霊波之光信者竹田氏の珍論をまとめて破折


目次
1 竹田氏の言説その1
2 竹田氏の言説その2
3 竹田氏の言説その3
4 竹田氏の言説その4
5 竹田氏の言説その5
6 竹田氏の言説その6
7 竹田氏の言説その7

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竹田氏の言説その1
霊波之光の目的は人類救済、世界平和でありますから、もっとも大事なのは現に生きている人間であります。
したがって、葬儀そのものについては、信仰そのものではありえず、
本来、それを信仰自体に含めているとすれば、霊波之光の教え自体に反するからです。
たとえば、一般にまたは正規の宗教の中にも、
先祖の供養や亡くなった人を供養して願いをかなえてもらう等々の観念を潜在的にもっている場合が多いわけですが、霊波之光の教えによれば、亡くなった人間の霊にそのような力はないものであり、
葬儀葬式、その他の供養行為は、現存する縁者の心を癒そうというもの、
または、現存者が祖先への感謝の気持ちを持ち、自己の寿命をまっとうすると、
自らのために誓う等々精神的作業をするための儀式に過ぎないのであって、
それによって何らかの災難を除こう等のものではない(また、そのような効力というべきものもない)ものです。

破折
1 生命というものは生と死を繰返しながら永遠に続くものであります。
一般的な道理で説明いたしますと現代科学では質量不変の法則というものがあります。
宇宙の中に存在しているものはたとえ形が変わってもそれを構成している分子の数は不変であるということです。
水は分解すると水素と酸素となって空気中に存在しておりますが、それを結合させると再び水となります。
このように形は変わっても分子の数は変わらない、これを質量不変の法則というわけです。
生命だけが死ねば無になるというのは整合性がありません。
また仏法の上から検証しますと亡くなった人のご遺体の上に大苦悩を味わっている場合は地獄の相、
成仏の幸福感を味わっている場合は成仏の相という違いが現れております。
地獄の相はご遺体の目が見開いて、口を大きく開いてしまったり、
あるいは目も口も固く閉じてしまう等の凄まじい形相になってしまう、
遺体が硬直したり、紫の死斑が出たり、全身がどす黒く変色したり腐敗臭が出るなどがあります。
葬儀屋さんはそれをうまくごまかすためにドライアイスや防腐剤、死に化粧を施すわけであります。
成仏の相とは目も口もうっすら開いているほど穏やかな表情で肌の色は色白の艶のよい肌となる、
全身は綿のように柔らかくなり、死後硬直は起こらない、腐敗臭は出ないという特徴があります。
生命は死によって無になるのではなく、死んだ後も継続していて、
死後の生命には全身を焼き尽くされるような大苦悩にあえいでいる地獄の生命もあれば、
成仏の境涯を得て安息している生命もあります。
霊波之光の論理は「死んだ者には用はない」という考え方であり、
それを「人間は生まれ変わらない」という論理を展開していますが、
道理の上からも現実の上からも整合しない考え方であります。

2 「葬儀葬式、その他の供養行為は、現存する縁者の心を癒そうというもの、
または、現存者が祖先への感謝の気持ちを持ち、
自己の寿命をまっとうすると、自らのために誓う等々精神的作業をするための儀式に過ぎない」とありますが、
死後の生命というものは前述したように地獄に堕ちている者、成仏している者、さまざまです。
それぞれの業を感じ苦楽を得ておりますが、とくにその苦しみや強い怨念、
過去の執着などは生きている人間に感応し、人によってはまれには言葉が聞こえたり、
物が見えるという種々の作用を感じるのです。
これは霊魂ではなく「感応」の働きであります。
この感応は死後の生命だけではなく、生きている人からも故人に影響を与えます。
そこで葬儀や追善供養や法要は遺族の強い信心と御本尊の功力によって、
亡くなった人の生命を成仏させることにあります。
この人の考え方は宗教の考え方というよりは唯物論に基づいた議論であります。
そういうことを霊波之光が説いていたとしたら死後の生命は霊波之光によっては救われないということになり、
死後の生命は永遠に地獄で苦しみ続けなければならないということになります。
なぜなら死後の生命には主体性がありません。生きている人間の追善供養により成仏するものなのであります。

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竹田氏の言説その2
「日本の慣習としての仏事」は、仏教徒である必要はなく、いわば残された縁者の心を癒すための社会的儀式に他ならず、それは、抽象的な「信仰心」に基づくものであっても、もはや宗教でも信仰そのものでもありません。

破折
前述しておりますが、
葬儀や法事などの仏事は亡くなった方の成仏のために行なわれるのであります。
遺族の強い信心と御本尊の功力によって、亡くなった人の生命を成仏させることにあります。
亡くなった方つまり死後の生命には主体性がありません。従って生きている人間の追善供養することにより、
死後の生命も成仏していくのであります。
また追善供養は生きている人にとって功徳となります。
追善供養を先祖に対して行なっていることは自己をも救うこととなります。
従って葬儀、法事は単なる慣習や世俗的な行事ではなく、上記のような意味があって行なわれているのであります。
この人の考え方は仏法に対して余りにも表面的な捉え方しかしておらず、仏法に対して無智であるということです。
ただし真に成仏のできる正しい宗教で葬式、法事を行なわなければ亡くなった方への功徳の回向とはなりません。即身成仏の叶う唯一の宗旨・日蓮正宗で行なわれなければなりません。

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竹田氏の言説その3
さらに、霊波之光は一般社会常識を真っ向から否定する目的をもちません。むしを、信仰する以上、当然に最高道徳を備え、最高道徳を備える以上、一般常識人たれ、というべきです。したがって、社会一般的慣習である、仏事の参加や実施は、縁者に対する社会的道義といっても過言でなく、他人に霊波之光の教えを強要できない性質のものである以上、一般慣習による仏葬を行ったとして、なんら複数信仰者ということになりません。これは、結婚式をキリスト教会に類する様式で行う場合にも妥当します。
これに対して、一般的慣習といえない形式での冠婚葬祭を行う場合は、信仰者としての一貫性は疑問視されるものと思います。

破折
まず、この方は宗教と道徳を混同して考えられています。
道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。
したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別を心得て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥じることのないように生活してゆくことが大切です。
しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障を消滅し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。
つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世の因果 を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
重要なことはこうした倫理道徳を説いているはずの霊波之光で霊波なるものがほしいとばかり人を押しのけて教団から下賜された物を取ろうとしたり、
教団内部でスリや泥棒が発生したり、
邪魔者は排除しろとばかりに役職者が一般信者に嫌がらせをして、その信者の精神が不安定化したり、凶暴化する。
また霊波なるものが自分だけもらえないとばかりに人に当たり散らすという「現証」― この濁った糞壷内部人間の心をどうしたらよいのかということです。
脱会するのが最も良い解決策であります。
そして今の私達にとって必要なのは生命が内奥から浄化して行ける力強い宗教の存在でありまして、
安易な奇跡を売り物にする低級信仰ではないということです。

それに過去や未来を説かない霊波之光では葬儀は仏教に任せざるを得ないのです。
先祖の供養も葬儀も不要と説いているということは今さえ良ければよいということです。
過去も未来も説いていない霊波之光は完全無欠の宗教とはとうていなりえず、足りないところは他宗教に頼らざるを得ないということです。
「二つ心に救いなし」なる長谷義雄の論理は最初から崩れております。
まして結婚式などはどのように挙げるかは当事者同士の自由であります。何故に霊波之光の信徒が他宗教たるキリスト教会や神社で挙げる必要があるのか、矛盾も甚だしいと言えるでしょう。
結婚式をキリスト教会や神社で挙げることを選択したのはその霊波之光教徒であります。
つまり当人達からすれば「二つ心に救いなし」という長谷義雄の教えなどどうでもよいということになります。
霊波之光信徒としての一貫性など誰が見てもあるはずがありません。
自分の教祖の教えも自分から守ろうとしない信者に信徒としての一貫性を求めるなど無理な相談であります。

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竹田氏の言説その4
霊波之光では、人間は真実の「神」に守られなければならない道理になっているというのが教えなのですから、その教えに従うことが信仰ということになるわけです。
つまり霊波之光の教えによれば、単に一般社会における善人であっては、不幸は善人悪人問わず降りかかるのであって、善人であれば幸であるとはならない道理になっていることを明らかにするものであります。
そして、その理論の証明は「神通力」が担保するわけであり、ただ、同情によって行われるわけではないから、教えを徹底的に行い、現象を体験したのなら、以後、信じ、迷うことなく行えといっているわけで、
以後もなお、信じられず迷うのであれば、そのときに何らかの不都合が惹起してきても、当然に助けを期待するのは、もはや神の利用目的であるということになります。
また、そもそも信じられないまでにしろ、教えを徹底的に行ってみることもしないのであれば、証明としての奇跡、現象がなくても、そもそもなんら要求できるものではないわけですが、
批判者の方々にはどうにもこの事理を認めがたく、それはなぜかといえば、責任転嫁をすることによって不都合にあった原因を、第三者にすることによって精神的負担を少しでも解消しようという心理に出たものということになります。

破折
これは完全に霊波之光は邪宗教であると宣言しているような主張であります。
端的にこの人の主張を要約しますと霊波之光教団は神通力なる通力をもって一時的に助けるけれどもあとは教団の言うことを聞いて宗教活動をしなさいということであります。
そして不幸がまた起こって神に頼みごとをしても神を利用していることになるから神は助けませんよ、ということです。

霊波之光の奇跡なるものは「魔の通力」であるということです。
当然何度も続くものではありません。それを神を利用しているから助けられないのだなどとごまかしているのです。
人間はある特定の教団に入り信仰するとそれなりの利益が当初は出てくるのです。それは今までの生活を省み生活パターンに変化が起こるからであります。
新宗教に入会し利益がもらえた、というのはこのことなのです。
一般人はそれをもって「この教団には力がある」と思ってしまい、ずるずると入り込んでしまうのです。悪徳金融会社の騙しの手口と同じことです。

日蓮大聖人は邪宗教を信仰して少しばかりの功徳があるように見えても、本当の人生の幸福を勝ち取って行ける大きな利益は絶対にない。
その信仰をしてご利益があるように見えても、ついには安穏な生活は送れなくなる。身を滅ぼす結果となると仰せられております。
神通力などいつまでも担保されるものではなく、挙句の果ては最初あった神通力が忘れられずに深みにはまり、不幸を不幸とも感じられなくなります。
これを頭破七分の現証というのです。
本当の信仰は一時的な奇跡を求め続けるものではなく、自身の中にある仏の生命を開発し、物事を解決して行くことができるようにするものでなければなりません。
日蓮正宗では仏の生命を御本尊として顕して、それを信仰し拝んでおります。
仏の生命とは私達の生命の中に仏の生命があるのです。簡単に言いますと4つの働きに象徴されます。
常 - 常に崩れない永遠の幸福
楽 - 生きていることが楽しいという幸福感
我 - 強い円満な主体性
浄 - 現実の汚れた社会の中に生きていても何者にも染まらない清浄な生命活動
これが仏の生命であります。そしてその仏の生命が、本来私達の生命の中に内在しているのだと説かれております。
それは普段は眠っていて引き出すことはできない、そこで仏の生命のご当体として顕された御本尊様を信仰し拝むことで仏の生命も自分の中に湧き出してくるわけです。
仏の生命が自分の中に開発されてくることにより、智恵も明瞭となり、判断力も鋭くなる、記憶力も増してきます。
人格も円満となり、身体も健康体になってきます。
その自分が現実の生活を生きて行くときにどんな苦しみや悩みがあっても確実に解決していくことができるわけであります。
いつまでもあるかどうかはっきりしない神の奇跡なるものを求め続ける信仰と
自分自身で仏の生命を開発して物事を解決していけるようにする信仰とではどちらが優れどちらが高い教えを説いているのかは明白であります。

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竹田氏の言説その5

「霊波之光教会」としての、つまり、法人としての活動に関して何かを不正に購入させ、金員を不正に出資させるための行為は一切ないものと、私自身が可能な限り客観的に霊波之光を観察する限り断言できる、ということです。
つまり、個々の信者間での様々な不正、不誠実、不謹慎、不道徳、不心得、およそ非信仰者の常識にすら劣後する精神的未熟さは、私は全く否定しません。
むしろ、そのような事実があったとして、驚きません。
霊波之光では、自発性が信仰の本質の一つを構成しており、個々人が教えを守ろうということに真剣になるか否かは全ては最終的に当人の心のあり方に期待するほかないわけです。

破折
日蓮正宗では日蓮大聖人を根本の師つまり本師と仰ぎ、第2祖日興上人、第3祖日目上人以来、御歴代の御法主上人方がその時代における大聖人の後継者・代理者であり根本の正師と仰いでおります。
現在は第68代日如上人猊下を本師と仰いでおります。
実際の日常の信仰においては、御法主上人猊下より御僧侶が各寺院に指導教師御住職として派遣されて猊下の御名代として信徒を指導しておられます。
指導教師御住職の立場は本師に対する小師の立場であります。
そして正しい信仰をして行くことになるのであります。
その日蓮正宗で小師と呼ばれる指導教師の立場の人が霊波之光におられますか?ということであります。
教会担当と呼ばれる職員さんたちも現実に疑問や質問にきちんと答えられるかと言うと答えていないのが実情なのではありませんか?
教義が元からないのですから教義に基づいて分かりやすく説明などできるはずがありません。
結局1人信心のようになり班長などの役員達は自分で勝手に解釈したり、勝手に作り出した「教え」なるものを説いているのではありませんか?
そのような者に振り回される一般信者は哀れなものです。
信仰にまじめな者ほど迷い、精神が不安定になり、無間地獄に堕ちて行くのは皮肉なものです。

>個々の信者間での様々な不正、不誠実、不謹慎、不道徳、不心得、およそ非信仰者の常識にすら劣後する精神的未熟さは、私は全く否定しません。
>自発性が信仰の本質の一つを構成しており、個々人が教えを守ろうということに真剣になるか否かは全ては最終的に当人の心のあり方に期待するほかないわけです。

とありますが、きちんとした指導教師がおり、きちんとした教義があれば多くは防げます。
また自発的に教義を守るのは信者として当たり前のことであり、できないのであれば、脱会されることです。
また教義がないのを「自発性」などという言葉でごまかすのは誤りです。

日蓮正宗では日蓮大聖人以来、同じ日蓮正宗の仏法を信じる者同士が互いに悪口を言ったり、
うらんだりすることを厳しく戒めております。
しかもその悪口の内容が事実だろうと事実でなかろうとダメであるとされております。
なぜなら日蓮大聖人は日蓮正宗の正しい本尊を拝む者は既に仏の生命が湧現しているわけですから、
現在の信心修行の功徳が因となり、必ず将来に、立派にその姿が改まってくるという果が顕われるのであります。
仏になったという果よりも、仏になるための確実な因を重んじているのです。
ですからすでに日蓮正宗の正しい本尊を拝む者は仏であるとされており、
その仏をうらみ、悪口を言う者は謗法となり必ず仏罰を被ると仰せられております。
また他人の正法信仰の芽を摘み取ることも固く禁止されております。
御本尊様や御僧侶や他人の悪口を言う行為は、本人が自覚するしないに関係なく、
他の信心が弱い信徒の信仰を破壊し、また世間の人々をいっそう正法につけなくしてしまうことで、
恐るべき大重罪であります。

そこまで霊波之光では長谷義雄教祖はきちんと説いているのでしょうか?
あの薄っぺらい、まともに解説することのできない意味不明の「御書」なる本にはそういうことは書かれていないのでしょうか?
いないでしょうね。
指導する教師もいない、信者間の対応を教えるルールも存在しない。
そういう組織を「糞壷」と申します。
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竹田氏の言説その6

第一に教えを知ること、第二に教えを実行すること、
第三に実行を相当程度(たとえば一年間)に区切って継続すること、
第四に期間経過後、その期間の全てを振り返り、その期間前の人生と、期間内および期間後の人生を比較すること。
期間内および期間後によって確認されたことが結果であり、その結果が教えに整合したものであれば、
その教えは正しく、不整合のものであれば偽りであると半ば機械的に出てくるものであります。
ただ、中でも、特に教えが精神的な心の持ち様に関することであるからこそ、
人間はだれしも、自分に甘いのが通常であるため、それを実行「しきる」ことは、なかなか難しいわけです。
そして、批判派の多くの事例では、第一の部分または第二の部分が、
徹底的になされていないことに、まず大きな原因があるのであり、
これはいわば、医者から必要な治療を指示されたのに、面倒だからといって、
その指示どおりに治療を受けずに、良い結果がでなかったからといって、
その治療および医者に責任を転嫁するかのごとき行為を日々行っているわけです。
話を戻せば、そのような機械的過程の中から、私にとって結果というべきものはいくつか認められ、
それは教えに整合するものであるから、正しいという結論に至ったものです。
これは、神通力の存在についても非科学的、人的能力の範囲外の現象による決定的なものを含みます。
ただ、この神通力の点は、私はあえてこの掲示板上で強調してこなかったのはご覧の通りです。
なぜなら、それを掲示板上で証明できないからです。

破折
まず第一に教えを知ることとありますが、入信した人に教えというものをきちんと教える教師というものが存在しなければならないはずであります。
そして第二の教えを実践させる上でも教師の指導がなければなりません。
学校の勉強にせよ、資格の勉強にせよ、仕事にしたってまず教わらなければ
覚えようもないというのは当然の道理です。
霊波之光で教義を教え、実践させるために指導する教師がおられるのかということです。
信者たる班長や組長は本来は組織内の世話役でありまして、
教義を専門的に教えるのは霊波之光の職員が行なわなければならないはずです。
なぜなら職員は教義について長谷義雄教祖や現教主の長谷敬詞氏について専門的な教育を受けているはずであり、
それをきちんと信者に対して指導するのが本来の役割だからであります。
現実はどうでしょうか?
職員などはまず信者を指導することなどまずありませんし、
班長や組長も勧誘した人も実は教えなるものなどわかっていないのです。
わかっていないというよりも元々教義などなく、抽象的で文証もないものを「教え」にしてしまっているのです。
1人1人解釈も違い、1人1人が勝手に教えなるものを作り出して布教しているというのが
霊波之光の現実であります。
ですから教義についてきちんと入ったばかりの人に説明して実践させることなどできません。
Tさんの論理は前提から崩れているのです。
また第三の「実行を相当程度(たとえば一年間)に区切って継続すること」とありますが、
霊波之光の信仰の目的とは何かということをわかっておられないのではないでしょうか?
おおよそ信心というものはどの宗教でも
一生に渡って継続していかなければならないと説かれているものであります。
1年でやめていいとか病気が治ったらやめていいなどとは説いていないはずであります。
そういうように霊波之光がいっているのでしょうか?
自分の教祖の書いた「御書」なる本で証明されるとよいでしょう。
Tさんの論理は信仰について無智であると断ぜざるを得ません。

また第四ですが、>期間内および期間後によって確認されたことが結果であり、
その結果が教えに整合したものであれば、その教えは正しく、
不整合のものであれば偽りであると半ば機械的に出てくるものであります。―とありますが、
おおよそ正しい宗教の「現証」にはなぜそれが正しいのかということを証明する経典上の証拠つまり文証、
そしてそれが因果の道理に合致しているかどうかという「理証」があって
はじめてその現証によりその宗教は正しいということになります。
そうでない現証は「魔の通力」であります。
魔の通力であるならばどこの宗教にでもあり、何も霊波之光だけが特別なのではありません。
Tさんの論理はどうして霊波之光でなければならないのか?
霊波之光だけがなぜ正しいのか?という根拠が薄弱であります。
正しい教えが2つも3つもあるはずがありません。

>特に教えが精神的な心の持ち様に関することであるからこそ、
人間はだれしも、自分に甘いのが通常であるため、
それを実行「しきる」ことは、なかなか難しいわけです。―とありますが、

教義の指導や教義の実践の指導が指導教師によってきちんと行なわれることが前提であります。
きちんと教義とその実践について霊波之光教団の指導教師は指導しました。
あとは本人のやる気の問題です、心の問題ですというのでしたら間違ってはいないでしょう。
教義が存在せず、指導する教師のいない霊波之光ではどう教義を学び、
実践するのか分からないということとなります。
Tさんの論理は前提からして破綻しております。
しかしこれはTさんの責任ではありません。
霊波之光の教義的な限界であります。

さて最後の
>神通力の存在についても非科学的、人的能力の範囲外の現象による決定的なものを含みます。
ただ、この神通力の点は、私はあえてこの掲示板上で強調してこなかったのはご覧の通りです。
なぜなら、それを掲示板上で証明できないからです。

証明などできるはずがありません。
なぜなら全てがデッチアゲだからです。
下記を御覧下さい。

http://dakkai.org/reihahashaku.html

霊波之光教徒阿呆大将氏曰く
・実証なくして証明等とは、甚だ可笑しな話ですね。
・妄想として片付けられてしまいますよ。
・我々は三次元に在ります。よくそのことを考えてみて下さい。

ということであります。
四次元なる世界が、あろうがなかろうが、教祖が神通力なるもので奇跡なるものを
起こそうが、起こすまいが、霊波之光教団信徒自身には何の関係もないのであります。 
つまり信者に取りましては無価値であります。 
三次元の不幸は実体の無い四次元の神の力により甦生できるのか、神の霊波で解決するのでしょうか? 
まともな頭脳の持ち主であれば分かるでしょう。 
このようなデッチアゲに惑わされては、あなたが不幸になり、
「全てが四次元の世界」という妄想に取り付かれ、現実逃避の人生で終わってしまうでしょう。
それでは只の妄想として片付けられてしまいますよ。

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竹田氏の言説その7
何の信仰でも信念を求められるは普通ですが、御守護神様を通じて
「神を信じる」ことの難しさは言語では表せないものだと考えています。
更に、人の信念は他人の言葉により強くも、揺らぎもします。
例えば、病を理由に入信された方が連続して5人も亡くなれば、もう人は神も仏も無いものかと考え始め
感謝の心をも薄め始めるなど、か弱い一面があります。これは当然で、誰もが「神」の言葉は知っていますが
「神」を知らないからです。これは「神の守り」を断たれた両親がら生まれた人間がもつ宿命で
我々は「神」を知る必要があるからです。「神を知る」行為は個々の行為であり周囲に信仰者が何万人居ようが
誰も助けることはできません、唯一導いて頂けるのが御守護神様、二代様と言えましょう。
ところが、二代様が御説きくださるように御守護神様は次第に厳しくなるとの事ですから、次第に厳しく
導いて頂く道をあゆむ途中には苦しい時期も有りましょう、
これは、神に守られる人になるまで続くことですが、そんなときに人は周囲を見て迷います。
そして時には命よりお金等を選択してしまう事も多々見てきました。余命数ヶ月の病人も、元気な人も神は
差別されることなく扱われますから崖っぷちの方はそのまま医者の宣告通りになったりします。
そのようになって欲しくないから神を信じる心が揺らぐような環境からは離れていて欲しかったのだと思います。
今の教会は信仰者や設備が充実して来た事もあり信仰が個人と神の間に有るものだと忘れがちですが・・・
できれば、いらぬ論争に巻き込まれたくないものです。何故なら、人は神では無いのですから全ての疑問に
正しく回答することは不可能だからです。

破折
>何の信仰でも信念を求められるは普通ですが、御守護神様を通じて
「神を信じる」ことの難しさは言語では表せないものだと考えています。

なぜ、その宗教が正しいのか?
それを霊波之光では教義の上からきちんと納得させられないということです。
そして霊波之光の場合は「神通力」なる通力で人を救おうという考え方であります。
つまり起きるかどうか分からない奇跡なるものに依拠している以上は信じることなど難しいでしょう。
日蓮正宗においては日蓮大聖人が「通力や利根によるべからず」と通力を売り物にする宗教は邪教であると破折しております。
真の信仰はあるかどうか分からない奇跡を求めることではなく、生命力を開発するものでなければなりません。
日蓮正宗では仏の生命の当体として顕された御本尊を信仰し拝むことによって内在していた仏の生命が自分の中から湧き出してくるのです。
仏の生命が自分の中に開発されることによって智慧も明瞭になり、判断力も正しくなり、記憶力も増してきます。人格も円満となり、肉体的にも生命力が増して健康体となります。
そしてどのような苦しみや悩みも確実に解決して行けるようになります。
自ら苦しみや悩みを解決できるようになる力強い信仰の方が起きるか分からない奇跡に依存して精神不安定になっている信仰より勝っていることは明らかであります。

>更に、人の信念は他人の言葉により強くも、揺らぎもします。
例えば、病を理由に入信された方が連続して5人も亡くなれば、もう人は神も仏も無いものかと考え始め
感謝の心をも薄め始めるなど、か弱い一面があります。
これは当然で、誰もが「神」の言葉は知っていますが
「神」を知らないからです。これは「神の守り」を断たれた両親がら生まれた人間がもつ宿命で
我々は「神」を知る必要があるからです。「神を知る」行為は個々の行為であり周囲に信仰者が何万人居ようが
誰も助けることはできません、唯一導いて頂けるのが御守護神様、二代様と言えましょう。
ところが、二代様が御説きくださるように御守護神様は次第に厳しくなるとの事ですから、次第に厳しく
導いて頂く道をあゆむ途中には苦しい時期も有りましょう、
これは、神に守られる人になるまで続くことですが、そんなときに人は周囲を見て迷います。
そして時には命よりお金等を選択してしまう事も多々見てきました。余命数ヶ月の病人も、元気な人も神は
差別されることなく扱われますから崖っぷちの方はそのまま医者の宣告通りになったりします。
そのようになって欲しくないから神を信じる心が揺らぐような環境からは離れていて欲しかったのだと思います。
5人も連続して亡くなるわけですか?
そして霊波之光ではウワサを流して5人の死者を冒涜するわけです。
それは更なる罪業を重ねることになります。
またその5人も霊波之光のような邪教を信仰したがゆえに
無間地獄に堕ちることとなります。
実際に起こるかどうか分からない奇跡信仰の宗教で努力や信念が実ることはありません。
なぜなら世の中の大部分の人はいかに努力していても
どうにもならない現実に打ちのめされ不幸を感じているのが現実であります。
真に努力信念を貫き通して来たほど、厳しい現実を知り、
自分の努力や信念だけで生きることの限界を自覚しているということであります。
霊波之光は起きるかどうか分からない、実体のない奇跡を信じる信仰です。
目的地を目指して歩いているときに道路を間違えていれば
道路の右端を歩こうと左端を歩こうと全力で走っても目的地には到達しません。
道を間違えている以上は、目的地に行こうとする信念も、
疲れを押して歩き続けた努力も水泡に帰してしまいます。
また実際に起こるかどうか分からない奇跡なるものを当てにしている宗教では
実体のないものを信じているわけであり、信念も揺らぎ迷うのは当たり前であります。
きちんと教義により、奇跡が解き明かされていない限り、人は迷います。
日蓮正宗ではまさにこの人生の根本法と言うべき正しい道を解き明かしています。
これを人生の基盤として受持していくときに努力や信念も実り、個性が充分に活かされて、
揺るがぬ人生が築けるのであります。


>今の教会は信仰者や設備が充実して来た事もあり信仰が個人と神の間に有るものだと忘れがちですが・・・
できれば、いらぬ論争に巻き込まれたくないものです。何故なら、人は神では無いのですから全ての疑問に
正しく回答することは不可能だからです。

この回答はまさに霊波之光に教義がないということです。
経典上の証拠「文証」、因果の道理にかなっている「理証」、
そして現実に幸せになっているという「現証」の上からきちんと説明ができてはじめて正しい信仰と言えます。
この人の考え方では霊波之光の奇跡なるものは文証も理証もない現証ですので「魔の通力」であり、
何も霊波之光でなくても他の新宗教でも多々あるのが実情であります。
人間はある特定の教団に入り信仰するとそれなりの利益が当初は出てくるのです。
それは今までの生活を省み生活パターンに変化が起こるからであります。
新宗教はみな同じです。新宗教に入会し利益がもらえた、というのはこのことなのです。
一般人はそれをもって「この教団には力がある」と思ってしまい、ずるずると入り込んでしまうのです。
悪徳金融会社の騙しの手口と同じことです。
正しく自分の言葉で回答できない奇跡は「魔の通力」であり人々を誑かす魔の所業であります。
これはこの人物が悪いというよりは霊波之光の信仰としての限界であります。

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