義の上からきちんと納得させられないということです。
そして霊波之光の場合は「神通力」なる通力で人を救おうという考え方であります。
つまり起きるかどうか分からない奇跡なるものに依拠している以上は信じることなど難しいでしょう。
日蓮正宗においては日蓮大聖人が「通力や利根によるべからず」と通力を売り物にする宗教は邪教であると破折しております。
真の信仰はあるかどうか分からない奇跡を求めることではなく、生命力を開発するものでなければなりません。
日蓮正宗では仏の生命の当体として顕された御本尊を信仰し拝むことによって内在していた仏の生命が自分の中から湧き出してくるのです。
仏の生命が自分の中に開発されることによって智慧も明瞭になり、判断力も正しくなり、記憶力も増してきます。人格も円満となり、肉体的にも生命力が増して健康体となります。
そしてどのような苦しみや悩みも確実に解決して行けるようになります。
自ら苦しみや悩みを解決できるようになる力強い信仰の方が起きるか分からない奇跡に依存して精神不安定になっている信仰より勝っていることは明らかであります。
>更に、人の信念は他人の言葉により強くも、揺らぎもします。
例えば、病を理由に入信された方が連続して5人も亡くなれば、もう人は神も仏も無いものかと考え始め
感謝の心をも薄め始めるなど、か弱い一面があります。
これは当然で、誰もが「神」の言葉は知っていますが
「神」を知らないからです。これは「神の守り」を断たれた両親がら生まれた人間がもつ宿命で
我々は「神」を知る必要があるからです。「神を知る」行為は個々の行為であり周囲に信仰者が何万人居ようが
誰も助けることはできません、唯一導いて頂けるのが御守護神様、二代様と言えましょう。
ところが、二代様が御説きくださるように御守護神様は次第に厳しくなるとの事ですから、次第に厳しく
導いて頂く道をあゆむ途中には苦しい時期も有りましょう、
これは、神に守られる人になるまで続くことですが、そんなときに人は周囲を見て迷います。
そして時には命よりお金等を選択してしまう事も多々見てきました。余命数ヶ月の病人も、元気な人も神は
差別されることなく扱われますから崖っぷちの方はそのまま医者の宣告通りになったりします。
そのようになって欲しくないから神を信じる心が揺らぐような環境からは離れていて欲しかったのだと思います。
5人も連続して亡くなるわけですか?
そして霊波之光ではウワサを流して5人の死者を冒涜するわけです。
それは更なる罪業を重ねることになります。
またその5人も霊波之光のような邪教を信仰したがゆえに
無間地獄に堕ちることとなります。
実際に起こるかどうか分からない奇跡信仰の宗教で努力や信念が実ることはありません。
なぜなら世の中の大部分の人はいかに努力していても
どうにもならない現実に打ちのめされ不幸を感じているのが現実であります。
真に努力信念を貫き通して来たほど、厳しい現実を知り、
自分の努力や信念だけで生きることの限界を自覚しているということであります。
霊波之光は起きるかどうか分からない、実体のない奇跡を信じる信仰です。
目的地を目指して歩いているときに道路を間違えていれば
道路の右端を歩こうと左端を歩こうと全力で走っても目的地には到達しません。
道を間違えている以上は、目的地に行こうとする信念も、
疲れを押して歩き続けた努力も水泡に帰してしまいます。
また実際に起こるかどうか分からない奇跡なるものを当てにしている宗教では
実体のないものを信じているわけであり、信念も揺らぎ迷うのは当たり前であります。
きちんと教義により、奇跡が解き明かされていない限り、人は迷います。
日蓮正宗ではまさにこの人生の根本法と言うべき正しい道を解き明かしています。
これを人生の基盤として受持していくときに努力や信念も実り、個性が充分に活かされて、
揺るがぬ人生が築けるのであります。
>今の教会は信仰者や設備が充実して来た事もあり信仰が個人と神の間に有るものだと忘れがちですが・・・
できれば、いらぬ論争に巻き込まれたくないものです。何故なら、人は神では無いのですから全ての疑問に
正しく回答することは不可能だからです。
この回答はまさに霊波之光に教義がないということです。
経典上の証拠「文証」、因果の道理にかなっている「理証」、
そして現実に幸せになっているという「現証」の上からきちんと説明ができてはじめて正しい信仰と言えます。
この人の考え方では霊波之光の奇跡なるものは文証も理証もない現証ですので「魔の通力」であり、
何も霊波之光でなくても他の新宗教でも多々あるのが実情であります。
人間はある特定の教団に入り信仰するとそれなりの利益が当初は出てくるのです。
それは今までの生活を省み生活パターンに変化が起こるからであります。
新宗教はみな同じです。新宗教に入会し利益がもらえた、というのはこのことなのです。
一般人はそれをもって「この教団には力がある」と思ってしまい、ずるずると入り込んでしまうのです。
悪徳金融会社の騙しの手口と同じことです。
正しく自分の言葉で回答できない奇跡は「魔の通力」であり人々を誑かす魔の所業であります。
これはこの人物が悪いというよりは霊波之光の信仰としての限界であります。