岐阜県垂井町正信会天奏寺から富山県南砺市日蓮正宗本徳寺に帰伏した信徒Tさんの体験談


創価学会員だったTさんは入信した昭和40年代は活動に熱心でしたが、就職した会社での多忙と、海外や東日本各地への転勤が相次ぎ信心が弱くなり、活動しなくなっていきました。
昭和末期にTさんは郷里に戻りましたが、その頃Tさんの父母は、日蓮正宗か離反した正信会寺院である、岐阜県天奏寺の信徒となっていました。

 両親がいつの間にか正信会員に


この頃の父母の信心状況や変遷について聞いてみても、年老いた父はよく覚えていないため、どうして遠い岐阜県にある寺なのか、よく判りません。
信仰心だけは強盛だった父は天奏寺の自称総代や自称講頭を長いことしておりました。
その後、私は結婚し、子供たちも産まれ、仕事も順調にいっていました。
でも考えてみれば、総本山に背き、戒壇の大御本尊様から離れ、御法主上人猊下に逆らって、よい事があるはずがありません。私が50代になる頃から、仕事や家庭がうまくいかなくなりました。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし(日蓮大聖人御書572頁開目抄下)の御金言の通りでした。
どうしたらいいのか、悩みに悩みました。そのときに母から、「あなたの信心の功徳が切れたんだよ。もう一度信心をやり直して福運を積まなければ」と言われ、私も天奏寺信徒として活動を再開したのでした。
この当時、私には正信会のこの寺しかなかったという事情で、正信会がなぜ総本山大石寺から離反したのか、特に疑問を持ちませんでした。
正信会の当時の言い分は第67世の前御法主日顕上人猊下を「ニセ法主」と言い、その理由は、「日達上人から法灯を受けた証拠がないから、血脈相承はなされていない」というものでした。
信徒の多くは本当に納得したというのではなく、「正信会の僧侶方が言うのだから、そうなのだろう」という程度の認識だったと思います。
私は正信会の全国大会に2度参加し、大会での体験発表に感動しましたし、毎月の御講等にも片道3時間かかりましたが、大変だとも思わずに出席して励んでいました。
このような状況でしたが、生活はそれなりで、特によくなったとも感じませんし、仕事も家庭内も相変わらず好転しませんでした。

 芽生えた瞬間


平成24年(2012年)、四国で行われる予定の正信会全国大会が突然中止になったと天奏寺で聞かされました。(実際は開催されている)
他の信徒も楽しみにしていただけに驚きました。中止の理由を聞いても曖昧でよく判りません。ただ僧侶間の意見がまとまらず、正信会が2つに分裂してしまったようです。
日蓮正宗に対して「正信覚醒運動」と称して一枚岩で戦ってきたと思っていた組織の分裂には少なからずショックを受けました。
正信会の僧侶は私たちをどこへ導こうとしているのか、大きな疑問を持ちました。そこには、民衆救済の根本義がなく、僧侶自身とその家族の保身や我欲しかないのではないかと、考えてしまいました。
本当に正信会が正しかったのか、創価学会が正しかったのか、それとも日蓮正宗に正義があるのか。毎日悩み続け、毎日悶々と過ごしていました。
昨年3月に本徳寺の講頭さん副講頭さんが久しぶりに尋ねてきて、母と話していかれました。母は「やっぱり近いお寺のほうがいいかな」と話したそうです。
その後も、昔、学会員として一緒に活動していた方々が今は法華講員として、三々五々に我が家を訪ねてきました。
懐かしい方々の訪問に両親の心はかなり揺れたようです。後で聞いたところ、本徳寺住職久保田雄啓御尊師が、私の家族に縁のある法華講員全ての方に、T家を訪問するよう指示をされたということでした。
数日後、久保田御住職と講頭と壮年部長が我が家を我が家を訪ねてこられ、ここで色々なことをお話しました。正信会問題の真相を知ったのはこの時です。
御住職様は「どんなことがあっても、総本山、御法主上人猊下、そして大御本尊様から離れたらだめだよ」と言われました。
私は目が覚めるような思いがしました。そして、目の前が明るくなった思いがしました。

 正信会からの脱会を決意し父を説得


「大御本尊様にお目通りがしたい、ただそれだけだ」と肚を決めました。
その日のうちに戒壇の大御本尊様おわします総本山大石寺に戻る決意をしました。父の説得が大変でした。
母は私の気持ちをよく理解して、「正信会におっても何もいいことはなかった。あなたの言う通りにして」と言ってくれました。
父は長年正信会寺院で自称講頭や自称総代をしていただけに、「何で総本山に戻るがや。正信会の何があかんがな。大御本尊様にお会いできんでも成仏できるがや」と強烈に反対をするのです。
それでも半ば強引に本徳寺の御報恩御講に連れて行き、勧誡を受けさせていただきました。私は正信会の信徒から「今に罰が当たるから」とか「親不孝者」よか「裏切り者」と、さんざんに言われました。
平成25年3月本徳寺で信心させていただくようになった直後のこと、私の右眼が突然見えなくなりました。すぐに地元の眼科に行きましたが、お医者様に、「大学病院を紹介するから専門医に診てもらうように」と言われ、金沢大学付属病院に行きました。
久保田御住職様からは、「今まで犯した謗法による罪障が現れたんですよ。しっかりと御題目を唱え折伏してまいりましょう」と激励されました。
私はまだ失明するわけにはいきません。真剣に唱題いたしました。また、病院の帰りにはお寺に寄って唱題し、御住職様から御書や体験発表を通じて指導を受けました。
私はまずは前御法主日顕上人猊下の御指南を拝したいと思い、御住職様にその旨をお話しました。
正信会の僧侶たちが、「ニセ法主の次もニセ法主だ」と口汚く罵っていたからです。
御住職様からお借りして、御指南を拡大鏡を使って毎日少しずつですが拝読しました。こんなにも判りやすく大聖人様の御教えを御指南戴けることは正信会ではありませんでした。
「やはり、御法主上人猊下は正しいんだ。遠回りはしたけれど、私が選んだ道は間違っていなかった」と確信が持てました。
これに引き換え、正信会の僧侶に利用されている人たちが可哀想になり、大学病院の治療の合間に、御住職様と一緒に正信会の折伏を始めました。
天奏寺や仲間への義理からか、、なかなか話を聞いてもらえず、御住職様に罵声を浴びせ、玄関先で追い返す人もいました。それでも時間がある限り訪問し、手紙も出しました。
平成26年(2014年)1月4日には石川県志賀町の正信会員宅へ、御住職と折伏に行きました。また、金沢市内や高岡市内の正信会員宅にも私の母と御住職様とで折伏に行きました。1人でも多くの多くの正信会員を総本山大石寺にお連れしたいと思っております。

 父母と感激の登山


私の大きな願いであったお登山も、父母と一緒に平成25年(2013年)7月21日に約30年ぶりに叶いました。
奉安堂において戒壇の大御本尊様にお目通り、御祈念できました。
「参詣遥かに中絶せり。急々に来臨を企つべし」(日蓮大聖人御書1569頁南条殿御返事)との大聖人様の御金言が心に浸みた一瞬であり、大感動の1日でした。
それから9月の第3回支部総登山にも、再び父母と共に参加できました。
この時、思いもかけないことに、参加者全員で御法主日如上人猊下と記念写真を撮らせていただき、さらに声までかけていただきました。
御法主上人猊下は、御住職様から、私たちが正信会から日蓮正宗に帰伏したとの説明を受けられると私たち家族のもとに御出でくださり、慈愛の眼差しで「初信の心を忘れずに信心に励んでください」と仰せられました。
私たち家族にとって生涯忘れられない、感動のお登山になりました。
尊後は仕事は順調で、家庭内の問題も徐々に良くなって、明らかに境界が開け、やはり私の選択は間違っていなかったと実感できました。
父は「ああ、総本山に連れてきてもらってよかった。わし1人なら正信会を抜けられなかった。やっぱりお登山しないとだめだ」と言い、今はお登山と寺院参詣を楽しみにしています。
私の右眼のほうは、このお登山を境に徐々に見えるようになり、お医者様から、「地元の眼科に転院して、そこで白内障の手術を受けなさい。まだまだ見えるようになるでしょう」と言われ、11月に白内障の手術を受けました。
これにより、視力も回復し、心配ごとの1つであった運転免許証も無事に交付されました。

 不退の折伏誓う


平成26年度(2014年度)の私たち家族の目標は、毎日の勤行、唱題を根本に、正信会員や創価学会に身を置く親戚の折伏です。
我見や我欲に支配されたこれらの団体組織に惑わされた多くの人々に、大聖人様が顕わされた三大秘法の大御本尊様、そして大聖人様の正しい教えのある総本山総本山大石寺を離れて、本当の功徳も即身成仏もないことをお話したいと心から願っています。
大聖人様は「此の法門を日蓮申すが故に、忠言耳に逆らう。道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候」(日蓮大聖人御書1040頁曾谷殿御返事)と仰せられています。
今後折伏の故にどのような逆風が吹き荒れようとも、どのような障魔が吹き荒れようとも、1歩たりとも退くことなく、広宣流布をめざし、ひたすら前進してまいります。

最後に一言

日蓮正宗寺院である新田山天奏寺(岐阜県不破郡垂井町宮代2016-1)は現在佐藤公泰が不法占拠・居住しています。
佐藤公泰は日蓮正宗の僧侶ではなく、天奏寺の住職でもありません。
天奏寺の住職は大垣市の経説寺の御住職様が兼務しています。

参考資料:天奏寺の登記簿