樺太に存在した日蓮正宗樺太教会所
樺太布教所の沿革
* 大正14年(1925年)に建立 住職は辰野開道師
所在地 樺太真岡郡真岡町中三町3丁目
* 昭和6年(1931年)に行われた日蓮大聖人第650遠忌法要では20人ほどの所属信徒が大石寺に登山参詣したそうです。
樺太唯一の日蓮正宗寺院であり、終戦時には200人余りの信徒が所属していたと言われています。
住職辰野開道師は1人暮らしをしておられ、講の子供の面倒を良く見られていたといいます。
また御講の日にはカレーライスの炊き出しを行い、樺太中からやってくる信徒をもてなしていたといいます。
* 昭和20年(1945年)8月21日にソ連軍の艦砲射撃により樺太教会所は炎上し、辰野開道師は殉教されました。
日蓮正宗第66世法主日達上人猊下お言葉による辰野開道師について - 昭和52年(1977年)5月27日第19回寺族同心会の砌
辰野開道師は私が小僧の時に立派な所化の人でありました。長野県の信盛寺のすぐ脇の中村と言うところから出ております。それは今から200年も前に、その中村に大きな日蓮宗の寺が、深妙寺という実にでっかい寺があります。その前の1集落の10何軒かの家であります。それが法論を致しまして、城倉茂左衛門という人が日蓮宗と法論して、そしてその村の他の人々、30何軒かを率いて、日蓮宗をやめて正宗の富士の教義に入ったのであります。その城倉茂左衛門は曽て身延へ千ヶ寺詣をした。その時にどうもいろんな不思議な事があるので、人に話をして不思議なことがあるので、人に話をして、あるいは僧侶に質問したけれども腑に落ちなかった。
で、ある道端で富士に大石寺という寺があるから行ってごらんと言われて、そして富士に来ていろいろな法門を聞いて即座に改宗し、村に帰ってその30数軒かを改宗せしめたのである。それによって、その人は宗門改めという獄門にあって、あの「高遠の牢」へ入れられた人でございます。それでも遂に帰って、兎に角30何軒の人々の志は固く、寺はないけれども兔に角守り継いだ人、その中に1軒辰野家がありました。明治の初めに辰野文吉という人がありました。その人が信州から本山にお詣りする為に、山道を歩き甲府を抜けて歩いてくる。その人は本山へ僅か1日半でお詣りした。信盛寺のあの村からです。
それが年に4回、5回と、毎年お詣りに来た程の信者でありました。その人の息子であります。辰野開道という人は。
で、その人は男っぷりも良かった。僧侶になったけれども、兎に角いろいろと迷い事が出て、問題ばかり起こしておりました。それを見てお母さんが残念がって、折角坊さんにしたけれども、こんな身持では坊さんが通らないであろうと思われた。そして又次の3番目の息子さんを坊さんにしました。それが辰野慈忠師であります。それは私の弟弟子であります。しかし既にその人は北海道で亡くなりました。
辰野開道師の樺太布教と殉教
樺太に日蓮正宗の信者が増えて、樺太の真岡に教会を造りました。
辰野開道師はその教会へ、兎に角自分は今まで非常に人々から非難され、抗議ばかりされた。自分はこの寒い樺太へ行って奮起しよう、と。既に齢も40いくつ。50近くになっておっただろうと思います。そして北海道へ行って、樺太の真岡に於いて一生懸命修業しておりました。
たまたま此の大戦に日本は負けた。ソ連は即座に樺太を占領した。ある日、艦砲射撃はその真岡の町を撃ち、至る所燃えてしまった。正宗の信者も皆帰る。婦人を始めとして皆帰るようになった。
しかし辰野開道師は、もう是の御本尊様を背負って行ってもソ連の捕虜になる。自分は是の御本尊様を持って此処へ布教に来たのである。此の御本尊を内地へは移せない。その時既に艦砲射撃によって周りはすっかり焼き払われた。
そこで辰野開道師は太鼓を叩いて、自分の此の祈りによって信者は皆内地に帰れるようにと一生懸命お題目を上げた。遂に寺に火がついた。そして寺は燃えて、太鼓の音はまだ聞こえておったそうです。寺の焼け落ちると共に、御本尊と共に、太鼓の音が消えた。
そこで辰野師は亡くなったのであります。
このように若い時にいろいろ人々から非難される事があっても、一遍発起してこの妙法を守る精神になれば、必ず如何なる事も成し遂げる事が出来ると私は考えるのであります。
戦時中の樺太の状況
写真
樺太泊居町出身の能安寺住職慧厚院水島日叡師(日蓮正宗教学部長・旧名公正師)が能化に補任される。-令和2年(2020年)4月16日付大白法
樺太出身者の能化補任は最初で最後でしょう。水島師が樺太布教所と関係があったかはわかりません。
参考資料:能安寺
この他の稚内市内にある樺太関係の記念碑
昭和天皇・香淳皇后が詠まれた御歌の碑
樺太師範学校の卒業生による「教学の碑
稚泊航路記念碑
参考資料:日ソ中立条約の破棄
日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書1945年4月5日
日「ソ」中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル一九四一年四月十三日調印セラレタルモノナルカ以来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ且「ソ」連ノ同盟国タル米英ト交戦中ナリ斯ル状態ニ於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ。
依テ同条約第三条ノ規定ニ基キ「ソ」連政府ハ茲ニ日「ソ」中立条約ハ明年四月期限満了後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ。
ソ連の対日宣戦布告1945年8月8日
ヒットラー独逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引続キ戦争ヲ継続シツツアル唯一ノ大国トナレリ、日本兵力ノ無条件降伏ニ関スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆国、英国及ヒ支那三国ノ要求ハ日本ニヨリ、拒否セラレタリ、コレカタメ極東戦争ニ関シ日本政府ヨリソ連邦ニ対シナサレタル 調停方ノ提案ハ総テノ根拠ヲ喪失スルモノナリ日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ 貢献スルタメソ連政府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出テタリ。
総テノ同盟ノ義務ニ忠実ナルソ連政府ハ連合国ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合国宣言ニ加入セリ。
斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸国民ヲ解放セシメ且ツ独逸カ無条件降伏拒否後体験セル如キ危険ト破壊ヨリ日本国民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ。
右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス。
当時の駐ソ大使佐藤尚武氏
「抗戦力を失ひたる将兵及び我が国民が全部戦死を遂げたりともために社稷(しゃしょく=国家)は救はるべくもあらず、七千万の民草枯れて上御一人安泰なるを得べきや、思ふてここに至れば個人の立場も軍の名誉もはたまた国民としての自負心も社稷には代へ難し、すなわち我は早きに及んで講和提唱の決意を固むる外なしといふに帰着す」
佐藤は六月八日、政府に即時終戦を求める電報を打っていた。さらに七月二十二日に打った最後の電報では、これによって敗戦主義者と非難されても甘受するし、どんな責任も取る-と締めくくり、命をかけての進言だった。しかし、政府は国体の護持にこだわり、無条件降伏をためらっているうちに原爆の投下とソ連の参戦を招く結果となった。
佐藤の即時終戦を進言する電報は米国が傍受・解読していたようで戦後、バーンズ国務長官は著書「率直に語る」のなかで、佐藤を「勇敢な代表」としたうえで「もし日本が佐藤に耳を傾け、無条件的に降伏していたならば原子爆弾を投下する必要はなかったであろう」と書いていた。
お断り
私たかぼんはロシアは好きではありません。ロシアによる樺太・千島領有を認めないという考えです。
旧ソ連の南樺太・千島領有は連合国が取り決めた「領土不拡大の原則」に反しています。
私は歯舞群島・色丹島は北海道の一部であり、無条件で日本に返還されるべきであると考えています。
国後島・択捉島は日本が1951年9月8日に調印し、翌年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島に含まれると考えております。
但し旧ソ連が調印を拒否し、、同条約には帰属先が明記されていないので千島列島と南樺太は帰属未定地であると考えております。
豊原市への日本総領事館の設置に反対しています。
帰属未定地内に旧ソ連やロシアが勝手に設置した自称自治体と日本の市町村が姉妹都市や友好都市の関係締結に反対しています。
樺太・千島については通常会話でも日本名で呼んでいます。
相手がロシア名で呼んでも樺太の主要都市については、「豊原(とよはら)」ですね。「大泊(おおどまり)」ですね。「真岡(まおか)」ですね、「大沢空港」ですね、という会話になります。必ず読み替えます。
亡くなった札幌地域労組の仲間で樺太生まれのIさんが面食らっていたのを思い出します。...
私は昭和20年(1945年)8月20日に発生したとされる「真岡電信局事件」なる事件の存在は一切認めません。
9人の電話交換手の皆さんは、侵略してきたソ連軍との戦闘で軍属に準ずる立場で戦死を遂げられたのであり、「事件」ではないと考えています。
私の信じる日蓮正宗と「宗旨」は違いますが、9人の電話交換手は靖国神社に合祀されています。「戦死」扱いなのです。事件に巻き込まれて自決したなどという取扱はされていません。
wikipedia財団は9人の真岡郵便局電話交換手のその尊い犠牲に対して冒涜行為を行っています。ウソを喧伝しています。
wikipedia財団は直ちに当該記事をすべて削除することを要望いたします。