霊波之光信者の珍論集


日蓮大聖人御書1837頁「御講聞書」より、

「悪友(あくゆう)は謗法(ほうぼう)の人々なり。善友(ぜんゆう)は日蓮等(ら)の類(たぐい)なり」

(邪宗教を信じる者は「悪友」であり、正しい宗教を信受する人こそ「善友」である。
清浄な仏法を信仰するならば、今まで以上のすばらしい「善友」ができることを確信してください。)


当ページの霊波之光信者の言動は「新宗教からの脱会を考える会」の各掲示板を訪問した際の言動です。
これらの霊波之光信者の個人的な言動を集め、それに対して日蓮正宗信徒であるたかぼん8160が日蓮正宗の信心の上からその間違いを破折したものであります。
たかぼん8160としては、あくまでこれらの霊波之光信者に対して、健全な社会人として生活していただきたいとの願いから、個々人の信仰上の思想や姿勢について破折を加えたものであり、特定の宗教団体を誹謗・批判したものではありません。


目次
1 文証も理証もない御教え
2 盲信の勧め=神への道
3 信仰は個人の力量のみ
4 出来もしないことを教義もどきで弄ぶ矛盾
5 不幸を不幸とも感じられなくなる「良き道」?
6 間違ったことなら神が止めてくれるはずだ。
7 信仰を持っていれば家庭が崩壊しても大したことはない。
8 私は教団にしか友人がいないので脱会できない
9 気に入らない人間は排除している。

その1 文証も理証もない御教え
「御教え」
これを解説した教会の公式見解はございません。
ですから、巷で言われている解説は全て個人意見と成りましょう。
大宇宙神様と御守護神様の契約で御守護神様の教えに従うものは救われます。
これだけのことと私は理解しています。
これとは別に宇宙の法則が在り、その存在を知らなくても人間は従わなくてはなりません。
人類の不幸の始まりは宇宙の法則に反した行動によるもので、その原因は人類の心にあります。
その罪による苦しみから、御守護神様の教えである「御教え」に従うことで助けられ幸せになれます。
では、宇宙の法則とは何かと言うと、例えば
地上において水が高きから低きに流れるのは宇宙の法則に水が従うからですが、
この場合は「宇宙の法則」を「重力」と言い換えても同じ事です。
人間は宇宙の法則の一部しか知らないので、水を低きから高きに移動するような宇宙の法則に反した心を持ち考え、行動した結果、様々な苦しみを生んだと理解しています。

破折
1 霊波之光には教義がないということを認めたということですね。
公式の見解がない教えなど存在しないと認めたのも同然であります。
何度でも言いますが正しい宗教というものは過去、現在、未来の三世について
きちんと説かれている教義が存在することと、
その教義は「文証」- 経典などの文献上の証拠があり、
「理証」- 因果の道理にかなっており、
「現証」- 現実にその宗教によって幸せになっているか
検証する必要があります。
そしてその教義をきちんと指導する教師が必要であります。
在家の班長だの組長は一般信者への世話役というのが本来の役割であり、
教えを説くのは教会員と呼ばれる職員の仕事のはずです。
きちんと教祖長谷義雄が教えを説いていない以上、その教えなるものを教える教師などおろうはずもなく
信者は自分の都合に合わせて勝手に教えなるものを解釈し、勝手に教えなるものを説いているのです。
霊波之光に教えなるものは存在しないのです。
教えなるものが存在しない以上教えに従いようもないということです。

2 次に「宇宙の法則」とありますが、この宇宙には膨大なエネルギーが存在いたします。 
しかし、これは客観的事実であり、誰もが認識していることです。 この地球を見ましても、そこには動物、植物、微生物に至るまで宇宙のエネルギーが生み出したものでしょう。
しかしこれは科学的、物理的な真実であり、霊波之光教団を信じようが、信じまいが、真理として存在しています。
従って、宇宙の法則なるものがあろうとなかろうが霊波之光の信徒の幸福とは何ら関係がないのであります。
つまり霊波之光信徒にとって「宇宙の法則」など無価値であります。
仏法において宇宙とは下記にて取り上げております。
「ビッグバン」が宇宙のはじめと仮定したと致しましても、
「・・ではそのビッグバンはどのようにしてできたのか、その前はどうだったのか……、
そしてその前は?・・・」と続きます。
つまり永久に平行線をたどるわけです。
以下は釈尊の説かれました「毒矢の教え」であります。
ご参照下さい。

http://dakkai.org/cosmos.html
 
仏法とは現実社会で苦悩している衆生を救うことが最大の目的であります。
したがって「生命」に関することを完璧に解き明かした「仏の悟り」、それが仏法であるということを認識して下さい。
「宇宙の法則」なるものなど知ったところで、われわれ自身の幸福とは一切関係がないのであります。

3 そして根底たる教義、霊波之光では「御教え」ですが、御教えなるものが説かれていないのに

どうして教義の一部となるべき「宇宙の法則」なるものを定義づけられるのでしょうか?
この人の論理は根底の「御教え」が存在していないということですから、
当然「御教え」の一部となるべき「宇宙の法則」なるものも存在しないということです。
存在しないものを勝手にふりかざしているだけであります。

4 そしてこの人は非常に考え方が偏狭に感じます。
この人こそ、霊波之光に縛られて考え、行動した結果、苦しみの中に入り、
訳の分からぬ言動をして周囲に害毒をばらまいている人物になっているのではないでしょうか?
霊波之光を信じたことによる「現証」であります。
人はかたよった思想や邪宗教にとりつかれてしまいますと、
その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で葬ってしまうのです。
思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範にかかわる大切なものは、
何よりも明るく清々しく健康的な理念で、裏打ちされていることが必要です。
人々を心の底から躍動させる歓びにあふれたものでなければなりません。
自分の人生や家庭、生活に重大な影響を持つ宗教の場合は、
その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨選択することが大切です。
宗教の正邪・勝劣を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊とし、
何を信仰の対象としているかということを、まず尋ねる必要があります。
また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、
一切の人々が過去・現在・未来の三世にわたって救済されるのみならず、
地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、
根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。
日蓮大聖人は、 「同じく信を取るならば、又大小権実(ごんじつ)のある中に、
諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。
持(たも)つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり」
(日蓮大聖人御書「持妙法華問答抄」・297頁) と仰せられています。
信仰を志すならば、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願の尊さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。
そして永遠性や普遍性にとみ、広大無辺の功徳の備わった世界一の宗教を持つべきです。

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その2 盲信の勧め=神への道
神への道とは何かというと
人間の幸・不幸を支配するものは偶然や自然法則だけではなく、神の守りも影響を与えるのだが
現在の人間は神の守りから切り離されてしまったために、不幸が惹起します。
この神の守りから切り離された人間を再び神の守りを頂ける人間にする道程を神への道と呼び
教会は信者にその道をは歩むように諭します。
ここの教会の主人公は信者各個人自身なのです。信者の代わりに歩むことは無理です。
その主人公が教会や班長・組長のを批判するばかりで、神への道を歩まないので、
いつまでたっても幸せになれないのです。
そして、幸せに成れないから、批判を繰り返す悪循環が繰り返される訳です。
教会は君に何を諭したかお忘れですか?
他人を救え、導けですよね。
君は何人他人を幸せに導きましたか?
もう一度、君に伝えます。
どんな理由かあったとしても
神への道を歩まなければ、神も在りません。
幸せになりたかったら歩むしかないのです。

破折
1 まず、あらゆる幸不幸に偶然はありません。
日蓮大聖人は依正不二という法門を説かれています。
「依」とは、私たちが生活するこの国土をいい、
「正」とは、私たち人間のことです。
この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという
「不二」の関係にあることを明かしたものであり、
国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、
悠久の平和社会を実現するためには、
正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。
正しい仏法を持って自分自身の胸中に仏の大生命力を開発することにより、
周りの環境が自分を守る方向に働きます。
逆に正しい仏法に背いて生命力がしぼめば、周りの環境も自分の生活を破壊する方向に働く、
それは自分自身の生命状態が環境に投影された結果に他なりません。

2 普通「ご利益」というと、お金が儲かったり、病気が治ったり、願いごとが叶うなどの目前の現証だけを考えがちです。
このような今世の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、
過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに過去世の罪障を消滅し、
今世のみならず未来永劫にわたって清浄な幸福境界を確立することが真実の利益であると教えられています。
霊波之光では過去と未来を説いておりません。
そして霊波之光においては教義が存在せず、
単に導きという名の勧誘活動や教団施設の清掃や、会合や集会に出ろ、
祈願を受けろなどという「宗教活動」しか説いておりません。
宗教活動をしろということが霊波之光教団の言うところの所謂「神への道」ということなのであります。
しかしその神への道は、1つの悩みがたとえ解決しても次から次へと悩みが惹起して、
全て自分の生命力ではなく、神に頼って行くということになります。
宗教活動によってうまく解決されていけばいいのですが、そうでなければ、
この人が言うように精神不安定になり人に当たり散らす結果になります。
当り散らされた方も迷惑を被り不幸となって行きます。
霊波之光の神への道は実は無間地獄への道なのであります。
 
日蓮大聖人は、 「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。
魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、
終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(日蓮大聖人御書「諌暁八幡抄」・1531頁)
と仰せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、
邪宗教によるものは、正法を隠蔽しようとする魔の行いにすぎないと説かれています。
また日蓮大聖人御書「聖人御難事」1397頁に曰く、
「始めはことなきやうにて終(つい)に亡びざるは候はず」
邪教というものは、信じ始めた時はことなきように思うが、徐々に不幸になり、結局は人生を破壊してしまうのである。
霊波之光の神への道なるものは結局は自らを滅ぼすことになります。

3 目的地を目指して歩いているときに道路を間違えていれば
道路の右端を歩こうと左端を歩こうと全力で走っても目的地には到達しません。
道を間違えている以上は、目的地に行こうとする信念も、
疲れを押して歩き続けた努力も水泡に帰してしまいます。
また実際に起こるかどうか分からない奇跡なるものを当てにしている宗教では
実体のないものを信じているわけであり、信念も揺らぎ迷うのは当たり前であります。
きちんと教義により、奇跡が解き明かされていない限り、人は迷います。
教団の言うとおりに「神への道」に従って勧誘活動に汗を流しても報われることはなく、
かえって罪業を深めることとなります。
霊波之光において不幸になって人に当たり散らしている人、
当たり散らされる人ともに幸せになっていないという現証が出ております。

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その3 信仰は個人の力量のみ?
「教え」が書物以外に存在しないと思い込んでいる、井の中の蛙ちゃん
仏教系宗教の多くは書籍教典を持ち、教典に記載されている内容が全てだ。
膨大で時代遅れな教典は信者に錯覚と希望を持たせるが、現代において信者を幸せに導く役割を果たせない。
霊波之光で「御教え」は現在も活きている。世情や信者の状態に応じて姿を変え、信者を幸せへと導くもので
す。もちろん、他宗教と喧嘩するための「御教え」はありませんから、勝負の行方は信者個人の力量次第だ。

破折
もっとも正しい宗教としての条件は、
第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること
第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること
第五に信仰によって得られる利益が教説に適っており、
表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であることなどを挙げることができます。

第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、
適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。
霊波之光の教祖長谷義雄は神の啓示を受けたというだけで、
過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。
その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、神通力なる奇跡と宗教活動を説いているにすぎません。
その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、
五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相を
あらゆる点から完璧に説き尽くしています。
釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、
我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、
この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。

第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存し、
その内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。
この法華経の予言通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、
一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。
この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面 からも、
功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。
日蓮大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大な量の御書を書き遺されています。
長谷義雄の著書自称「御書」は内容も薄っぺらなものであり、
第一信者が解説することを禁止している意味不明のシロモノであります。
自分の言葉できちんと「御教え」なるものが信者でない者にも分かりやすく説明できないのでは
教義の正当性を主張することは不可能であります。
信者でない者に教えをきちんと分かりやすく説くためには書物が不可欠であります。
当然の道理が分からぬこの霊波之光信者では霊波之光の正しさを
きちんと世間の人に説明すること不可能であると言い切らせていただきます。

第三の本尊については、本尊とは、“根本として尊崇すべきもの”の意味で、
少なくとも人間として誰もが尊敬するに値いするものでなければなりません。
世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ベビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、
先祖供養に名を借りて亡者の霊を本尊とするもの、
仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、
これらは最上至尊の本尊ではないのです。
またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、
空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」
(日蓮大聖人御書「経王殿御返事」・685頁) と仰せられて、
御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそ
もっとも尊く勝れた御本尊なのです。
霊波之光の本尊とは何なのでしょうか?
大宇宙神なのか?それとも心筋梗塞で頓死した長谷義雄教祖なのでしょうか?
本尊にすら迷っている状態であります。
本尊にすら迷っている宗教では最高の宗教と言う事はできません。

第四の信仰修行についていえば、日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、
日常生活の中で日日、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、
誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
霊波之光は教義がなく宗教活動に摩り替えているわけですが、
家庭を顧みない霊波なるものがほしいとばかりに活動する結果、
離婚や親子の断絶などの現証が起こっております。
最も身近な家族の理解が得られない信仰では、
信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものとは言えません。

第五の信仰による利益については、日蓮大聖人が、
「道理証文よりも現証にはすぎず。」(日蓮大聖人御書「三三藏祈雨事」・874頁)
と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
さらに大聖人は、「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」
(「諌暁八幡抄」・1543頁) とも、
「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(「九郎太郎殿御返事」・1293頁)
とも仰せられています。
日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、
未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。
霊波之光では心の状態がどうの、神棚の向きがどうのなど、ちょっとしたことで
守りがなくなったり、迷いの世界に入ったり、精神不安定となったり、
これでは「未来永劫にくずれることのない」幸せを築くことは不可能であります。

さてこの人物は大きな法謗を犯しております。
その間違いを具体的に申しますと
仏教系宗教の多くは書籍教典を持ち、教典に記載されている内容が全てだ。
膨大で時代遅れな教典は信者に錯覚と希望を持たせるが、現代において信者を幸せに導く役割を果たせない。
の部分において
@増上慢 − 自分を過信して、慢心し、おごりたかぶって仏教を侮ること。
B計我 - 自分勝手な我見で仏法をおしはかり、その甚深の教義を曲げて解釈判断すること
C浅識 - 仏法の道理に反して浅薄な認識しかないのに、その上から仏法をすべて判断しようということ
E不解 - 仏法の深い教義が分からないのに、求めて理解しないこと
F不信 - 正しい仏法を信じないでいること、信心しようとしないこと
日蓮大聖人は、日蓮大聖人御書『松野殿御返事』1046頁に、「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし。恐るべし恐るべし」(1046頁)
と仰せられ、このような人間は「堕地獄の衆生」と言われております。
また勝負の行方は信者個人の力量次第だ。
とありますが、これは自分なりに勝手に信仰して行こうという増上慢であります。
実は霊波之光の人間は教祖長谷義雄や教主長谷敬詞など、
どうでもよく神通力がいただければよいのだという考え方をしている人間がとても多いのです。
ですから彼だけが特別なのではなく多くの霊波之光の信者がそのような考え方をしていると言えます。

彼の行き着く先は頭破七分といわれる精神病の世界であり、無間地獄であります。
1日も早く脱会し正法を求められることを心よりお祈りいたします。

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その4 出来もしないことを教義もどきで弄ぶ矛盾
霊波之光の信仰の難しいところは、ただ入信して拝んでいれば一生救われるわけではない。
お金を払えば、救われるわけではない。
「神の救いは真心一つ」という点が本当にやっかいである。
日々の生活仕方、心の持ち方が重要になる。
霊波之光には出家というものはなく、社会生活・家庭生活の中で、
心を清めて世の中のためになる人間にならなくてはいけません。
「尽くせ世のため人のため、その徳は身に返り、まして幸せ喜び限りなし」と教えにある。
どうしても嫌なことがあったりして、怒ったり悲しんだり恨んだり心配したり、悪い感情が発生することがある。
そのようなマイナスの感情は、不幸を呼び寄せるもとになる。
いくら神様が霊波で助けようとしても、自分で首を絞めているようなものなので、助けられない。
我慢我慢のすべて苦しい毎日でもダメなのです。神様に喜びの返上をすることも大切である。
正しく信仰するということは、本当に難しいと感じる。

破折
1 日蓮大聖人も「心の師とはなるとも心を師とせざれ・・云々」と仰せられております。
心をコントロールすべきだが、心にコントロールされてはならないということであります。
この厄介な心は自分自身ではどうしようも無いのです。 
例えば理屈では理解していても感情が付いていかない
言わば信頼に値するべき「心」が意思に反して裏切ってしまうのです。 
「心」とは眼には見えず、しかし厳然と存在し誰人も否定することは出来えません 
霊波之光ではその「捉えどころの無い」心について
単に「心の持ち方次第だ・・」とかいい加減なことを言っているに過ぎないのです。
自分勝手な心の持ちようでどうにもなるのでしたら
法律・道徳・努力だけあれば犯罪・不幸・悲劇・宿業など一掃されているはずです。

2 心を清めて世の中のためになる人間になろうというのは良い考え方ではありますが
霊波之光だけが特別だとは思えません。
正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進することであり、
その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、
錬磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと「立派な人間」が培われていくのです。

3 怒ったり悲しんだり恨んだり心配したり、悪い感情が発生することは
現実の生活ではよくあることであり、これは避けて通ることはできません。
これらを無理に抑えることは極度の心理的重圧を加えることになり、
ついには二重人格や精神分裂症などを引き起こすことにもなりかねません。
これは霊波之光ができもしないことを教義として弄んでいるということです。
そして霊波之光が人間生命の本質を知らないということに他なりません。
「私は御守護神様の言うとおりにできないからダメ人間、
だから救われないのだ」と精神が不安定化することになります。
結局霊波之光の「神の救いは真心一つ」という考え方は
霊波之光が宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、
衆生を加護する力もなく、単に衆生に対して「思いこみ」を押しつけているだけの宗教といわざるをえません
本当の宗教における真実の幸福とは、観念的な「思いこみ」や「ひとりよがり」ではなく、
正しい本尊によって自己の内面 から健全な生命を涌現させ、
修行によって深い智恵と苦難を克服する心を養い、
仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。

この方はまじめに霊波之光を信仰されている方なのでしょう。
しかし実行不可能な教義に振り回されてかえって信仰することで苦しみが増している印象がいたします。
人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。
しかし、日蓮大聖人の仏法を信心する者は、たとえ逆境の中にあっても、信仰の功徳によって、
苦難にも勇敢に立ち向かい、諸難を乗り越えていけるのです。  
真実の宗教は、信心の力によって不幸をも克服する強い生命力を発揮させ、積極的に生きる力を育むものなのです。

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その5 不幸を不幸とも感じられなくなる「良き道」?

宗教活動や組織内の不倫が原因で離婚騒動に発展すると「必ず良き道がいただけますから、信仰の道を歩んでください」と言われ、信者は安心して離婚します。
そして、寂しくなったり、子供と会えなくなったり、極貧生活に落ち込んだりと悲惨な人生を迎えて
再び相談に行くと「それが良き道だったのですよ。生活の中に信仰があるのではなく、信仰の中に生活があるのです。
貴方には立派な信仰が残りました。これが御守護神様が与えてくださった良き道なのです」と言われます。

破折
本来離婚したりとか、子供と別離することが幸せなはずがありません。
不幸を不幸とも感じられなくなる地獄の境涯に堕ちて行く過程がこの言説から分かります。
霊波之光は信仰を宗教活動にすりかえる集団です。宗教活動をすればするほど不幸になり、不幸を不幸とも感じられなくなり、それを「良き道」などと思い込まされているわけですから
いずれはカネや労力を教団に搾り取られるだけ搾り取られて「頭破七分」の地獄の境涯に堕ちることは必定であります。
ここにやってきた信仰破綻信者はその「良き道」を無理矢理信じ続けようという人間がやっていることなのであります。
誰が見てもその人は幸せではなく、頭がおかしくなっているのだということがカキコを見ただけでわかるのであります。
分からないのは当人だけです。感覚がマヒしていて自分が不幸のどん底にいることが分からず、その原因が霊波之光という邪宗教にあるということが分からないのです。
そういう人は1日も早く脱会して、悪循環をまず断ち切らなければなりません。

日蓮正宗ではどのように指導しているでしょうか?
慧妙紙平成14年8月1日号・16日号に掲載されたマンガ「となりの沖田くん」は次のようなお話があります。
あなたが信心に打ち込む事はいいことだけど、
ご主人も大事なパートナーなのよ。
ご主人の事で悩むのならともかく
それを忘れるために活動に精を出すっていうのは
どこかおかしいわよ。
仏法では「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」
と教えているのよ。
私たちは信仰の功徳をもって、仕事も家庭のこともやりきっていけるのよ。
活動のために(家事ができない)というのはマズイと思うの。
「となりの沖田くん」第1巻に収録されています。
「となりの沖田くん」は最寄の日蓮正宗寺院を通じて、もしくは大石寺にて入手することが可能であります。詳しくは出版元の暁鐘編集室東京都杉並区西荻北5-4-3 電話03-5382-7677 にお問い合わせ下さい。

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その6 間違ったことなら神が止めてくれるはずだ。

ともかく浮気が多いです。男女が知り合う機会が多いことと、「必ず良き道がいただけます」
という教えが災いします。そして、「間違ったことなら御守護神様が止めてくださるはずです」
ということから、信者たちは堂々と浮気をします。

破折
どんな悪事を働こうとも霊波之光は止める能力もない教団であります。
まず、本尊たる御守護神様こと長谷義雄は自分自身をも救えずに昭和59年3月19日午前5時10分に頓死しております。
自分も救えない教祖が、信者個人の不倫の1つ1つまでいちいち注意する能力などあろうはずがありません。
また、霊波之光には教義も存在いたしません。また教義がないのですからそれを指導する教師もおりません。
1人1人が勝手に教義なるものを解釈しているだけですから、、「必ず良き道がいただけます」 、「間違ったことなら御守護神様が止めてくださるはずです」 なるものも
自分の都合に合わせて信者の誰かが言っているだけで、都合のいい者はそれに同調しているだけなのです。
自分さえよければ、霊波なるものさえもらえれば、神だってどうだって構わない、それが霊波之光信仰であります。
不倫をするということは結果的に自分の家族や相手の家族も不幸に巻き込むことになります。
不倫をすることは悪いことだと分かっていながらなぜ不倫をするのか−この濁った人間の心をどうしたらよいのかということを考えて行かなければなりません。
悪い事と分かっていながらあえてそれを許すような無力な霊波之光信仰では人は救われないのです。
生命を内奥から浄化していける力ある宗教を信仰して行かなければならないと当方は考えます。
正しい信仰をいたしますと家庭建設の心が芽生え、配偶者や子供、親を思いやる方向になって行きます。
いくら霊波之光が人類救済だの世界平和実現だの暖かい心だの立派な目的を掲げていても、実現どころか、
不倫などという個々の家庭の崩壊させる害毒を撒き散らしているようではやはり邪宗教と呼ぶしかありません。

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その7 信仰を持っていれば家庭が崩壊しても大したことはない
霊波之光内部は離婚が多いです。
なぜなら宗教活動に没頭しすぎるあまり家庭を顧みなくなるからです。
そして幹部の中には離婚された方を慰めるためか励ますためかよくわかりませんが、
「信仰さえきちんと持っていれば、家庭がなくなっても、それは大したことはないのです」
などという言動をしております。
 
破折
傍若無人な言動をする霊波之光の幹部は多く、それによって多くの一般信者が精神不安定になっている現証があります。
宗教活動に没頭するあまり家庭を顧みなくなり、離婚という悲劇も多々発生しております。
そしてそれを慰めるためなのか正当化するためなのかはよく分かりませんが上記と同じもしくは類似の言動も多々存在しているのが実情です。
人間は自分の心に適ったり、満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかったときに不幸を感じます。
これは人間として本能的なことであり、極めて当然のことです。
家庭がなくなっても大したことではないなどという考え方はどう考えても正常な人間の考え方ではありません。
あたかも身に危険を感じても安全なのだというのと同じであります。
白いものを黒いものだと言っていることと同じです。
心は目に見えませんが肉体と同様に疲労や倦怠もあれば、許容の限界もあるのです。
身体を鍛えていない病人にいきなり数十キロもある荷物を背負わせようものなら立つことはおろか怪我をいたします。
同様に心の鍛錬、修行を積んでいない人にどのような境遇にあっても、自分は幸福だと思わなければならない、などと強要することは、
極度の心理的重圧を加えることとなり、ついには二重人格や精神分裂を引き起こすこととなります。
霊波之光は教義がありませんから離婚という悲劇に陥った方に対してその幹部の方はどういうことでそういう言動をしたのかは分かりませんが、
霊波之光自体が宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、衆生を加護する力もなく、単に思い込みを押し付けているだけということであります。
離婚という不幸を不幸とも感じられなくなる、これこそ「頭破七分」の現証であり、生きながらにして無間地獄の様相を呈していると言えるでしょう。

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その8 私は教団にしか友人がいないので脱会できない
俺は、霊波をほとんど辞めたも同然でアンチ霊波之光なのに辞めてないのは、友だちがほとんど居ないからなんだよ。
みんな、俺に見切りをつけて離れて行った。だから、今は信者の友だちしか居ないんだ。そんなの寂し過ぎるだろ。
霊波之光は、ある日突然、親だろうが友だちだろうが首に縄をつけて引っ張って来なさいなんて言うんだよ。
俺は、これで完全に嫌になったのだ。
霊波之光の信者と関わると全てのことが偽善だということに気付くよ。
いや、気付かないかも知れないけど、気付いて欲しい。友だちは、四六時中君を信者にしようとして
虎視眈々と狙っている。言動の全て、一挙手一投足まですべて計算されている。
このことに気付いたとき、心底ぞ〜っとするよ。やってた俺が言うんだから間違いない。

破折
この人は自分の友人や親族が人殺しや強盗など悪いことをしているというのが分かっていながら
それを放置して止めさせようとしなかった、
その結果、それに成功して、人の命を奪い、お金を奪ったとしたら何の責任もないと言えるでしょうか?
やはり自分がやめさせようとしなかったから人が殺され、強盗が成功したとしたら最低限度の意味で自分もその強盗の片棒を担いでしまった、
自分も同罪であるということになるのではないでしょうか?
ましてこの人は霊波之光が間違っているということに気付いていながら、霊波之光に入っているわけで、霊波之光にカネを払って霊波之光の繁栄に加担しております。
それを仏法では「与同罪」と申します。
そしてその心理の中には

「実際のところはいざというときに奇跡が起きて 一発逆転も可能」
 
だと信じ込んでいるのであります。
新興インチキ教団に属している人たちが「なぜ脱会できないか」
ということを上の言葉は端的、明瞭に示しております。 
奇跡を売り物にしている教団は霊波之光教団以外にも多々ございますが、中身はほぼ同じです。 
どんな宗教でも最初入信して「信仰の世界」に目覚めた時、「小さな利益」があるものなのです。 
それは「信仰することにより、今までの生活パターンが変わる」ために起こる現象なのであります。
即ち、過去を振り返ったり、自己反省をしたり、他人のために心を使う、
というような働きが増えることによる現象なのです。
宗教に無智な人はこれを持って「この教団には力がある」と信じ込んでしまうのです。
信仰が深くなればなるほど少々疑問をもち始めていても
 
「イザという時に奇跡が起きる」と信じてしまいます。

即ち教団の呪縛に陥るということです。
友人などつくる気になればいくらでもつくれます。
この方は趣味はないのでしょうか?
趣味によっては趣味のサークルは地域にいくらでもあります。
地元の青少年センターや公民館では日々募集しております。
そういうところで健全な仲間をつくられることです。

* れいなさんより
このような質問はよく邪教につかりすぎた人に見受けられる質問です。

新宗教の教団の中で長い間過ごしてきた人は、友人のほとんどが新宗教関係者であることが多いようです。
それは新宗教という特殊な閉鎖集団なればこその現象といえましょう。そのようななかにあって、真の友人ならばあなたが脱会したいと思っている胸中を理解してくれるはずです。
しかし多くの新宗教では、新宗教の洗脳によって「その教団を離れる者は裏切り者、恩知らず」との考えに凝り固まっていますから、あなたが脱会すれば、新宗教内の友人は遠ざかり、陰であなたを中傷することでしょう。
しかし、このような人は、初めから真の友人などではなかったのです。

新宗教の脱会者に対する悪口や中傷は、他の会員を脱会させないための常套手段なのです。
あなたの場合、霊波之光がおかしい、変だ、とすでに感じているわけですから、脱会すればいいだけですね。
自分にとって「いい友達」と思っていましても、それ以上の素晴らしい友人は必ず世の中に存在しているはずです。「それが出来ない」というのであれば、霊波之光に身も心も食いつぶされ、今生において地獄の苦しみを味わうしかありません。

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その9 気に入らない人間は排除している
馬鹿だなー、教会の事を何も知らないでしょう。
天使閣建設以来、人類救済の歩みに付いて来れなかった者を
名簿から消すために周期的に行っている行事ですヨ。
人類救済に無用の人を排除しているだけの事よ。
それから、君は人類救済に必要のない人と言えるでしょう。
だから、人の心配は必要ないのでは?
なにせ、人類救済、世界平和を祈るのがお嫌いのようですから。
破折
ここのカキコミ、実は霊波之光の「ホンネ」ですよ。
「気にいらない」人間は排除すると言っています。
今や霊波之光は箱物の建設と維持ゆえに「導き」「導き」が強調されています。
疑問を持つ者は排除せよ!
こういう考え方をしているのですよ。
黙ってカネや労力を提供する「働き蜂」のような人間だけほしいというのがホンネです。
大いに「排除」されようではありませんか!
排除されている皆さん、祈願などの麻薬にいつまでもだまされていてはいけません。
役員や職員にバカにされてここで辞めていくのは悔しいなどと小さなプライドにこだわるより1日も早い「脱会」を!
そしてこのようなつまらない輩と絶縁しましょう。
当新宗教からの脱会を考える会はあなたの脱会を応援いたします。
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