知恵ノート:日蓮正宗信徒はベートーベンの第九は歌ってはいけないのか?
結論から申しあげます。
ベートーヴェン 第9 合唱 『歓喜の歌』訳詞付
平成2年(1990年)12月13日に日蓮正宗総監(当時)藤本日潤御尊能化より創価学会に出された「お尋ね」
「歓喜の歌」の合唱について、
「昭和62年の年末に学生部結成30周年を記念して、この演奏、第九の演奏を私は聞きました。本当にいまでも忘れない。したがって、私は、提案だけれども、創立65周年にほ、5万人で、創立70周年には10万人の、私はこの『歓喜の歌』の大合唱をして後世に残したいと思います。」
「それで、あの日本語でもやるけれども、そのうちドイツ語でもやりましよう」
と言われております。現在歌われている岩佐東一郎作詞の「よろこびの歌」自体には宗教色はまったくなく、結構だと思いますが、原語(ドイツ語)の詩は、フリードリヒ・フオン・シラーという詩人の「歓喜に寄す」という詩で、
「歓ぴよ、神々の美しい輝きよ、楽園の娘よ、我ら炎のごとくに酔い、天の汝の聖殿に足をふみ入れる……」
等と訳され、キリスト教の神を讃歎した内容になっております。したがって、これを原語で歌うということは、外道礼讃となり、大聖人の、
「さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもって・これをやぷるべし」
(日蓮大聖人御書321頁・南条兵衛七郎殿御書)
との御聖意にも反し、下種本門大法の尊い信者が、キリスト教を容認・礼讃することになると思いますが、それでもなおかつ当然と思われるのですか、お伺いいたします。
以上、かいつまんで問題と思われるところを述べさせていただきましたが、御法主上人並びに僧侶に対する蔑視及び非難や、過去52年頃の逸脱についての無反省が明らかであります。故に、教条的なる語をもって宗門を軽蔑し、自らの考え方を主とし、是として、宗門を従わしめようとする野望が感じられます。これは、正しい令法久住・広宣流布の道ではないと思われます。
大石寺開創701年を迎えるに当たり、
「富士の立義聊(いささ)かも先師の御弘通に違せざること」
と、御開山日興上人が大聖人の御意をそのままに伝えられた富士の清流を濁すことなく、末代に流れ通わすために、日蓮正宗の基本的な信仰の在り方と、それに基づく広布への正しい進展を確認したいのであります。
平成2年12月13日 日蓮正宗宗務院
創価学会側の主張 - 平成2年(1990年)12月30日付
べートーベンの「歓喜の歌」のシラー作の原詩には「神々」とあり、「キリスト教の神を讃歎した内容」であるから、これをドイツ語で歌うことは、「外道礼讃」となり、「キリスト教を容認・礼讃することになる」と批判されております。
しかしながら、「歓喜の歌」をドイツ語で歌ったからといって、それが直ちにキリスト教の「容認・礼讃」になるわけではありません。芸術は、その表現形式や言葉において、いずれもその時代の文化の制約を受けるものであります。シラーの原詩にしても、「神々の」という言葉を使っていますが、詩全体の調べとしては、唯一神教としてのキリスト教の神を礼賛しているものではなく、また、神々一般を礼賛するための歌でもないのであります。
むしろ、このような表現をとおして、自已のうちにある神々しい力を賛美しているのであり、それはすなわち、理性であり、内からの喜びであり、人間の自由であるということは、広く理解されているところであります。フランス革命の根源にある人間の自由の精神が、「歓喜の歌」によって発揚され、飛躍を遂げたものであるというロマン・ロランの評論に、そのような理解が集約されております。
このような普遍的なテーマを歌い上げているからこそ、この曲が、芸術作品として時代や国を超えて、広く、また永く人々に親しまれているのであります。それが、信仰の次元とは自ずと異なるものであることはいうまでもありません。
「お尋ね」文書の指摘は、「歓喜の歌」の原詩のもつ意味を短絡してとらえ、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して「外道礼讃」と決めつけておられますが、まことに頑な、かつ狭量な解釈ではないかと思われます。
創価学会側の主張に対する宗務院からの指摘 - 平成3年(1991年)1月12日
歓喜の歌をドイツ語で歌うことは、外道礼讃になると指摘したことに対して、これを狭量な解釈であると決めつけております。当方においても、「歓喜の歌」が、芸術として高い評価を得ていることは、充分承知しております。
しかし、この歌詩を自己のうちにある神々しい力を賛嘆したものと解釈して、外道とはまったく無関係であるというのは、明らかに間違っております。
この歌詩をどのように意義づけようと、原詩の表現は、ギリシャ神話の神々・エリュージオン(楽園)、旧約聖書の、知天使ケルビム・創造主等々の語句を見ても、外道そのものといえます。
したがって、この歌がどんなに世界の名曲であっても、つねに四悉檀を心にかけ、中でもとりわけ第一義悉檀をもって、一切衆生を大聖人の仏法に導くという、尊い使命を持つ日蓮正宗の信徒が、それも外国文化の伝統ある国々においてならともかく、とくに日本国内において、その会合等でことさらに合唱団を組んで歌い上げるのは、明らかに世間への迎合というべきであります。正直に方便を捨てよとの大聖人の仏法における信徒として、まことにふさわしくない姿であります。
ガーター勲章に対する教学部長大村日統御尊能化(当時)からの指摘について
創価学会側の主張
「お尋ね」文書に、べートーベンの「歓喜の歌」の合唱についての誤った認識にもとづく指摘がなされていることに如実に示されているように、ご僧侶方のなかには、文化平和運動について誤解をされている方もおられるのではないかと感じられてならないのでございます。
一例をあげれば、宗内の教学の責任者として要職にあられる大村教学部長は、平成元年10月号の大白蓮華の裏表紙にガーター勲章の写真が掲載されたことに関して、それに十字章があることをとらえて、「これは十字架であり、キリスト教の本尊というべきものである」として、掲載にクレームをつけられました。
そして、その後の連絡会議の席上でも、「イギリスという国はキリスト教の国でしょう」と言われ、ガーター勲章の十字章がキリスト教の十字架であるという自らの考え方に固執しておられました。
しかしながら、十字の形をしているからといって、それを直ちにキリスト教と同一視するのは全くの無認識であります。
紋章学の世界的権威である、卜ーマス・ウッドゴック氏は、「宗教的意味は全くない」と明言しております。
同勲章は、英国王室の伝統と格武を象徴するものであり、信仰の対象となるものでないことはいうまでもありません。
こうした事実を認識せず、先のように言うのは、文化運動に対するあまりの無理解をさらけ出すものであり、日顕上人のご指南にも反するのではないかと恐れる次第でございます。
日蓮正宗側の主張
宗務院として、大村教学部長が創価学会に対して、平成元年10月号の『大白蓮華』の裏表紙の写真について注意したのは、「ガーター勲章」正式には「聖ジョージ十字章」の掲載を、「ただちに謗法に当たる」とか「いけない」と言ったのではありません。
まして、掲載されてしまったものを、後から「やめてくれ」と言ったところで、どうにもなるものではありません。
この件は、大勢の僧侶や信徒の中には、とくに心情的・感情的に鋭敏・潔癖な人も多くあり、『大白蓮華』という、いわば日蓮大聖人の法義を伝える教学理論誌の裏表紙に、「聖ジョージ十字章」が、大写しにされることによって、あたかもキリスト教を容認するように受け取られ、そうした人たちに無用の刺激を与える恐れがあるから、細心の配慮を尽くされるよう、申し入れたものであります。
この件については、昨年7月の連絡会議において、再度蒸し返して一方的に抗議してきたため、8月の連絡会議において、尾林海外部長からも重ねて説明し、学会側も諒承されたことであります。
にもかかわらず、一・一の回答のように、いつまでも同じことを蒸し返し、問題視してくるところに、学会の怨念を元とする執拗にして陰湿な体質を感じるのであります。
こうした体質が、世間からも嫌悪され、恐れられる一原因になっていることを自覚すべきであります。
こうした体質を改め、正直に、潔い姿を示すことこそ日蓮正宗信徒としての正しいあり方ではないでしょうか
信心の筋目について
創価学会としては自分の組織の意思を通して、日蓮正宗から破門に処されました。
1番考えなければならないのは信心の筋目です。
唯授一人の御法主上人→御法主上人より任命された住職→住職の指導を伝える講頭(当時日蓮正宗の信徒団体であった創価学会の場合は会長や名誉会長)
これが日蓮正宗の信心の筋目です。
正信会も創価学会も当初は「唯授一人の猊下を根本」としていたのですが、「唯授一人の御法主上人」を忘れて、というより捨てて、住職に付いたり、池田大作に付いたに過ぎないのです。
人は、自分に都合の良いものを味方としていきますが、日蓮正宗の信心の世界は、どこまでも御法主上人の御指南に従って信心をしていくところに成仏の道があるのであります。
日蓮大聖人の御金言に「法に依って人に依らざれ」とあります。
また謗法の者は「悪友」であり、正法を信受する人こそ「善友」であると教えられています。
この場合は日蓮正宗第67世法主日顕上人の意を受けた宗務院が、当時日蓮正宗の信徒団体としての創価学会が、組織として、公式の場で「第九」を歌うのは謗法であると御指南されたのであれば、それに従い、別の歌に差し替えればよかっただけではないかと私は思います。