私には生理的に受け入れない信心の同志がいる - あなたの教団はどう指導しますか?



2010年5月1日霊波之光 RHK 絆 〜kizuna〜に出ていたとらうつぼさんという女性の方の記事です。

「全てのものと和解せよ」とあるけれど
生理的にどうしても受け付けない人がいた場合
どうすれば良いのか?と
とらうつぼさんが夫に質問したところ

夫は
そんな事に時間をかける必要は無いよ
受け付けてないだけで、嫌いなわけでは無いから
和解するしないの問題では無いよ

と回答したとのこと

これで本人は納得されたようですが、
これは個人としての会話ならば良いのですが、こと宗教的な見解としてはおかしくないかと当方は考えます。
まず道理として考えましても生理的に受け付けないものが好きになれるはずがありません。
相容れないものが「和解」などできるはずがありません。


とらうつぼさんの場合は夫がうまくフォローしたというだけの話であって実際の教義を実践するに当たって、在家信者であるとらうつぼさんの夫の回答が正しいかどうかははっきりしません。これが教団の公式見解だとしたら道理に反した相矛盾した見解でとうてい正しい教えにはなりえません。

霊波之光の信者さんの師匠は2代教主の長谷敬詞ですが、全員が教えを請うことはできるわけがありませんので、本来は教会員が手継の師匠となって、教師として教義について指導できなければなりません。しかしそこまでの権限は教会員には与えられていないので、在家の班長も組長も青年部班長も、末端の信者も全く違う教えや見解を説きます。
そうなりますと誰が説いていることが本当で、誰に従って行って良いのかが分からなくなり、精神不安定の原因となって行きます。

まして現実世界で全ての人と和解するなど不可能なことです。
このようにできもしないことを教義として弄びますと「私は御守護神様や二代様の教えを実行できないからダメ人間」と精神不安定の要因となります。
正しい信仰であればこの濁った人間の心をどうして行ったらよいのか、というところを考える内容になるでしょう。
結論として霊波之光は生命を内奥から浄化していける、力ある宗教にはなっておらず、かえって実行不可能な相矛盾する教えを説いて低級本尊の害毒を撒き散らしている邪宗教ということであります。


当方の信じる日蓮正宗においては同じ日蓮正宗の仏法を信じる者同士が互いに悪口を言ったり、恨んだりすることを厳しく戒めています。
すなわち日蓮正宗の御本尊様を正しく信じる人の胸中には、既に仏の命が湧現しているわけですから、その人の姿が、いまだ貧乏だったり病気であったり、また世間的悪事をなしていたとしてもそれは必ず改まっていく事は疑いがありません。
大切なのは現在、正しい仏法を正しく信じていく、ということなのであって、その現在の信心修行の功徳が原因となって、必ず将来に立派にその姿が改まっていくという結果となって顕れるのであります。
したがって日蓮大聖人は、仏になったという結果よりも、仏に成るための確実な原因を重んじられております。
日蓮正宗の御本尊様を正しく信じている者は既に仏であり、この仏をうらみ、悪口をいう者は必ず仏罰を被ると仰せられております。
その悪口の内容が事実であろうとなかろうと同信の徒が誹謗しあうこと自体が間違いであるというのであります。
日蓮正宗信徒はともに悪業深き末法の凡夫がこの正法をもって悪業の打破を願い信心修行に励んでいるのですから互いに仏道修行を励ましあい助け合っていくことが必要です。
従いまして日蓮正宗信徒におきましては同信の人が生理的に受け付けるとか受け付けないなどということなど考える余地がないということです。つまりそのような考えを起こすこと自体が間違いであるということです。


日蓮正宗における怨嫉謗法とは

信心の同志に悪口を言ったり、顔をしかめて嫌ったり、憎んだりすることは、その人の中の仏性をも否定することになるから謗法になるのです。これを犯すと折角信心していても一方で罪障を刻むことになるのです。
私達日蓮正宗信徒は修行の途上にある凡夫同士なんだから、皆欠点もあれば、落ち度もあります。欠点だらけだからこそ、支え合い、補い合って、互いに仏道修行を進めていくことが大切であります。
それでは自分が馬鹿にされても目をつぶれということなのかというとその通りであります。
日蓮大聖人は日蓮大聖人御書1362頁「四条金吾殿御返事」において
「此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ」と仰せられ、つまり同志間では、どんなに不本意な事や不愉快な事があったとしても、それを見ないように、聞かないように、言わないように努め、仲良くして行きなさい。と言われております。
今は欠点だらけでも御本尊様を信じて仏道修行に励むなら、その生命にの奥底に仏界が涌現し、その仏界の働きにちょって、どんな人も次第に変わっていけるんですよ。
仕事のできない人はできるように、常識のない人は常識を弁えた人に、病気の人は健康に、悪人は善人にというように
過去の罪障や邪宗の害毒が現れている現在の欠点だらけの姿を見て、目くじらを立ててはいけないということです。
今はまだ目に見えなくても、仏道修行をしている人は確実に仏界が躍動しはじめているわけだから、先々立派になっていくことを信じて行かなくてはなりません。
現在の至らない姿を見て不愉快に思い、むやみに批判したりするのは、御本尊様の功徳を信じていないことであり、その人の生命の奥底に躍動し始めた仏界を謗ることになります。
従いまして、同志間では見ず、聞かず、言わず、仲良く助け合って仏道修行を進め、功徳を積んでいかなければなりません。

あやぱんさんより
友人の父親である霊波之光信者(組長)からのお話として。
霊波の光の「和解」とは自分から相手に対して歩み寄って行くことであって相手に自分の言うことを聞かせようとしたり、相手を脅すことではない、長谷司(霊波之光元理事)さんから聞いたから間違いないということですよ。

たかぼん注:長谷司氏は教主長谷敬詞より御書を講義することを許されている人ということです。