正信会から返還され、再建された北海道芦別市志願寺



志願寺の概要


*  所在地 北海道芦別市本町1-50

*  沿革

昭和44年(1969年)4月22日 - 建立

昭和57年(1982年)9月16日 - 第2代住職小野寺峰道氏が第67世法主日顕上人の法主としての地位を否定し、日蓮正宗の宗制宗規に違背したため破門されたが、そのまま志願寺を不法占拠する。

平成3年(1991年) 2月- 第2代住職小野寺峰道氏の死去とともに宗門に復帰

8月21日に第3代住職として泉雄嘉師が就任

平成16年(2004年)8月5日 - 本堂・庫裡を改築する。


返還時の志願寺の状況


志願寺は昭和57年9月から正信会僧に占拠された北海道有数の正信会拠点で、150畳の本堂が会合ではいつも人で埋まっていたそうです。

それが10年間で、ことに「池田破門」から正信会の勢いが衰えたのです。

そして平成3年、志願寺が大石寺に戻ってきたあとは、正信会をやめて家に引きこもり何も信じなくなった人、先祖代々の宗派に戻った人、余市(廃寺)・札幌(行足寺)・旭川(妙道院)にある正信会寺院に通うようになった人、その後、正信会が芦別市内に建てた寺(当初峰光院、その後赤平市に移転して仏心寺)に移った人等、様々でした。

泉御尊師は、「一世帯も残っていませんでした僧侶不信ですよね。だって、僧侶に騙されたんですから」。その後、近くの富良野市妙峰寺から移籍した15世帯にも、なかなか火がつかない状況でした。


正信会員Tさんが志願寺に帰伏


平成10年(1998年)の教師指導会で、日顕上人猊下の、「今まで漠然とした広布に関する御祈念をしていたかも知れないけれども、具体的に『来たるべき宗旨建立750年に当たり、30万総登山を名実ともに必ず成就なさしめ給え』という御祈念こそ、大切だと思います。『あとはだれかがやっていくのだろうから、そのうちにだんだんと体制が整っていくだろう。できなければできないでしょうがないのだ』などという、その程度の意識ではあまりにも時の自覚がないと思います。しかしそうではなく、自分がやるのだ』という心をもって、自分のこととしてこのことを真剣に御本尊様に御祈念していただきたいのです」(大日蓮632号)の御言葉を拝して、泉御尊師が決意を固められました。

その帰りに泉御尊師は親しい御僧侶と埼玉県草加市の宣行寺へ寄ることになりました。そこで見たのは、「御法主上人猊下の御指南を、いかにしたら実現していくのか」を真剣に祈り、全力疾走する住職・講頭・講員の姿でした。

このとき、泉御尊師は自分の姿は「人に認められようと一生懸命やってるつもり」だったということが見えたそうです。

そして、北海道に帰って本当にすぐでした。正信会員T氏がお寺にやってきたのは」。泉御尊師の一念の変化は現証として顕れたのです。 

「私自身が、創価学会で20年、その後正信覚醒の嵐の中を20年かけて抜けてきた者として、今は、本当の日蓮正宗をみんなに伝えていきたいんですよ」と語るTさんが志願寺を訪れたのは、平成10年(1998年)9月18日の事でした。

正信会をやめることは、ずいぶん前に結論を出していたそうです。「池田の破門が一番のきっかけです。だって、これで正信会の旗印はなくなったわけですから。

正信会の北海道地方部の役員をしていた私が、正信会僧に『もう問題は終わったじゃないか、総本山に登山しよう』と、いくら言っても、『内地(※本州)の僧が大石寺と話し合っているから待て』と嘘を言って、みんなを騙していた」。

また、「志願寺は学会のお寺」との嘘の情報を信じていたため、志願寺へ行くことは考えなかったそうです。

時が来て平成10年6月、相談に来たIさん、Kさん、Oさんと話し、そのうちIさん、Kさんが先に志願寺に行くこととなりました。この頃には志願寺は正統な日蓮正宗の寺院であるとの情報を得ていました。

Tさんは、当初は、「さんざん謗法をしてきたんだ、少し謹慎しよう」と思いやってきました。

ところがその日、泉御住職に「やめたことを北海道の正信会の全世帯に連絡しなさい」と言われました。

指導教師・泉御尊師よりの最初の指導だった。

もとよりTさんも思いは同じだった。

それからTさんは、「最初に、まず御住職に連れられて総本山に参詣しました。それまでずっと行けませんでしたから」と登山の喜びを語りました。

そして残ったOさんも平成12年(2000年)7月16日帰伏しました。

泉御住職とTさんは20年来の正信会員だったOさん宅で2時問ほど話をしたが、時間切れとなりました。

泉御住職は、「日を改めればまた一から話すことになりますよ。今晩、はっきり決心し、正しい信心をやっていこう」と話され、迎えの車に乗りました。

その晩、御住職と共に講頭・副講頭もお通夜を終えて、今度はお寺で折伏を再開。1時問半後、ついにOさん夫妻は、志願寺支部法華講員として、30万総登山に連なる決心をした。このOさんの奥さんは、御住職が「私が赴任してから、この志願寺へ自ら寺を尋ねてきた正信会員はたったの3人」と言われたうちの1人であり、実に9年問の下種が実ったのです。


折伏に励む志願寺


志願寺では、平成11年(1999年)12月の大白法号外を5000部、配布しました。芦別市内は1万世帯はありません。このとき、尾行行為、徒歩で配布している最中に車でピッタリ迫りながらツケ回す等の脅迫行為があり、他にも、子供さんに身の危険が迫っているかのように装った悪戯(いたずら)電話など、こういったことが2カ月以上にもわたって毎日繰り返されました。

泉御住職は「その時は、みんなの活動に組み込むのが少し難しかったので、私と家内で配りました。そんなふうに住職が動くからみんなが動いてくれるんでしょうかね。でも、5000部配ってから、ずいぶんたくさんの不思議な冥益をいただきましたよ」と仰られました。

さて志願寺ですが平成23年(2011年)2月札幌市白石区にある正信会の不法占拠寺院行足寺の所属檀徒赤井虎吉なる者が運営するブログで拉致監禁をして正信会員を無理矢理宗門側につかせようとした、などと騒がれたのです。

泉雄嘉御尊師より
「その拉致監禁されたなどと騒いでいるのはODという人物で行足寺所属だがあちこちの寺院を転々としていたようだ。
本人から来たいと言うことだったので、元正信会員の講頭たちと待っていた。

そして折伏した。

監禁などしていないし、昼食にラーメンを出したら美味しそうに食べていた。
そしてODさんは本人納得の上で勧誡を受け、嬉しそうに帰って行った。
しかし数日後に正信会の家族の反対で退転し監禁されたと騒がれた。」ということでした。

この行足寺檀徒・日本共産党職員赤井虎吉はブログにjcpと日本共産党の略称を使い、共産党の看板を背負って特定宗教団体に対して中傷目的で虚偽のカキコミをしていることから日蓮正宗の某寺院所属信徒たかぼん氏が地元の日本共産党に正式に抗議を申し入れました。
とんでもないとしかいいようがありません。

そうしたところ赤井はブログを非公開にしましたが彼がその謀略行為を1番知っているでしょう。

恥を知りなさいとお話しさせていただきます。

非公開にしたサイト(現在も非公開のまま)

http://blog.zaq.ne.jp/jcp-tigers/article/43

ちなみにこんな言い訳がありました。

なお、赤井虎吉氏は先年1月5日に京都府・大山崎町に転居し、すでに行足寺信徒ではありません。
今回、本ブログにより、行足寺ご住職並びに講中の皆様、また赤井氏にご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。
なお、赤井氏の意向により本ブログは2月28日を以って閉鎖します。


 創価学会員にも果敢に折伏する泉御尊師夫妻


元創価学会員・赤平市市議会議員太田常美 (無所属)さんの体験記が慧妙に掲載されました。


御住職夫妻の度々の訪問に心動かされ


私は、平成23年11月15日、志願寺御住職夫妻の熱心な折伏により、約54年にわたる創価学会人生に決別し、日蓮正宗に帰伏いたしました。
私は小学1年生の頃から母に連れられて折伏活動をし、水や塩をかけられながら、それでもあきらめずに折伏を続ける、というように、まさに学会活動に邁進する学会幹部の一族の中で育ちました。
青年部時代は副本部長でしたので、創価班として登山の輸送を、また、牙城会として会館の警備を何十年も務め、さらに、市議会議員(無所属)に立候補するまでは副支部長として、常に第一線で私なりに精一杯頑張ってきたつもりです。
破門後の創価学会の現実は、座談会や会合では毎回、同じ人が同じ体験を繰り返し発表し、雰囲気も暗く、何の感動もありませんでしたが、それでも私自身は、学会員としての誇りは失っていませんでした。
そのような私の家に、御住職夫妻は、その4年前から定期的に通ってきて折伏して下さったのですが、私は、「お寺に付けるために都合のよいことを言っているのだ」と思い込み、まったく聞く耳を持ちませんでした。
何度訪問されても迷惑にしか思えず、とくに私の妻は、居留守を使ってドアを開けなかったり、面と向かって、「何度来られも気持ちは変わりません。迷惑ですので、二度と来ないで下さい」と言って追い返したりと、ずいぶん失礼なことをしてきました。
しかし、御住職夫妻は、何度追い返えされてもあきらめることなく、ニコニコしながら熱心に通い続けて下さったのです。御住職が1人で来られることもあれば、奥さん1人のこともあり、時には、体験談を話してもらうために講員さんを連れてくることもありました。
私が応対する時は、妻のように上手に断ることができず、ついつい、御住職の奥さんの笑顔に乗せられて、玄関先や庭先で話を聞いてしまうこともありました。そういう時はいつも、帰られる際に「話を聞いて下さってありがとうございます。また、来ますね」と元気に帰っていかれるのです。
この御住職夫妻の生命力と行動力を間近に見て、いつしか私の心にも変化が現れてきました。


ついに夫婦揃って帰伏を決意!


そして、昨年11月、私は妻に、「志願寺の御住職夫妻の話や折伏の振る舞いは、なぜか、学会草創期に自分がしてきた折伏とダブって、懐かしい感じがする。まさに信心の原点のような気がする。唯一無二の正しい御本尊様は総本山にしかない、そこに連なっている末寺こそ正しいと思う」と話しました。すると、妻も「お父さんが志願寺に付くなら、私も一緒に付く」と言ってくれたのです。
御住職夫妻が我が家に訪問して下さるようになってから、4年の月日が流れていました。
その数日後、訪ねてきて下さった御住職夫妻に、創価学会をやめ、志願寺の信徒になる意志をお伝えしたところ、ご夫妻は大粒の涙をこぼして喜んで下さいました。「太田さん、広宣流布のために一緒に頑張って行きましょう」気が付くと、お互いに固い握手を交わし、顔は涙でぐしょぐしょでした。
そして、御住職に創価学会のニセ本尊を外してもらい、翌11月15日、晴れて勧戒を受け、御本尊様を御下付していただきました。13年振りに我が家に血脈正しい御本尊様をお迎えできたのです

翌日から御住職夫妻が勤行の指導に通って下さり、本来の五座・三座の勤行・唱題の在り方を取り戻す中、御住職より「創価学会時代に積んでしまった長年の謗法をお詫び申し上げ、罪障消滅を御祈念すると同時に、折伏をするように」と指導されました。


今まで誰にも相談できなかった怪奇現象


実は、それまでの私達夫婦は、ある怪奇な現象に悩まされ続けておりました。
一昨年、学会員だった義兄が自殺したのですが、亡くなったその日から毎晩のように、その義兄の幽霊を感ずるようになっていたのです。親戚中が学会員ですから、義兄の葬儀はもちろん学会葬でした。
いるはずもない義兄が、玄関のドアをガチャッと開け、バタンと閉めて我が家に入ってきて、家の中を好き勝ってに歩き回る気配と生臭い匂いが、はっきりと感じられました。
ソファーで寝ていると、後ろから強い力で押されて落とされそうになったり、シーツが真っ赤に染まっていたり、布団に入った妻が羽交い締めにされたり、そうした感触をリアルに感じるのに、現実には誰もいない。あまりの不気味さに、本来ら安穏であるはずの家庭は、住み心地の悪い状態になっていました。とくに妻は一人でトイレに行くこともできず、恐怖と睡眠不足から半ばノイローゼ気味になり、仕事にも支障をきたすようになっていました。
しかも、そうした怪奇現象は、私の家だけでなく、私の姉や義兄の娘(共に学会員)の家でも起こっていたのです。
そのことを御住職に相談すると、御住職は塔婆供養をして下さり、義兄の戒名を付け過去帳も作って下さって、御祈念して下さいました。
すると、その後、我が家では怪奇現象がピッタリと起きなくなったのです。まさしく「正法」の威力であります。
この一例をとっても、創価学会の友人葬では絶対に成仏できない、ということが明白です。なお、自殺ということについて言えば、私が住む赤平市においても、創価学会員の自殺が後を絶ちません。
私達夫婦は、御住職の御指導のもと、まずは身近な学会員から折伏していくことを決意し、帰伏してから一週間後には、長女と孫を折伏し、勧戒・御授戒を受けさせることができました。さらに、本年一月二日には、札幌に住む次女も、孫と共に帰伏できました。
また、御住職夫妻と共に学会員のお宅へ何度も折伏に行きましたが、私達が志願寺に付いたことから、創価学会の中では「太田が住職を連れて来ても、取り合わないように」との通達が流れ、今まで懇意にしていた多くの学会員が聞く耳を持たなくなり、以前面倒を見た学会員でさえ、挨拶もしなくなりました。
しかし、御住職夫妻が私達夫婦の折伏をあきらめなかったように、私もあきらめることなく創価学会への折伏を続けていこう、と決意しました。


20数年振りの登山に大歓喜


さて、去る3月31日・4月1日は、御住職夫妻や講中の皆さんと共に、待ちこがれた登山をさせて頂きました。実に20数年振りの総本山大石寺への参詣です。
創価学会では、「大石寺は、荒れに荒れて、とても怖くて危険な所になっている。もうすぐ潰れて無くなってしまう」と聞かされていたのですが、実際にこの目で見た総本山は、学会の言っていることと大違いでした!桜の木はそのままだし、各宿坊も新築や改修が施され、境内地およびその周辺まで立派に整備されて、以前にも増して総本山特有の荘厳さがみなぎっていたのです。
私は創価学会を破門した後、御僧侶と法華講員の力でこのような立派な事業ができたことに、驚きと感慨を覚えずにはいられませんでした。それと同時に、この現実を前にして、創価学会で流される情報がいかに嘘で塗り固められていたかを、まざまざと見せつけられた思いでした。
さて、この登山を契機に、私はあらためて、「残りの人生は全て、広宣流布のために御本尊様に御奉公させて頂こう」と決意し、議会や仕事の合間の時間を使い、計画的に折伏を進めました。
その結果、妻の姉家族が帰伏できたのをはじめ、この四月だけで六名、昨年11月の私自身の帰伏した時から数えると、16名の方を帰伏・入信に導くことができました。


厳然たる正信正行の功徳


現在、私は、建設会社を経営しながら、市議会議員を務めておりますが、創価学会時代の私の身体はガタガタ状態で、血圧(200以上)・血糖値(450)・ヘモグロビン(10%超)が異常に高く、心臓にも異常をきたしていたため、常にニトログリセリンを使用していました。さらに、痛風による痛みで歩けなくなることもしばしば、ストレスによる手の痺れで字も書けない状態でした。
ところが、先日の検査で、なんと、全ての数値が正常になっていたのです。主治医から「短期間でここまで良くなるとは、考えられないことだ」と言われ、看護師をしている妻も「信じられない」と驚いています。
また、長年経営している会社も、不況の波に呑まれ、潤っていた時期の10分の1以下に業績が落ちており、昨年などは業績0という最悪の状態でした。
ところが、日蓮正宗に帰伏し、御住職の指導どおり、信心優先・折伏優先の生活をしてきたところ、不思議なほど順調に業績が伸び始めたたのです。これもまた、正しい信心を正しく行じていくところにあらわれた功徳だ、と実感しております。
思えば、学会時代の私は、幹部として創価学会の指示に従い、宗門や御僧侶を誹謗していました。その罪は非常に深いものであり、私は大変な過ちを犯してしまいました。
今の学会員の悲惨な状態を見た時、あやまてる宗教の恐ろしさを痛感せずにはいられません。また、創価学会の謗法、なかんずくニセ本尊の害毒が国難に大きく影響している、と強く確信します。
この現状を、宗祖日蓮大聖人様は、きっと嘆き悲しんでおられるに違いありません。大聖人様の御心を肌で感じ、折伏を実践しているのは、日蓮正宗の僧俗だけです。
日蓮大聖人様は、
『法華初心成仏抄』で、「人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起が如し」(日蓮大聖人御書1316ページ)と仰せられ、正法に背いたものは、正法を受持することによって、初めて罪を消滅させることができることを御教示下さっていますが、私は、今生のみならず、過去遠々刧から積んできた正法誹謗の罪を消滅させていただくためにも、日蓮大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊様を堅く信じ、正統なる血脈に髄順して、心から懺悔して唱題・折伏を行じ、広宣流布を目指してさらに頑張ってまいることを決意しております。