知恵ノート:日顕上人お言葉 - 仏城寺の入仏落慶法要(昭和55年5月6日)の砌
創価学会年表、昭和55年(1980年)地域の年の年表
1980/05/06
日顕(上人)が栃木・鹿沼市の仏城寺落慶入仏式で“じゃかましい”と信徒を怒鳴りつける。
http://megalodon.jp/2012-0517-1801-45/sokaodo.nobody.jp/nenpyo1980.htm
当方はどうしてもこの記述に納得できず、ネットを調べましたが何も載っていませんでした。
蓮華昭和55年6月号を見てみると
この素朴な疑問を何とかして解決したいという願望が大きくなっていた頃、当方所属寺院の御住職様が「蓮華昭和55年6月号」を書庫から発見、これに出ているので読んでみよと、資料を提供してくれたのです。
さすがは御住職様!
と感謝申し上げて該当の頓止山仏城寺の記事にはそれをうかがわせる日顕上人の法話が記録されていたのです。
当日の日顕上人のお言葉には法要の後、騒いでいた者がいたのでこれを日顕上人が御注意されたという御指南が記録として残っておりました。
昭和55年5月6日鹿沼市仏城寺・入仏落慶法要の砌
本日は当鹿沼の地に頓止山仏城寺を建立致しまして、その入仏落慶法要に参った次第であります。
しかるところ、法要が終わった直後に、何を騒いでおるか。私はその信心を疑います。
皆さんが信心をする目的は、即身成仏にあるわけであります。しかしながら、その即身成仏のもとには、仏様の言い知れない大恩があって、その大恩を我々が拝し奉り、受持し奉ることによってはじめて、我々の成仏がかなうのであるということを、深く肚に入れなければなりません。
自分勝手な、なまいきな考えをもってするならば、けっして成仏はできません。仏様の大恩を深く心の底に拝し奉り、自らはまことにいたらない凡夫であるということを深く自覚して題目を唱え奉るところにはじめて、仏様のお題目の功徳が我々の生命の中に顕われてくるのであります。
自慢・高慢の心や『自分は偉いが、あいつはどうだ』というような批判の考え方をもってお題目を唱えても、大聖人はけっして成仏をお許しにはならないということを、深く考えなければならないのであります。このことを、まず、申し上げておくものであります。
結論
当日仏城寺の入仏落慶法要に参加していた者の中に日顕上人が御注意をされるほど常識外れに騒いでいた者がいた。これをお言葉の中で日顕上人が注意をされただけで決して怒鳴りつけたわけではないということであります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1240966317
しかしこの日顕御隠尊猊下の御説法、現代でもしっかりと拝さなければならない事案も多々あります。
お登山して、御法主日如上人猊下が御説法されている最中に、携帯電話が数件鳴っていたのが気になったことがあります。
猊下様に対し奉り大変失礼ではありませんか。
当たり前ですがきちんと電源は切ろうではありませんか。
重要な御説法や奉安堂に入場の際には電話を取り出して確認、電源を切る、ただそれだけのことです。