元正信会願生寺副講頭I氏の証言
正法山願生寺の概要
所在地
茨城県神栖市息栖2822-93
沿革
* 昭和54年(1979年)2月17日 - 建立
* 昭和57年(1982年)8月21日 - 初代住職高橋恩道氏が第67世法主日顕上人の法主としての地位を否定したため、日蓮正宗の宗制宗規に違背したことにより破門されたが、願生寺を不法占拠する。
現在住職は鹿嶋市の法正寺の御住職が兼務
正信会願生寺時代のI氏
私は南九州の田舎で生まれました。昭和34年頃創価学会に入信致しましたが、昭和50年頃現創価学会名誉会長の謗法が明るみに出て、教義の逸脱、宗門支配のたくらみ等を知りました。今は亡き、Dさんのご主人に、色々と学会の謗法を教学的に教えてもらい、昭和54年頃、学会を脱会して、現在神栖市にある願生寺の檀徒となりました。
その頃の願生寺はまだ宗門の末寺でしたので、創価学会の謗法を破折し、毎日のように学会員の所を廻り折伏して歩きました。最初の頃は、日蓮正宗の教義に則り、総本山―末寺―各家庭の御本尊を拝しないと成仏はない、本山の戒壇の大御本尊様、宗門行事を大切にしない学会は日蓮大聖人の仏法でない、と檀徒に教えておりました。
しかし、願生寺をはじめ自称正信会は、やがて学会憎しの感情が増長して、ついにはそれまで自分たちも認めて随順申し上げてきた、御宗門の血脈相承に異義をとなえるという大謗法を犯すに至りました。私も成り行きとはいえ悶々としながら、3年前まではその中の一人でした。
正信会時代を振り返りますとまことに悲惨でありました。正信会では年一回、檀徒総会と称して各地を旅行しました。しかし夜は宴会で酒びたし、僧俗がカラオケ、ダンスと、徹夜で飲み明かしたバスの中は、いびきの大合唱でした。正しい信心を求めてきた人は、これが信心している団体かなと思ったに違いありません。
私もお酒が嫌いな方でなかったので、悪縁団体の一員でした。
本山から離れ謗法に染まっていくなかで、一命は取り戻しましたが長男坊が車で大事故、続いて、運良く助かりましたが妻が脳溢血で倒れました。平成13年頃、私も糖尿病、肝臓病等になり病院生活を余儀なくされました。とび職の仕事もだんだんと無くなり、たまたま仕事が来ると横浜など遠い所ばかりでした。高速代、旅館代だけで利益は食われ、借金が貯まるばかりでした。
正信会の誤りに気付き勧誡を決意
ちょうど、そうした正法に背く恐ろしさに気づき始めたころ、今は亡きTさんより「Iさん、今からある人とそちらに行くから」と電話がありまして、たまたま病院から自宅にいた所でしたので、「たまには遊びにおいでよ」と返事をしました。婦人部長と二人でみえて、正信会は間違っていると破折されました。その場で婦人部長が法正寺へお電話をして下さり、すぐに御住職が来られました。御住職より日蓮正宗の命脈である大御本尊様・唯授一人の血脈、依法不依人等、忘れていた日蓮正宗の信心の基本を改めてお話いただきました。
今までの迷いが吹っ切れて、一つ一つのお話が脳裏に焼きつきました。
その場で、勧誡願い用紙をいただき、「本山を忘れた時はありませんでしたから心は決まっていますが、もうしばらく時間をください」とお願い致しました。
そうはいうものの、願生寺の住職とは謗法の片棒を担いで、世法的人間関係もあって、しばらく脱会の踏ん切りがつかず、ずいぶん苦しみ悩みました。
まずは家族に相談しました。前々から妻は願生寺の住職を嫌っていました。妻からも「本山に登山しないで、大御本尊様にもお目通りしないでこのまま死ぬのか」とはっきり言われました。
副講頭も根気良く大白法を持って来て下さいました。またある日、地元の地区長さんご家族が来られて、地区長さんに「我見は恐ろしいよ」と一言。兄弟抄の「恩をてて無為に入るは真実の報恩の者なり」との御金言を思い起こし願生寺を離れる決意をし、その日のうちに法正寺の門を叩きました。御住職には快く迎えてくださり、その夜、家族全員で勧戒を受けました。
20年ぶりの総本山大石寺への御登山
そして夏期講習会最後のコースに参加でき、前講頭さん、地区長さん、男子部の方と20年ぶりにお山に行けました。私は、病院から貰った7種類の薬を入れたナイロン袋を片手に持ちながら、車中は体調も悪く寝てばかりいました。坊に着いた時に前講頭さんから声を掛けてもらいました。
「顔色がだいぶ悪いね、今まで謗法の正信会に居たからだよ、これから本門戒壇の大御本尊様にお目通りしたら、自分の謗法をお詫びして懺悔滅罪と御報恩感謝を申し上げ、折伏を10世帯誓いなさいよ」と言われました。
私は素直に本門戒壇の大御本尊様に心より謗法を懺悔しました。そうすると心の底より身に余る有り難さが込み上げてきて、いつしか涙が流れて仕方がありませんでした。本山は曇りがちの天候でしたが富士山も姿をくっきり、今までこんなきれいな富士山を見たことがない、20年ぶりに自分を祝福してくれているようでした。
御法主日顕上人猊下は、
「在家は何をなすべきかというとやはり唱題を行うということが非常に大事だと思うのであります。このお題目の功徳は普通の考え方とは全く違う御仏智によるのです。ですから一生懸命に信心ばかりしていると、世法の方がおろそかになるというように考えている人は、はっきり言えばお題目が足りないのです。」と御指南されています。
その後のI氏の功徳
私たち家族が平成14年宗旨建立750年慶祝記念法要と奉安堂落慶記念法要に参加出来た喜び、これも御本尊様のお陰だと感謝しています。また日顕上人猊下様、御住職様、法正寺法華講員の皆様のお陰だと心より御礼申し上げます。
大御本尊様にお誓いした昨年の折伏は、毎日3、4時間唱題し、大御本尊様の功徳によって25世帯できました。
私も正信会にいた時は病気で体がだるく、何一つ、仕事の方もやる気なく、不景気で仕事も少なくなるし、前途真っ暗闇でした。
勧誡を受けた頃から御住職様は、私の運転でご一緒に折伏に回っていただくとき、その車中で、「御本尊様に命をかけてお題目をあげ折伏し、登山したら絶対に守られて、体も良くなり仕事の方も順調にいきますよ」等と常に励ましのご指導をいただきました。
まさにその通りになりました。ありがとうございました。
今、私はお題目あげきって折伏、下種に廻っていますので、60代の命が生き生きと動き出しています。漁船が荒波に向かって目的まで着くには、エンジン全開ふかして進むそうです。波が大きいからといって横へ舵取ったり、エンジンふかないで波を避けようと思って横へ逃げたりすると、船は転覆するそうです。私も波が大きいほどお題目を心行くまで五、六時間あげます。今まで以上に折伏下種して廻ります。大きな波を乗り切った時は、又一段と色々な面で良い方向に道が開けていきます。そうした時、必ず御本尊様に心ゆくまでお礼のお題目あげます。
最悪の病気も克服し、仕事面も近くの現場が多くなりました。現在は5現場をやりきっています。息子2人も夜10時頃まで働き、頑張っています。危ない仕事ですが事故もなく無災害できています。とび職という仕事は高いところへ登ってしなくてはならないので精神的にも肉体的にも疲れます。しかし、息子らと職人さんは夜遅く帰ってきますが、疲れた様子など一度も見せず、笑顔で生き生きとした顔で帰ってきます。私はその姿を見て、やはり御本尊様の仏力、法力、功徳はすごいなと、感謝しております。
今年は猊下様より、「広布大願の年」という成仏への希望と勇気をもって唱題と折伏を実践すべく御報恩の時を開いてくださいました。所属地区として今年は20世帯の決意をしました。全地区が力を合わせて唱題・折伏を実践したところ、御本尊様の功徳によって現在まで12世帯出来ました。
今後も、更にお題目、折伏に命をかけ、御宗門ならびに法正寺支部の発展のため、猊下様の御指南をご住職より戴きながら、皆様とともに全力を尽くして参りたいと決意しております。
御注意
日蓮正宗の寺院である正法山願生寺は現在高橋恩道が不法占拠・居住しています。
高橋恩道は日蓮正宗の僧侶ではなく、願生寺の住職でもありません。
住職は法正寺の御住職様が兼務しています。
なお、願生寺(昭和54年2月17日建立)については法人登記はなされておりません。